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太田道灌の3名城のひとつ(諸説あり)。
最大級の水堀を誇った、岩槻城
埼玉県さいたま市岩槻区にあった岩槻城は、室町時代末期に築かれた城郭である。別名では浮城、白鶴城、竹束の城とも呼ばれる。太田道灌(または父である太田道真)が、主君である上杉持朝(扇谷上杉氏)の命令で築城したとされる。江戸城 ・河越城とともに同時期に造られた太田道灌の3名城のひとつで、古河公方・足利成氏に対抗するためと言われている。道灌の末裔・岩槻太田氏が支配している1560年頃には、北条氏への備えとして、岩槻城の西に支城の寿能城が築城されている。
なお、岩槻城に関して近年では忍城で知られる成田氏(成田正等)の築城という説が出ている。一方、正等は「道真の法諱」とみなす反論もあり、さらには渋江氏説まであり、結局ははっきりしていない。太田氏説では1457年に築城、成田氏説では1478年の築城という。また成田氏説では敵方である道灌が奪い取ったとされる。岩槻城は道灌の養子である太田氏末裔が支配したあと、北条氏の支配となり、江戸時代には岩槻藩の城となった。
岩槻城址公園に遺構が残されている。登城は2018年7月。
太田氏の岩槻城~廃城まで
岩槻城には築城者とされる太田道灌の足跡はないが、16世紀前半には太田氏が城主であり、道灌の養子である末裔がしばらく支配していた。その支配も一筋縄とは行かず、扇谷上杉氏や北条氏が絡んで紆余曲折を経ている。江戸時代には岩槻藩として存続したが明治時代に廃城となった。
太田氏の岩槻支配の始まり~太田資頼
1486年、道灌が謀殺され、翌年には扇谷上杉氏と山内上杉氏が対立し戦乱期となる(長享の乱~1505年 )。扇谷上杉氏に仕えていた太田資頼が北条方に寝返り、岩槻城の渋江氏を破り岩槻城を支配する(1524年または1522年)。しかし同年、扇谷上杉氏の援軍に攻められ降伏、扇谷上杉氏に帰参する。1525年、北条氏に岩槻城を奪われるが、1530年には奪回している。
※太田資頼は、太田道灌の養子である太田資家の子
北条氏と太田氏
1533年、太田資顕が家督を相続したが北条氏との関係を強めていき、主君・扇谷上杉氏が滅亡した河越夜戦(1546)後には北条氏家臣となった。資顕が翌年1547年に死去すると、武蔵松山城を拠点としてた弟の太田資正が岩槻城を攻め取り、力づくで家督を継承する。しかし北条氏に攻められ1548年に北条氏に降伏し、しばらく北条氏家臣時代が続く。1560年に上杉謙信の関東侵攻(小田原城の戦い)が始まると、太田資正は北条氏から離反し上杉軍として奮戦する。北条氏康は報復として何度も岩槻城を攻めている。
1563年~1564年、里見氏に加勢し第二次国府台合戦にて北条氏と戦うが、敗北し岩槻城に帰参する。里見氏とともに再戦の準備中、親北条派であった太田氏資(資正の嫡男)が父を追放し岩槻城主となる。1565年、太田資正は岩槻城奪還を図るが失敗。以後、岩槻城に帰参することはなかった。
1567年、三船山合戦で里見氏と北条氏が激突。太田氏資は北条軍の殿(しんがり)を務め討ち死にした。その後、岩槻城は北条氏の直轄となり、1580年には北条氏直の弟の源五郎が太田氏を継承し、岩槻城に入るも早世。1585年にはその弟である北条氏房が城主になった(形式的には太田氏を継承)。
小田原征伐と岩槻城
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、北条氏房は小田原城に籠城する。そして支城戦として岩槻城と寿能城は豊臣方から攻撃を受ける。氏房の家臣・伊達房実が指揮を取り岩槻城に籠城。2000の兵で浅野長吉など豊臣軍2万の兵と戦う。5月20日に開戦し岩槻城は3日間で落城した。
岩槻藩の岩槻城
同1590年、北条氏は滅び徳川家康が江戸に入封してくるが、徳川家臣の高力清長が岩槻城主となった。江戸時代では、江戸北方の要となり幕府要職の譜代大名の居城となっている。岩槻藩5万5千石の城下町が形成され、日光御成街道の宿場町になった。 高力氏以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏~と譜代大名の居城となった。廃藩置県の行われた明治時代になると廃城で払い下げとなり、城の建物は各地に移されていった。
