パソ兄さんの高取城巡り~石垣に圧巻!日本三大山城(奈良県)
2013年7月15日に、日本三大山城の一つである高取城へ行って来た。奈良県で唯一、日本100名城に選ばれており、国指定史跡にもなっている。幕末までこれほどの規模の山城が存続したことは非常に珍しく、登城の甲斐があった。高取城巡りの後は、五百羅漢遊歩道、壺阪寺を経由して帰路につく。
土佐街道を散策しながら、高取城を目指す
高取城の築城年代は1332年(鎌倉幕府滅亡の1年前)というが、定かではない。南北朝時代は南大和で勢力を振るった越智(おち)氏の支城であった。※越智氏の本城は貝吹山城
高取城は標高584mの高取山にあり、山全体が山城と言える。城内は周囲3km、郭内は周囲30kmの規模であり、登城というよりも登山に近い。スタートは近鉄・壺阪山駅から。
戦国時代以降の高取城
織田信長の城郭破却令よって「大和の城は郡山城だけ」と決められたため、1580年に一旦廃城となる。しかし、信長の横死後、筒井順慶によって高取城を出城とし、郡山城とともに工事を進めた。(この頃に越智氏は滅亡している)。
秀吉の弟である豊臣秀長が100万石で郡山城に入城したときに、高取城は近世城郭として本格的に築かれる。(1585年、豊臣秀長家臣・本多氏による大改修)
本多氏以後、1640年、譜代大名の植村氏の居城となり、大改修が進められた。(2万5000石)。高取城は植村氏14代にわたって1868年の幕末まで続いた。廃城後、建造物は明治中期にほとんど取り壊されたが、石垣はほぼ原型を残している。
土佐街道を散策
高取城を目指して南東部へ進むが、まずは高取藩の城下町である土佐街道を通過する。ところでなぜ土佐なのか?「6世紀始め、大和朝廷の都造りの労役で土佐の国から召しだされた人々が、任務を終え帰郷するにも朝廷の援助がなく帰郷できなかった。そしてこの地に住み着き、土佐と名付けた」とされる。
植松氏が高取城入部するに伴い、城下町が発展。薬となる動植物類が豊富であったことから、薬の町としても知られる。高取藩主が他の藩主に薬を贈り、販路を拡大。また、置き薬商法の先駆けともなった。
「だらにすけ」の看板がぶら下がっているが、これは日本古来の民間薬。オウバクを主成分とする胃腸薬で、強い苦みがある。感じで書くと「陀羅尼助」で、比較的長いお経の陀羅尼を唱える際、眠気覚ましに使った事からそう呼ぶらしい。
土佐街道周辺景観住民協定があり、和風建築様式、平屋または2階建、瓦や外壁の色、屋外広告物や自販機の設置条件など、まちなみ作法が取り決められている。
土佐街道で見かけた看板。奈良産業大学が高取城CG再現プロジェクトを立ち上げている。
池田邸屋敷跡。この石碑につられ、うっかりルートを外れてここを右折してしまった。
早くも高取城に到達と思いきや、空き缶で造られた高取城であった。2012年、「缶の使用数が最も多い像」としてギネス世界記録に認定されたらしい。ルートを外れたことに気が付き、ここで引き返した。
児童公園に建つ、一部復元された松の門。高取城内にあった建築物のひとつであった。明治4年の廃藩置県で高取城が廃城となり、多くの建築物は取り壊されたが、幾つかは移築された。松の門は明治25年に土佐小学校の校門として移築されたが、昭和19年に一部が焼失し解体された。
民家を流れる小川や水車のある風景など、和める田舎道。
上子島沢砂防公園に到着。都市対策砂防事業により砂防・防災的な機能を持つ公園らしい。この豊富な石材は高取城のものだろうか?
