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  3. 歴史年表

歴史年表(パソ兄さんの史跡めぐり用)

同じ史跡でも時代によっていくつかの出来事があり、 時代推移の把握が必須となります。 そのため年表をまとめています。(パソ兄さんの史跡めぐりを中心にまとめてあるので、教科書的なものではありません)。日帰りでの史跡めぐりが多いため、享徳の乱に関係する史跡や、小田原北条氏に関する史跡巡りが中心になっており、基本的には関東地方の騒乱がテーマになっています。

平安時代 794年~

794年 桓武天皇が平安京に遷都 平安時代
935年 承平天慶の乱(平将門の乱:935年~940年、 藤原純友の乱: 939~941年)
1051年 前九年合戦 ※源頼義の奥州赴任(1051年)~安倍氏滅亡(1062年)まで
1083年 後三年合戦(1083年~1087年)
1094年 藤原清衡が平泉造営(1094年頃、磐井郡平泉に居を移す)。1108年には中尊寺造営
1156年 保元の乱
1160年 平治の乱
1180年 石橋山の戦い
1185年 壇ノ浦の戦い
1189年 奥州合戦

鎌倉時代 1192年年~ ※または1185年

1192年 源頼朝が征夷大将軍に任官 
※鎌倉幕府の創設年は1180~1192年の間とされる
鎌倉時代
1199年 源頼朝が死去
1203年 比企能員の変 ※二代将軍:頼家が幽閉され翌年には暗殺。源実朝が将軍に就任
1205年 畠山重忠の乱
1213年 和田合戦
1219年 三代将軍:実朝が甥の公暁に暗殺される
1221年 承久の乱
1247年 宝治合戦(三浦氏の乱)
1260年 松葉ヶ谷の法難
1274年 元寇 (文永の役 )
1281年 元寇 (弘安の役 )
1285年 霜月騒動(安達泰盛の乱) ※執権北条氏と有力御家人との間の最後の抗争
1326年 嘉暦の騒動 
※北条氏得宗家の家督継承を巡る抗争(内管領の長崎氏 VS 外戚安達氏)。
鎌倉幕府滅亡へと繋がる騒動
1331年 元弘の乱 ※後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動
1331年:笠置山・赤坂城の戦い、
1332年:千早城の戦い、
1333年:六波羅攻略、鎌倉攻略
1333年 東勝寺合戦にて鎌倉幕府滅亡

鎌倉幕府滅亡(1333年)~南北朝時代(1392年まで)

1335年 中先代の乱 -
1336年 多々良浜の戦い
湊川の戦い
吉良治家が世田谷郷に居館を構えた(世田谷城)とされる
南北朝時代
~1392年
1338年 新田義貞が斯波高経との交戦中に戦死(藤島の戦い)
鎮守府将軍・北畠顕家の戦死(石津の戦い)
1348年 四條畷の戦い
1352年 南朝方の北畠顕信と・守永王らは宇津峰城にて籠城戦
1363年 宇都宮氏綱・芳賀高名が「武蔵国比企郡岩殿山合戦」(安楽寺)で足利基氏に敗退し、飛山城主の芳賀高家は討ち死
1399年 鎌倉公方・足利満兼が満直を篠川御所へ、満貞を稲村御所へ派遣  

上杉禅秀の乱 1416年~

1416

上杉禅秀の乱

犬懸上杉家の上杉禅秀(氏憲)による、鎌倉公方・足利持氏への反乱
※4代将軍・足利義持は、持氏を支援

※足利義持は1394年4代将軍に就任
(義満の子)
1417

世谷原の戦い~上杉禅秀の最期

上杉禅秀(氏憲)が江戸・豊島軍を破る(中丸山の古戦場-現・瀬谷市民の森にて)。その間、今川軍侵攻。鎌倉に戻った氏憲が鎌倉雪ノ下で自害。足利持氏が鎌倉公方として復帰 ※犬懸上杉家の衰退。上杉禅秀の乱で犬懸家が没落した後、山内上杉家が関東管領職を独占。

 
1424 足利満貞が稲村御所を離れる  
1425 5代将軍・足利義量(よしかず)病死 (父:足利義持)
1426    
1427    
1428

5代将軍の代理だった(元4代将軍)義持が死去(父:足利義満)

足利義教 6代将軍就任(父:足利義満) 「くじ引き将軍」と呼ばれる

1432   太田道灌の誕生

永享の乱(足利持氏の乱) 1438年~

1438

永享の乱

将軍候補になれなかった鎌倉公方・足利持氏の乱

 
1439

足利持氏の最期

関東管領・上杉憲実が義教の命令で持氏を討つ。稲村公方・足利満貞(持氏の叔父で持氏派)が、鎌倉の永安寺で持氏と共に自害。(満貞の自害は報国寺とも

※一時的に鎌倉公方の滅亡

 
1440

結城合戦

義教が実子を鎌倉公方として下向させようとしたため、春王丸、安王丸(持氏の遺児)を奉じて、結城氏朝・持朝、および持氏の残党が幕府に対し乱を起こす。(関東が将軍支配下に入ることに不満)

篠川御所を襲撃

篠川公方・足利満直(持氏の叔父で反・持氏派)の自害
足利満直が幕府派に寝返ったため、結城合戦の最中、南奥諸氏(結城氏を支持する諸将)が篠川御所を襲撃。

 

嘉吉の乱(足利義教の暗殺) 1441年~

1441

結城合戦の終結。結城城の落城

嘉吉の乱

6代将軍・足利義教の暗殺。家臣の赤松満祐が、結城合戦の祝勝の宴として招き暗殺。
 
1442   足利義勝が7代将軍・就任
(父:足利義教)
1443    
1444    
1445    
1446    
1447    
1448    
1449

