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2度に渡り徳川軍を撃退した真田昌幸の城、現在は仙石氏時代の城郭が残る

上田城

真田の上田城へ行く長野県上田市二の丸にあった上田城を登城した(2018年9月)。上田城は上田盆地のほぼ中央に位置しており、太郎山、千曲川、神川に取り囲まれた天然の要害を利用している。1583年、越後の上杉氏を警戒していた徳川家康の命令により真田昌幸が上田城の築城を始める。昌幸は実質、家康を利用して自らの居城を造り城主に納まった。

真田氏の築城と、2度の上田合戦

天正壬午の乱では徳川に属していた真田昌幸だが、徳川から沼田領を北条氏へ引き渡すように指示される。これを拒否したために沼田領をめぐり家康と対立。そして真田昌幸が主君を上杉景勝に変えたため、上田城は1585年に上杉方の城として完成した。この間、真田討伐が勃発し、徳川方(大久保忠世・鳥居元忠ら)7000の軍勢が攻め寄せるもこれを撃退した。徳川軍7,000(または8000) VS 真田軍2,000とされる。徳川方の死者は1300人ほど、真田方は40人ほどとされる。(第一次上田合戦※神川合戦とも言う)。

その後、昌幸が豊臣秀吉の配下になると、金箔瓦に飾られた城郭に変貌し、天守のような建物があったと出土品から推定されている。土塁や堀による実践的な城であったが、石垣は少なかったとされる。

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍につき、真田昌幸と次男・信繁は徳川秀忠の中山道西進を数日間足止めさせ、関ヶ原に遅参させた。徳川軍38,000 VS 真田軍2,500とされる(第二次上田合戦)。しかし関ヶ原では徳川家康の東軍が勝利し、戦後処理によって上田城は破壊された。

関ケ原合戦後、徳川家臣である長男・真田信之に、破壊されたままの上田城が引き渡された。上田に入った信之は上田城を復興せず、御殿を三の丸(現・上田高等学校)に造り、1600~1622年の間、上田藩を治めた。その後、国替えで松代へ移封となった。当時に描かれた絵図がないため、真田氏時代の上田城はよく分かっていない。

真田昌幸の頃の上田城天正年間上田古図。真田昌幸の頃の上田城とされるが、伝承を基にして後世に描かれた古地図であるため、正確ではないとされる。

仙石氏による復興

1622年、小諸から仙石忠政(仙石秀久の三男)が上田へ入封し、上田城を再興する。現在の城郭は仙石忠政が復興したものが基本である。現地案内板によれば、真田氏時代そのままであったと推察されている。松平氏に代わってもほとんど変化はないそうだ。梯郭式平城の縄張りである。堀や石垣などの普請は完成したものの、仙石忠政の病死により普請を中断。櫓や城門などの建築は本丸のみに留まった。二の丸の虎口石垣には未完の跡が残されている。天守は建てられていない。

上田城 歴代城主

初代 1583~1600 真田昌幸 7代 1728~1749 松平忠愛
2代 1600~1622 真田信之 8代 1749~1783 松平忠順
3代 1622~1628 仙石忠政 9代 1783~1812 松平忠済
4代 1628~1669 仙石政俊 10代 1812~1830 松平忠学
5代 1669~1706 仙石政明 11代 1830~1859 松平忠優
6代 1706~1728 松平忠周 12代 1859~1869 松平忠礼

真田氏、仙石氏、松平氏の3家。

廃城から国指定史跡になるまで

1871年、廃藩により国が接収する。1874年に民間へ払い下げになり上田城は廃城となった。西櫓を残し、北櫓・南櫓・1750本の立ち木も個々に払い下げられ、城址は桑園・麦畑などに姿を変えていった。

本丸の変貌を恐れ、本丸付近を一括購入した丸山平八郎は、明治12年に松平神社(現・真田神社)を創建する。本丸南側の土地を神社に寄付、明治26年に残りの土地を遊園地用として寄付した。神社が土地を管理し守ってきたことが後の上田城跡公園化につながる。明治29年(1896年)には公園としての体裁が整い、大正14年に神社から市へ無償寄付された。昭和9年(1934年)には遺構を留めている本丸と二の丸が国指定史跡に指定された。幕末には本丸に櫓門2基・櫓7基があったが、現在では櫓門1基、櫓3基をみることができる。三の丸地域はすでに改変しているが、上田藩主居館跡は面影を残している。

真田昌幸が上田城の築城を始めた本丸と二の丸は上田城跡公園だが、まずは三の丸に位置する上田藩主居館跡へ行く。、現在は上田高等学校となっている。

上田城及城下町之図こちらは元禄15年(1702年)の上田城及城下町之図で、当時は仙石氏の時代である。

三の丸(上田藩主居館跡)

上田藩主居館跡上田城三の丸に位置し、上田高等学校が上田藩主居館跡である。概ね遺構は残っており、かつては四囲に堀と土塁をめぐらせた陣屋となっていた。真田氏以降、仙石氏や松平氏と続いた歴代上田城藩主の居館跡であり、御屋形とも呼ばれた。松平氏時代の構造が明らかになっているが、基本的な構造は初期から大きな変化はないとされる。表門は長野県最大規模の薬医門であり、松平忠済が藩主だった1790年に再建されたもの。(前年に居館とともに焼失したため。)

