パソ兄さん修験道の旅、吉野山へ(奈良県)
2013年7月12日に吉野山へ観光。蔵王堂、吉水神社、如意輪寺を巡る。吉野山は源義経の潜居地だったり、南北朝の騒乱、豊臣秀吉の吉野大花見など史跡としても興味深い。
金峰山寺蔵王堂に向かって、ひたすら歩く
吉野山はユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」で登録されている。大峰山の北の端から8キロ続く尾根が吉野山で、3万本とも言われる桜の名所。下千本から奥千本に向かって開花期をずらしながら咲上っていくそうだ。下千本は吉野駅付近、中千本は如意輪寺付近、上千本は吉野水分神社付近、奥千本は西行庵一帯となっている。また金峰山寺蔵王堂を中心に修験道の聖地でもある。
※大峰山⇒狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ)を指す。
吉野山、金峰山寺、吉水神社、吉野水分神社、金峯神社など。
大和 郡山城を散策した後、近鉄橿原線「近鉄郡山駅」で乗り、橿原神宮前駅で近鉄吉野線に乗り換え。
11:00に吉野駅に到着。今回は猛暑と睡眠不足のため「上千本、奥千本」を制覇することはできなかった。
(2013年7月12日)
七曲坂と大橋
機械遺産に認定されている吉野ロープウェイには乗らず、七曲坂をひたすら登る。
地形の最も高いところにある大橋に到着。大橋は「竹林院前の天王橋、水分神社裏の城橋」とともに吉野三橋のひとつ。昔は木橋だったようだが、今は自動車が多く通行するため、味気ない鉄筋コンクリート製である。
橋から見下ろすと大規模な空堀が確認でき、大塔宮護良親王が鎌倉幕府討幕のため立て籠もった吉野城の堅固ぶりが伺える。しかし、安全面のためか、今は空間を埋めたため当時よりも浅くなっているようだ。
7月の吉野は完全にシーズンオフで、景色も緑々としている。そして、猛暑のなか歩いているのはパソ兄さんだけである。観光客らしき人は3人ほどしかいなかった。聞くところによると、花見と紅葉シーズンは観光客で恐ろしく混雑するそうだ。
金峰山寺の総門である黒門
蔵王堂方面に進むと、金峰山寺の総門である黒門に遭遇。城郭で用いられる高麗門の様式である。昔、この門からは公家は駕籠から降り、大名は槍を伏せ、下馬して通行しなくてはならない格式であった。しかし、現在は、現代の馬というべき自動車がズケズケと通過するのであった。
なお、金峰山というのは吉野山から大峰山に至る峰続きを指す。その間、修験道の寺院が軒を連ねるが、それらの総門が黒門であった。現在の黒門は昭和60年、蔵王堂の大屋根修理にあわせて改築されたもの。
信仰登山の吉野山なんだから、黒門より先は歩行者のみにしてもらいたい。吉野山の道のほとんどがアスファルトであり、狭い道を車とすれ違うので歩いていて楽しいものではない。もっぱら吉野山の桜や紅葉など景色を楽しむだけなのであろう。
金峰山寺銅鳥居
黒門を越えると、重要文化財になっている金峰山寺銅鳥居(きんぷせんじかねのとりい)がある。高さ7.5m、柱の周り3.3mで日本三鳥居のひとつ。東大寺大仏の残った銅で造られたという伝説がある。
仁王門
国宝にもなっている仁王門に到着。土産屋や電線で仁王門遠景はやや残念な状態。
仁王門の裏手と、仁王門から眺めた下千本。そして仁王門の先には蔵王堂がある。
吉野山歴史年表
671年 | 役行者が大峯山で蔵王権現を感得。この頃には修験道の聖地であった。 大海人皇子(天武天皇)が吉野に潜行し、翌年には壬申の乱。 |
701年 | 持統天皇がこの年までに32回も吉野に行幸し、 このころに詠まれた歌が、多数、万葉集に収められる。 |
平安時代 | - |
859年 | 朝廷より金峯神社に正三位、水分神社・勝手神社に正五位が贈られる。 |
906年 | 聖宝が金峰山の堂や仏像を造立。吉野川に渡し船を設置。 |
941年 | 日蔵が笙の窟に参詣中絶息。冥途に行ったが後に蘇生? |
960年 | 内裏炎上。その後、吉野山の桜が紫宸殿(京都御所)前に植えられる。~左近の桜 金峰山の黄金埋蔵伝説が生まれる。 |
1007年 | 藤原道長が金峰山詣でをし、経塚を築く。貴族・僧侶・庶民で金峰山詣でが盛んになる。 |
1117年 | 白河法皇が蔵王堂に参詣。1121年にも参詣。 |
1140年 | 平忠盛が金峰山に三郎鐘を寄進。西行が寓居。 |
1185年 | 源義経が吉野山に潜伏。静御前は捕らえられ鎌倉行き。 |
鎌倉時代 | - |