関東諸将の要請で、足利成氏(持氏の遺児)が鎌倉に帰還
足利成氏・第5代鎌倉公方就任~1455年まで

関東管領に上杉憲忠(山内上杉家/上杉憲実の嫡男)が就任
足利義政(義成)が8代将軍就任
1450

江の島合戦

長尾景仲(山内上杉家家宰)と太田資清(扇谷上杉家家宰・道灌の父)が足利成氏(鎌倉公方)を襲撃する事件。※長尾・太田両氏の主導であり、上杉氏の意向ではない模様

 
1451    
1452   細川勝元が幕府の管領に就任
1453    
1457

岩槻城の築城(仮)

太田氏説では1457年に岩槻城が築城されたとされるが、近年の成田氏説では1478年の築城とされる。敵方である道灌が奪い取ったとされる。

 

享徳の乱(関東の戦国時代の始まり) 1454年~

1454

享徳の乱

足利成氏が上杉憲忠を御所に招き謀殺。28年間にもわたる関東地方の戦乱となる。

 
1455

武蔵・分倍河原の戦い (室町時代編)

享徳の乱の幕開けとなった合戦。応仁の乱と並ぶ最大規模の戦乱。
分倍河原(東京都府中市)において、足利成氏(鎌倉公方勢)が上杉顕房(関東管領勢)と合戦する。鎌倉公方勢が、上杉憲秋(犬懸上杉/上杉禅秀の子)と、上杉顕房(扇谷上杉)を討つ。長尾景仲ら残党は常陸国小栗城(茨城県筑西市)へ退避。

分倍河原の戦いについて(1455年):
第5代鎌倉公方(後の古河公方)足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を暗殺したことに始まった享徳の乱だが、室町時代に起きた関東地方における大乱である。その最初の戦いが分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい/1455年)で、足利成氏と上杉顕房との間で戦われた。 足利成氏軍は分倍河原の高安寺に陣を敷いたため、上杉憲秋(憲顕)ら先陣隊は高安寺に攻め寄せたものの撃退される。上杉憲秋は立河原で負傷し、高幡不動に逃れたものの自害したという。

小栗城の戦い

鎌倉公方勢⇒那須資持・小田朝久らの加勢を得て小栗城を攻撃
※城主は小栗判官で有名な小栗氏

鎌倉公方改め、古河公方の誕生

今川範忠(上杉氏の援軍)が鎌倉を制圧。足利成氏は鎌倉を出て下総の古河を本拠とした(初代古河公方)

1455年6月、足利成氏は不利となった鎌倉から本拠地を下総古河に移す。これにて古河公方と呼ばれるようになる。 始めは古河鴻巣に古河公方館を設けて居館としていたが、2年後の1457年10月には修復が終わった古河城に移った。

千葉宗家・滅亡

足利成氏を支持する馬加康胤・原胤房が共謀し、千葉城(亥鼻城)を攻める。
宗家の千葉胤直・胤宣父子を千田庄(香取郡多古町)の多古城・島城に追い詰め滅ぼす(千葉宗家滅亡)。以後、千葉氏は2派に分裂。

武蔵千葉氏

(胤賢 - 実胤 - 自胤 - 守胤 - 胤利 - 胤宗 - 直胤 )
幕府・千葉宗家支持派

下総千葉氏

(康胤 - 胤持 - 輔胤 - 孝胤 - 勝胤 - 昌胤 - 利胤 - 親胤 - 胤富 - 良胤 - 邦胤 ) 古河公方派・反幕府派

 
1456

太田道灌が家督を継ぐ

顕房戦死の責任をとって太田資清が引退。息子の太田道灌が家宰に就任。

武蔵・岡部原合戦

岡部原(埼玉県深谷市)で古河軍と上杉軍が衝突(上杉勢の敗退)。利根川流域に、忍城・深谷城・関宿城などが次々と築かれる。

馬加康胤征伐

足利義政の命令で、東常縁(とう つねより)が上総八幡(市原市八幡町)の村田川で馬加康胤を討つ

市川合戦

武蔵千葉氏 (千葉実胤・自胤兄弟)が市川城で籠城したが、陥落(市川合戦
このとき曽谷城の曽谷氏も滅亡したと伝わる。

 
1457

河越城、岩槻城、江戸城の築城

上杉持朝の家宰・太田道真(資清)、太田道灌父子が築城
持朝が初代河越城城主、道灌が初代江戸城城主

成氏は古河城を中心として、関宿城(簗田氏)、栗橋城(野田氏)、幸手城(一色氏)、菖蒲城(佐々木氏)を配備。

 
1458

堀越公方の登場

幕府は成氏の対抗として、将軍義政の異母兄である足利政知を新たな鎌倉公方として下向させる。鎌倉には入れず、伊豆堀越にとどまり御所を置く。

高月城を築城

武蔵国の国衆・大石顕重が二宮(あきる野市)から拠点を変え、高月城を築城したとされる

 
1459

太田庄の戦い

上杉房顕(関東管領)が五十子に城砦を築いたため、対する足利成氏は五十子へ出撃し、太田庄(埼玉県熊谷市)で交戦。上杉軍は大打撃を受けたが、古河軍も撤退。以後、上杉房顕は五十子を拠点とする。

 
1460    
1461    
1462

大須賀山に大日堂建立

馬加康胤の首塚(大須賀山に大日堂建立)~堂ノ山の所以。

 
1463    
1464    
1465    
1466    

応仁・文明の乱(1467年)~道灌謀殺(1486)年まで

1467

応仁・文明の乱~1477年まで

 
1468 -  
1469

本佐倉城の築城

1469年~1486年ごろ、千葉城を追われた千葉輔胤(馬加康胤の子・または孫)が将門山に本佐倉城を築き、千葉氏最期の本拠地となる。

 
1470    
1471

一旦、古河城陥落

長尾景信(景仲の子)が古河城を陥落。足利成氏は小山氏・結城氏の軍勢を率いて伊豆の堀越公方を攻めたが敗退。本佐倉城の千葉孝胤の元に退避。小篠塚城に動座した。

 
1472

成氏が古河城を奪還し帰還する。

岩富城の築城

弥富原氏(原景広)が弥富城(岩富城)を築城。

 
1473

五十子(いらこ)の戦い

古河軍と上杉軍が五十子陣((埼玉県本庄市の平城)で小競り合い。五十子陣において長尾景信(長尾景春の父)が陣没。扇谷上杉家・上杉政真が討ち死に。

足利義尚(よしひさ )9代将軍・就任
(父:足利義政、母:日野富子)
1474 太田道灌状によれば、長尾景春が数回にわたり、道灌に謀反を打ち明けていた。親分にチクったのは道灌か?  
1475    
1476

