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小田原北条氏の支城、甲斐武田氏に対する防衛地

津久井城

神奈川県相模原市緑区の津久井城-つくいじょうを登城した。(2019年11月)。かつて「宝ヶ峰」と呼ばれた山に築かれ、現在見られる遺構は戦国時代のもので津久井湖城山公園として整備されている。戦国期は小田原北条氏の支城であり、家臣の内藤氏が城主を務めていた。相模国北西部に位置し、北方に武蔵国、西方は甲斐武田氏の領地で津久井城がその境目であった。「小田原衆所領役帳」には甲斐武田領と接する一部の地域に「敵知行半所務」と記されている。この地域では小田原北条氏と甲斐武田氏に半分ずつ年貢を納める決め事になっていた。つまり「敵半地」であった。

名胡桃城事件が起こると惣無事令違反とされ、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めが開始される。20万人の軍勢が小田原城を包囲し、支城への攻撃も開始された。津久井城には、本多忠勝・平岩親吉らの徳川勢12.000の軍勢が攻めた。内藤綱秀が津久井城に籠城し交戦したとされるが、大規模な戦闘はなく6月25日に降伏、開城した。城主の内藤直行は小田原城に籠城していたが、後北条氏滅亡のあと北条氏直に従い 高野山に隠棲したとされる。江戸時代初頭には陣屋が置かれ、廃止後は幕府直轄林(御林-おはやし)として利用された。

津久井城-つくいじょうを登城北側、津久井湖記念館からの津久井城眺望。この日(2019/11/17)は「第5回 つくい湖湖上祭」が開催されていた。津久井城の北は相模川が天然の要害となっていたが、現在では1965年(昭和40年)に完成した城山ダム(人造湖である津久井湖)が広がる。城の南側、金原地区には前陣場・奥陣場・勝どき畑・首塚など戦に関連する地名が残されている。

津久井城の築城期

「新編相模国風土記稿」によれば鎌倉時代の築城とされるが、当時三浦半島一帯に勢力を持っていた三浦一族の津久井氏(築井氏)の築城とされる。その理由は、三浦義明の弟、義行が三浦半島の津久井を領して津久井姓を名乗っており、愛甲郡北部も領していたためである。他にも新編相模国風土記稿や、津久井城本丸にある「築井古城記の碑」に基づいてそのような通説になっているが、当時、津久井氏がそこまで勢力を持っていたとは考えられないため、あくまで伝承である。

「津久井」という地名

「津久井」の地名が文献で見られるのは、1411年の「真覚寺観音堂棟札」からであり、古くは奥三保(おくさんぽう)と呼ばれていた。長尾景春の乱(1476~1480年)では、太田道灌の弟とされる太田資忠が奥三保に陣取った本間氏・海老名氏・加藤氏を撃退したという記録がある。1495年に小田原城を奪取した北条早雲は三浦氏の新井城を落とし、1516年頃には相模国平定するが、このとき北条早雲に味方した長尾景春が「津久井山」を拠り所にしたと1510年の「上杉顕定書状写」に記されている。また三浦系図伝には三浦道寸が「津久井山」を攻めたとある。この津久井山が津久井城であれば、後北条氏の支城となる以前から城または砦として機能していたと思われる。また津久井城には十兵衛山という小田原北条氏には無用と思われる東方の砦があり、そのことが伺える。

内藤氏と津久井城

1524年の「内藤大和入道寄進状」によって初めて内藤氏の存在が記されている。戦国時代初期は鎌倉公方足利氏、扇谷上杉氏の支配であったが、1524年ごろには小田原北条氏の支配下と思われる。内藤氏の出自ははっきりしていないが、津久井城主と しての内藤氏は5代続いたと考えられ、「内藤大和入道→朝行→康行→綱秀→直行」と続く。

2代の朝行は上杉朝良の一字拝領、3代の康行は北条氏康の一字拝領と思われるため、津久井城が小田原北条氏の支城になったのは3代目・内藤康行のころと考えられる。鶴岡八幡宮再建工事(1532年~)の関する文献では、内藤氏が小田原北条氏の家臣として扱われている。1559年、北条氏康によって作られた「小田原衆所領役帳」には内藤氏を中心とした家臣団「津久井衆」が記されており、津久井城主内藤左近将監が筆頭にある。

なお、津久井城本丸にある「築井古城記の碑」や「新編相模国風土記稿」には、内藤景定・景豊の名前が見られる。内藤氏の菩提寺である功雲寺では内藤景定を開基としているが、5代続いた内藤氏との関連性が分かっておらず、謎の津久井城・城主とされている。