岩槻城の城下町散策
岩槻城は現在市街地の東に位置しており、元荒川(当時は荒川の本流)の南西に広がる湿地に突き出した岩槻台地上に主郭が置かれた。久伊豆神社のある北方に新正寺曲輪、主郭の南側に新曲輪、西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。石垣は使われておらず、土塁と堀の関東では一般的な築城となっている。かつて存在していた水堀の面積は全国の城の中でも最大級といわれる。
今回は赤枠のスポットを散策した。この城郭マップは江戸時代後期の城郭および城下町であり、現在ではごく一部の遺構しか残っていない。元荒川の川筋も変わっており、現在は城下町を包み込むような流れにはなっていない。「埼玉県道2号さいたま春日部線」を開通させたため、主郭の曲輪および堀は何も残っていない。
現在では南端の新曲輪、鍛冶曲輪が岩槻城址公園として県史跡に指定されている。これらの曲輪は北条氏支配期に造られた出丸であり、北条氏の築城で知られる障子堀が発見されている。
大構(愛宕神社の土塁)
戦国末期から江戸時代では、岩槻城下町を含め長さ約 8 kmにわたり周囲を土塁と堀が囲んでいた。この土塁や堀のことを大構(おおがまえ)という。または「総構え」ともいい、小田原城や館林城の城郭で知られるが全国でも数少ない城郭である。1587年ごろには小田原北条氏が豊臣政権との間で緊張が高まり、岩槻城および城外の町場を一体化するために増築したと考えられる。大構は城の防御強化だけでなく、城下町の保護として機能する。
廃城後に大構は破壊されたが、現在では愛宕神社が鎮座する土塁としてわずかに遺構が残る。愛宕神社の創建は明らかではないが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」には愛宕神社が記されている。言い伝えでは太田道真が、または太田道灌が岩槻城の築城で土塁と外堀を造っていた際、傍らに小さな祠があった。迦具土命という文字が幽かに読み取れたので、火防の神・愛宕大神として土塁上に祀ることにした。その日が現在の7月24日にあたるので、祭礼日となっている。
愛宕神社が鎮座する土塁は、かつて大規模に城下町を囲っていた大構の一部。岩槻駅より北東300mほどのところにあり、線路脇にある。やはり堀は埋め立てられている。
土塁といっても流石にブロックやコンクリートで補強されているが、当時を偲ばせる数少ない場所だ。1836年の岩槻宿騒動の一揆では人々が愛宕神社に籠もった。
主郭から出丸(新曲輪・鍛冶曲輪)まで
次は主郭の探索として大手口~本丸へ行き、また引き換えして諏訪神社経由で城址公園(新曲輪・鍛冶曲輪)へ向かう。城址公園は出丸跡というが、一説では豊臣秀吉の小田原攻めの際、新曲輪口の防衛のために造られたという。「新城」と記載する城絵図もある。
この散歩マップはわかりやすい。
門と櫓跡を加筆。
大手口
遺構もなく、なんてことない住宅街の交差点に大手口の石柱が置かれている。しかも民家に食い込むように。説明しにくい場所にあるが、渋江の交差点から1ブロック先の道を右に曲がり南下して最初の交差点。岩槻商業高校や諏訪神社につながる道で、諏訪小径と呼ばれている。
本丸
埼玉県道2号さいたま春日部線沿いのガソリンスタンドに、本丸跡の石柱があるとのことで訪問したが、あいにく撤去工事中だった。あの寝そべっている石柱がそれだろうか。今度は何ができるのか分からないが、岩槻本丸公民館からやや東に進んだ位置である。地名もそのまま「本丸」なので、少しぐらいシンボル的に遺構を残す配慮がなかったものだろうか。
三の丸、本丸、二の丸~と串刺しのように貫通する、埼玉県道2号さいたま春日部線。城郭は皆無。
久伊豆神社(鎮守)
本丸よりさらに北の久伊豆神社は城郭のほぼ北端に位置する。岩槻城址の一部であり、築城者の太田道灌が岩槻の鎮守に指定したとされる。久伊豆は「ひさいず」と読むが、勝手に読み方を変えると「くいず」。日本テレビ「アメリカ横断ウルトラクイズ」の予選会場になったことがあるらしい。