1226年 | 如意輪寺の蔵王権現像が造られる。 |
1272年 | 西大寺の叡尊が吉野山で戒律を授け、諸郷の殺生を禁ずる。 |
1332年 | 大塔宮護良親王が吉野に城郭を構築、鎌倉幕府討幕の兵を挙げる。 |
1333年 | 大塔宮護良親王が敗退し、高野山へ避難。村上義光ら討ち死に。吉野山は全焼。 |
南北朝 | - |
1336年 | 南北朝の対立で、後醍醐天皇が吉野山に潜行。 吉水院を行在所とし、実城寺(金輪王寺)を皇居とする。 |
1338年 | 仁王門の金剛力士像(阿形)が造られる |
1339年 | 後醍醐天皇崩御 仁王門の金剛力士像(吽形)が造られる |
1347年 | 楠木正行が後村上天皇に最後の別れをするため参内。 後醍醐天皇陵に詣でたあと四条畷の戦いへ参陣。 |
1392年 | 南北朝合一 |
1471年 | 蔵王堂正面の銅燈籠が寄進 |
1534年 | 飯貝の本善寺門徒による金峰山討ち入り。36坊を焼く。 |
安土桃山 | - |
1578年 | 摂津平野の豪商が桜の苗1万本を寄進 |
1586年 | 蔵王堂、大塔などが焼失。 |
1592年 | 蔵王堂の再建(現在の蔵王堂) |
1594年 | 豊臣秀吉の吉野の大花見。(豊臣秀次・徳川家康・前田利家・伊達政宗らを引き連れる) |
1595年 | 秀吉が金峰山寺に寺領寄進の朱印状を与える |
江戸時代 | - |
1604年 | 豊臣秀頼が水分神社・安禅寺・大橋などを修復。庶民の山上参りが盛んになる。 |
1684~ 1772年 |
1684年と1688年に松尾芭蕉が来山。1696年、貝原益軒が来山。 1772年、本居宣長が来山。 |
明治以降 | - |
1874年 | 神仏分離政策により、蔵王堂が強制的に神社になる |
1886年 | 蔵王堂が仏堂に復帰。 |
1924年 | 蔵王堂の解体修理が完成。吉野山が史跡名勝指定。 |
1928年 | 現在の吉野駅まで鉄道の延長。 |
1984年 | 蔵王堂の大修理完成。 |
2004年 | ユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」で登録。 |
1592年の再建による、現在の蔵王堂
修験道の根本道場、金峰山寺本堂である蔵王堂に到着!現在の蔵王堂は、1592年の再建によるもの。1924年に解体修理、1984年に昭和の大修理が行われている。東大寺大仏殿の次に大きい木造建築だという。
蔵王堂は南向きで、北向きの仁王門とは背中合わせに配置されている。熊野から吉野へ、吉野から熊野へ、どちらからの参拝でも対応できるための工夫なんだとか。
1471年に寄進されたという銅燈籠が見える。妙久禅尼という室町時代の尼さんが寄進したそうだ。
蔵王堂正面にある大塔宮陣地跡。石の冊に囲まれたなかに4本の桜の木が植わっている。1333年、後醍醐天皇の第2皇子・大塔宮護良親王が鎌倉幕府軍に攻められ、吉野山で立て籠もったとき、蔵王堂を本陣としていた。落城に際して、この庭で最後の酒宴を開いた。
大塔宮陣地跡のすぐ側に、二天門跡があり、「村上義光公忠死之所」と刻まれた石碑が建つ。
大塔宮陣地での酒宴後、村上義光が大塔宮護良親王の鎧兜を身につけ、身代わりとして切腹したという。大塔宮はこの隙に高野山へ脱出することができた。
吉野朝宮跡(実城寺)
蔵王堂の近くには後醍醐天皇の御座所となっていた吉野朝宮跡がある。南朝の皇居跡であり、もともとは実城寺だった。当時はこのあたりに20近くの寺院があり、そのなかでも実城寺が広かったので、仮りの宮となっていたようだ。後醍醐天皇は、1336年には吉水院に身を寄せることとなるが、3年後に病で生涯を閉じる。
金輪王寺という寺号は徳川幕府に没収され、明治時代には廃仏毀釈運動により実城寺は廃寺となる。
南朝皇居、吉水神社(吉水院)
吉水神社に到着。元々は吉水院(よしみずいん)という、吉野山を統率する修験宗の僧坊だった。7世紀頃に役行者(えんのぎょうじゃ)が創立したという。実城寺の後に後醍醐天皇の南朝皇居となったことと、明治時代の神仏分離から吉水神社と改められた。
吉水神社では後醍醐天皇が祭神であり、忠臣であった楠木正成および、吉水院宗信法印を合祀している。
吉水神社は、日本住宅建築史上で最古の書院造りで、ユネスコ世界遺産に登録されている。現在の日本住宅の源流ともいうべき書院建築。
源義経潜居の間。1185年、頼朝の追手に逃れた義経・弁慶・静御前は吉水院に隠れ住んだという。室町初期の改築で床棚書院の初期様式だというが、それは義経の時代ではないと思う・・。
