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新井城の戦いに備え、北条早雲が築城!東相模の重要防衛拠点

玉縄北条氏の居城、玉縄城

神奈川県鎌倉市城廻の玉縄城を登城した(2020年11月)。別名では甘縄城ともいう。位置は三浦半島の付け根あたりで、築城以前から砦があった場所と考えられるが、1513年、北条早雲によって玉縄城は築城された。新井城に籠る三浦義同(相模三浦氏)との戦いが長期化し、敵方の援軍である上杉朝興(扇谷上杉家)への備えであった。外堀は柏尾川(戸部川)であり、水軍の舟を相模湾まで繰り出すことができたという。

1516年に三浦氏を滅ぼした後は、里見氏への備え、および小田原城を守備する支城として機能した。鎌倉の防衛拠点でもある。上杉謙信、武田信玄が小田原城を攻めた相模乱入の折、攻略を諦めたのか玉縄城をスルーしている。※備考、1560年~1561年に上杉謙信の小田原攻め(大槻合戦)、1569年に武田信玄の小田原攻め(三増峠の戦い)

玉縄北条氏の居城、玉縄城現在、玉縄城の代表的な遺構は大手口の七曲坂。清泉女学院の建設と宅地化により多くの遺構がが破壊されている。

戸部川ともいう。玉縄城の外堀大船駅前の橋から柏尾川を撮影。大船駅のあたりは戸部と呼ばれており、戸部川ともいう。玉縄城の外堀である。

玉縄城は鎌倉市の北西部に位置する。西は藤沢市、北には横浜市が隣接し、鎌倉の玄関口と言える。昔から交通の要衝であったことが窺える。かつては鎌倉郡大船町であったが、1948年に鎌倉市へ編入された。現在、「大船」は広域地名で呼ばれている。

もともと柏尾川の氾濫原であり、湿地帯に点在する丘陵地の存在もあって玉縄城の築城には適した場所である。上杉謙信や武田信玄が対峙を避けたという、その堅固ぶりが窺える。「大船」という語源の由来は諸説あるが、この立地条件に関係している。「相模湾とつながる柏尾川を通って大きな船が出入りできた」とか「常楽寺の裏の丘が” あわふねやま ”で舟のような形だった」からと言われる。個人的には点在する丘陵地が湿地帯に浮かぶ舟のようだったから・・と広範囲に捉えたものではないかと思う。

初代城主:北条氏時

玉縄城主の初代は、北条早雲の次男、北条氏時(嫡男・氏綱の弟)。二伝寺の文書によれば1529年には城主だったことが示唆されている。玉縄首塚由来によれば、1526年、里見義豊が足利義明を奉じて攻めてきた大永鎌倉合戦(鶴岡八幡宮の戦い)では、氏時が柏尾川(戸部川)で迎撃したという。この戦後、相手方と首を交換し供養塔を建てたのが玉縄首塚である。

供養塔を建てたのが玉縄首塚柏尾川沿い、岡本郵便局からやや東側に玉縄首塚がある。石碑は昭和43年に建てられ、首塚の成り立ちが記された。

2代城主:北条為昌

氏時は1531年に死去し、氏綱の子である北条為昌が玉縄城主を継いだ。この時、為昌は12歳であり元服前の少年であったため、氏綱が本城の小田原城と玉縄城の政務を執り行っていた。また、氏綱の娘婿である北条綱成が長らく城代として補佐してきた。

3代城主の北条綱成から、6代の氏勝まで

1542年に北条為昌が急逝すると、(5つ年上ではあるが)為昌の養子となった北条綱成が玉縄城主を継いだ。以降、4代:北条氏繁(綱成の子)、5代:氏舜(氏繁の嫡男)、6代:北条氏勝(氏舜の弟)と続く。