長尾景春の乱

上杉顕定の家宰になれなかった景春の反乱。~1480年まで続く。鉢形城を築城し籠城する。豊島泰経(石神井城と練馬城)・泰明(平塚城)・千葉孝胤・那須明資・成田正等らと同盟。足利成氏の支援を得る。小磯城の越後五郎四郎、小沢城の金子掃部助、溝呂木城の溝呂木正重、小机城の矢野兵庫が呼応。

 
1477

五十子城の陥落

長尾景春が五十子陣を急襲・陥落。

一方、道灌は、溝呂木城と小磯城を攻め落とす。小沢城は一旦保留。

江古田・沼袋原の戦い

道灌が平塚城城下を焼き払い、練馬城の豊島泰明を討ち取る。
続いて泰経の石神井城を攻め落とす。

道灌・顕定・定正は五十子を奪還、用土原の戦いで景春を撃破、塩売原で1カ月間対陣するが双方撤退。

応仁の乱 終結
1478

成氏が上杉氏との和睦を打診

豊島氏の滅亡

泰経が和睦の妨害として平塚城で再挙するが道灌に鎮圧される。泰経は敗走して小机城に逃れる。景春が河越城へ攻め寄せるが定正と道真が撃退。

道灌が小沢城、小机城を落とす。(豊島氏の滅亡・1477年とも)
鉢形城も落とし、上杉顕定の居城となった。

 

境根原合戦

道灌が千葉孝胤を打ち破った。

 
1479

太田道灌の米本城(龍ヶ城?)攻め

太田道灌が米本の龍ヶ城を攻めたとの記録があり、臼井城の戦いの一連と思われる。ゆえに龍ヶ城とは米本城と考えられる。

臼井城の戦い

道灌が太田資忠と武蔵千葉氏・千葉自胤(よりたね)を派遣し、持氏派の千葉孝胤(のりたね)が籠る臼井城を攻める。(太田資忠討ち死に)
※千葉孝胤は千葉輔胤(岩橋輔胤)の嫡男。子は勝胤。

 
1480

長尾景春の乱~終結

景春の最後の拠点・日野城(秩父市)を道灌に攻め落とされる。

 
1481    
1482    
1483

都鄙合体(とひがったい)

古河公方・足利成氏と上杉氏/幕府の和睦(享徳の乱終結)

岩城氏が大館城(飯野平城)築城

岩城常隆が大館城築城。1602年に岩城氏は飯野平の所領を没収。鳥居忠政の入封で、1603年、新たに磐城平城が築城着工される。

 
1484    
1485    
1486

江戸城の乱

太田道灌を謀殺した上杉定正が、江戸城の太田資康(道灌の嫡男)を追放した事件

道灌が謀殺される

主君の扇ヶ谷上杉氏・定正によって糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ誅殺される。「当家滅亡」のセリフが有名。

 

長享の乱 1505年 ~

1487

長享の乱

山内家と扇谷家の両上杉家が決裂。抗争に突入する。
山内家の上杉顕定(関東管領) VS 扇谷家の上杉定正
長尾景春は扇谷家に属し、山内家に再戦する。

 
1488    
1489   足利義政が9代将軍の代理
1490  

足利義政死去

足利義材(よしき-義尹-義稙)10代将軍就任 ※足利義政の弟

1491 北条早雲(伊勢新九郎)が伊豆を攻略。  
1492    
1493

伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越御所を襲撃

明応の政変

(足利将軍廃立事件)※戦国時代の始期という見方もある。

10代将軍・足利義材(義尹)が細川政元によって追放。

1494 北条早雲が上杉定正と連合して、鉢形城の上杉顕定を攻撃 足利義澄が11代将軍に就任
(父:足利政知)
1495

小田原城の乗っ取り

北条早雲が大森藤頼から小田原城を奪った、とされる

金山城攻め

佐野小太郎による金山城攻め

 
1496   日野富子死去
1497   毛利元就・誕
足利成氏死去
1498

堀越公方の終焉

堀越公方・茶々丸捕捉されて自害(2代で堀越公方終焉)
※茶々丸(足利政知の長男)の、弟の義澄は11代将軍

 
1504

立河原の戦い

上杉顕定・足利政氏(成氏の子)の連合軍 vs 上杉朝良(定正の養子)・今川氏親・北条早雲の連合軍との合戦。長享の乱の決戦とされる。
(北条早雲と今川氏親は桝形城に拠点を置く)

※初代古河公方・成氏⇒2代・政氏⇒3代高基⇒4代晴氏
※高基の弟の義明が小弓公方

白河結城氏から小峰氏への樹立(1504~1520年ごろ)

1504~1520年ごろ、一族の内紛で小峰氏が白河結城氏の権力を掌握して、小峰城を本拠としたと考えられる。

 
1505 顕定に河越城を包囲された上杉朝良は降伏  
1506    
1507   元就10歳
1508   足利義稙が12代?として再度将軍就任
1512    
1513 北条早雲による玉縄城の築城  
1514    
1515   北条氏康
・誕

北条早雲の相模平定(1516年)~

1516

北条早雲の相模平定

三浦郡(相模における扇谷上杉家最後の拠点)の三浦道寸(北条早雲のライバル)が、北条早雲によって攻め滅ぼされる。(新井城攻め

 
1517

小弓城合戦

足利義明が原友胤・虎胤の居城である小弓城を奪取。

元就20歳
1518 第2代古河公方「足利政氏」が久喜館(足利政氏館)に隠居  
1519   今川義元・誕
1520    
1521

滝山城の築城

大石定重の代になると、後北条氏による武蔵国への勢力が拡大したため、高月城では防衛できないと判断。本拠地を、新たに築城した滝山城へと移す。

足利義晴が12代将軍・就任
(父:足利義澄、養父:足利義稙)

