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戦国時代、山吹城を制する者が銀山を制する!

銀山防衛と支配の要衝、山吹城

DELLパソコンを持っての旅行記。かつて石見国と呼ばれた島根県大田市大森町の山吹城を登城したのでレポートする(2017年9月)。山吹城は戦国時代、石見銀山支配のため、要害山(標高414m)に築城された山城である。鎌倉時代末期に石見銀山が発見され、そのあたりから山吹城の原型となる砦があったとされる。周防の大内氏の支配となるが、戦国時代に石見の国人・小笠原氏に奪われ、再び大内氏が奪還する。この際に山吹城が防備強化された。現地説明ではその時を築城としており、「1533年ごろ、周防の戦国大名・大内氏が築城したとされる。」と説明している。山吹城である要害山は独立した山で、四方は急斜面であり、軍事的に優れた地形である。

山吹城観光案内所がある石見銀山公園からの、山吹城眺望。

徳川幕府の天領になるまでの、約70年に渡る石見銀山争奪戦

1530年~1533年 石見の小笠原長隆が銀山を占領するが、大内氏が奪回し山吹城を強化。
1537年 出雲の尼子経久が銀山を占領。
1539~1541年 尼子・小笠原連合軍と大内氏の争奪戦が繰り返される。
1556年 大内義長を傀儡とする陶晴賢を厳島の戦い(1555年)で破り、大内氏を滅ぼした毛利元就が参戦。毛利氏が銀山を占領する。
1558年 尼子晴久の山吹城攻めで占領(忍原崩れ)。尼子家臣の本城常光を城主とする。
1559年 毛利氏の侵攻に対し、本城常光が撃退(降路坂の戦い
1562年 諜略を用いて毛利氏が再び侵攻。降伏した本城常光を暗殺。
30年近く銀山を巡る争奪戦の末、1562年には毛利氏の支配となる。
1600年 関が原の戦いの後、徳川幕府の天領となる。(毛利輝元が敗軍の将となったため差し出す)。大久保長安が山吹城に入城し改修したが、1601年には大森の代官所へ拠点を移したため、まもなく山吹城は廃城されたとされる。元和年間石見国絵図(1617~1619年)では城らしき絵があるので、少なくとも1600年代前半に廃城となった考えられる。

徳川幕府の天領、山吹城周辺

石見国絵図元和年間石見国絵図(1617~1619年)

江戸時代になると徳川幕府の天領となる。その初代銀山奉行となった大久保長安が休役所(銀山拠点)を奉行所として使い、山吹城を改修した。山吹城大手の周辺には「焔硝蔵、下屋敷、山吹八幡社、千京、魚店、上市場」といった地名があったり、戦国時代に創建された大満寺跡、大龍寺跡があることから、城下町が形成されていた事がわかる。後に、奉行所は大森(町並み地区)に移転して代官所となった。

大久保長安(1545~1613年)

大久保長安は甲斐武田氏の家臣だったが、武田氏滅亡後は徳川家康に仕える。手腕を買われ石見銀山初代奉行となった。間歩の開発を進め、銀山経営や税制改革、街道整備などを行った。晩年には採掘量が思わしくなく、代官職を罷免され失脚。駿府にて病死した。その後、横領が疑われ、長安の息子7人は切腹。家系は断絶した。(1613年・大久保長安事件)

山吹城の位置

石見銀山一帯石見銀山公園に、石見銀山一帯の立体地図が置かれている。

山吹城経由で龍源寺間歩山吹城は、銀生産の中心地だった銀山地区にあり、山吹城経由で龍源寺間歩に向かうこともできる。
銀山地区の大きなマップはこちら

銀山街道と山吹城

銀山街道これは江戸時代、石見銀山の周囲には柵を廻らせ、柵内(さくうち)と呼ばれるエリア。街道に通じる10箇所の出入り口に番所を置いていた。(柵内番所~番所の位置は時代により変化があった)。柵内が作られたころには山吹城はほぼ廃城となっているが、この柵内に城址が残されていることも世界遺産登録の重要な要素となっている。