1590年の小田原合戦と、氏勝による玉縄城の開城

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が開戦されると、北条氏勝は山中城(合戦時の城主は松田康長)で守備に就き籠城。山中城は東海道に位置する小田原の西の重要防衛拠点であったが、豊臣秀次率いる7万の軍勢により落城した。氏勝は寡兵を伴い(700騎とも)玉縄城に落ち延び籠城した。玉縄城は徳川軍に包囲されたが、玉縄北条氏の菩堤寺・龍寶寺住職の説得により氏勝は開城し降伏した。以降の小田原征伐では徳川に従い、下総地域の無血開城に尽力した。後に徳川家の家臣となり、下総岩富城に入城、岩富藩1万石の大名となった。

玉縄藩の立藩、そして1703年の廃城まで

小田原征伐後、徳川家康が関東に入部すると、玉縄城は重臣・本多正信の所領となった。(玉縄藩の立藩)。その後、長沢松平家分家から樹立した大河内松平宗家3代(正綱・正信・正久)へと続く。1703年、松平正久が上総大多喜藩に転封されたため、玉縄藩は廃藩ととなり、玉縄城も廃城となった。

玉縄城の遺構

昭和30年代までは多くの遺構があったが、昭和38年、本丸跡に清泉女学院中学高等学校が建てられると遺構の破壊に拍車がかかった。玉縄城の保存活動はあるようだが、宅地化が進み新たな遺構が発見されても保存されることは少ないようだ。

玉縄城の遺構玉縄歴史館に展示されていた城郭図(大竹正芳氏の作図)。「ピンク:狭義の城域、オレンジ:防御拠点の外郭、黄緑:総構えに含まれる山稜部。赤色:道」。昭和29年の地図がベースとのこと。

主郭の東側では、龍宝寺城、岡本砦、長尾台砦が防御。西側ではふわん坂、二伝寺砦、高谷砦(村岡城)、清水曲輪などが防御していたようだ。なお、岡本砦は岡本神社の丘陵地(旧岡本道)ではなく、柏尾川のすぐ西の丘陵地で大船観音がある観音山あたりのことらしい。

龍宝寺城、岡本砦、長尾台砦ジオラマで確認。

遺構の破壊に拍車がかかった1960年代の地形。ここからどんどん丘が削られてしまい、まるで虫歯のような地形に変わるわけだ。

主郭周辺の概要

玉縄城立体模型玉縄歴史館に展示されていた玉縄城立体模型。1:本丸、2:七曲り坂、3:七曲殿屋敷、4:小坂家長屋門、5:諏訪神社(現在の移設地)、6:相模陣坂(新坂)

大竹正芳氏の作図中心部旧状図(大竹正芳氏の作図) 

玉縄城メイン遺構である諏訪壇Google Mapと位置を合わせてみた。本丸は清泉女学院のグラウンドやテニスコートがあるところ。虎口はその南側。校舎が建つ場所は本丸の土塁があったところで裏口にあたる。玉縄城メイン遺構である諏訪壇に上がるには、清泉女学院の校内テニスコートの脇から入ることになるため、許可制となっている。校門前にある巨石は玉縄城遺構の一部とされる。「竪堀が複数残っていたが、トンネル横のマンション建設により破壊された」というのは、清泉女学院の東側のマンションか。。

本丸裏口につながる通路で、出丸のすぐ北は「曲輪の杉林 」と呼ばれている。現在は鎌倉市植木という地名になっており、かつて玉縄城の防衛のために杉を多く植えていたことにちなむ。

本丸周辺の復元歴史館にあった本丸周辺の復元イラスト。

本丸虎口

七曲り坂を登るとそのまま空堀模型でみる本丸虎口。七曲り坂を登るとそのまま空堀の道を通り、本丸虎口へ進入できる。虎口の向かい側(南側)には七曲曲輪がある。

昭和30年頃の本丸跡本丸跡。昭和30年頃の航空写真。

本丸虎口現在の本丸虎口。絶壁という地形以外に面影はなし。当時のイメージイラストが張ってある。通ってきた空堀跡も宅地化でまったく面影はない。

諏訪壇と出丸の「けまりば」

諏訪壇は城の最高部で長方形の平地本丸の東に隣接する諏訪壇は城の最高部で長方形の平地。土塁が残っており、廃城するまでは城の守護神であった諏訪神社を祀っていたと伝わる。(廃城後は龍宝寺の近くに移転)。最も高い場所のため見張り台の役割もあったと思われる。こういった要素から、当時は天守のような城のシンボルであったかもしれない。

