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武田軍の猛攻に耐えた滝山城!桜シーズンの登城

2014年4月5日、滝山城跡さくらまつりに合わせて滝山城を登城した。東京都八王子市にあり、2012年に一度訪問したので今回で2度目となる。秋川と多摩川を要害にした連郭式山城で、関東の城のなかではかなり大規模な縄張りを持つ。現在は滝山自然公園として整備され、桜の名所および国指定史跡になっている。

滝山城の遠景写真1521年、山内上杉氏の重臣で高月城城主「大石定重」が滝山城を築城し本拠移転。その子・大石定久が引き継ぐ。しかし、1546年の河越夜戦で北条氏康に大敗した大石定久は、北条氏照を養子に迎える形で北条氏の軍門に下ることになる。そして滝山城城主となった北条氏照は1558年に大改修を行っている。

1569年、武田信玄軍が小田原城への進撃の際、道中の滝山城を攻めた。そして武田軍別働隊(小山田信茂隊)は小仏峠を越えて進撃してきた。北条氏照は落城寸前にまで追い込まれたが、寡兵で撃退に成功する。この戦いで滝山城の弱点を痛感したからか、より堅固な八王子城を築城することに至ったと言われている。

滝山城下には、横山、八日、八幡の三宿が市として開かれていた。この三宿も八王子城へ移転したが、八王子城の落城により、現在の市内に移って市の中心として発展した。そのため「元八王子」と呼ばれる。

模型:滝山城と八王子城の高低差

滝山城(左)と八王子城(右)を立体的に比較
なお、八王子城跡ガイダンス施設では、滝山城(左)と八王子城(右)を立体的に比較できる模型が展示されている。これを見ると、北条氏照がより標高の高い山を選んだことが分かる。八王子城への移転年は定かではないが1580年代と推測されている。

滝山城へ向かう!

秋川や合流する多摩川が滝山城の天然要害
拝島駅から徒歩30分ほどで秋川に差し掛かった。滝山城が遠景で見えるが、橋があるところまで迂回しながら進む。この秋川や合流する多摩川が滝山城の天然要害となっていた。しばらく川岸を歩いていると、「滝山合戦記 北条氏照VS武田信玄」の案内板が置かれているのを発見する。

滝山合戦~北条氏照VS武田信玄

北条氏照VS武田信玄
案内板では、武田軍本隊と別働隊(小山田信茂隊)が滝山城に進撃する様子を解説している。

1569年、武田信玄は北条氏の拠点である小田原城を目指して進撃を開始。その途中、北条氏の支城である滝山城を攻撃するため、拝島大師のあたり(拝島大日堂の森)に本陣を構えた。武田勢は周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸城にしたと伝わっている。一方、武田軍別働隊は小仏峠を越えて滝山城の背後を攻める。武田軍別働隊は迎撃に出た北条軍を一蹴して兵を進める。(廿里古戦場にて)
武田軍、合わせて約3万人だったという。

滝山城主(後の八王子城・城主)の北条氏照は籠城戦で対峙する。甲陽軍鑑によると氏照自ら旗を振って城兵を指揮したという。武田勝頼が北条方の侍大将「師岡山城」と一騎打ちで3度槍を交えたと伝えられている。上杉謙信の書状によれば、氏照は古甲州道沿いの城下「宿三口」へ兵を繰り出して戦ったことが記されている。

3日間の攻防戦の後、武田軍は諦めて兵を引き上げ小田原城に進撃を向けた。滝山城は天然の地形を活かして武田の大軍さえも拒む城であったと言われる。

八王子市の城館八王子市の城館分布図

多摩川沿いの城道

滝山城城郭マップ
今回は多摩川沿いから本丸につながる城道を通って進入する。川沿いのテニスコートまで進んでしまうと、坂下の民家を通らないと城道に入ることができなくなる。手前で道路に出ないと長距離を引き返さなくてはならないの要注意である。

滝山城本丸につながる城道
以前、2012年に登城したとき、私有地と気付かず3歩ほど立ち入ったところで、民家のオヤジと思われる人物にかなり威圧的に怒鳴られた。勝手に立ち入る者が多いという印象だった。記憶では車の写っている家のオヤジで、民家に差し掛かるまで細くて長い道が続くため、私有地とは気が付きにくい。この城道を登っているときに、しばらく忘れていたその嫌な出来事を思い出した。