武田信玄
・誕

1522    
1523    
1524 北条氏綱が(扇谷上杉氏)朝興の江戸城を攻略  
1525   氏康10歳
1526

鶴岡八幡宮の戦い(大永鎌倉合戦)

北条氏綱 vs 里見義豊との合戦。里見軍の玉縄城攻略戦から鎌倉への戦乱となった。(鶴岡八幡宮が焼失)。結果、北条氏が玉縄・鎌倉~三浦半島一帯を防衛した。

鶴岡八幡宮(源氏の守護神)の炎上により、里見義豊の権威が下がり、義豊による実堯暗殺~実堯の子・里見義堯が仇討(天文の内訌-稲村の変)する事件の遠因。

 
1527   元就30歳
1528    
1529   義元10歳
1530   上杉謙信
・誕
1531 第2代古河公方の「足利政氏」が没する 信玄10歳
1532    
1533

稲村の変(里見氏の内乱)

里見義豊が、叔父で後見人の里見実堯を殺害。強引に家督を奪ったため、里見義堯(実堯の子)が義豊を討ったとされる。※義堯は敵国であった北条氏綱との同盟と援軍を得る。
※伝承であり、史実とは異なる可能性もある。

 
1534   織田信長
・誕
1535   氏康20歳
1536

花倉の乱

栴岳承芳(今川義元)と玄広恵探(義元の庶兄)の家督争い。今川義元は当主となった。

河東の乱(かとうのらん)~1545年まで

駿河国で起こった今川氏と北条氏との戦い。「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味する。

 
1537

北条氏の河越城攻略

北条氏綱は深大寺城をスルーして、扇谷上杉氏の居城である河越城を攻略。敗走する形で上杉朝定は居城を「武蔵松山城」へ代えた。

下総・小金の築城

高城胤吉によって築かれた小金城の完成は天文6年(1537年)とされており、築城に7年間を要したという。

豊臣秀吉
・誕

元就40歳
氏康22歳

1538

第一次・国府台合戦(小弓公方滅亡)

足利義明率いる真里谷信応・里見義堯ら房総の軍勢 vs 北条氏綱・足利晴氏連合軍との合戦。国府台にて合戦。結果、足利義明が討ち死(小弓公方滅亡)。戦後、国府台は小金城主・高城胤吉の所領となる。小弓公方に従っていた武石胤親が討ち死(武石氏の終焉)。

葛西城が落城

北条氏綱によって葛西城が落城

 
1539   義元20歳
1540

吉田郡山城の戦い(郡山合戦)

毛利元就(大内氏従属) vs 尼子詮久(晴久)との戦い。吉田郡山城の戦いといいつつも籠城戦ではない。

謙信10歳
1541   武田信虎追放
信玄20歳
1542

第一次 月山富田城の戦い(vs 大内軍)

~1543年、尼子氏の月山富田城で攻防戦。
尼子晴久+毛利元就 vs 大内義隆。大内方の敗退。毛利軍には殿が命じられて、元就は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる

武田信玄の諏訪制圧

元就45歳
1543   徳川家康
・誕
1544   信長10歳
1545    
1546

河越夜戦

北条氏康 vs 上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍。
河越城の争奪戦であり、「北条綱成ら河越城守備隊3000、 北条氏康ら救援隊8000」と古河公方連合軍8万との戦い。日本三大奇襲のひとつであり、北条軍の大勝。河越夜戦の激戦地は東明寺。
上杉朝定の討ち死にによって、扇谷上杉家は滅亡。

足利義輝が13代将軍就任(父:足利義晴)

氏康31歳

武田勝頼誕生

1547

志賀城攻め(小田井原の戦い)

武田晴信(信玄) vs 関東管領・上杉憲政+笠原清繁との合戦および攻城戦。救援を絶たれた笠原清繁の志賀城は落城し、武田氏が佐久郡を制圧。

元就50歳

信長13歳
秀吉10歳
信玄26歳

1548

上田原の戦い

武田晴信 vs 村上義清との合戦。武田氏が佐久郡を制圧したため、隣接する北信濃の村上氏との戦い。武田晴信にとって初めての敗戦となる。

塩尻峠の戦い

上田原の戦いで勝利した村上氏に便乗し、信濃国人衆が武田氏に反乱。しかし、武田氏が塩尻峠の戦いで小笠原長時に大勝する。

 

1549

喜連川 五月女坂の戦い

宇都宮尚綱が五月女坂合戦で那須氏に敗れ、討ち死に。宇都宮氏は一時的に宇都宮城を失う。宇都宮氏は滅亡の危機を経験。

義元30歳
信長15歳
1550

砥石崩れ

上田原の戦いのリベンジとして、武田晴信が村上義清に再戦を挑み支城の砥石城を包囲するが、反撃を受けて再び大敗。

謙信20歳
1551

戸石城陥落

武田氏家臣・真田幸隆の計略により戸石城が陥落。村上義清は葛尾城を捨てて越後の長尾景虎(謙信)に救助を求めた。~川中島の戦いへとつながる。

信玄30歳
1552    
1553

第一次川中島の戦い

武田信玄 vs 上杉謙信+北信濃国人衆との北信濃をめぐる合戦。第一次合戦は「布施の戦い」という。同年に、村上義清の立て籠もる塩田城を攻め落としており、武田軍の本陣となる。以後、川中島の戦いは計5回、12年余りに及ぶ。

家康10歳
1554

甲相駿三国同盟

武田信玄・北条氏康・今川義元の和平協定。同盟功労者の太原雪斎が修行をした善徳寺で3者が会合したという伝説(善得寺会盟)は創作らしい。
※1568年、武田氏の駿河侵攻で三国同盟は崩壊する。

前段階では婚姻同盟が行われ、以下の婚姻が実現されている。
1552年:今川義元の嶺松院⇒武田義信
1553年:武田信玄の黄梅院⇒北条氏政
1554年:北条氏康の早川殿⇒今川氏真