上子島沢砂防公園を越えたあたりから、山の中へ入っていく雰囲気になる。壺阪山駅から2.2km歩いた地点だ。
宗泉寺への分岐点に到着。宗泉寺は植村氏の菩提寺で、植松家政の邸宅跡地に1698年創建された寺である。この分岐点には石段のある祠があり、聖天さんと呼ばれている。商売繁盛の守り本尊で信仰されているようだ。ここから、本格的な高取城ハイキングコースに突入する。
登城というより、登山の感覚になってくる。所々、空堀跡なんだろうかと思わせる地形がある。
宗泉寺への分岐点から20分ほど登ると、たびたび曲がりくねった石垣のコースになってくる。ここは「七曲り」という坂道で、敵が攻め寄せると坂道の木々をなぎ払って侵入を防いだとされる。山頂の本丸まではまだ先がある。
宇宙人か猿か?謎の猿石
さらに5分ほど登ると、高取城の名物ともいうべき、猿石に遭遇。ここはニノ門の外側で、明日香村栢森へ下る道筋の分岐点。
猿石の石材は花崗岩。高さ85cm、幅75cm、厚み65cm。元禄年間、明日香村平田で発掘され、高取城の石材として運ばれたが、この場所に置かれたようである。飛鳥時代の製作と考えられており、台石は古墳の石材の可能性があるらしい。明日香村平田から発掘された猿石はほかに4体あるが、高取城の猿石との関連性は分かっていない。なお、猿ではなく渡来人という説もある。
・・・哀愁ただようが、猿石を後にする。
高取城の門跡が続くコース
山城としては非常に珍しい水堀が残されている。この水堀のすぐ近くにニノ門跡がある。
壺阪山駅近くにある子嶋寺に、現存する高取城唯一の建造物である「ニノ門」が移築されているらしいが、訪問するのを忘れた。(下調べが甘かった・・。)
道中の児童公園にあった高取城の門配置図。本丸までにはまだ距離がある。児童公園で復元されていた松の門は、ニノ門と本丸の中間あたりにあったようだ。
山上に家臣の屋敷地を取り囲んで、城と城下町の2様相を山城とするので広大になったようだ。平穏な時代では山上は不便なため藩主ならびに家臣は山を降り、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。
幕末、天誅組の襲撃により、藩主屋敷は再び山上に移動したこともあるようだ。
国見櫓への分岐点。今回、国見櫓はパス。
矢場門。石垣は倒壊の恐れがあるのか、金網で覆われている。
矢場門から、またしばらく歩く。
児童公園を通過してから気になっていた松の門に到着。
松の門を後にする。
宇陀門。
千早門。
奈良のマチュピチュか!?高取城
いよいよ、大手門より先が主郭であり、山城としては非常に珍しい石垣のオンパレード。竹田城が日本のマチュピチュと呼ばれているようだが、「奈良のマチュピチュ」というならまさに高取城である。
ついに大手門に到着。1615年、大阪夏の陣の後すぐ、一国一城令によって戦国の山城はことごとく廃城になったが、高取城は重要視されたのか、存続され明治時代まで残った稀なケースである。
徳川家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、修繕に関しては幕府の許可をとらずとも行えたらしく、特別待遇である。
大手門より撮られた当時の写真が残されている。
大手門手前は三の丸であり、芋峠につながっているようだ。
大手門の石垣に圧倒される。
大手門。
大手門を後にする。
十三間多門。
高取城の「三の丸、二の丸、本丸」の配置図。登山で来る人は三の丸から入る。車で近くまで来る人は、壺坂口郭の方面から入城することになる。
二の丸
二の丸にでてきた。
案内板が見える。
日本三大山城説明板だった。日本三大山城には、高取城のほかに、美濃岩村城、備中松山城がある。日本三大山城サミットを開催して交流を深めているようだ。
標高584mの高取山の山頂に、戦国時代豊臣秀長が大和郡山城の詰の城として大修築を行い、堅牢な城として完成した。城下町から城まで比高が446mもあり、全国でも最も比高のある城である。
標高721mの最も高いところに建つ山城。城主遠山影任亡き後、その妻が采配した。(信長の叔母であり、おつやの方と呼ばれる)
標高430mに天守、二重櫓、土塀の一部が現存する。巨大な岩壁が防御となった難攻不落の城。
先客が一人いた。
二の丸にあった石垣。その1
その2。
本丸
本丸の石垣がもっとも巨大。
本丸付近の石垣。その1
その2。
本丸に到着。かなりの広さだ。
本丸からの眺望。
下山は壺坂寺方面へ向かう。井戸の跡地があり、地面から水が滲み出しているエリアだ。
あれ、本丸近くに駐車場があった。登山をしたくない方は、ここまで自動車で来るのか・・。
五百羅漢遊歩道~壺坂寺
この後、五百羅漢遊歩道を通り、壺坂寺を経由し、壺坂山駅へ向かう。まだコースは続いている。
八幡神社の横にある山道を進み、五百羅漢遊歩道へ向かう。
五百羅漢遊歩道では、冥救地蔵、奥の院三尊、五社大神、両所尊などが岩石に彫られている。遊歩道という割にはかなり傾斜面の山道だ。
これが五百羅漢。巨石に彫られた無数の石仏で、かなり風化が進んでいる。この辺りは壺阪寺の奥の院であり、香高山五百羅漢と呼ばれる。
壺阪寺
壺阪寺に到着。自然と調和した風景を眺め、拝観はパスした。なお、壺阪寺ハイキングコースがあったのに、誤って車道を延々と歩いてしまった。
西国三十三箇所第6版の札所になっている。本尊は十一面観音。境内の一画には盲人福祉施設の慈母園がある。
壺阪寺の正式寺号は南法華寺。古くからの霊験山寺である。703年、元興寺の僧「弁基」によって創建され、藤原京の創建時期にあたる。弁基がこの霊峰にひかれて山中に入り、水晶の壺の中に観世音菩薩を感得したので、その壺を坂の上に安置した。元正天皇が在位のときに勅願寺となり、南法華寺の寺号を受ける。
たびたびの火災により、現存するのは室町時代の再建である一部の礼堂と三重塔、八角円堂のみ。
再び、壺坂山駅
壺坂山駅を9:00にスタートして、13:30に戻ってきた。午後の後半戦は橿原神宮前駅に戻って、大和三山回遊コースと飛鳥を巡る。それにしても切符が新幹線の切符なみにデカい。
ちなみに東京都の「ピーポーくん」が鹿になっていることに笑えた。後日調べたら「ナポくん」というらしく、奈良県警察のマスコットキャラクターだという。