吉迫口からの鞆ヶ浦道、坂根口からの温泉津沖泊道は、山吹城が中心だった戦国時代に銀山街道として整備されている。(石見銀山で採掘し、精錬された銀などを輸送港へ運ぶために通った旧街道。)

鞆ヶ浦道

鞆ヶ浦道山吹城の大手に近い吉迫口からの鞆ヶ浦道が、最も初期の銀山街道とされる。

温泉津沖泊道

温泉津沖泊道坂根口は銀山の西側であり、港のある温泉津(ゆのつ)と結ぶ主要街道(温泉津沖泊道)への出入り口である。温泉津沖泊道は毛利元就によって整備されたと伝わる。どちらも日本海側への街道であり、日本海は冬になると荒れるため、江戸幕府の天領時代には瀬戸内海側の街道が整備された。(尾道道、笠岡道)

縄張り

主郭を中心に竪土塁山吹城の縄張り。主郭を中心に竪土塁、空堀、石垣が集中している。主郭の規模は南北52m、東西32m。南側の斜面には19本以上もの連続竪堀があり、尼子氏が築いたものと考えられる。(尼子氏家臣の本城常光が城主だった頃の構築と示唆されている)

北側の竪土塁は毛利氏によるものだとされる。主郭北側の虎口には石垣があり、周囲から城の存在が分かるようにした。なお、主郭の石垣が北側に置かれていることから、大森(町並み地区)に見せつける建造物があったと推測される。

「焔硝蔵、下屋敷、山吹八幡社山吹城跡の現地マップ。山吹城大手の周辺には「焔硝蔵、下屋敷、山吹八幡社、千京、魚店、上市場」といった地名があったり、戦国時代に創建された大満寺跡、大龍寺跡があることから、城下町が形成されていた事がわかる。

蔵泉寺口番所跡から登城開始

蔵泉寺口番所跡石見銀山公園近くの蔵泉寺口番所跡から、山吹城である要害山が見える。世界遺産保護のため、観光車両の進入はここまで。この先に続く山吹城へは歩きとなる。レンタサイクル、ベロタクシー(自転車タクシー)の利用もあるが、登城なので無意味だろう。

山吹城跡登山口の案内大手の近くで山吹城跡登山口の案内。山頂まで1.1kmのコースだが、急峻な階段が続くなどわりと健脚コースである。

大満寺跡大満寺跡。

大久保長安が休役所(銀山拠点)1562年に毛利元就が銀山を掌握すると、この休役所(銀山拠点)を置き、重臣である平佐就之、林就長、佐世元嘉に奉行を命じている。毛利氏の銀山支配は間接的なものであり、”朝廷に石見銀山を献上し、自身が代官を務めさせてもらうこと”を願い出ている。そのため銀の生産量は毛利氏にとって関係なく、あらかじめ決められている運上銀を徴収するにすぎなかった。朝廷には毎年銀100枚(16kgほど)が上納された。

毛利氏では銀の利益を主に軍資金として使っていた。(毛利氏が火薬の原料となる硝石を中国から購入していたことが、大友宗麟の書簡に記されている。)また、信仰する厳島神社へ石見銀を奉納している。

徳川の天領時代になると、初代銀山奉行となった大久保長安が休役所(銀山拠点)を奉行所として使い、山吹城を改修した。つまり、ここが山吹城の大手にあたる。目の前にあるのは石垣だと思うが、9月では雑草で埋もれてよく見えない。後に奉行所は大森(旧大森代官所跡・現・石見銀山資料館)に移転して代官所となった。なお、大久保長安は石見に6回ほど訪れただけで、石見銀山に常駐していたわけではない。