諏訪壇の北西には、出丸のけまりば(けまり平)があり、諏訪壇との間に堀切が残る。けまりばの先には月見堂(月見台)と言われる曲輪があり、その間にも堀切が残る。

大手口 七曲坂

七曲坂は重要拠点上り切った先には本丸へつながるため、七曲坂は重要拠点。かつては水田が広がっていたという七曲坂谷にある。城主・北条氏繁の正室(北条氏康の娘)が七曲坂付近に居住していたため、七曲殿と呼ばれていた。谷戸にあった屋敷跡はコープ鎌倉植木によって破壊されている。丘陵地を削り取るには手間が省けて都合の良い場所だったのだろう。現在、七曲殿の住まいとされるものが大長寺(鎌倉市岩瀬1464)に移されている。

※谷戸:丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形。

小坂家長屋門七曲坂のある谷戸(植木谷戸)の入り口付近にある小坂家長屋門。小坂家は代々玉縄番匠を務めていた。番匠(ばんしょう)とは今で言う大工で中世では木造建築に関わった職人をそう呼んでいた。木工(もく)とも呼ばれる。玉縄城の築城において集められた大工などの職人は「玉縄番匠」と呼ばれた。北条氏綱による鶴岡八幡宮修復工事でも活躍したという。

七曲坂のスタート地点小坂家長屋門から住宅地を真っすぐ進み、みどりこども園の脇が七曲坂のスタート地点。

七曲坂七曲坂。

玉縄城の七曲りを歩く7つの曲がり角があったのか・・、それは確認していない。

太鼓櫓と焔硝蔵

市民緑地になった場所が太鼓櫓七曲坂を登りきるとちょっとした高台があり、市民緑地になった場所が太鼓櫓。七曲坂は当時と一部ルートが異なり、登り切る手前の傾斜面に旧道が残されている。太鼓櫓は合図の太鼓を打った場所であろうが、本来は七曲りの最大防衛点というのが本来の目的であろう。太鼓櫓の南に虎口があり、南端が少し高くなっているのは、七曲坂旧道の切り通しを狙いやすくするための構造とされる。

木々が鬱蒼太鼓櫓の平場。木々が鬱蒼としており現在では見晴らしは良くない。

焔硝蔵跡(えんしょうぐらあと)太鼓櫓の南側斜面下に広がる平場は焔硝蔵跡(えんしょうぐらあと)。つまり当時の武器弾薬庫があったところ。東側下には七曲りの旧道である堀切が見える。昔は焔硝蔵跡から相模陣(城主の居館)へ下る小道があったとのこと。

相模陣(南の防衛および、城主の居館跡)

「相模陣」という陣屋本丸南の防衛には「相模陣」という陣屋があり、陣屋坂公園のあたりにあったそうだ。大規模な庭園が発掘されたことにより城主の館もあったと考えられている。(山城ではないから本丸に居館があってもよさそうだが・・・)

陣屋坂上に土塁(ふくろもち)近年まで陣屋坂上に土塁(ふくろもち)があったそうだが、宅地化で破壊されたとのこと。

玉縄城址の石碑のある高台は圓光寺曲輪「玉縄城址の石碑」が置かれたこの高台から相模陣に下る坂が陣屋坂(新道)。立体模型をみると、この石碑のある高台は圓光寺曲輪の端部分のようだ。 圓光寺は玉縄城の廃城後に相模陣の南西(的場と呼ばれた現在の位置)に移転した。