久留里城攻め

北条綱成は軍2万で里見義堯、義弘の守る久留里城を攻撃。しかし、里見軍は数十日間の攻防戦を展開し、北条軍を撃退。

秀吉の織田家仕官

氏康39歳
義元35歳
信玄33歳

信長20歳
秀吉17歳
家康11歳

1555

北条軍の久留里城攻撃。里見軍が撃退。

第2次川中島の戦い

犀川の戦いとも言う。犀川を挟んで両軍は200日余に渡り対陣。今川義元の仲介で和睦となり終結。晴信は木曾義康・義昌父子(木曾谷の領主)を降伏させ、南信濃を平定。※武田勝頼と折り合いの悪かった義昌は、1582年に織田信長と盟約を結び謀反を起こす。

厳島の戦い

日本三大奇襲のひとつ。安芸国厳島で行われた、毛利元就 vs 陶晴賢との合戦。

氏康40歳
謙信25歳
1556

長良川の戦い

斎藤道三 vs 嫡男・斎藤義龍との合戦。

市川合戦

市川合戦とは、千葉実胤・自胤兄弟が市河城に籠城した戦い。市河城は弘法寺と比定されているが、国府台城という説もある。

謙信の出家騒動

現況に嫌気がさした上杉謙信が出家隠遁を図る騒動。春日山城を出奔し、高野山を目指したが、追いかけた家臣の懇願で思いとどまった。

信玄35歳
1557

原氏による臼井城支配

臼井久胤の後見として原胤貞が入り、臼井城が原氏の支配下となる。

第3次川中島の戦い

上野原の戦いとも言う。謙信が、武田晴信の北信濃への勢力伸張に反撃。

宇都宮氏、宇都宮城を奪還

芳賀高定が宇都宮広綱を擁護し、壬生氏から宇都宮城を奪還。援護に来た佐竹義昭が飛山城に陣を構えた。

元就60歳

秀吉20歳

1558

滝山城・大改修

北条氏照の滝山城・大改修

米本城の落城

この年、敵に攻められ米本城の村上綱清が自決したと伝わる。相手が正木信茂(里見勢)とするならば、実際は臼井城攻めのあった1561年と思われる。※1558年の落城は佐倉風土記によるもの。

北条氏邦を養子とする

鉢形領の豪族であった藤田康邦が北条氏邦を娘婿として迎え入れる。

 
1559   義元40歳

桶狭間の戦い(1560年)~比叡山焼き討ちまで(1571年)

1560

唐沢山城の戦い(永禄3年2月の戦い)

1560年、長尾景虎(上杉謙信)は上杉憲政を擁して関東平定に動き始める。謙信+佐野昌綱 vs 北条氏政。3万余の北条軍が唐沢山城を攻撃。※創作の可能性も示唆されている。

桶狭間の戦い

織田信長 vs 今川義元。日本三大奇襲のひとつ。戦国時代の転機として知られる奇襲戦。

信長26歳
秀吉23歳
家康17歳

1561

上杉謙信の小田原攻め

3月、上杉謙信、上杉憲政連合軍による小田原攻め。川中島の戦いが控えているため軍を引き上げた。その際に武蔵松山城を攻略(失敗)して帰還している。

第4次川中島の戦い

八幡原の戦いともいう。武田勢の武田信繁・諸角虎定・山本勘助などが討ち死に。死者は上杉軍が3000、武田軍が4000と言われ、両軍が勝利を主張している。

生野山(なまのやま)の戦い

上杉謙信の小田原攻めで防衛した北条氏康が、武蔵松山城と秩父高松城の攻略を狙う。謙信は第4次川中島合戦後に越後へ帰国し、すぐに北条征伐の援軍を送る。北条軍は生野山で迎え撃ち、上杉軍を撤退に追い込む。上杉軍はそのまま唐沢山城へ攻め込む。

※無敗と言われた謙信だが、負けた戦は2つあるといわれる。臼井城の戦い(1566年)と並び、これがそのひとつ。ただ、謙信自身が出陣したのかは定かで無い。

唐沢山城の戦い(永禄4年12月の戦い)

上杉軍が小田原城から撤兵すると北条氏康が反撃。北条軍は唐沢山城を攻め、佐野昌綱が降伏。これに対し謙信から攻撃されるが撃退。
謙信と佐野昌綱の間で約10度にわたって合戦が繰り返されるが、昌綱の降伏と反旗の繰り返し。1570年まで続く。

臼井城落城(臼井氏の滅亡)

上杉謙信の小田原攻めに呼応した正木信茂(里見勢の大多喜城)に攻められ臼井城落城。(臼井氏の滅亡)

辛垣合戦~三田氏終焉

三田氏終焉の城。三田綱秀は北条氏から上杉氏に付き、勝沼城から辛垣城へ移城。 1561年~1563年頃に北条氏照に攻められ落城。

謙信31歳
信玄40歳
1562

毛利元就が、石見銀山を完全掌握

1559年、銀山街道の降路坂の戦いで、山吹城に篭もる本城常光に撃退されるが、銀山を巡る「石見銀山争奪戦」の末、1562年には毛利氏の支配となる

 
1563

第二次国府台合戦

国府台城近辺で行われた、里見義堯・義弘 vs 北条氏康・綱成/千葉軍の合戦。北条氏康と武田信玄が上杉謙信方の城を攻撃した際、里見義弘が上杉方の援軍に向かう。そこで北条軍が国府台で援軍を阻止しようと合戦が始まる。
※土岐為頼(万喜城城主)が北条氏に寝返る。
※敗退した里見勢は酒井胤治(土気城主)の救援により脱出