岩槻城址公園となった出丸(新曲輪・鍛冶曲輪)
諏訪小径を通って諏訪神社に参拝し、左の小径を下って岩槻城址公園へ向かう。市街地にまぎれてわかりにくかったが、諏訪神社はわりと高台に鎮座しており砦にもなりうる地形だ。
諏訪神社から下りながら左側のグラウンドを見る。大手口の住宅街や諏訪神社が高台にあることが伺える。地図を見るとここは堀というか沼の跡だと分かる。
今回のメインとなる岩槻城址公園は、新曲輪・鍛冶曲輪と呼ばれる出丸跡。このマップは江戸時代末期の岩槻城と現在開通している道路を表示しておりわかりやすい。史跡と行っても新曲輪を道路でばっさり分断している。では諏訪神社から下ってきた先にある公園入口から入ることにする。
諏訪神社の坂を下って右側に、市民会館のある高台。そしてこの通りは堀切ではなくて、新曲輪を破壊して開通している。
公園に入ったが、ここはかつて一面沼だったようだ。つまり岩槻城の内堀跡。
鍛冶曲輪の北に少しだけ沼が残されている。
史跡でもないが八ツ橋が架けられている。
障子堀
新曲輪と鍛冶曲輪との間にある空堀で、発掘調査では3mほどの堀底に障子堀があることが確認されている。堀に畝が設けられており、障害物であったり動きを制約することで飛び道具の命中率を上げる目的がある。小田原北条氏の得意とする築城技術であり小田原城や山中城で知られる。この遺構のため、戦国末期では北条氏によって改修されたことが判明した。
障子堀は埋め戻されている。
堀跡の散策コース
岩槻城城門(黒門)
配置されていた場所は不明だが岩槻城の城門と伝わっている。木材が黒く塗装されていることから「黒門」と呼ばれている。廃藩置県に伴い廃城となった際に撤去されたが、浦和の埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門として利用されてきた。そして昭和45年に再び城内に移築された。修理や改修の跡が著しいが、岩槻城の現存遺構建築物として貴重なものである。
城下町
岩槻城主郭の西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。
芳林寺
1486年、太田道灌が伊勢原にて主君・上杉定正に誅殺されると、父・道真と資家(道灌の養子)が伊勢原にて遺骨や遺髪をもらい受けてきた。それらは芳林寺と龍穏寺(埼玉県越生町)に分けられ葬られた。
太田資正が武蔵松山城の城代・難波田正直の娘婿であり、同地の地蔵堂を岩槻に移したのが芳林寺の基礎となった。資正の嫡男・太田氏資が城主時代に、地蔵堂を芳林寺に改め、母・妙春尼および戦没者などを供養した。
太田氏資の像
太田氏資像。父・太田資正を追放して岩槻城主になったが、三舟山合戦で討死した。境内墓地には太田氏資や、高力正長の宝筐印塔がある。
太田道灌の像
道灌の騎馬像。平成19年4月28日、太田道灌公騎馬像落慶披露式典が行われた。鷹狩姿の銅像でお馴染みの道灌だが騎馬武者姿は珍しい。
岩槻区が太田道灌(1432~1486)ありきで市政を行っているが、岩槻城の築城者が太田道灌でなくて成田氏であれば、元も子もなくなってしまう。実際、岩槻地区における太田道灌の足跡がないため、その可能性は否定できない。太田道灌ゆかりの太田氏が一時期城主であったことがあるので、まったくの無関係ではないのが救いか。
太田道灌 (資長 / 持資) |
扇谷上杉家の家宰。河越城、岩付城、江戸城の築城で知られる。 道灌の主君、上杉定正が道灌のカリスマ性を危惧。糟屋館(神奈川県伊勢原市)で入浴後の道灌を暗殺した。山内上杉氏と扇谷上杉氏との同族争いに発展する(長享の乱)。この乱に乗じた北条早雲の関東進出を許してしまう。1546年、河越夜戦で扇谷家は滅亡した。 |
太田資康 | 道灌の嫡男。妻は三浦義同(道寸)の娘。長享の乱では山内上杉家の上杉顕定に味方し、扇谷上杉家の定正と戦う。定正の死後、新当主である上杉朝良に仕えて復帰。舅の三浦義同と伊勢宗瑞(北条早雲)との戦いで、戦死したとされる。 |
太田資高 | 太田資康の次男とされる。妻は北条氏綱の娘。扇谷上杉家の上杉朝興を離反。敵対していた北条氏綱と通じて朝興の江戸城を奪った。富永直勝、遠山直景が江戸城の城代となった。 |