根小屋式山城の、津久井城

根小屋式山城縄張り全域。現在の遺構は後北条氏によって整備されたものと考えられる。津久井城は山麓に屋敷地を設けた山城であり根小屋式山城という。根小屋とは城主や家臣団の屋敷が置かれた一帯を指す。(主に東国でそう呼ばれる)

根小屋部は城主の屋敷があった御屋敷(御主殿)のほかに、北根小屋の小網、南麓の西荒久、荒久、馬込の一帯に広がっていたとされる。西方の功雲寺や北麓の大蔵寺も津久井城の関連施設とされる。山頂一帯の本城曲輪と飯綱曲輪を詰城部とし、戦となればそこへ登った。

津久井城イラストパークセンターに展示してあったイメージイラスト。

パークセンターにあったジオラマ。北のダム側からみた津久井城立体模型。

さらに俯瞰。

城主の住む御屋敷があった根小屋地区(南側)から見た津久井城。

今回は内藤氏の菩提寺・功雲寺に行かなかったので、ジオラマのみで確認。川に囲まれた曲輪になっており、功雲寺も津久井城の一部で出丸だったのではなかろうか。

根小屋 地区(御屋敷周辺)

御屋敷城主の住む「御屋敷」を中心とした根小屋地区の縄張り。南の尻久保川は堀であり、天然の要害であった。

ジオラマで見る根小屋地区。

根小屋の散策マップ。

根小屋諏訪神社

根小屋諏訪神社西側、小峰山の麓に鎮座する根小屋諏訪神社。小峰山にも小規模ながら曲輪が形成されている。

名木百選に選ばれている杉。

陣屋跡(パークセンター)

パークセンター津久井城の歴史を紹介しているパークセンター。

小田原北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入封するが、津久井城にも代官が駐在する陣屋が置かれた。パークセンター付近はおじんや(御陣屋)の屋号を持つ旧家があり陣屋跡とされていたが、発掘調査により確証された。陣屋が設置された年代は不明だが、守屋氏が代官に着任したのは1608年。代官頭制度の改編などにより1664年頃までには廃止され畑になったたとされる。

陣屋の建物跡パークセンターの隣りにある研修棟の下では陣屋の建物跡が発見されており、模型の展示がある。

城坂橋

水牢と言われている牢屋の沢に架けられた城坂橋。少し上流の場所に牢屋があったとされ、江戸時代初頭(代官が置かれた時期)に使われたとされる。水牢と言われているが場所は特定されていない。元は堀であったことは容易に推測できる。御屋敷の防衛のため、もともと小さかった沢を掘り下げて規模を大きくしたとされる。

しんでん

江戸時代に新たに田畑が作られた場所城坂橋の先は「しんでん」と呼ばれる場所。江戸時代に新たに田畑が作られた場所と思われる。1664年の検地帳では陣屋が田を持っていたと記している。戦国期の遺構としては土塁跡や橋が架けられた形跡があるとのこと。ここから北に向かえば御屋敷跡にたどり着くが、その道が戦国時代にあったものかは定かではない。

御屋敷跡

古城図には内藤左近屋敷御屋敷跡は戦国時代、城主の内藤氏の居館があったとされる場所。古城図には内藤左近屋敷と書かれている。江戸時代では陣屋関連の施設が置かれたようである。現在、遺構は埋め戻されている。

御屋敷跡を別のアングルから。

御屋敷跡の遺構詳細。中世(戦国期)のものでは、大規模な土塁や煙硝蔵(火薬庫)が見つかっており、城の中枢だったことは間違いなく、御主殿であったと認識されている。江戸期に土塁などの防衛施設が壊され改修されている。

パークセンターにあった発掘時の写真。御屋敷としんでんは江戸時代初期まで使用されていた痕跡がある。戦国時代の御屋敷は江戸期よりもひと回り小さかったことが確認された。

三増峠の戦いと、津久井城

三増峠御屋敷跡の北、展望広場からの眺望。津久井城の南方には、有名な古戦場である三増峠がある。

1568年、武田信玄は今川氏真との同盟を破棄し駿河に侵攻するが、今川氏を支援する北条氏康は信玄と対峙することになった。1569年10月、信玄は2万の軍勢で鉢形城(北条氏邦)・滝山城(北条氏照)を攻撃、小田原城を包囲する。め小田原城攻めでは城下に火を放ち撤退、三増峠(津久井城の南方約3km)を越えて甲斐に戻る進路を取った。

この帰路を狙って北条氏康・氏政が追撃を決める。待ち伏せの挟み撃ちを狙い、北条氏照・氏邦の軍勢を三増峠に向かわせた。しかし、北条氏康の軍勢が到着する前に山県昌景隊の攻撃で北条軍が総崩れ、武田方が勝利した。三増や韭尾根では武具の破片や人骨が見つかっており、戦にちなむ地名が残る。両軍の死者は4000人を超えるとされる。甲陽軍鑑によれば、信玄が小幡重貞軍を長竹村の囲い沢(隠し沢)に 配置し、津久井城(内藤氏と津久井衆)を牽制したため、津久井城の軍勢は三増峠の戦いに参戦できなかった。

