納得パソコン購入術!パソ兄さんは、DELL(デル)購入ガイド
DELLデスクトップPCレビューDELLノートパソコン・レビューDELL製品の特価キャンペーン
  1. HOME
  2. DELLパソコン・モバイル旅行記TOP
  3. 千葉県
  4. 市川市~弘法寺

国府台付近の遺跡巡り

市川城の比定地、弘法寺へ

国府台合戦で知られる国府台城は別名で市河城(市川城)と呼ばれることがあるが、市河城は別だという説もある。その場所が国府台城東側の真間山であり弘法寺(ぐほうじ)付近という。

千葉氏の宗家を滅ぼした馬加康胤の乱により、馬加康胤の子孫である下総千葉氏と、宗家「胤直」の弟である胤賢の子孫武蔵千葉氏とに分かれ、千葉氏の内紛が勃発した。武蔵千葉氏である胤賢の子、千葉実胤・自胤兄弟が1456年に市川合戦で籠城したのが市河城だという。この籠城では敗北し武蔵へと撤退。これで下総への帰還が叶わなくなった。ここの旅行記では、弘法寺が市河城という説を信じた上で探索した。

ちなみに市川と言う地名は、江戸川が坂東一の大きな川であり「一の川(いちのかわ)」と呼ばれたことに転ずる。また、荷を積んだ川舟が集まって市が開かれたから「市川」という説もある。更科日記や吾妻鏡には、華見川(けみがわ)や船橋、鬼越の地名が記載されているが、市川の地名は見当たらない。市川という地名は「義経記」で初めて登場したのではないかと言われる。つまり鎌倉時代の初期には市河という名称はあったようだ。

市河城跡と推定される、弘法寺(ぐほうじ)

長い石段で真間山を登ると仁王門がある。土塁や曲輪らしい雰囲気があり見晴らしも良い。確かに城跡と言われるとそんな気もする。お堂は明治時代に火災にあっているので現在のは再建である。

真間山弘法寺
弘法寺は見晴らしのいい崖の上に建つ。崖下は民家が広がるが、昔はそこまで入江がきていたらしい。
市川市真間(まま)という地名が今も使われているが、真間とは「崖」という意味であり、ここの地形が由来している。(上記写真は、2012年11月の訪問時。以下は2015年5月時点の写真)

学術的な発掘調査がされていないが、ここは6世紀後半につくられたとされる弘法寺古墳で、全長が約40mある(鐘撞き堂のある土塁)。なお、市川市には前方後円墳と思われる古墳が3基が残されており、「弘法寺の弘法寺古墳、東京医科歯科大学付属病院構内の法王塚古墳、里見公園の明戸古墳」がある。

真間山 弘法寺の由緒

弘法寺から見える手児奈霊堂。市河城だとするならここは物見台といった場所だろう。

弘法寺は奈良時代、手児奈の霊を供養するために行基が建立した「求法寺」が始まり。後の平安時代に弘法大師(空海)が真間山弘法寺とする。その後、天台宗に改宗する。日常上人(富木常忍)が日蓮宗に改宗して今日に至る。1457年、太田道灌が茶室を寄進。1695年には水戸光圀も来訪したらしく、茶室に遍覧亭という号を付けた。なお、紅葉の名所でもあったらしい。

手児奈霊堂と高橋虫麻呂高橋虫麻呂の歌(万葉集)。「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し、水汲ましけむ、手児名し、思ほゆ」
真間の井は亀井院に現存する井戸で、水際まで平らに踏みならして水を汲んでいたという手児奈のことが偲ばれてならない、と歌っている。下総国府に訪れた山部赤人も手児奈の伝承を聞いて歌を詠んでいる。

なお、弘法寺は一時期荒れていたらしい。もともと世襲の出来無い寺で、住職になるには檀家総代3人ほどの推薦と判が必要だという。日蓮宗で格式の高い本門寺にでるには、弘法寺の住職を経験しなくてはならない仕来りで、上がるのにもお金がかかる。そこで、弘法寺にはお金をかけないということで荒廃していたのだとか。
今はそういう仕来りや風習はないとのこと。。

鈴木長頼の涙か?涙石

伏姫桜と涙石
仁王門へ向かう石段で27段目にある石は、濡れ続けており、「涙石」と呼ばれる。(湧き水でも染み出しているのだろうか)。徳川幕府に無断で、日光東照宮造営用の石材を弘法寺に寄進したため、切腹を命じられた鈴木長頼の無念の涙という伝承がある。怖かぁないけど、踏む気にはなれんなあ~。

弘法寺の古墳

古墳市河城の土塁跡とみてよさそうだ。市河城じゃないとしても、砦として使われたのは確かだろう。もとは古墳らしいけど。

弘法寺の鐘撞き堂前方後円墳と言われる高台と、その上に建つ鐘撞き堂。

砲台跡

国府台砲兵の碑弘法寺古墳の向かい側にある砲台跡は戦時中に造られたもの。元からあった土塁を利用したのか、新たに盛り土をしたのか不明。側に「国府台砲兵の碑」が建つ。

伏姫桜

伏姫桜とよばれる枝垂桜弘法寺の名物といえば、「伏姫桜」とよばれる枝垂桜。開花の終わった2015年5月の様子。
伏姫というくらいだから、国府台合戦で敗退した里見を贔屓にしている地なんだろう。矢切という地名も里見の敗北を悔しがる意味合いがあるようだし。

