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関東に戦国時代を呼び込んだ、古河公方の本拠地

古河城

茨城県古河市(下総国)にかつてあった古河城を登城した(2017年1月2日訪問)。古河城は、享徳の乱(1454~1483年)で関東に戦国時代を呼び込んだ足利成氏(鎌倉公方、後の初代古河公方)が拠点とした城である。渡良瀬川の東岸に位置している。古河移座の直後は、新たに築城した古河公方館に居館していたが、2年後には古河城へ移った。古河城と古河公方館とは1kmほどしか離れておらず、水城としては一体ととらえていいだろう。

古河公方の本拠地、古河城

現在では市街地と化した場所に、「出丸の諏訪曲輪、観音寺曲輪」の一部のみ遺構が残されている。関東の戦国時代に興味のある者にとっては、古河は指折りの歴史スポットであるが、もはや視覚的に楽しめる場所ではなくなっている。探訪するなら、イメージを膨らませながら独特な楽しみ方をするしかない。

古河城堤防や河川敷となって消失した古河城。これは三国橋から新三国橋までの風景だが、江戸時代の城郭としてここには、「桜町曲輪、三の丸、本丸、二の丸、頼政曲輪」がかつて存在していた。

古河城の起源

平安時代末期ごろ、源頼朝に従った下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に城館を築き、それが古河城の起源とされる。ただし、それを実証する記録は見つかっていない。以仁王の挙兵に伴い平等院鳳凰堂にて敗死した源頼政の首を、古河城の立崎(頼政曲輪)に葬ったと言う伝承がある。江戸時代になると、頼政曲輪に頼政神社が置かれた。(大正時代、渡良瀬川の河川大改修工事が行われ、頼政神社は古河城北端、観音寺曲輪の土塁へ移転されて現在に至る)。鎌倉時代には、執権北条氏の支配下だったと考えられ、南北朝時代では北朝・足利氏の拠点となったようだ。

古河公方足利氏5代、約130年に渡る根城

室町時代になると、第5代鎌倉公方の足利成氏が関東管領及び室町幕府と対立し、享徳の乱を起こす(1454~1483年)。
1455年6月、足利成氏は不利となった鎌倉から本拠地を下総古河に移す。これにて古河公方と呼ばれるようになる。
古河移座の理由として、「渡良瀬川が上杉氏に対する天然の要害となったこと、水上交通の要衝地だったこと、鎌倉公方御料所の拠点であり、すでに経済基盤があったこと、小山氏や結城氏など古河公方を支持する豪族の拠点が近い」などが挙げられる。

始めは古河鴻巣に古河公方館を設けて居館としていたが、2年後の1457年10月には修復が終わった古河城に移った。まさに、「関東に戦国時代を呼び込んだ、古河公方の本拠地」と言える。古河城に対抗するため、扇ガ谷上杉氏の家宰・太田道灌は江戸城・岩槻城・河越城を築城している。

戦国末期、小田原北条氏が関東での支配を強めると、古河城は北条氏の管理するところとなる。ただし、古河城は北条氏の支城扱いではなく、古河足利氏の本拠という特別扱いだったようだ。第5代古河公方・足利義氏は縁の地である古河と切り離されることが多く、また傀儡として北条氏に政治利用された。1582年に足利義氏が亡くなり、その嫡男が早世したため古河公方は消滅した。しかし、足利義氏の子・氏姫は、小弓公方足利義明の孫・足利国朝と結婚し、喜連川公方家を興すこととなった。

江戸時代には、徳川将軍家の日光社参における御泊城

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が滅ぶと、徳川家康の家臣・小笠原秀政が古河城に入城し改修する。江戸時代には古河藩の藩庁が置かれる。大老の土井利勝や堀田正睦など閣老級の譜代大名たちが城主となって、近世城郭として整備され、南北1800m、東西550mという関東有数の巨大城郭となった。城下では日光街道の宿場町として古河宿が発展し、 徳川将軍の日光社参では、岩槻城・古河城・宇都宮城の順に宿泊することが恒例になった。

明治時代になると、廃城令(1873年)が発布され古河城は破却された。大正時代、渡良瀬川の河川大改修工事が行われ、城郭のほどんどが消滅した。現在では堤防や河川敷に姿を変えており、昔を偲ばせる痕跡はほとんどない。