太田康資 | 太田資高の嫡男。道灌の曾孫。康資の「康」は北条氏康の偏諱から。北条においては高い待遇だったが、ほぼ家臣の立場に等しかった。北条の恩賞に不満を持ち離反。太田資正に通じて寝返りを画策するが失敗し、資正のもとに逃げる。援護に向かった里見氏と北条氏の戦いが、第二次国府台合戦。 里見氏の内乱で、正木憲時(時茂の養嗣子)に加担したため自害または殺害されたとされる。徳川家康の側室、英勝院(お梶)は康資の娘とされるが諸説あり。 |
太田資正 | 資正の祖父:太田資家 太田資家は太田道灌の甥とされるが、道灌の養子となる。扇谷上杉氏に仕え、岩槻城主になったとされる。 資正の父:太田資頼 太田資頼は資家の子。北条氏綱に付き、岩付城を攻略するが、扇谷上杉氏に奪還され降伏、扇谷上杉氏に帰参する。北条氏綱が再び岩付城を陥落させるが、資頼がさらに奪回する。 太田資正 家督を継いだ兄・資顕と不仲であり、岩付城を出て松山城に居住していたとされる。河越夜戦で仕えていた扇谷上杉氏が滅亡。一旦、松山城を退くが奪回し、岩付城も落とし家督を継ぐ。後に北条の攻撃を受け、配下となる。 上杉謙信の小田原城の戦いに応じて北条を離反。第2次国府台合戦に参戦するが敗退。北条氏に通じていた太田氏資(資正の子)により岩付城を追放され、以後、奪還を試みるも戻ることはできなかった。佐竹義重の配下となり、片野城を拠点とする。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐では、小田原に参陣して秀吉に謁見している。翌年、病死。 資正の嫡男:太田氏資 1548年、北条の攻撃を受け、父と共に北条氏の配下となる。初名は資房だったが、父を岩付城から追放すると、北条氏康から一字を与えられ「氏資」と改名。三船山の戦いで北条軍の殿(しんがり)を務め、討ち死にした。 北条氏政の三男、国増丸が氏資の娘を娶って、太田源五郎と名乗るが早世。実弟の北条氏房(4男)が兄の未亡人を娶って岩槻太田氏を継いだ。小田原征伐では氏房は小田原城に籠城。降伏後、高野山で蟄居した。 |
境内にあった岩槻城復元図
これは主郭部分だが、「埼玉県道2号さいたま春日部線」の開通で何も残っていない。
渋江口に設置された、時の鐘
1671年、岩槻城主・阿部正春の命令で鋳造され渋江口に設置された。現在の鐘は1720年に城主・永井直信(直陳)によって改鋳したのもである。江戸後期では1日に12回撞かれていたとされる。鐘楼は1853年に岩槻藩が改建した。現在では朝6時、正午、夕方6時の3回撞いているとのこと。
岩槻藩の藩校、遷喬館(せんきょうかん)
江戸後期の寛政11年(1799)、岩槻藩に仕えていた儒者の児玉南柯 (こだまなんか 1746~1830)が家塾として創設したのが遷喬館。遷喬館の名前の由来は詩経の一説から引用したもの。後に藩校となり、最盛期には梅林のある広大な敷地に、武芸稽古所、天神社、児玉南柯の自宅(梅亭)、築山、池泉、展望台まであった。現存する建物は遷喬館の学舎で、15畳と9畳からなる2間続きの教場である。埼玉県では唯一保存されている藩校である。2003~2006年に解体修理・復元工事が行われている。
「槍がえしの門」がある、浄安寺
浄安寺の創建年代は不詳だが真言宗寺院とされる。永正2年(1505)、増上寺5世天譽上人光蓮社了聞が浄土宗に改めて開基した。家康の6男・徳川忠輝が改易された際には、その妻子(竹の局と徳松丸)を岩槻藩主・阿部家が預かったため墓所はここにあるとのこと。児玉南柯の墓、江戸時代最初の岩槻城主・高力清長の墓もある。
この浄安寺の山門はもともと田中口の木戸門であり、「槍がえしの門」と呼ばれる。日光社参にて将軍の列がこの門を通ろうにも槍を立てたままでは通れなかった。行列の供頭が屋根の破却を訴えたが、時の城主・永井直信(直陳)は拒み、槍をかえして(倒して)通るように指示。槍をかえすことは将軍の威光に関わることだと押し問答になったが、頑なに拒み、最終的には岩槻方の言い分が通った。廃城の際、この木戸門は浄安寺に移築された。ただ、「槍がえしの門」エピソードはその史実か疑わしいとのこと。
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