松平忠済が藩主だった1790年に再建居館周囲の土塀は江戸時代末期のものであるが、堀と土塁は真田氏時代の面影を残しているとのこと。ただし、土塀や堀にある石積みは崩落防止のために近年施工されたものであり、さらに道路拡張のため堀の幅が小さくなっている。

二の丸 東虎口とその周辺

二の丸東虎口上田城跡公園のメインゲートである二の丸橋。ちょうどここは二の丸東虎口にあたる。二の丸には3箇所の虎口があるが、石垣が残っているのは、この東虎口と北虎口のみである。上田城背後にあたる二の丸西虎口に石垣は残されていない。

東虎口の石垣二の丸橋の先にある東虎口の石垣。櫓門は建てられず、簡単な木戸が造られていただけという。石垣の上に平和の鐘が置かれているが、昭和9年に移築されたもの。元々は上田城下町に時刻を告げる時鐘であった。

入城して左に曲がると売店があるが、かつての武者溜まり跡である。武者溜とは軍勢が駐屯する郭または一画。松平氏の時代では鎮守社が置かれたため鎮守曲輪とも呼ばれた。入城して右に曲がると、市立博物館があり、かつての米倉跡と伝わっている。

二の丸堀跡二の丸橋から見下ろす二の丸堀跡。

上田温電北東線が開通二の丸堀跡はケヤキ並木の遊歩道になっている。昭和3年に上田温電北東線が開通したときには、ここに電車が通されたが、昭和47年に電車が廃止された。

上田城跡公園上田城跡公園のマップ。

上田城 本丸

1622年、真田信之が松代へ移封し、仙石忠政が上田城主になると1626年に改修が始まり、本丸に7棟の櫓が建てられた。現在は南櫓・北櫓・西櫓の3棟がある。明治維新の廃城後、南櫓と北櫓は明治11年に他所に移築され太郎山麓の上田遊郭として利用されていたが、昭和17年、買い戻され上田城へ再び移築された。維持されてきた西櫓は寛永期のものであり、部材も当時のもので歴史的価値が高い。

南櫓・北櫓・西櫓の3棟上田城の南側で、尼ヶ淵の崖下から見た3棟の櫓。

東虎口櫓門(本丸大手口)

東虎口櫓門本丸への出入り口、東虎口櫓門。本丸大手口としての格式を示しており、土橋の両側には武者立石段という石積みが見られる。左側の南櫓と右側の北櫓(ちょっと隠れてしまった)は昭和24年に移築復元、平成6年に城門を復元している。

堀跡南櫓の直下にある堀跡。

真田石は直径3m城門近くの真田石。城主の権威を示すために、大手の石垣に巨石を用いることは多い。この真田石は直径3mある。真田信之が松代移封の折、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。しかし現在ある石は仙石忠政が造ったものである。真田石や城内の石垣は、北方にそびえる太郎山から採石した緑色凝灰岩を利用している。

眞田神社

真田神社の参道東虎口櫓門を通るとすぐに眞田神社の参道に出る。真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている。かつては丸山平八郎が創建した松平(しょうへい)神社であったが、「先代の城主である真田氏と仙石氏も合わせてお祀りすることが望ましい」として、昭和28年(1953年)に上田神社と改称した。しかし市内に同名他社が存在しており、紛らわしいとのことで、昭和38年に眞田神社と再度改称された。(意図は合祀なのだが、松平から真田に変えられた印象を受けてしまうのがツッコミどころ。まるで合併した銀行名に悩むみたいだ。)

真田井戸本丸唯一の眞田井戸。直径2m、深さ16.5mである。太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じる抜け穴伝説があるが、むろん現在では誰も信じないだろう。

兜松拝殿の傍らに置かれた信玄公兜松。天文17年、村上義清との上田原合戦にて、砂原峠を越えて進軍していた武田信玄が山上で目に止め賞賛した松の大木。形が兜に似ていたという。その松が枯れたため、現在では「真田幸村公」と彫られた牌材にしている。しかし、ここは「武田信玄公」と彫るのが自然だと思うのだが。

西櫓

西櫓寛永期の原型と部材を留めている西櫓では、矢や鉄砲を放つための矢狭間・鉄砲狭間が設けられている。そして西櫓から見た尼ヶ淵。西櫓は尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓である。

本丸土塁と隅櫓跡

土塁上に隅櫓本丸を囲むコの字型の土塁。かつては土塁の上に隅櫓があった。博物館に向いてる土塁の角に切り込みが入っており、「隅おとし」と呼ばれる。北東の位置(鬼門)であるため、鬼門除けとしての構造である。

素掘りで掘り上げた土本丸土塁に沿ってコの字になった水堀。素掘りで掘り上げた土を内側に積み上げて土塁としている。東方の城下町が城郭部分よりもやや高い位置という地形であり、当時は4km東を流れる神川から堀の水を取り入れていた。しかし現在では芝生公園から地下水を汲み上げている。