武蔵松山城攻め

北条氏康+武田信玄が上杉謙信方の武蔵松山城を攻撃

 
1564

原胤貞が臼井城奪還。

里見軍の久留里城奪還

第二次国府台合戦で大敗した里見軍は、一旦北条軍に久留里城を押さえられるがすぐに奪還。

第5次川中島の戦い

塩崎の対陣とも言う。武田信玄は塩崎城に布陣するが、両軍にらみ合いで終結。

塩谷孝信による兄(義孝)の殺害、川崎城の占領

塩谷孝綱から宇都宮氏流の塩谷氏として再興されたが、子で喜連川塩谷氏を継いだ孝信は、兄(義孝)を殺害、川崎城の占領する。

信玄43歳
謙信34歳

信長30歳
秀吉27歳
家康21歳

1565

第二次 月山富田城の戦い(尼子氏の滅亡)

尼子氏の月山富田城で攻防戦。尼子氏 vs 毛利元就/吉川元春/小早川隆景。「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」でも知られる。
戦国大名としての尼子氏は滅亡したが、尼子義久は助命されている。

永禄の変

足利義輝の暗殺

筒井城の戦い~1568まで

筒井順慶 vs 松永久秀。大和筒井城のあたりで3度に渡って戦う。

元就68歳

1566

臼井城の戦い

上杉謙信・里見勢に臼井城を攻められるが、原氏は撃退。軍師・白井胤治(浄三)、北条氏からの援軍は松田康郷の活躍があった。

※無敗と言われた謙信だが、負けた戦は2つあるといわれる。生野山の戦い(1561年)と並び、これがそのひとつ。

謙信36歳
信玄45歳
1567

三船山合戦

三船山(三舟山)にて、里見義弘 vs 北条氏政の合戦。里見義弘は佐貫城から出陣し、三舟山にて北条軍を撃退。北条氏を相模国に撤退させ、安房への支配を阻止。
上杉謙信に頼らず北条軍を撃退したことに意味がある戦い。

東大寺大仏殿の戦い

松永久秀+三好義継 vs 三好三人衆、筒井順慶、池田勝正。東大寺大仏殿あたりでの戦闘。多聞山城(松永久秀の居城)の周辺でも戦闘があったた。

稲葉山城の戦い

織田信長がと斎藤龍興との戦い。織田は数度にわたり稲葉山城を攻めて、攻め取った稲葉山城を岐阜城に改名し、居城となった。豊臣秀吉の墨俣一夜城の逸話が有名。

元就70歳

伊達政宗
・誕

信長33歳
秀吉30歳
家康24歳

1568

観音寺城の戦い(箕作城の戦い)

足利義昭を奉じて上洛する織田信長と、六角義賢・義治との戦い。信長が天下布武を掲げた最初の戦い。

駿河侵攻

武田氏は駿河今川領国への侵攻を開始。

北条氏、同盟を破棄した武田信玄と対峙

後北条氏はこれまで争ってきた謙信と同盟を結ぶことでこれに対抗。(越相同盟)

足利義栄(よしひで-義親)が14代将軍就任(8ヶ月間)

足利義昭が15代将軍に就任
(父:足利義晴、兄:義輝)

1569

滝山城合戦

滝山城の北条氏照 vs 武田信玄軍2万+別働隊の小山田信茂隊。 滝山城の攻防戦となった。落城までは至らなかったが、武田信玄は小田原城へ進撃し、小田原城を包囲する。

三増峠(みませとうげ)の戦い

小田原城包囲から兵を引き上げた武田軍に対して、北条軍が挟撃した戦い。北条に組みしている千葉氏に対し、武田信玄が皮肉を言ったとされる。またヤビツ峠における餓鬼憑きの伝説など悪霊伝説のもとになった。北条方の横山弘成が防衛のため桝形城の土塁を築いた。

本圀寺(ほんこくじ)の変

三好三人衆らが京都本圀寺に仮御所を置いていた15代将軍足利義昭を襲撃。六条合戦。

 
1570

姉川の戦い

足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長が、朝倉領の越前に侵攻。朝倉氏と縁のあった浅井長政が信長に離反。浅井・朝倉連合軍が信長を襲撃した合戦。金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)を経て信長は撤退した。

一次石山合戦(野田城・福島城の戦い)

本圀寺で敗退した三好三人衆が野田城・福島城を築城し、信長に対して挙兵。三好三人衆軍には顕如ら石山本願寺軍、鈴木孫一ら雑賀衆が加勢、信長軍には足利義昭・松永久秀が加勢している。

信長がこれに釘付けになっている間に、浅井・朝倉連合軍が挙兵(志賀の陣)。信長が転進すると、浅井・朝倉連合軍は延暦寺の支援を受けて比叡山に籠城。信長は朝廷を動かして(正親町天皇の調停にて)講和に同意させた。

長島一向一揆

本願寺の下間頼旦ら一向一揆が長島城を攻め落とす。織田信興の小木江城も落城、滝川一益の桑名城も落城。~1574年の第三次長島侵攻まで続く。

謙信40歳
1571 比叡山焼き討ち

毛利元就死去

室町幕府の滅亡 1573年~

1573

室町幕府の滅亡

足利義昭が上洛後、織田信長と不和になる。槇島城の戦いで義昭挙兵。義昭が浅井・朝倉・石山本願寺・武田を扇動してきた。信長が15代将軍・義昭を京都から追放。しかし、将軍職を解官したわけではないので、実際は1588年が室町幕府の終焉とも言える。

三方ヶ原の戦い

家康と信玄との合戦。信玄の駿河侵攻のあと、足利義昭の信長討伐令に応え三河への侵攻を開始。家康が敗退するが犀ヶ崖の戦いで夜襲をかけている。信玄は野田城を攻略する(野田城の戦い)が、病死。

信玄の死をもって第一次信長包囲網が崩壊。

小谷城の戦い

織田信長と浅井長政との合戦。朝倉義景も出陣するが、刀根坂の戦いで敗退、一乗谷城の戦いで自刃。小谷城落城で浅井氏が滅びる。

八王子城の築城

八王子城の現地パンフによれば築城1573年?~、1584~1587年の間に移転したとされる

信玄死去

謙信43歳

信長39歳
秀吉36歳
家康30歳

1574

生実城が里見氏の手に落ちたため、臼井城が原氏の本拠となる。

上杉謙信による金山城攻め

 
1575

長篠の戦い

長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との合戦。徳川方へ再属した奥平信昌が配された長篠城を勝頼軍が包囲。援軍に来た織田・徳川軍と設楽原決戦となり、勝頼敗退。