古河城の城郭縄張り図江戸時代における古河城の城郭縄張り図。獅子ヶ崎跡地の案内板にあった城郭地図に加筆した。
古河公方が支配していた中世の縄張りは分かっていないが、近世の本丸辺りだと推定されている。足利成氏が最初の2年間、居館としていた古河公方館とは舟で往来可能だったようで、古河城と古河公方館とを一体で捉えると広大な水城であったと推定される。

風情はなくなってしまったが、古河城の散策へ

日光街道県道261号線はかつての日光街道で、江戸時代には宿場町の古河宿として栄えた。今はどこにでもある風景で面白くもない。

高札場

古河宿の高札場日光街道にあった高札場跡に標柱が建っている。高札場(こうさつば)とは、幕府の法令や犯人の罪状などを掲げた場所である。またこの近くには本陣と脇本陣があったという。元々「本陣」とは合戦で大将が陣取った所を指すが、平和な江戸時代になると、大名や旗本、高級役人、公卿などの身分の高い者の宿泊先や休憩所を指す。古河の本陣は117.5坪あったという。
よく旅館や食事処で「本陣」が付く店があるが、由来はそこから来ていると合点がいった。恥ずかしながら、「合戦でもするのかいな?」と思いつつ、宿泊したり食事を摂ったものだ。

御茶屋口と御成道

御茶屋口日光街道に面する「御茶屋口」。茶屋があったことからそう呼ばれた。徳川将軍の日光社参は19回行われているが、古河城の入城の通り道である御成道へは、ここから入っていった。御茶屋口から進み諏訪曲輪を北に迂回、幅180mの百間堀を渡す御成道を経由して城内に至る。御成道と城内の接点には御成門があった。

古河城御成門まで御茶屋口から古河城御成門までの御成道。、幅180mの百間堀は埋め立てられて面影は全く無く、住宅と舗装道路ばかり。諏訪曲輪には歴史博物館があり、水堀跡が一部護岸整備されて位置のみ確認できる。

現存する古河城の乾門(移築)

福法寺諏訪曲輪跡(歴史博物館)の近くにある福法寺では、古河城の乾門が移築・現存している。江戸時代の古河城・二の丸御殿入り口にあった乾門だが、明治六年の古河城取り壊しの際、福法寺の檀家が払い下げを受けて、福法寺に寄進・移築した。構造形式は平唐門で、数少ない古河城の遺構である。

古河城の出丸、諏訪曲輪(現・歴史博物館)

諏訪曲輪御茶屋口から西に進むと歴史博物館があるが、かつて古河城の出丸(または出城)・諏訪曲輪があった場所である。水堀と土塁の遺構が残されている。すぐ北隣の古河第一小学校はここより低地にあり、諏訪曲輪がかつて高台だったことを偲ばせる。
地図ではこのポイントに「古河城」のマークが入っているが、厳密には古河城の外れにある出丸であり、主郭部と勘違いしやすい。マークしたのはたぶん歴史博物館があるからだろう。主郭にマークするなら渡良瀬川の東岸を指すべきなのだが、遺構が消滅して本丸跡の標柱しかないからか・・。

諏訪曲輪の水濠跡

歴史博物館の池諏訪曲輪の水濠はきっちり護岸されており、遺構と言うよりも歴史博物館の池という印象が強い。訪問時には水が干上がっていた。諏訪曲輪から西へ御成門跡に向かって進むが、かつては幅180mの百間堀があった。現在では埋め立てられて水堀の痕跡はない。

獅子ヶ崎の土塁

諏訪曲輪を越え、180m幅の百間堀(埋め立てられて現在は変哲もない道)を越え、竹やぶのところに出るが、そこが戦略的要地として古河城内でもひときわ重視されていた場所の獅子ヶ崎。桜町曲輪の内部となる。獅子ヶ崎が古河城を名城たらしめた場所と言っても過言ではない。曲輪の突端が尖った土塁であり、堀に突き出すという独特な形状をしていたが、現在は尖った部分が削られている。周囲よりも高く築かれた土塁のため、御成門や御成道はもちろん、古河城全体を見通せる場所であったらしい。ここからが実質、古河城内となる。