竪堀と切岸

切岸が確認展望広場からやや西側に行くと、大規模な竪堀が見られる。牢屋の沢に向かって伸びている堀であるが、発掘調査が行われていないため詳細は不明。切岸が確認されているそうだ。

なお、津久井城では麓のルートにデッキ園路が設けられている。バリアフリーという目的もあるが、園路整備による遺構の破壊を回避するために設置されているのだそう。城山整備では「地形改変を避け、まがいものは造らない」というポリシーがあるという。

詰の城部へ!城坂と車坂

城坂と車坂の急坂いよいよ詰城部である山頂へ向かうが、城坂と車坂の急坂を登山することになる。いくつかルートがあるが、パークセンターからならここが最短ルートである。※車坂は、曲輪坂-くるわざか-が転じたものかと思われる

なお車坂の西側に大手道があり、尾根をつづら折りに登るルートとなっている。馬道ともいい、馬が二頭並んで歩けた道だそうだが、現在は遺跡保護のため通行禁止になっている。

城坂曲輪群城坂の登山口。なお、城坂曲輪群では庭園の池跡が見つかっており、それは同じく限定的に発見されている八王子城や鉢形城に並ぶ発見であったという。ただ登山道からは散策できない。

根本登山道と小倉登山道と交差城坂と車坂(男坂)の中継点。根本登山道と小倉登山道と交差しているポイントである。東の小倉登山道を通って十兵衛山に行きたかったが、がけ崩れのため通行止めであった。十兵衛山は諦め、車坂を登り本城曲輪へ向かう。

津久井城のなかでは急峻な上り坂そして車坂(男坂)を登る。津久井城のなかでは急峻な上り坂ではあるが、ハイキング慣れしていれば大して難所でもない。終盤の方では切岸と思われる岩盤が見られる。

津久井城、詰の城部

詰の城部車坂(男坂)を登りきり山頂の尾根道に出ると、津久井城の詰城部となる。標高375m。大きく分けると、本城曲輪、太鼓曲輪、飯綱曲輪、鷹射場(たかうちば)の4つで構成される。その中でもメインは本城曲輪と飯綱曲輪の2つ。各尾根に小さい曲輪が階段状に配置され、3箇所には大堀切、山腹には谷筋を拡張した長い竪堀が複数ある。

本城曲輪と飯綱曲輪詰の城部、ジオラマ。

家老屋敷

車坂(男坂)を登りきり山頂の尾根道に出て本城曲輪に向かうが、太鼓曲輪の手前に家老屋敷への脱線ルートがある。家老屋敷は太鼓曲輪の下に広がる三角形の腰曲輪であり、山の斜面を削平して造成されている。さらに下方にも腰曲輪が2段並んで造成されている。

その名の通り家老屋敷だろうが、ここは詰の城であるため戦闘時に使われたはずである。もとのルートに戻り(大した距離じゃない)、太鼓曲輪へ向かう。

太鼓曲輪

太鼓曲輪という呼び名で伝承されており、飯綱曲輪方面に対する防衛地点。太鼓を打ち鳴らした場所なのか不明だが、麓の功雲寺には内藤氏が寄進したとされる太鼓が所蔵されている。

大堀切

太鼓曲輪と本城曲輪を断ち切る大堀切。この場所には引橋の地名が伝わっており、古絵図にも橋が描かれているためかつては引橋が架けられていたようだ。引橋とは戦闘時に移動や容易に破壊できる橋のことである。

案内板が設置されているこの場所は、太鼓曲輪から西端に伸びている尾根道であるが「剣先」と呼ばれている。

現在の登城コースでは必然的に土橋になっている。定例であるが、大堀切を撮影してもなかなか規模が伝えられない。大堀切は見ごたえあるので、もうワンショット。

本城曲輪群

本城曲輪群の見取り図。小曲輪が階段状に配置されている。

土蔵

土蔵だったところ。

米曲輪

米曲輪と呼ばれる帯曲輪。

本城曲輪と米曲輪の間の土塁。頂上に築井古城記の碑が建てられている。

築井古城記の碑

築井古城記土塁の上に建てられた築井古城記の碑。これは城主・内藤氏の家臣、島崎氏の末裔である島崎律直(根小屋村名主)が1816年11月28日建立したものと記されている。津久井城の地形、沿革、内藤氏の系譜通説などが記されている。題額者(題字:築井古城記)は松平定信。碑石の高さは150cm、幅80cm、厚みは20cm。700kgほどの重さだというが、よく山頂まで運んだものだ。しかも5万両の費用がかかったと伝わっている。