北条氏による祇園城攻め

1575年に北条氏照によって小山氏の祇園城が陥落

 
1576 安土城築城(1585年に炎上) 信長42歳
秀吉39歳
家康33歳
1577

信貴山城の戦い

信長に謀反を起こした松永久秀の信貴山城籠城戦。

手取川の戦い

上杉謙信軍が織田信長軍を撃破。

政宗10歳
1578

耳川の戦い

大友宗麟と島津義久との合戦。

一次天正伊賀の乱~79

三木合戦~1580年まで

三木城に篭城した別所長治と織田軍の秀吉との合戦。秀吉が兵糧攻め(三木の干殺し)を行う。

上月城の戦い

毛利輝元と織田軍に属す尼子勝久・山中幸盛(鹿介)との合戦。信長は三木城攻略と毛利軍の足止めを優先したため援軍はなし。捨て駒となった尼子氏が再度滅亡。

有岡城の戦い~79

織田信長に謀反を起こした荒木村重の籠城戦。

御館の乱

上杉景勝と上杉景虎との家督争い

吉野山:摂津平野の豪商が桜の苗1万本を寄進

上杉謙信・没
1579 2次天正伊賀の乱~81  
1580

一次鳥取城攻め、石山本願寺明け渡し

織田信長の城郭破却令よって高取城が一旦廃城となる。1585年には、豊臣秀長家臣・本多氏による大改修がある。

 
1581 2次鳥取城攻め、新発田重家の乱  
1582

甲斐武田氏の滅亡 / 甲州征伐(高遠城の戦い・天目山の戦い)

織田信長と同盟者(徳川家康、北条氏政)が武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻。武田勝頼は岩殿城での籠城を計画するが、家臣の裏切りで入城できず。天目山の戦いで甲斐武田氏が滅亡。

備中高松城攻め

羽柴秀吉と毛利氏配下の清水宗治との戦い。高松城の水攻め。

 

本能寺の変以降 1582年~

1582

本能寺の変

明智光秀の謀反による、信長の横死。丹波亀山城から引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長を襲撃。ついでに妙覚寺に宿泊していた嫡男・織田信忠を襲撃。

信長48歳
横死

備中高松城攻め

羽柴秀吉と毛利氏配下の清水宗治との戦い。高松城の水攻め

山崎の戦い

備中高松城から引き返してきた羽柴秀吉軍と、織田信長を討った明智光秀軍勢との合戦。

天正壬午の乱

徳川家康と北条氏直の戦い。および上杉景勝や真田昌幸(武田の遺臣)らが介入した旧武田領を巡る争い。本能寺の変をきっかけに起きた領地争い。

秀吉45歳
家康39歳

政宗15歳

1583

賤ヶ岳の戦い

羽柴秀吉と柴田勝家との戦い。織田政権の継承者争い。この年、大阪城築城

上田城築城

真田昌幸が上田城を築城。信濃・塩田城の廃城。

 
1584

小牧長久手の戦い

羽柴秀吉 vs 織田信雄・徳川家康の連合軍。秀吉と家康が互いの力量を知った戦いとなっている。

金山城籠城戦

妙印尼(由良国繁と長尾顕長の母)を大将とし、金山城で籠城戦。vs 北条⇒小田原北条氏に降伏、由良氏は桐生城へ退却

 
1585

一次上田合戦

1583年、越後の上杉氏を警戒していた徳川家康の命令により真田昌幸が上田城の築城を始める。徳川から沼田領を北条氏へ引き渡すように指示される。これを拒否したために沼田領をめぐり家康と対立。主君を上杉景勝に変えたため、上田城は1585年に上杉方の城として完成した。徳川の軍勢が攻め寄せるもこれを撃退した。徳川軍7,000(または8000) VS 真田軍2,000とされる。(※神川合戦とも言う)

粟ノ巣の変

畠山義継が伊達輝宗(政宗の父)を拉致して二本松城に戻ろうとした。阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりで追いついた政宗が、銃撃で輝宗もろとも義継を殺害。※一説では政宗が父を謀殺したとも言われている。

小手森城攻め(撫で斬り)

伊達政宗は小浜城主・大内定綱と衝突。小浜城の支城である小手森城を包囲し落城させる。資福寺・虎哉宗乙宛の書状によれば、800人撫で斬りしたとされる。

 
1586 人取橋の戦い、二本松城攻め、九州征伐~87  
1587

惣無事令

秀吉が、関東・奥羽への惣無事令を発令

唐沢山城の佐野氏

唐沢山城の佐野氏は佐竹氏と同盟を結び、上杉・北条氏に対抗してきたが、1587年に北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え、北条の傘下に入る。
しかし、後に小田原攻めが始まると豊臣方に従い、城内の北条勢を追い払う。

聚楽第完成

秀吉50歳
家康44歳
政宗20歳

1588

郡山合戦

伊達政宗軍と、蘆名義広・相馬義胤連合軍との合戦
伊達派の田村月斎(田村顕頼)の反撃により、相馬義胤の三春城入城は失敗に終わる。

万喜・長南合戦

~1590年にかけて里見氏による3度の攻勢(万喜・長南合戦)。

刀狩令
1589

摺上原の戦い

摺上原の戦い(蘆名義広との合戦)で、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼす。猪苗代城の猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、蘆名氏が滅ぶ要因となった。

須賀川合戦

須賀川城攻防戦で、伊達政宗が二階堂氏を滅ぼす。

 

小田原攻め(戦国時代の終結)以降 1590年~

1590

小田原攻め

豊臣秀吉が大義名分によって北条氏を征伐(小田原攻め)。
北条方の支城攻略⇒山中城攻撃、韮山城攻撃、下田城攻撃、松井田城攻撃、岩槻城攻撃、鉢形城攻撃、忍城攻撃、津久井城攻撃、葛西城攻撃、八王子城の戦い。世田谷城も?