古河の獅子ヶ崎桜町曲輪の北に位置する獅子ヶ崎の土塁跡。

獅子ヶ崎スーパースポット渡良瀬川の堤防から見た獅子ヶ崎の遠景。古河城のスーパースポットも現在では住宅に囲まれている。

古河城は天守のない城獅子ヶ崎は猪ヶ崎とも書かれ、「土塁が猪の鼻の形に似ている」と、江戸時代中期の文人・藤堂元甫(とうどう げんぽ)が評している。曲輪の突端が尖った土塁であり、堀に突き出すという特徴的な「鼻」の部分は、昭和50年代に道路施設のため切り崩してしまった。

獅子ヶ崎のすぐ南側には御成門があったという。2代将軍・徳川秀忠を迎えるため、ときの城主・永井直勝が御成門を造営した。古河城は基本的に石垣を用いない城であるが、本丸入り口と御成門のみには石垣を用いていた。

桜門跡

桜門の跡地桜町曲輪と観音寺曲輪の間にあった桜門の跡地。桜町曲輪には、戦国時代の連歌師・猪苗代兼載が屋敷を構えており、多くの桜が植えられていたという伝承がある。なお、猪苗代兼載は野口英世の先祖らしい。

観音寺曲輪

観音寺曲輪は古河城の北端に位置する。かつて下野小山氏が開いた「小山観音寺」があったことに名前の由来があるようだ。1602年、松平康長が城主となると、観音寺曲輪と百間堀を築き、追手門を設けた。この改修時に小山観音寺は城下に移転された。江戸時代では、観音寺曲輪・桜町曲輪・諏訪曲輪には重臣たちの武家屋敷が置かれた。

船渡門跡

観音寺曲輪の土塁跡観音寺曲輪にあった船渡門跡。奥にある土塁は船乗り場だったのだろうか?とりあえず、観音寺曲輪の土塁跡のひとつだ。

土塁跡に建つ、頼政神社(大正時代に移転)

頼政神社観音寺曲輪の北西に位置する高台は古河城の土塁跡(船渡門跡の少し北側)。現在では土塁上に、移築された頼政神社が建っている。

1696年、古河城主だった松平信輝は、城内の立崎(頼政曲輪)に先祖とされる源頼政の墳墓があることを知り、その社殿を修築して祀った。この時に信輝の弟・松平輝貞が大燈籠を寄進、家臣たちが手水鉢と灯籠を奉納した。狛犬も寄進されているが寄進者は不明とのこと。大正元年の1912年、渡良瀬川の河川大改修工事が行われており、頼政神社は古河城北端、この観音寺曲輪の土塁へ移築されて現在に至る。

平安時代末期、以仁王の挙兵に伴い平等院鳳凰堂にて敗死した源頼政の首を、古河城の立崎(頼政曲輪)に葬ったと言う伝承だが、次のような話がある。従者が頼政の首を笈(おい)に入れて運んでいたが、古河の立崎で急に重くなったため、そこで埋葬したという。その従者は特定されていないが、下野小山氏の菩提寺である天翁院によれば、下河辺行義が頼政の首を葬ったとある。※下野小山氏は、古河に城館を設けた下河辺行平と同族。下河辺行義は行平の父。

古河城 本丸跡

古河城本丸三国橋と新三国橋の中間地点、サイクリングロードの脇に「古河城本丸跡」の標柱が立っている。これは標柱から北を向いた風景で、奥にある赤い橋が三国橋。この見えている河川敷に「三の丸、桜町曲輪」があったことになる。
古河城は天守のない城であったが、土井利勝によって本丸の西北「御三階櫓」が建てられ、実質的な天守であった。(水戸城佐倉城のように御三階櫓がシンボル)

河川敷「古河城本丸跡」の標柱から南方面。ここから新三国橋が見えるが、この河川敷には「二の丸、頼政曲輪」があったわけだ。野球場のところが二の丸か。二の丸には藩主の御殿が置かれたという。福法寺に移築され現存している古河城の乾門は、かつて二の丸御殿入り口にあった。

頼政曲輪からの眺望新三国橋のすぐ下から、北の三国橋方面を撮影。(奥の赤い橋が三国橋)。つまり頼政曲輪からの眺望である。城郭が残っていれば、二の丸、本丸、三の丸、桜町曲輪が見えていたことだろう。現在では河川敷とサイクリングロードになっている堤防しか見えない。航空写真だと、河川敷の地表の色違いで城郭が視認できるそうだ。

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