戊辰役上田藩従軍記念碑本丸中心にある、戊辰役上田藩従軍記念碑。

二の丸 北虎口

北虎口二の丸には3箇所の虎口があるが、石垣が残っているのは、東虎口とこの北虎口のみである。石材は緑色凝灰岩。南北に2基あるが北側にある石垣の西端は築城当初のもの。発掘調査により櫓門の礎石が確認され、城主・仙石忠政は櫓門を建造する計画だったようだが、病死により中断された。なお、北虎口の東側には堀があったが埋め立てられ児童遊園地になっている。

百間堀跡

百間堀跡(二の丸堀)北虎口の東側には百間堀跡(二の丸堀)があり、現在は陸上競技場になっている。この付近はもともと矢出沢川であったが、大工事により城の北方へ流れを変えさせた。さらに旧河床を広げて大規模な堀を造ったとされる。

石樋百間堀跡の石垣に石樋が設けられている。1702年の改修時に木樋から石樋に変えられた。当時、幕府に提出した修復願いに「木樋は腐るので石樋に変えたい」と書かれている。

野球場もかつては百間堀陸上競技場に隣接する野球場もかつては百間堀であった。

二の丸西虎口とその周辺

上田城絵図(仙石忠政が藩主の時代)1647年の上田城絵図(仙石忠政が藩主の時代)。絵図1番の位置に「二の丸西虎口」があった。北虎口、東虎口は先述の通り。江戸期、西虎口にも北虎口・東虎口と同じように石垣があったが、現在はない。西虎口にも櫓門の礎石跡が確認されたため、仙石忠政はここにも櫓門を建てようとしたが分かる、しかし病死により未完成に終わった。

2番は現在・陸上競技場と野球場の百間堀跡。3番は上田高校第二グラウンドであり、かつては捨堀という、二の丸堀の水が排水されたところ。なお、二の丸の堀の一部は、真田昌幸が矢出沢川の旧河床を改修したものと考えられている。4番は上田城の西(背後)に位置する大きな曲輪で、小泉曲輪という。

二の丸西虎口二の丸堀に架けられた小泉橋の先に、二の丸西虎口がかつてあった。

小泉曲輪

真田昌幸が築城する以前に、小泉氏が拠点とした場所とされるが詳細は不明。松平氏の時代には茶屋や馬場が設けられた。大きな建物はなかったとされる。幕末には調練場が設置された。下にあるのは小泉曲輪の記された絵図と、現在の地図。小泉曲輪は間に堀切があり、捨堀から千曲川へ排水する水路(水吐き)になっている。小泉曲輪は現在では上田城跡公園体育館のある場所である。

沼田城の構造を念頭小泉曲輪は周囲に石垣や土塁もなく、防御機能を持たない捨郭の構えである。つまり敵をあえて迎え入れ討ち取る空郭である。沼田城にも本丸の奥に捨郭があり、真田昌幸が上田城を築城する際、沼田城の構造を念頭にいれていたと考えられる。

小泉曲輪の面影はない上田城跡公園体育館。小泉曲輪の面影はない。上田市の地産地消フェアみたいなイベントが開催されていたので、ここで昼食を摂ることにした。

西櫓に遭遇小泉曲輪を越え、小泉橋を渡り少し進むとまた西櫓に遭遇。今度は城の背後にあたる裏側(西方面)からの西櫓。当然、当時は存在していなかっただろうが、本丸から尼ヶ淵につながる最短コースの階段が設けられている。

本丸から尼ヶ淵につながる最短コース階段を降り、上田城登城、最後のシメである尼ヶ淵に到着。

尼ヶ淵

尼ヶ淵(あまがふち)上田城の南方は当時千曲川が流れており、天然の堀としていた。千曲川のこの川原を尼ヶ淵(あまがふち)といい、上田城は尼ヶ淵城と呼ばれていたという。崖の高さは12mほどになる。崖端の城であった上田城のシンボル的な風景かと思われる。

西櫓の真下ここが西櫓の真下あたり。その先に少しせり出して見える櫓が南櫓。

芝生公園と駐車場現在、尼ヶ淵は芝生公園と駐車場になっている。そして千曲川はもっと南の方へ川筋を変えられている。

上田泥流層と下部の河床礫層尼ヶ淵の地層は、上部の上田泥流層と下部の河床礫層となっている。崖は要害であったが、大水が出ると崖を侵食し崩れる危険性もあった。そこで1733年、藩主・松平忠愛は石垣を築くことで侵食から守ったが、石材不足などにより当初の計画通りには行かず、南櫓と西櫓の下以外は中途半端な改修となった。尼ヶ淵の石垣には五輪塔が石材に使われた形跡がある。パワー入魂というより単なる石材不足だったのだろう。

モルタルで修復南櫓下の石垣では一部崖面が露出しており、もともとから石垣がなかった。現在では原型に基づきモルタルで修復されている。

千曲川の川原この通りもかつては千曲川の川原。上田城の登城レポートは以上。

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