本丸へ向かう

滝山自然公園石畳
城道は石畳の急坂となり、定番の枡形道である。標高約160mの丘に築城された城である。

滝山城の金毘羅神社
長い石階段を登って本丸に到着すると金毘羅神社が目に入る。

滝山自然公園展望台
本丸の展望エリア。多摩川を挟んで北東に位置する拝島の街が見渡せる。滝山城下には横山・八日・八幡の三宿があり城下町となっていた。本拠地を八王子城に移転してからは三宿も移ったが、八王子城が落城してからは元に戻ってきて発展したという。それが元八王子という地名の所以らしい。

滝山城の石碑
本丸内で一段下がった平場に滝山城跡の石碑が建つ。「滝山城は、1521年に大石定重が築城し定久が受け継ぐ。1536年北条氏康、1552年上杉謙信、1569年武田信玄からの猛攻を受けている。最終的には北条氏照の居城となり、この城の城下町は八王子市の発祥地である」という内容が彫られている。

霞神社
本丸にある霞神社と井戸。

滝山城の曳橋を渡る
本丸と中の丸をつなぐ曳橋を渡り、桜まつり会場である中の丸へ進む。橋下の道は大河ドラマ「天地人」のロケ地にもなった。(確か春日山城という設定)

中の丸で滝山城跡さくらまつりを開催

中の丸ではさくらまつりが開催されており、ちょうどこの時はなぜか沖縄舞踊が披露されていた。トイレが行列をなしているため、くれぐれもビールの飲み過ぎには注意したほうが良さそうだ。

滝山城跡さくらまつりは中の丸にて
なお、滝山城付近一帯は桜の名所として知られ、ソメイヨシノ、ヤマザクラが約5000本が植えられている。

乗馬体験中の丸南西側の腰曲輪では乗馬体験が行われていた。

滝山城は入り組んだ形中の丸の南側に広がる空堀。規模が写真ではなかなか伝わりにくいのが残念である。滝山城は入り組んだ形で空堀が多々見られる。

行き止まりの曲輪本丸の道から多数の空堀が楽しめる。堀を挟んで左側の郭(撮影ポイント付近)は、「行き止まりの曲輪」で両端が狭い土橋になっている。ふくろのねずみという意味があるらしく、馬出しからの恰好なターゲットポイントになっている。

尾根道(古峰の道)を通り、北東方面へ進むコース

二の丸滝山城で防御にすぐれているのが二の丸であり、その3箇所の出入口にはこのような馬出し(出撃用の郭)を備えている。二の丸を死守することで、本丸や二の丸が守れると考えたようだ。滝山合戦では北条氏照が二の丸櫓門の上で奮戦したと軍記物に記述されている。

滝山城の大馬出し大勢の城兵が守り進路を抑えている大馬出しの郭。滝山城の猛者たちがここで待機していたと思うと身震いする。(※戦局などを勝手に想像する、マニア固有の空想遊びってやつです)

大馬出し近辺の様子。

千畳敷千畳敷(せんじょうじき)の曲輪。

桜の名所の大池大池址のくぼみには桜の木が多く植わっており、ここで昼食を摂る人々が多い。満開と公表されていたが思ったよりあっさりした満開ぶりであった。街の桜と比べると高い位置に花が付いているため、ボリューム感が伝わりにくいのだろう。

大池址の桜古峰の道とそこから見下ろした大池址。

滝山城の弱点尾根道が続くこのあたりは滝山城の弱点であったため、曳橋が置かれ、橋の下は大池の土手とつながっていた。

空堀曳橋下の空堀の様子。

滝山城-古峰の道尾根道(古峰の道)を北東方面へ進んでいくと、更に開けた環境になってくる。途中で分岐点に遭遇するが、南下すれば少林寺および滝山街道(411号線)に出る。多くの登城者は滝山街道へ出るが、今回はまっすぐ(東方面/東京環状16号線方面)に進む。