おんまや曲輪圓光寺曲輪の西隣にあるおんまや曲輪には、第六天神社が建つ。すぐ横には相模陣稲荷神社がある。

陣屋坂新道鎌倉植木ヒルステージの脇を通る陣屋坂新道。ここから西側への小道が陣屋坂旧道。

城主の館陣屋坂新道から南方の窪地に住宅が並ぶ。そこが相模陣で、城主の館もあったのか。

龍寶寺城と旧岡本道

谷戸は七騎谷龍寶寺のある谷戸は七騎谷と呼ばれ、鎌倉時代、七騎の武士が暗殺した源実朝の首を抱えてこの丘に一時身を潜めたという。岡本神社(下社)から奥社への古道(旧岡本道)が残されているが、奥社があったという山居には栄光学園が建てられたため、参道があっても奥社はない状況。龍寶寺も前身である香華院のときに山居で開山している。

岡本神社から旧岡本道を通り尾根続きに進むと龍寶寺の裏山に至り、かつて玉縄北条氏の供養塔が置かれていた平場がある。かつて栄光学園の造成工事のため供養塔が移設されていた場所だが、今は龍宝寺境内に移転している。

ここらは古くは参道、近世では通り道になっていたようで改変されている可能性が高いが、山居に龍寶寺が存在していたことを踏まえると玉縄城の遺構も考えられる。ここは大手口につながる七曲坂を眺望できる場所であり、さすがに無防備であるはずがない。玉縄城址まちづくり会議によれば、龍寶寺の裏山を龍寶寺城としている。

龍寶寺城七騎谷の模型。龍寶寺城とされている。

岡本神社(龍寶寺城の一部か)

岡本神社に登ると、岡本砦とされる観音山の大船観音が眺望住宅地の細い道を通り、岡本神社に登ると、岡本砦とされる観音山の大船観音が眺望できる。岡本神社のある丘陵地は龍寶寺城に属するのだろう。(ややこしいな)

階段手前の案内板には、「平安時代から室町時代まで、岡本神社(お伊勢山神明神社)の旧参道があった道」と書かれている。説明板に書かれた縁起によると、現在の岡本神社は平成10年、角田氏によって復元されたとのこと。次のように説明している。

938年頃、村岡城主、平良文の一門であった角田家は約3万坪の所領を寄進し岡本神社を創建した。当時、奥社はこの場所(下社)から300m上の山頂にあり、岡本村の鎮守であった。(以下、現地案内板の表現を尊重して記載)。1512年頃、この地に侵攻してきた玉縄城主ら(北条早雲および、後の玉縄北条氏)によって岡本神社は解体され、岡本地域など約20万坪の所領が奪われた。当時、角田家は北条氏と敵対する三浦氏に属していた。

・・・町おこしとしては玉縄北条氏をリスペクトしているが、それ以前から支配していた豪族からすれば侵略者なわけで、その子孫は何とも言えない感情なのだろう。玉縄北条氏の支配下になると、龍寶寺城として利用されたわけか。

伏見稲荷神社岡本神社の一段下に伏見稲荷神社があり、その脇に古道(旧岡本道)がある。

大仏切通に似た古道旧岡本道は大仏切通に似た古道。喧騒とした街から一転する風景。ただし、可能性はゼロではないが、城の遺構とは言いづらいものがある。

山居と呼ばれた場所に建つ栄光学園かつて山居と呼ばれた場所に建つ栄光学園。ただし山頂ではなく、やや低地になっている。ここまで削平されていては当時の姿を想像するのも無理だろう。

諏訪神社

玉縄城主となった北条綱成が本丸の東に位置する「諏訪壇」に諏訪大明神を祀った龍宝寺の北の丘の上に鎮座する諏訪神社。もともとは玉縄城主となった北条綱成が本丸の東に位置する「諏訪壇」に諏訪大明神を祀ったのが始まりという。1703年、松平正久が上総大多喜藩に転封され玉縄城が廃城となった後、龍寶寺の裏山に移したという。

