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今は外観復元した都市防災公園、テーマパーク城!

宇都宮氏の居城、宇都宮城

11世紀の平安時代後期、宇都宮氏の祖である藤原宗円によって宇都宮城が築かれたとされる。藤原宗円が前九年合戦で源頼義・義家に協力し、功績を上げたため下野国守護職を得ている。下野国一宮(宇都宮明神・二荒山神社)の社務職となったことから、下野宇都宮氏の発祥は神職者だったようだ。余談だが、藤原秀郷が宇都宮城を築城した説もあり、詳しいことは分かっていない。

後に藤原宗円の子孫が「戦国大名の宇都宮氏」として発展するが、藤原宗円の孫(藤原姓宇都宮氏3代)・宇都宮朝綱から苗字に宇都宮氏を名乗るようになった。下野一宮(いちのみや)が訛って「うつのみや」となったという説もある。1189年の奥州合戦では源頼朝に従い、重臣の紀清両党(益子氏と芳賀氏)を引き連れ奮戦した。宇都宮氏5代である宇都宮頼綱は歌人としても知られる。出家して蓮生(れんしょう)となったときのエピソードが百人一首のもとになったと言われている。8代貞綱は1281年の元寇(弘安の役)で総大将として九州に出陣している。

戦国時代末期、22代 宇都宮国綱の時代は、南は北条氏、北は日光山僧兵に狙われる状況となる。そこで防御に不向きな平城の宇都宮城から、改修した山城である多気城(たげじょう)に拠点を移した。1590年の小田原征伐後、豊臣秀吉から領土安堵(宇都宮仕置)されると、宇都宮城に拠点を戻している。

国綱まで約500年間、宇都宮氏による下野支配が続くが、1597年 豊臣秀吉によって突如改易され戦国大名宇都宮氏は終焉を迎えた。改易の理由として養子縁組トラブル、石高詐称など諸説あるが定かではない。

宇都宮氏の居城、宇都宮城復元された宇都宮城。都市防災公園として機能している。外観復元とは言うけれども、コンクリートの土塁に貫通したメインゲートなどぶっ飛んだ城郭に仕上がっている。

宇都宮氏以後の宇都宮城

宇都宮氏以後、城主は「浅野氏、蒲生氏、奥平氏、本多氏、松平氏、阿部氏、戸田氏」へと移り変わっていったが、主な改修者は本多正純である。現在の宇都宮市中心部の骨格は、このときに改修されたものとされる。江戸時代の宇都宮城は、東西南北1キロほどの規模だった。外観としては天守閣がなく石垣も一部だったようだ。

宇都宮城は徳川将軍の日光参詣(日光社参)で宿泊先として使われたため、城下町は大変賑わった。本丸の御成御殿では将軍が宿泊したとされている。二の丸の御殿は城主が居住し、公式行事を行なっていた。

本多正純の釣天井事件

宇都宮城といえば、本多正純の宇都宮釣天井事件が有名だが、むろん事実ではない。カラクリ仕掛けの暗殺天井など存在はしない。1622年、2代将軍・徳川秀忠が日光社参の帰りに宇都宮城を避け江戸に帰参し、その後、本多正純が突然改易され出羽横手への流罪となったことから生まれた創作である。実際、改易の理由は別の原因らしい。正純を失脚させるため土井利勝らの謀略とされる。また大谷寺にゆかりのある徳川家康 長女・亀姫が黒幕という噂もある。正純の父(本多正信)の代から家康の信頼が厚く、父や家康亡き後に疎まれたと考えられる。

宇都宮釣天井事件(1622年)とは、徳川家臣本多正純が、宇都宮城に釣天井を仕掛けて徳川秀忠(または家光)の暗殺を図った嫌疑の事件である。本多正純は、3代将軍を徳川忠長(駿河大納言 / 幼名:国松)にするべく画策していた。徳川秀忠(または家光)が日光参詣から帰るときを狙ったとされる。

実際のところ、これは本多正純は流罪先の横手城で生涯を終えたという。本多正純の監視役を務めたのは須賀川城攻防戦で実質大将を務めた須田盛秀で、このころは佐竹氏家臣で横手城の城代だった。

ちなみに宇都宮城址公園のビジターセンターでは、「徳川秀忠の暗殺計画」ではなく、徳川家光と修正されていた。徳川家光は、「宇都宮釣天井事件の難を免れたのは大山寺の不動明王のご加護」としたらしく、大山寺の参拝にきているらしい。