滝山城跡入り口
熊野古道のような杉並木が続き、アスファルトの小道を進み、16号線に出る。

多摩川に架かる拝島橋
昭島駅に向かって歩く。多摩川に架かる拝島橋からの滝山城遠景。

因みに滝山公園では本来、この地の植生はシラカシが中心であったが、現在では薪炭や建材のために植林されたコナラや杉などの林になっており、二次林と言われる。

武田信玄が布陣したという拝島大師

秋川にあった案内板「滝山合戦記 北条氏照VS武田信玄」では、拝島大師に武田軍が布陣したというので、拝島大師こと本覚院(正式名称)に立ち寄ることにした。

拝島大師山門
スカスカな印象だが、かなり高さのある山門である。拝島大師では比叡山延暦寺の元三大師を本尊として祀っている。織田信長による比叡山焼き討ちの際、ここに大師像を持ちだしたという。創建年は1578年(天正6年) と伝わる。

武田信玄は大日堂に陣を置いた
拝島大師境内の様子。鐘楼や八角堂などがり、桜が見事であった。ただし、平地なので本当にここで武田信玄が陣を構えたのか疑問に思った。なお、拝島大師のすぐ隣には大日堂および日吉神社があり、駐車場を混同して使われていることに悩まされているようだった。(大きく看板が掲げられていた)

地元の老舗、「御菓子司 元木屋」のHPによると、「武田信玄は大日堂に陣を置いた」というので、すぐ隣だし立ち寄ることにした。

大日堂境域および日吉神社境域

大日堂の寺伝では952年に創建されたという。戦国期、滝山城の築城時では鬼門封じとして現在地に移築され、天正年間(1573~92ごろ)には北条氏照重臣・石川土佐守が娘「おねい」の眼病平癒祈願のために堂宇を再建。大日八坊と呼ばれる八つの寺院もその時に建立された。※拝島大師( 正式名 拝島山 本覚院 )も大日八坊の一つだという。

大日堂仁王門

拝島公園
遊具のある普通の公園内(拝島公園)に、市指定有形文化財の大日堂仁王門が建つ。門の掲額「密厳浄土寺」の書は由緒あるものらしく、そのことを蜀山人が調布日記で記している。※蜀山人(大田 南畝:おおた なんぽ)は天明期の文人・狂歌師。

拝島のフジ

樹齢800年千歳のふじ
大日堂仁王門の斜め後ろに「拝島のフジ」がある。樹齢800年と言われ、室町時代末期にこの地にあった明王院境内に自生していたものらしい。明王院廃寺後、藤だけが残り「千歳のふじ」と呼ばれ現在に至る。
滝山合戦のときにはすでに存在していたと思うと、感慨深いものがある。

拝島山密巌浄土寺大日堂

大日堂
現在のように石段の上に大日堂が置かれたのは1732年のこと。もともとは石段下にあったという。
大日堂石段の脇に「おねいの井戸」と呼ばれる小さな井戸が残されており、この清泉で洗眼したところ眼病が平癒したという。

拝島山密巌浄土寺大日堂-滝山城の鬼門除け
高台に上り、大日堂で参拝。天台宗であり、正式には拝島山密巌浄土寺大日堂という。本尊は大日如来。

武田信玄が滝山合戦で布陣
大日堂の高台に上れば滝山城の遠景が確認できる。確かにこの地形であれば、武田信玄が滝山合戦で布陣しても不思議ではない。

おねいの井戸

おねいの井戸
拝島町にある有名な井戸のひとつ。北条氏照の家臣であった石川土佐守が大日堂に娘「おねい」の眼病治癒を祈り、さらにこの井戸の水で眼を洗ったところ良くなったと言い伝えられている。

おねいの井戸の水はまだある
井戸の水はまだ枯れていないようだ。

日吉神社

山王大権現の称号
大日堂と並列して同じ高台に建つのが、江戸時代には山王大権現の称号を持っていた日吉神社。天正年間の大日堂再興の折に守護社として建立されたという。明治以降は神仏分離によって大日堂の管轄を離れ、社号を日吉神社と改めた。境内には豊富な湧水源があるようだ。

柵で囲われた土塁は滝山城の砦か
高台に建つ日吉神社の側には柵で囲われた土塁が残されている。鬼門封じだけでなく、滝山城の砦でもあったのではないかと思う。

このあと、最寄り駅の昭島駅に到着し、旅は終了。なお、昭島にはヒューレットパッカードの昭島工場があり、工場見学もレポートしている(パソ兄さんが、日本HPの東京・昭島工場を見学)。

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