登城中の風景。

石段が見えてきたら、この先、心臓破りな急階段が延々と続く。

虎口に置かれた説明板主郭近くの虎口に置かれた説明板。夏は草が生い茂るので城郭が分かりにくい。

主郭

主郭山頂の主郭部。

山吹城主郭からの眺望その1:銀山地区の集落

石見銀山観光山吹城主郭要害山(山吹城)の頂上からみた石見銀山(銀山地区)の集落。江戸時代前期にかけての最盛期には、日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも言われる。

眺望その2:鞆の浦方面

鞆の浦方面石見銀山観光北西、鞆の浦方面を臨む。この方角には仁摩地方を守備する石見城がある。

眺望その3:仙ノ山

観光では石銀地区石見銀山観光南東に、石銀集落跡のある仙ノ山(標高537m)がみえる。観光では石銀地区に分類されているが、そこは戦国から江戸時代にかけて銀の採掘や製錬が盛んだった地区である。石見銀山最大の間歩(坑道)跡である大久保間歩がある。石見銀山では最初(戦国時代)、仙ノ山尾根の石銀地区一帯にある福石鉱床から開発が始められた。初期の頃は地表に自然銀が露出していたと考えられている。

鉱石の製錬である灰吹法は、1533年に博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が連れてきた宗丹と桂寿によって伝えられたという。この技術は一ノ坂、生野、鶴子、多田などの銀山に伝えられた。灰吹法により、1kgの銀鉱石の中に含まれている1gほどの銀を取り出したという。

眺望その4:矢滝城、降路坂、矢筈城

降路坂、矢筈城西方面に、矢滝城、降路坂、矢筈城が見える。標高638mの矢滝城は柵内から南西2.5kmの位置にあり、温泉津沖泊道(降路坂)を挟んで、479mの矢筈城が位置している。いずれも山吹城と同じく、石見銀山を防御するための要衝となっている。

降路坂(ごうろざか)(銀山街道-温泉津沖泊道の一部)お尻の割れ目を突き出したような降路坂(ごうろざか)(銀山街道-温泉津沖泊道の一部)。昔の人は銀を降路坂を通って沖泊の港まで運んだが、こう見ると極力低い峠として選んだのだろうな。

石見銀山観光矢滝城。矢滝城。

石見銀山観光矢筈城。矢筈城。

石見銀山の支配および防衛に使用された、山吹城、石見城、矢筈城、矢滝城は、石見銀山遺跡に登録されている。

下山

龍源寺間歩に向かう。石見銀山観光下山しながら龍源寺間歩に向かう。

登山口龍源寺間歩近くの登山口に降りてきた。この雰囲気、登る気失せるだろうな・・。

龍源寺間歩代官所直営の操業地龍源寺間歩は江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、代官所直営の操業地にある。銀山街道(温泉津沖泊道)を旅するなら、ここは素通りする。

坂根口番所跡から、銀山街道(温泉津沖泊道)へ

銀山街道(温泉津沖泊道)龍源寺間歩の入り口より少し先、舗装道が終わると、坂根口(さかねぐち)番所跡がある。蔵泉寺口番所跡と同じく、中心的な番所であったようだ。かつては建物があったが、現存していない。ここから銀山街道(温泉津沖泊道)だが、峠(標高430mの降路坂)を越えなければならない。銀山街道(温泉津沖泊道)は毛利元就によって整備されたと伝わる。

西本寺山門は、山吹城の城門?

山吹城の城門山吹城へ向かう道中、下河原吹屋跡の向かいに西本寺(さいほんじ)がある。山吹城が廃城されると、その追手門は龍昌寺の門として移築され、その後に西本寺に移築されたという話がある。しかし、大田市では江戸初期の新築と説明しており、現地説明板には「山吹城の城門」とは説明していない。

西本寺山門は17世紀初頭現地説明板にはこう説明している。「四脚門の西本寺山門は17世紀初頭の特徴を持つ。もともと曹洞宗龍昌寺にあったが、昭和32年に現在地に移転された。(代官墓所であった龍昌寺は廃寺となっている。)1604年に龍昌寺の伽藍造営という記録があるため、この門もそのときに新築されたと考えられている。大田市では最古級のものとされる。

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