江戸時代 宇都宮城 城下町復元図

宇都宮城は戊辰戦争(明治元年・1868年の宇都宮戦争)によって、2度の攻城戦が行われた。そのため城下町もろとも大半の建物が焼失した。その後、城郭一帯が民間に払い下げとなったため、城郭の面影は徐々に消えていったという。

宇都宮城城下町復元図江戸時代 宇都宮城 城下町復元図。

現在の地図と重ね合わせた。

主郭部。

破壊された宇都宮城城郭と現在の主な道路位置。これはこれは、見事なまでに回復不可能なレベル。

戦後の1946年、戦災復興都市計画の戦災都市に宇都宮市が指定されたことにより市街地へと変貌していった。残っていた西館濠(市役所近く)・地蔵濠(宇都宮線近くの平成通り)などの内堀も埋められ、ほとんどの城跡は消滅した。そして関東七名城の1つだった宇都宮城はほぼ跡形もなくなってしまった。

宇都宮城址公園を散策

1958年に宇都宮市が御本丸公園として整備、宇都宮城跡の発掘調査が進められてきた。2002年は宇都宮城址公園に改称し、翌年から石垣・土塁・堀など江戸時代中期の外観復元する工事が始まった。そして2007年に外観復元した宇都宮城址公園が開園した。

宇都宮城址公園宇都宮城址公園のMAP。コの字型の土塁とそれに沿った水堀。そして芝生広場。一見、どこをどう外観復元したのか理解しにくい。

一部本丸の復元、中心市街地の活性化、防災拠点の3柱として整備したとのことだが、宇都宮城址公園の整備費は、約32.7億円(平成13年度から平成18年度まで)だそうだ。内訳:国庫補助金9億円、 市費22.9億円、 宇都宮城復元基金の積立金 8千万円。

城址公園本丸を公園化発掘調査で確認された堀と土塁跡。(公園内)。本丸を公園化したとのことだが、実際訪問してみると城郭が非常にわかりにくい。

清明台、富士見櫓、北櫓、辰巳櫓そこで城下町復元図で確認してみると、北の清水門と南の伊賀門が入る形で片側だけ切り取った復元をしている。周囲全般が土塁で囲まれているはずの本丸が、公園ではコの字の土塁になっていたわけだ。ものすごく中途半端である。

かつて土塁の上には四方に「清明台、富士見櫓、北櫓、辰巳櫓」が配置されていたが、現在は清明台と富士見櫓が復元されている。さらに今後は本丸御成御殿、清水門、伊賀門を外観復元する計画があるらしい。

城本丸将軍家御泊城ノ節「宇都宮城本丸将軍家御泊城ノ節建物ノ図」による本丸の絵図

清明台と清水門

清明台と清水門絵図では北に位置する清明台と清水門がこう配置されている。

バンバ通りを南下二荒山神社からバンバ通りを南下していくと、清明台のある土塁に突き当たる。

清水門は本丸正面の出入り口清水門跡の説明板。清水門は本丸正面の出入り口であり、日光社参のときには徳川将軍もこの門を通って御成御殿に向かった。東側の土塁がすっぽり抜け落ちているから、どこに門を設けたのか最初は想像すらできなかった。

御殿完全に囲っているはずの土塁が復元半分だけなのでコの字。本丸の断面図とでも言おうか。土塁に上がるエレベーターが丸見えなのがゲンナリする。ちなみに犬の立ち入りは厳禁となっている。ここにはさぞかし立派な御殿が建てられていたことだろう。

清明台本丸北西部に位置する清明台。江戸時代の絵図には2階建て瓦葺で描かれている。清明台のあった土塁は他の部分よりも高いため、清明台が天守閣の役割だったと考えられている。

富士見櫓

富士見櫓は本丸の南西部にあった。清明台と同じく2階建ての瓦葺き。その名の通り富士山が眺められたと考えられる。

堀跡

復元された堀は17世紀前半に掘られたもの清明台の直下にある水堀。復元された堀は17世紀前半に掘られたものと考えられている。古い文献では幅21.8mほどと記されているが、発掘調査では最大幅27mあったという。深さは最大で7mとのこと。