高台にあがる石段諏訪神社の境内。高台にあがる石段と迂回したスロープが設置されている。

龍寶寺

龍寶寺は、かつては玉縄北条氏の菩堤寺で供養塔を有する鎌倉市植木にある曹洞宗の龍寶寺は、かつては玉縄北条氏の菩堤寺で供養塔を有する。3代目玉縄城主・北条綱成による開基で創建年は文亀3年(1503年)。当初は山居と呼ばれる所(現在の栄光学園)に香華院(香花院:こうげいん)として開かれた。綱成の戒名からとって瑞光院(ずいこういん)とも呼ばれた。綱成は氏繁に家督を譲った後、香華院に隠居したと伝わっている。

のちに北条綱成の孫である北条氏勝が、父・氏繁を弔うために現在の地(七騎谷の奥地)に移転させ、寺名を「龍寳寺」と改めた。龍寳寺とは氏繁の戒名による。本堂は昭和26年の火災で全焼したが昭和34年に再建。

龍寶寺では玉縄城主や源実朝の位牌が祀られている。寺が開山する前の鎌倉時代、公曉が源実朝を暗殺したが、その公曉の部下7人が実朝の首を隠した場所と伝わっている。

1590年、小田原征伐時、大長寺(鎌倉市岩瀬1464)の住職・暁誉 源栄が徳川家康の依頼を受け、龍宝寺住職・良達とともに北条氏勝を開城するよう説得した。若い頃、三河国大樹寺で修行をしていた源栄は家康と旧知の仲であった(後に駿府で家康の遺言を受けるほど)。※大長寺は大頂寺だったが、小田原征伐後、家康の提案で改名している。

山門

山門はで元禄年間頃の創建木造茅葺の山門はで元禄年間頃の創建と伝わっている。

山門から本堂まで続く参道に敷かれた御影石は、廃止された都電で使用されていたもの。明治から昭和初期にかけての50年間、境内に玉縄学校(玉繩小学校の前身)が置かれていた時期がある。昭和12年に玉縄学校が移転し、昭和23年に玉縄幼稚園が境内に創立された。

玉縄北条氏 供養塔(ぶっけり仏)

玉縄北条氏の供養塔本堂の横にある玉縄北条氏の供養塔。元和年間(1615年~1624年)の後期とされるが、龍寶寺住職四世の良順によって建てられた。当初は山居(現在の栄光学園)にあったものだが、学園造成工事のため裏山の尾根上に移設され、そして2012年に「玉縄城築城500年記念」として現在の位置に再度移設された。この供養塔が旧地に建っていたころは、いつも倒れており、直してもまた倒れていることが多かったため「ぶっけり仏」と呼ばれていたという。

旧石井家住宅

建てられた旧石井家住宅が龍宝寺境内に移築元禄期(1688年~1704年)に建てられた旧石井家住宅が龍宝寺境内に移築されている。もとは鎌倉市関谷1575(倉骨)にあったものだが、老朽化により取り壊されることを惜しんだ龍寶寺の住職が寄贈をうけ、境内に移築保存されることになった。

石井家は北条氏に仕えていた地侍であったが、北条氏滅亡後に帰農した一族。代々、関谷村(玉縄城の北側)の名主であった。甲州街道筋にある関谷とは関屋に由来し、玉縄城本丸へ向かう関所があったという。

「三間取り四方下家造り」で戸口や窓の開口部が少ない、神奈川県の農家でみられた典型的な建物とのこと。建築後の経過については明らかではないが、生活の利便性のため諸々に改造の跡も見られるとのこと。昭和44年に重要文化財に指定され、翌年に修理工事が行われた。

