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城郭用語メモ~パソ兄さんの史跡めぐり用

城郭の楽しみ方は、それぞれ攻防に備えた城郭(地形)を観察することです。城ごとによって個性があり、むかしの武人の知恵を感じ取りながら、自ら城攻めをする気分で登城します。かつて合戦が行われた城であれば、なおさら空想登城が楽しくなってきます。城址巡りレポートでは城郭用語が出てくるので、ここでまとめてあります。

防塁

土塁(どるい)

深大寺の土塁敵の侵攻を防御するために、土を高く盛った堤防状の土手を「土塁」という。または「土居」とも呼ぶ。曲輪を囲うような形で配置されることが多い。※写真は深大寺城。

庭園跡の石積土塁石積土塁。土塁の上に石を並べたもの。石積みは防衛上のためではなく美観目的であることが窺える。写真は鉢形城の庭園跡の石積土塁(復元)。

矢倉台(やぐらだい)

矢倉土塁が広い場合は「矢倉台」と呼ばれる。大概、高台の建築物である矢倉が建ち、鉄砲や弓矢を放つのに使われる。
※写真は三春城。

横矢

敵の横側面から矢や鉄砲を撃てられるように、曲げられて造られた土塁。「折」「隅櫓」「出枡形」などがある。

切岸(きりぎし)

深大寺の土塁切岸は山城に多く、切土により山腹を削り落としたもので崖状になった地形。敵が容易に上ることはできないし、視界を遮ることができる。城址ではやや斜めになった切岸が見られるが、当時は垂直に造られた。※写真は万喜城(万木城)の切岸。

石塁

土の防塁である土塁に対して、岩石で造られた防塁が石塁。外側に石を積む石垣と違って、内も外も石積みになっている。

野面積み(石垣の工法の一つ)

石垣の工法として野面積みがある。自然石を加工せず、統一性のない形でそのまま積み上げる工法で排水性に優れる。戦国時代には本格的に用いられた。穴太衆が手掛けた野面積みの石垣を穴太積み(あのうづみ)と呼んだ。

野面積みの画像自然石のままなので、隙間に小石を詰めながら積み重ねていく工法が野面積み

曲輪、郭(くるわ)

八王子城の近藤曲輪曲輪とは城の縄張りにおいて「堀や土塁などによって区画されている広場」のこと。曲輪の上では土塁や柵列(さくれつ)で囲まれる場合がある。基本的には次の3つの曲輪が主要となる。中枢であり最重要地が本丸(一郭)で、二の丸、三の丸と続く。または一郭、二郭、三郭~という表現もある。なお、城によっては曲輪に固有名が付く場合がある。(八王子城では、小宮曲輪、松木曲輪、アシダ曲輪、近藤曲輪など) ※写真は八王子城の近藤曲輪

腰曲輪

帯曲輪山腹に造られている曲輪であり、長い曲輪の場合は「帯状曲輪」または帯曲輪と呼ばれる。
※写真は猪苗代城の帯曲輪。撮影ポジションから一段下がった曲輪が帯曲輪であり、主郭を取り囲んでいる。

馬出し

滝山城の馬出し虎口前に造られた区画(曲輪)であり、攻撃に備えた設備。堅固な城によく見られる曲輪。
馬出し曲輪を占拠しなくては、二の丸の侵入はできない。基本的に二の丸を制圧されたら落城は確実。
※城郭マップは、滝山城の現地看板。

出丸

倉城の出丸独立した曲輪であり、内郭の防衛を補強する役割や、物見に活用される。本城から張り出した形に築かれ、外郭で扱われる場合が多い。また小城規模であれば「出城」とも呼ばれる。※写真は佐倉城の出丸。

水の手曲輪

用水池や井戸のある曲輪で、井戸曲輪とも言われる。つまり水源地となる曲輪。※写真のは岩殿城。左が馬や兵士の水浴に使った馬洗池。右が飲料水に使った亀ヶ池。

石垣山城の井戸曲輪石垣山城の井戸曲輪。小田原合戦のときに淀殿が化粧に使ったとされる。「淀君化粧井戸」とか、形状から「さざえの井戸」とも呼ばれる。野面積みの石垣が見応えある。

総曲輪(総構え)

小田原城総構え城下町一帯も含めて、堀・石垣・土塁などで外周に防衛ラインを築いたもの。総構え、惣構えとも言う。1590年の小田原攻めでは、小田原城の後北条氏は総構えで籠城戦に持ち込んだ。※写真: 秀吉が陣を敷いた石垣山城から、小田原城の惣構えを眺めた風景。外堀がほぼ埋められている現在では確認にしにくいが、全周で9km近くある。惣構えは小田原城が最初と言われ、北条氏滅亡後は、江戸城などの城下町で惣構の城郭が採用されている。