木内ギャラリーにある堀切跡(推定)

木内ギャラリー木内ギャラリーから松戸街道に抜ける道は、堀切跡にみえる。松戸街道までが市川城の城郭だったのではないだろうか。

水戸街道和洋女子大学と千葉商科大学の間にある水戸街道は、いかにもというくらい堀切跡に思える。パソ兄さんの高校時代の通学路でもある(なつかし~)。戦国時代が終わり、水戸藩の参勤交代の道として整備されたと考えられる

となりの須和田遺跡

弘法寺から須和田遺跡左写真:高橋虫麻呂の歌が立つ弘法寺の台地先端。右写真:弘法寺から見た須和田遺跡。弘法寺が何らかの城であったなら、須和田遺跡の高台は出城か砦など何かに利用されたとも考えられる。

須和田公園須和田公園として整備されている、須和田遺跡。台地上にある忠霊殿の建っていたところには、太鼓塚という方墳だったらしいが、墳丘は削られ原型をとどめていない。隣の第二中では戦時中、高射砲陣地が置かれ、裏手には弾薬庫があった。このときにだいぶ山を削ったそうだ。須和田の空襲では弾薬庫を狙ったようだが、六所神社の東に落ちたという。

忠魂碑須和田公園にある忠魂碑。昭和18年に忠魂殿建設により太鼓塚を削平したようだ。

弥生時代後期初頭の住居須和田遺跡から検出された弥生時代後期初頭の住居を復元した家屋。・・って、平成9年に放火により焼失しており、コンクリートの囲みと柵のみがある。

下総総社跡(六所神社跡)

下総総社跡7世紀後半、下総国の国府は国府台に置かれたが、この下総総社跡(六所神社跡)の地が比定地とされている。※現在の国府台スポーツセンター

このあたりは府中と呼ばれていた。政務や儀式を執り行う国庁は、となりの野球場付近だという。国司は国内の有力神社を管理し、参拝する義務があったが、国内を回るのは大変であり、平安後期になって国内の神々を合祀した総社・六所神社を建てた。神社の遺構は発掘されていないが、区画を示す溝跡や参道跡は見つかっている。明治19年に軍用地となったため、六所神社は須和田に移転し、この地は「六所の森」として残った。

六所神社須和田にある、移転した現在の六所神社。国内の神々を合祀した総社のわりには殺風景な境内。

手児奈霊堂と亀井院

手児奈霊堂に行った手児奈霊堂の参道入口。手児奈霊堂は奥津城処(墓所)と伝わるところに建てられている。1501年に弘法寺の七世日与上人が手児奈霊堂を世に広めた。

手児奈は美人ゆえに多くの男性から求婚され、争いごとのもとになった。手児奈は人の心を騒がせてはならないと、真間の入江に入水したと伝わる。またはある国造の息子に嫁したが親同士の不和から海に流され、生まれ故郷の真間の浦辺に漂着したとも伝わる。さらに巫女であったとか~なにやらワケありの美女という人物のようだ。

亀井院亀井院と真間の井。高橋虫麻呂の歌では、「真間の井を見ると、ここに立って水をくんだという手児奈が偲ばれる」とあり、亀井院の井戸だとされている。

亀井院は1635年、弘法寺の11世日立上人が隠居寺として建立したもので瓶井坊(かめいぼう)と称した。湧き水が満ちている様子を示す呼び名だった。1696年、鈴木長頼は亡き父を瓶井坊に葬り、寺を修復し、以来、鈴木院(れいぼくいん)と呼んだ。長頼は万葉集に歌われた真間の井、手児奈の墓、継橋の所在を後世に継承するため、銘文を刻んだ石碑を建てた。長頼が没したあと、鈴木家が衰えたこともあり、亀井坊と改称された。大正5年、北原白秋が最も困窮した時代を、亀井院で一月半ほど生活している。

浮世絵で観る弘法寺

利根川東岸弌覧1868年、玉蘭斎貞秀によって描かれた利根川東岸弌覧という浮世絵。ここでいう利根川とは現在の江戸川のことである。現在の大門通りは味気ない商店街だが、江戸末期では真間川の流れる景勝地だったようだ。万葉集にも歌われた真間の継橋も描かれている。継橋は「真間の入り口」とも呼ばれた由緒ある場所だが、この時代では欄干はなく簡素な板橋がかかっているのみ。すでに万葉集が示すような雅さはなかったようだ。

首都圏編。旅の宿泊先を検索!人気の宿や観光スポットもチェック。

楽天トラベル株式会社

DELLパソコン・モバイル旅行記 TOP

Copyright© 納得パソコン購入術!パソ兄さん~ユーザー視点でパソコン製品を分析レビュー All Rights Reserved.