人力霊柩車旧石井家住宅の向かいに置かれたコレは何だろうか?人力霊柩車?関谷の倉骨という地名に由来するものだろうか。

砦跡など外郭部

二伝寺砦、長尾砦、大船観音が建つ物見台玉縄城の砦には、二伝寺砦、長尾砦、大船観音が建つ物見台などがある。

本丸跡に清泉女学院が建てられた1960年代の玉縄城縄張り。まだ密集するほど宅地化は進んでいないが、昭和38年(1963年)に本丸跡に清泉女学院が建てられたので、あとは時間の問題だったのか。

光円山 久成寺(くじょうじ) ~ 徳川家康が戦勝の祈祷を依頼

梅田秀長が屋敷を寄進して開山されたのが久成寺日蓮宗を信仰していた北条氏家臣、梅田秀長が屋敷を寄進して開山されたのが久成寺(鎌倉市植木494)。1520年の創建で開基は日舜(にっしゅん)。小田原征伐では、徳川家康が住職日顗上人に祈祷の依頼をしている。北条氏勝が玉縄城に籠城しているときは、すでにここらの砦は徳川軍に占拠されていたわけか。戦後、家康が鷹狩で久成寺に立ち寄り、日顗上人が柚子を献上したところ、家康から弁当箱を授けられた。「葵の紋」入りの弁当箱が寺宝になっている。

源実朝を暗殺した公暁を討ち取った長尾定景および、一族の墓所となっているが、長尾台(長尾砦)から移されたものである。長尾氏の祖家で、後に白井長尾家・総社長尾家に分裂。上杉謙信の祖にあたる。

ふわん坂(久成寺坂)

久成寺に通ずる坂であることから「久成寺坂」ふわん坂は急傾斜の道で、久成寺に通ずる坂であることから「久成寺坂」ともいう。坂の両側にかつては坂道を見下ろす平場があり、本丸に向かってくる敵を迎撃できる構造だったという。

不安(ふあん)じゃなくて「ふわん」模型による地形理解。竪堀も兼ねたような通路だった気もする。不安(ふあん)じゃなくて「ふわん」とはどういう由来なのだろうか。いずれにしても警戒心を抱かずにはいられない場所ということだ。

ふわん坂の丘陵地久成寺側から見たふわん坂の丘陵地。

二伝寺砦

二伝寺は平将門の叔父である平良文の墓所本丸の南西に位置する二伝寺砦。西側(藤沢方面)または南への押さえとして機能していたと思われる。圓光寺と貞宗寺の間に二伝寺坂という古道があったそうだが、二伝寺砦の大手とされる。ただ二伝寺坂は現在通れない。二伝寺砦を中心に久成寺、圓光寺、貞宗寺の丘陵地が取り囲んだ防衛線とみてとれる。

二伝寺の西にある本在寺公園は分断されているが、もともとはつながっていた丘陵地と思われ、二伝寺砦の一部とみてとれる。西方面への物見に適した位置である。(村岡ホームが分断したわけね)。二伝寺は平将門の叔父である平良文の墓所にもなっており、平良文、忠光、忠通三代の塚がある。

玉縄城 初代城主の北条氏時の初願により二伝寺は開山1505年、玉縄城 初代城主の北条氏時の初願により二伝寺は開山された(開山時の寺号は異なる)。当時は玉縄城から尾根続きとなっており、この辺りの地域では最も高い場所であったという。さらに旧鎌倉街道に沿っていたため、重要な砦として機能していた。大本山である光明寺の伝書(本山伝)が紛失したとき、二伝寺に伝書の写しがあったため、「2つ目の伝書」ということから、二伝寺と改められたという。

土塁二伝寺の境内はぐるっと1周回れる散歩コースになっており、所々、土塁が確認できる。

村岡五郎(平良文)墓前碑土塁の中腹に置かれた村岡五郎(平良文)墓前碑。ここにある塚が平良文を初め、二代の忠光、三代の忠通ら村岡城主の墳墓と伝わっている。平良文は、関東で活躍した豪族の坂東八平氏(三浦氏、千葉氏、上総氏、大庭氏、畠山氏、長尾氏、梶原氏、土肥氏)の始祖にあたる。ここも戦国時代には砦の土塁として使われたのだろう。