櫓(矢倉)~物見台

物見台もともとは武器の貯蔵庫であるが、物見や防衛拠点となる櫓へと変遷した。物見台(物見櫓)。 ※写真は新田金山城

飛山城の物見櫓飛山城の物見櫓。外堀に突出する形でいくつか造られている。平坦地で防御の弱いところは、見張りを強化していることがうかがえる。

虎口(こぐち)

本佐倉城の虎口曲輪の出入口を虎口という(城の出入口のことを虎口という場合もある)。虎口を小口と書く場合もある。狭い道とか狭い入り口という意味があり、防御上の都合で城の出入口は大きくできない。

道が直角に曲がっている場合は「桝型虎口」と呼ぶ。ほかのバリエーションには直虎口、食い違い虎口、坂虎口、堀虎口などもある。虎口には木戸、門などが造られる。

大手口

新田金山城の大手虎口実城の出入り口であり、正門の出入口といったところ。石垣を高く積んで敵を威嚇したり、城の威厳を示す役割もある。虎口と合わせて「大手虎口」とも呼ばれるときもある。 ※写真は新田金山城の大手虎口(復元)

搦手口(からめてぐち)

搦手口城の裏出入口であり、城の脱出路にもなる。※写真は臼井城の搦手口。

狼煙台または鐘撞堂

戦国時代、城や砦間での情報伝達に狼煙や旗、吹流を使っていた。狼煙にはオオカミの糞を種火にしており、煙が真っ直ぐに上がるため風に強いと伝わっている。なお、夜間や雨天時には鐘や法螺貝を使った。

空堀(からぼり)

佐倉城の空堀土を掘り起こした縦長で大きな堀(穴または溝)で、敵の侵入を阻む。巨大な落とし穴といった地形であり、掘り起こしただけの穴を「空堀」という。※写真は佐倉城の空堀。

馬出し空堀

馬出し空堀馬出し空堀は馬の出入りを敵に知られないために土手となっている。※佐倉城址における復元。

障子堀

障子堀バリエーションとして障子状の仕切り(土塁)のある堀を「障子堀」。小田原北条氏が得意とする城郭のひとつ。※写真は小金城(大谷口城)の障子堀だが、復元すら風化しているので確認できない。

畝堀(うねぼり)

畝堀一定間隔で連続した障子がある堀を「畝堀」という。※写真は小金城(大谷口城)の畝堀だが、復元すら風化しているので確認できない。

薬研堀(やげんぼり)

北生実城の薬研堀跡戦国期を象徴する、底がV字形の尖った断面の場合は薬研堀。薬草を粉状にする器具、「薬研」に似ているので、そう呼ばれる。
平和な江戸時代になると、浅くて広いU字型の堀に改修される場合が多い。※写真は北生実城の薬研堀跡と説明板。

縦堀(または竪堀)

竪堀山城の場合、山の上から下に向かって掘られている空堀のこと。自然に出きている谷間を利用した縦堀などもある。縦堀の規模は様々。※写真は武蔵 松山城の竪堀。

横堀

曲輪の縁に沿った堀は横堀という。

堀切

新田金山城の堀切尾根続きや峰続きの道を、堀切ることで通行できなくした地形が堀切。※写真は新田金山城の堀切。人工的に岩盤を削ったもの。

水掘

水堀跡-小田原城と江戸城堀に水が張られている場合は「水掘」という。毛抜堀(U字形の断面)や箱堀( 箱形で底が平坦な断面)では水掘として多用されている。

水堀跡白河小峰城の水堀。

切り通し

土気城の切り通し「クラン坂」山や丘などを掘削し、通行できるようにした道。防衛目的の場合は狭く造られており、大軍の侵攻を阻んだり封鎖を容易に行える。鎌倉七口の切り通しが有名。トンネル掘削技術が発達していなかった時代に、地形的難所に道を通したもの。 ※写真は土気城の切り通し「クラン坂」。

土橋(どばし)

土橋とは解説堀切の真ん中に通された土の橋(空堀を横断する通路)。または堀を掘り起こした際に土手として残した部分。直角に曲がっていたり、カーブしている土橋もある。敵を大軍で通過させないための工夫。 ※写真は飛山城

城内の建物

江戸期の建物であれば、学校や寺に移築されて保存されている場合もある。または、復元されて現地に建っている場合もある。

上田城建物の櫓(写真は上田城の南櫓)。城郭で遠くの敵の様子をうかがったり、射撃のために城壁などの上に設けた高い建物。

曳橋(引き橋)