奥州仕置

天下統一した豊臣秀吉が白河口から入り、に入る。8月7日に長沼城に宿営。蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となっている。

秀吉53歳
家康47歳
政宗23歳
1591

九戸政実の乱

南部氏の九戸政実が、主君・南部信直ならびに秀吉の奥州仕置に対して起こした反乱。※陰ながら、秀吉による天下統一の総仕上げとされる

 
1592 文禄の役~93  
1593   家康50歳
1594

吉野の大花見

豊臣秀吉が吉野にて大花見。豊臣秀次・徳川家康・前田利家・伊達政宗らを引き連れる

 
1595

秀次事件

豊富秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、高野山・青巌寺にて切腹。

塩谷氏の改易と、川崎城の廃城

1595年、塩谷義綱は豊臣秀吉より改易を言い渡され、川崎城は廃城となった。隣接する堀江山城、新城もこの時に廃城になったと考えられる。1590年の小田原征伐に、塩谷義綱が参陣しなかったために改易および廃城となったと言われる。

 
1596    
1597

慶長の役

宇都宮氏の改易

豊臣秀吉により宇都宮国綱が原因不明の改易。家臣芳賀氏の城である、勝山城は廃城に。

秀吉60歳
政宗30歳
1598 醍醐の花見

秀吉死去

家康55歳
1599    

関ヶ原の戦い(1600年)以降~

1600

小山評定

7月24日、徳川家康は会津征伐にて上杉景勝を討つべく小山に到着。石田三成の挙兵を知り、家康と秀忠を中心に小山評定と呼ばれる軍議が開かれた。

関ヶ原の戦い

徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成が率いる西軍(総大将は一応、毛利輝元)との合戦。建前では豊臣家臣同士の争いとしているが、実際は徳川支配の決定戦となっている。

第二次上田合戦

関ヶ原の戦いでは西軍についた真田昌幸と次男・信繁が徳川秀忠の中山道西進を数日間足止めさせ、関ヶ原に遅参させた。徳川軍38,000 VS 真田軍2,500とされる。しかし関ヶ原では徳川家康の東軍が勝利し、戦後処理によって上田城は破壊された。

家康57歳
政宗33歳
1601~
1609

1602年

常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国久保田に減転封。

1603年

徳川家康が征夷大将軍に任命される

1605年

家康に代わり、徳川秀次が征夷大将軍に任命される

1609年

徳川家康の11子である頼房が水戸城の城主となる。
(御三家・水戸徳川家 水戸藩)

 
1611 松江城落成。堀尾吉晴、松江城完成目前で急死。  
1612 -  
1613 徳川家康の命令で、鷹狩りを行うための宿泊所、東金御殿が造営される。  
1614 養子となった北条氏重が下野国 富田へ転封されたため岩富城は廃城  
1615 大坂夏の陣  
1616

6月1日、徳川家康、駿府城にて死去(満73歳)。
天ぷらによる食中毒と言われるが、胃癌の説が有力。

家康
死去
1617
以降

1617年

三大東照宮の1つ、仙波東照宮造営。(他の2つは日光東照宮・久能山東照宮)。徳川家康(祭神:東照大権現)を久能山から日光山に改葬する際、南光坊天海が喜多院で法要し創建された。

1622年

徳川家臣本多正純が、宇都宮城に釣天井を仕掛けて徳川秀忠の暗殺を図った嫌疑の事件。 (宇都宮釣天井事件)

1644年

泉騒動で岡本保真が殺害され跡継ぎがなかったため、岡本氏は改易、御前原城は廃城。

 

宗教、宗派メモ

宗派 開祖 開基年 本山 / 本尊 memo
法相宗 道昭 662年 興福寺、薬師寺 /
釈迦如来、薬師如来
南都六宗のひとつ。開基の頃は宗教というよりも学問に近い。
華厳宗 良弁 740年 東大寺 / 盧遮那仏 万物は互いに関係しながら存在する
律宗 鑑真 759年 唐招提寺 / 盧遮那仏 南都六宗のひとつ。修行僧が戒律を守り実行することが教義。
天台宗 最澄 806年 延暦寺 / 釈迦如来 法華経の思想が中心で、天台教学に密教や禅、戒律を融合。
真言宗 空海 806年 金剛峯寺 / 大日如来 宇宙の根本である大日如来と一体化
融通念仏宗 良忍 1124年 大念仏寺 /
十一尊天得如来
ひとりひとりが唱える念仏が融合して往生できるという集団唱和。
浄土宗 法然 1175年 知恩院 / 阿弥陀如来 南無阿弥陀仏で万人が極楽往生
臨済宗 栄西 1191年 建長寺 / 釈迦如来 座禅で釈迦の悟りを得る
浄土真宗 親鸞 1224年 本願寺 / 阿弥陀如来 悪人を救うことこそ仏の道
曹洞宗 道元 1227年 永平寺、総持寺 / 座禅ならびに普段の生活すべてが修行
日蓮宗 日蓮 1253年 久遠寺 / 釈迦如来 法華経以外は邪教。南無妙法蓮華経・・で誰もが救われる。
時宗 一遍 1274年 清浄光寺 /
南無阿弥陀仏・・
下層階級でも南無阿弥陀仏で救われる
黄檗宗 隠元 1661年 萬福寺 / 釈迦如来 念仏と禅の修行。明国から来た宗派

日本に仏教が伝わり奈良時代までは宗教というより学問に近い。平安時代には神秘性を帯び本山を持つようになる。鎌倉時代には民衆救済の宗派が生まれ、各地に寺が建立される。江戸時代には黄檗宗が広まり、現在にいたる宗派は13宗派。8万近くの寺が法人登録されており、13宗派のいずれかに属している。本山が複数ある宗教では宗派に分かれている。(臨済宗では妙心寺派、建長寺派、大徳寺派など)

足利氏~鎌倉公方と古河公方の略系図

足利氏-鎌倉公方-小弓公方-堀越公方

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