墓前碑によると、平良文は886年生まれ、923年に母とともに東国へ下り、相模の村岡郷渡内に館(村岡城)を構えた。城の守護神に比叡の日吉大社の祭神を勧請した(現在の渡内 日枝神社のルーツ。もとは宮山に勧請されたものだが、1420年に福原家が現在の場所に移し、平良文の霊も合祀した)。宮前村の御霊神社は、平将門討伐と国家安穏を祈願して勧請したものと伝わる。(平良文は将門の味方だったと思うのだが・・・)

玉縄城の守備を任されていた松平正次一族の墓二伝寺境内墓地には、渡内に住み玉縄城の守備を任されていた松平正次一族の墓がある。(松平正次は、玉縄藩初代藩主:松平正綱の養父)。

小田原征伐後、徳川家康が関東に入部すると、玉縄城は重臣・本多正信の所領となった。(玉縄藩の立藩)。その後、長沢松平家分家から樹立した大河内松平宗家3代(正綱・正信・正久)へと続く。1703年、松平正久が上総大多喜藩に転封されたため、玉縄藩は廃藩ととなり、玉縄城も廃城となった。

城護山 圓光寺

初代玉縄城主の北条氏時が澄範を招き開山した圓光寺。かつては城内(城址の石碑が置かれている圓光寺曲輪跡)に創建されたというが、廃城後に現在の位置に移転した。ここは的場と呼ばれており、もとは砦の一部だったのだろうか。

村岡城(高谷砦)

村岡城址公園にあったとされるのが村岡城二伝寺砦の南、村岡城址公園にあったとされるのが村岡城。玉縄城の高谷砦(たかや-とりで)が、この村岡城とされる。かつては上ノ屋鋪(うえのやみせ)と呼ばれていたところ。

村岡城を築城したとされる村岡城址公園となっているが、遺構はただの高台程度に過ぎない状態。宅地化が凄まじく実際は屋敷跡が明確ではない。

坂東八平氏の祖である平良文が平安時代中頃(10世紀前半)に荘園を開き、村岡城を築城したとされる。村岡五郎と称したというが・・。鎌倉時代になると村岡は鎌倉への要所となり、鎌倉末期には新田義貞の鎌倉攻めの折に布陣した城とされる。室町・戦国時代においても度々、村岡周辺は戦場となっている。江戸時代には藤沢宿の助郷と定められた。助郷とは、街道を往来する大名や武士に荷物運びの人や馬を提供する制度。村岡の農民にとっては重い制度であったが、明治時代に廃止された。

三日月谷(別名:おきのやと)が堀北側には三日月山がありその麓の三日月谷(別名:おきのやと)が堀となっていたが遺構は破壊され確認できない。三日月山の裾にあった三日月井(鎌倉権五郎景政【平景政】の産湯井)も破壊された。

高谷山 長福寺が建つ高谷砦の南方は長福寺谷であり、高谷山 長福寺が建つ。日本城郭大系には「長福寺の姿はなく・・」と言っているので近年に再興されたものだろう。コンクリートの本堂に、陶器の作品、物置・・、異様な境内。境内の奥にあるのはお堂ではなく住職の家屋か。

長尾台砦と岡本砦

舌状の丘陵地に長尾台玉縄城の北東に位置する舌状の丘陵地に長尾台がある(横浜市栄区長尾台町)。鎌倉市史では玉縄城の長尾砦としている。関東管領上杉家の家宰・長尾家の発祥地とされる。遺構とよべるものなのか、はっきりしないとのこと。柏尾川は天然の外堀であり、そのすぐ内側にある「大船観音がある丘」は物見として活用されたという。

岡本砦大船観音のある観音山は、岡本砦だという。

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