本城曲輪の虎口

発掘調査で門の礎石や石敷き階段が見つかっている「もん」と呼ばれていた場所。本城曲輪の虎口であるが、発掘調査で門の礎石や石敷き階段が見つかっている。大手口の虎口はここより西側である。

つまり本丸本城曲輪。つまり本丸ですな。

土塁本丸を囲む土塁。

中世では相模川本丸の北側から見える津久井湖(人工湖であるダム湖)。中世では相模川が見下ろせたわけだ。

飯綱曲輪群

天狗山本城曲輪から引き返すルートで飯綱曲輪へ向かう。飯綱曲輪群は「天狗山」とも呼ばれていた。

飯綱権現を祀る飯綱神社飯綱曲輪へ向かう。頂上部には飯綱権現を祀る飯綱神社が鎮座している。城道としては当時、参道の階段はなく空堀状だったようだ。飯綱曲輪へは西側から進入したという(上の図で赤い矢印のルート)

飯綱権現は不動明王の化身飯綱神社の境内。飯綱権現は不動明王の化身で軍神。高野山が飯綱権現信仰の中心であったため、津久井城でもその影響があったのだろう。

宝ヶ池

宝ヶ池がある飯綱神社の周囲に宝ヶ池がある。隣には鮮明版とよく読めない碑文がある。津久井城の水の手(溜井)のひとつ。江戸時代の地誌「新編相模風土記稿」には、いつも安定して水をたたえており、水が白く濁っていることから城兵が刀を研いだとも伝えている(今は黒く濁った池であるが)。雨乞いの行事にも使われたという。

津久井城では宝ヶ池の他に、本城曲輪の北側、御屋敷跡で井戸跡が発見されている。山麓ではいたるところに水源があるため、籠城しやすい山城であったようだ。

大杉

飯綱神社の周囲に大杉同じく飯綱神社の周囲に大杉。内藤氏の時代でもすでに古木であったようだ。樹高25m、推定樹齢900年の「津久井の名木」であったが、2013年夏の落雷でこのような姿になった。根本から5mほど焼け残っている。

みはらし

狼煙にはオオカミの糞を種火飯綱曲輪南方の見晴台。そしてちょうど撮影しているこの地点が狼煙台または鐘撞堂だったと伝わっている。

戦国時代、城や砦間での情報伝達に狼煙や旗、吹流を使っていた。狼煙にはオオカミの糞を種火にしており、煙が真っ直ぐに上がるため風に強いと伝わっている。なお、夜間や雨天時には鐘や法螺貝を使った。

上野原の伝承:望郷の鐘

このような鐘に関する伝承がある(上野原の伝承:望郷の鐘)。小田原北条氏が上野原大倉(山梨県上野原市大倉 )の要害山にあった鐘撞堂の鐘を戦利品として津久井城に持ち帰った。鐘撞堂を建てその鐘を鳴らしたところ、「オークラ、オークラ」と鳴るのだとかそれは新しく鋳造し直しても変わらない。怨念を恐れた津久井城の城兵は功雲寺の近くの池に鐘を沈めたという。

鷹射場(たかうちば)へ向かう

堀切飯綱曲輪と鷹射場の間にある堀切。

鎖場ここの堀切は足場が悪いので、鎖場になっている。

鷹射場鷹射場に到着。コンクリートブロックが4つ残されており、昭和か平成に鉄塔が建っていたようだ。

相模原市緑区鷹射場から見る相模原市緑区の眺望。

十兵衛山

十兵衛山は行かなかった津久井城の東端、十兵衛山は行かなかったのでジオラマで我慢する。位置から東方の守備と理解できるが、敵である甲斐武田の領地と反対方向のため、小田原北条氏による築城部ではないと考えられる。室町中期より前のものだろう。

城山ダム

津久井城の学術調査は、1960年(昭和35年)の城山ダム建設に伴い初めて行われた。1995年から公園整備に伴う城郭全域の調査が始められた。

城山ダムが建設される前の相模川と集落津久井湖記念館にあった写真で、城山ダムが建設される前の相模川と集落。荒川などの地区は津久井湖に沈んだ。戦国時代もこのような風景であっただろう。

人工的に造られたダム湖は津久井湖城山ダムが建設された風景。人工的に造られたダム湖は津久井湖(つくいこ)と命名された。ダム工事では13人殉職ししており、津久井湖城山公園内に慰霊碑が建立されている。

城山ダムと津久井城津久井湖記念館から見た、城山ダムと津久井城。本城曲輪と飯綱曲輪の頂上部がよく分かる。レポートは以上。

城郭に関する本

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