「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 by 静御前
後醍醐天皇の玉座。宗信法印が300名の僧兵を従え、天皇をここに迎えた。天皇もこの部屋を南朝の皇居として定めたようだが王政復古を果たせず、この地で最後を遂げる。なお、秀吉が修理を命じており、桃山時代の特徴が残されているとのこと。
吉水神社にはゆかりの宝物が所蔵されている。
義経郎党の宝物では、弁慶の7つ道具、弁慶の篭手、佐藤忠信の兜などがある。
重要文化財になっている義経所用の鎧(色々威腹巻 )
吉水神社のホームページでは「大河ドラマで使用した義経の鎧~」と書いてあるのですが、本当にの重要文化財なのか衣装なのかよくわからない。衣装にしては傷んでいるし、平安時代末期のものとしては色が鮮やかに残りすぎている印象もある。個人的には半信半疑。
南北朝時代の宝物では、後醍醐天皇御物の羊皮太鼓、楠木正成所持の銅像毘沙門天など。
秀吉ファミリーからは、青磁の壺、獅子頭、湯釜が寄進されている。
太閤秀吉が愛用したという金屏風。1594年に吉野で盛大な花見を行い、吉水院を本陣とし数日間滞在した。
「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」by 秀吉
スーパーパワースポット!北闕門(ほっけつもん)
庭の北側にある北闕門(ほっけつもん)。邪気が祓われるようで、後醍醐天皇が京都に向かって祈った場所らしい。スーパーパワースポットを自負していた。吉水院はもともと大峯山への入山許可を発行する場所であり、古来より山伏は安全祈願のためここで邪気を祓ったらしい。
辞世の句、「身はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う」 by 後醍醐天皇
秀吉プロデュースの吉水院庭園
吉水院庭園。秀吉プロデュースの桃山様式の日本庭園。神仙思想に基づく鶴亀蓬莱の庭なんだとか。
超人パワー!弁慶の力釘
これが弁慶の力釘。義経が吉水院で潜伏していることを知られ、頼朝の追手に囲まれた時、弁慶が追手の真ん中にあった岩に親指で釘2本を打ち込んだという。これにビビった追手たちは逃げ去ったという。
後に、秀吉が吉野の花見の際、この弁慶の力釘に触れ、「力をもらいたい・・力を!」と言ったそうな。(もう充分だろ、アンタ。)
一目千本
「一目千本」からの景色(中千本)が絶景らしく、豊臣秀吉は感動して 「絶景じゃ!絶景じゃ!」と大声をあげたらしい。今回、訪問時の景色では、特別な印象はなかった。
幻の金貨、乾坤通宝(けんこんつうほう)
後醍醐天皇の建武の新政により、1334年に新紙幣と貨幣の発行が計画され、乾坤通宝(けんこんつうほう)という金貨の発行詔書が発行されている。確実に乾坤通宝は鋳造されているはずだが、未だに一枚も見つかっていない。吉水院は後醍醐天皇の皇居であるため、乾坤通宝が運び込まれているのではないかという説もある。
如意輪寺へ向かう途中の、高野槙
如意輪寺へ向かうが、誤って車道を延々と歩くはめになってしまった。その道中、高野マキの群落に遭遇。
お盆の供え花として枝先を切るため、分岐に分岐を重ね不気味な雰囲気になっているそうだ。県の天然記念物に指定されており、日本特産の生きた化石植物なんだとか。海外では絶滅しており、化石でしか発見されないらしい。
当然、一般の人はこの高野槙を採ってならない。
後醍醐天皇の勅願寺である、如意輪寺
如意輪寺に到着。如意輪寺は905年に日蔵上人が開基した寺で、如意輪観世音菩薩が本尊。後醍醐天皇の勅願寺でもある。
楠木正行の一族郎党143名が四條畷の戦いに向かうにあたり、次の帝である後村上天皇に別れを告げ、先帝の御陵に参拝、如意輪寺に参詣したという。楠木正行は、御堂の扉に辞世の句を残して四條畷に向かうが、弟・正時とともに討ち死に。
※四條畷の戦い~1347年、現在の大坂府で行われた足利尊氏の右腕・高師直との戦。
※楠木正行~正成の子。尊称:小楠公。桜井の別れで有名。辞世の句は「帰らじとかねて思へば梓弓・・」
鏃で辞世の句を書き残した御堂の扉は、寺宝として宝物殿に保存されているが今回は拝見していない。裏手に塔尾陵(後醍醐天皇陵)があるのだが、迂闊にもスルーしてしまった。
深夜バスによる寝不足と、猛暑、突発的な雨にやられ、上千本・奥千本へ行く体力はなく、本日は撤退。
明日は高野山だ。