富士見櫓の下辺り(南西)こちらは富士見櫓の下辺り(南西)に設けられた堀跡。

堀当時は空堀ではなく水堀。

西側(市役所側)の水堀。

みどりの小径宇都宮市役所につながる「みどりの小径」。当時このような小径はなかったが、ちょうど二の丸の位置になる。ここには二の丸土塁・堀跡があったようだ。説明板によれば、二の丸は城主の御殿があった場所で日常生活のほか政務が行われていた。堀の幅ははっきりしなかったが、深さは6mほどあったという。

西の土塁はげんなりポイント

西の土塁中央が貫通このように本丸御殿を囲う土塁は西側の半分だけしかないコの字だが、さらに悲しいことに西の土塁中央が貫通している。

市役所に一直線西の土塁中央の貫通メインゲート。市役所に一直線だから貫通させたのだろうか。

ジオラマで見る宇都宮城

定岡明義氏が制作した宇都宮城ジオラマ陽西中学校校長の定岡明義氏が制作した宇都宮城ジオラマ。どういうわけか、旧篠原家住宅の蔵の中に保管されていたもの。ジオラマでは手前が南側である。

西側西側からの眺望。

清水門北側から。北櫓、清水門、清明台のジオラマ。

御成御殿御成御殿。

宇都宮市の都市散策

田川田川が宇都宮城の東を守る天然の要害となっている。

宝蔵寺と、およりの鐘

およりの鐘宝蔵寺が所蔵する「およりの鐘」が鐘楼門にある。二荒山神社に納められるなどの経緯の後、1944年に宝蔵寺へ移されている。鋳造年代は不明だが、宇都宮氏の家紋「三つ巴」が付いているので宇都宮氏の寄進と考えられる。(第8代宇都宮氏当主の宇都宮貞綱の寄進と伝わる)。江戸時代には夕暮れになると、時を告げる鐘として宇都宮城下で鳴らされていた。(およりとは、お休みになるという意味)。もともとは東勝寺(宇都宮氏の菩提寺のひとつ)にあったものだが、1597年の豊臣秀吉による改易によって宇都宮氏が滅亡し廃寺となった

興禅寺

貞綱は興禅寺を開基宇都宮貞綱(1264?~1316)とその子・公綱(1302~1356)の墓がある興禅寺。

鎌倉幕府御家人で8代宇都宮城主・貞綱は興禅寺を開基した人物。法名は蓮昇、法号は興禅寺。 元寇の弘安の役(1281)では16歳にして六波羅派遣軍の大将軍として九州へ出陣している。(しかし到着するまでに元軍が壊滅しているので戦闘は無し)。巨大な鉄製塔婆、清巌寺鉄塔婆(せいがんじてつとうば)を宇都宮家菩提寺の東勝寺に奉納したことで知られる。1597年、宇都宮氏が改易され東勝寺が廃寺となったため清巌寺が所蔵している。日本最古の鉄製塔婆とされる。

9代目の公綱(きんつな)は鎌倉末期~南北朝時代に活躍した人物。鎌倉幕府の北条高時の命で、1333年、天王寺にて楠木正成と戦っている。この戦いでは宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇が知られる。北朝に従った時期もあったが、足利尊氏が九州に落ちのびた際に南朝へ移り中心勢力となった。

宇都宮 二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)

日光の二荒山神社は、「ふたらさんじんじゃ」と読むが、宇都宮では「ふたあらやまじんじゃ」と読む。下野国一宮であり、一宮(いちのみや)から訛って宇都宮という地名になった説がある。社伝では、毛野国が下野国と上野国に分けられた際、豊城入彦命を下野国の氏神として祀ったことに始まる。

本社

宇都宮 二荒山神社宇都宮初代当主で宇都宮城を築城した藤原宗円が宮司を務めたとされるが、宇都宮氏とは縁が深く、中興の祖である17代当主・宇都宮成綱によって建て替えられている。

再建された二荒山神社小田原北条氏の宇都宮侵攻や、戊辰戦争である宇都宮戦争などの戦火により何度か焼失しており、現在の社殿は1877年に、明治政府によって再建されたものである(仮社殿)。

下の宮

二荒山神社 下の宮少し南下したところに二荒山神社 下の宮がある。二荒山神社発祥の地で、仁徳天皇の時代、下野国造であった奈良別王が国社としてこの地に建立した。後世の838年に、峰続きの臼ケ峰に本社を造営したため、この地を下の宮とした。現在、峰続きは道路で分断されてしまっている。

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