曳橋とは曳橋(引き橋)とは堀の上を渡るための木橋。戦闘になれば引いて取り外し、敵の侵入を阻止することができる。本来は壊すことも想定しているため粗末な作りであり、頑丈に造る橋ではない。しかし、現在の想定復元した引橋は安全のため頑丈に造られている。(そりゃそうだ)。

礎石

礎石主柱の建つ位置に敷かれる礎石。佐倉城では旧陸軍の兵舎で再利用された。

城門門にはいくつかのタイプがある。

塀重門(へいじゅうもん)

塀重門塀重門は土塁に割って入って建てられている。 ※飛山城の復元もの。

冠木門(かぶきもん)

冠木門冠木門(復元)。岩殿城と八王子城のもの。

棟門(むなもん)

佐倉城の唯一現存する建物棟門棟門で、佐倉城の唯一現存する建物。酒造家から甚大寺と移築された経緯のあと、城内に戻ってきた。出丸門として建っているが、実際はどこの門だか不明とのこと。

薬医門(やくいもん)

水戸城の現存する薬医門(やくいもん)名称の起源は、もともとは矢を食い止める「矢食い」から転じたとも、医者の門として使われたからとも言われるが、明らかでない。本来、武家屋敷の正門に用いられるが、扉をなくして医者の門として使われたという。※水戸城の現存する唯一の建造物、薬医門。城門の風格から橋詰門(本丸の表門)と考えられている。

櫓門

櫓門を復元したものが、鉢形城歴史館で展示2階に屋根を持たない櫓門を復元したものが、鉢形城歴史館で展示されている。この形式の櫓や櫓門は現存していないが、毛利家伝来の小田原陣仕寄陣取図には小田原城の櫓としていくつも描かれている。一遍聖絵の武家屋敷絵でも同様の櫓門が確認されている。

木組みでは花巻城の櫓門構成を基本として、門柱や冠木は長浜城搦手門と伝わる表門寸法を参考に展示の櫓門を復元。後北条氏の城は豊臣秀吉の来襲を想定しており、このような実践的な櫓門が数多く造られた可能性が高い。鉢形城も同様に配置されたと考えられる。

城の縄張り(城郭)

曲輪や堀、虎口といった地形の配置を「縄張り」と言う。城の設計といえば分かりやすいだろう。
城の防御力・機能性はこの縄張りによって決まる。(多くの人は縄張りというと、動物が持つ排他的占有エリアと意識するだろう。そもそも縄張りという言い方は、土地所有権を示すために縄を張ったに日本人の行動から来ている)

深大寺城の縄張りを例に説明写真は深大寺城の縄張り。本丸⇒二の丸⇒三の丸と直線上に連なる連郭式。

縄張りには以下の様な基本スタイルがあるが、いずれかにきっちり当てはまるわけではなく、各要素を組み合わせた城も数々ある。厳密なスタイルというわけではない。

連郭式 城郭

直線上に曲輪を並べて(本丸⇒二の丸⇒三の丸~)配置していく方式。本丸は奥まった場所に配置されることになるが、逆に本丸の背後や脇が弱点になりうる。連郭式は、地形上の理由から尾根道に造られた城でよく見かける。

輪郭式 城郭

本丸を二の丸が囲み、二の丸を三の丸が囲むという縄張り。どこから攻められても同じ防衛機能を保てるが、城の規模は必然的に大きくなる。

梯郭式 城郭

攻めてこれない絶壁や山河を背後にして本丸を隅に配置し、背後以外の周囲を他の曲輪で囲んでいく縄張り。

並郭式 城郭

本丸と二の丸を並行に配置し、その周りをすっぽりと三の丸など他の曲輪で囲う縄張り。

稜堡式 城郭

稜堡式(りょうほしき)は、敵を狙い撃ちできない場所「死角」を無くした構造。曲輪の先端がひし形(稜堡)になっており、星形要塞ともいう。日本の城郭では最後の形状となり、函館市の五稜郭(1866年築城)が有名。他には長野県佐久市の龍岡城など。築城方式は15世紀半ごろにイタリアで発生し、以降、中世ヨーロッパでは防御戦術の基本だった。

城の分類

戦国大名は領土支配のため、拠点とする本城以外に「支城」を至るところに置き統治してきた。支城を結ぶネットワークを構築し、これを支城制という。支城では情報伝達のための「伝えの城」、兵の移動や駐屯のための「つなぎの城」、敵国との最前線である「境目の城」に分類される。江戸時代には一国一城令によって支城制が禁止された。

江戸時代には城のタイプが軍学者によって分類された。縄張りの様式と組み合わせて一般的には、「連郭式平山城、連郭式山城」のような言い方がされる。

山城(詰の城)

岩殿山城(いわどのやまじょう)と呼ばれる岩殿城。甲斐武田家の滅亡と関係がある小山田氏の山城。

険しい山に築城され、防御機能に特化したのが山城である。急峻な山だと居住や政治には不便であるため、日常は麓に構えた屋敷に城主や家臣団が住んでいる。籠城戦になったっ場合に、山上の主郭に立てこもるのが一般的。山上には簡易な櫓や掘立柱建築物が建てられ、長期居住をするようになっていないのが一般的。しかし、山上に本格的な建築物が置かれ、長期滞在が可能な城も存在する。1602年の江戸幕府の開府以降、多くの山城が廃城となった(戦国時代の終焉)

※ちなみに、日本五大山岳城 (国指定史跡)は、「 月山富田城、七尾城 、観音寺城、 春日山城 、八王子城 」

唐沢山城「関東一の山城」と言われた唐沢山城にて、山頂付近からの眺望。栃木県佐野市に位置する城であるが、江戸の火事を発見できたという話が伝わる。

山城の補足:根小屋式山城

山麓に屋敷地を設けた山城では「根小屋式山城」という。根小屋とは城主や家臣団の屋敷が置かれた一帯を指す。(主に東国でそう呼ばれる) 。山頂一帯の曲輪を詰城部とし、戦となればそこへ登った。根小屋式山城では八王子城や津久井城などがある。

八王子城 の縄張り山城である八王子城 の縄張り。山上にある本丸付近は戦闘向きの要害地区。山麓は御主殿などがある居館地区。

八王子城の40分ほどの登山八王子城 の場合、御主殿(居館地区)から本丸(要害地区)までは40分ほどの登山となる。素晴らしい眺望が堪能できるのは山城ならでは。戦国時代は山城が中心だった。

八王子城の御主殿(居館地区)

八王子城の御主殿跡急峻な山である山城では、居住や政治には不便であるため、日常は麓に構えた屋敷に城主や家臣団が住んでいる。※写真は八王子城の御主殿跡(城主の館跡)。

平山城

本佐倉城の遠景平野の中にポツンと置かれた山や丘陵などに築城された城を平山城という。防御機能と政治機能を併せ持つ。
※写真は本佐倉城の遠景

崖端城

芳賀氏の居城-飛山城平山城のグループに属するが、川の段丘面を天然の要害とした城を崖端城(がいたんじょう)という。
※写真は飛山城遠景。

平城

平地に築かれた城であり、戦国期にはほとんどない。防衛策としては平地に造られた土塁や堀ぐらいで、河川沿いを利用する場合もある。鎌倉時代~南北朝時代に見られた方形館(武士の居館)が発展したもの。防衛機能は低いものの、政治的な要所であることが多い。

二条城は平城近世の平城では、二条城が代表的。

御前原城塩谷氏の居館とされる御前原城。四方にめぐらされた土塁はあるが庭園跡などがあり、戦闘向きではないことが分かる。

陣城(じんじろ)

山城および平山城に組み込んでもいいが、細分化すると陣城がある。敵国を攻める際、攻撃に都合の良い場所に突貫工事で築城した城であり、その規模は様々。俗に一夜城と呼ばれるものは陣城といえる。城主を置き、代々引き継ぐような城ではないため、戦いが終われば廃城となるのが一般的。駐屯程度で規模が小さい城であれば「砦」扱いである。

石垣山一夜城歴史公園として整備豊臣秀吉が小田原城攻略のために築いた石垣山城は、小田原征伐後に廃城となっているため陣城ということになる。縄張りは悌郭式山城になっており、陣城としては規模が大きい。戦闘のためというより、小田原北条氏にプレッシャーを与える目的が一番大きかったのだろう。

地勢と地名

地勢とは地形の在り様であり、地表面の垂直方向、水平方向の広がりを指す。具体的には台地の標高や傾斜、勾配、谷津(浸食)、河川など、その土地の地形の特徴。城が築かれる場所の重要キーワードである。古くから伝わる地名も城址を探るためのキーワードとなる。

谷津(やつ)

谷津とは、谷戸(やと)ともいう。丘陵地の縁辺部が長い時間をかけ浸食され、谷状に形成された地形である。主に千葉県では「谷津」といい、東京の多摩地区あたりでは「谷戸」という。関東地方から東北地方の丘陵地に多く、その要害性から築城場所に選ばれることがよくある。

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