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太田道灌の3名城のひとつ。北条氏康VS扇谷連合軍の河越夜戦で有名

河越城(初雁城、霧隠城)

埼玉県川越市にある河越城を登城した(2012年11月)。川越市はテレビやガイドブックで、「小江戸」と呼ばれる観光都市。かつての川越藩の城下町である。遡ること平安~鎌倉時代、秩父平氏の流れを組む河越氏が拠点としていたところで、室町時代には扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が河越城を築いた。戦国時代後期では河越夜戦で周知の通り、小田原北条氏の武蔵国における支配地になっている。

※近世では川越城と表記されるが、中世では「河越城」と表記される。※河越城は関東七名城。他には7城以上になっているが忍城、前橋城、新田金山城唐沢山城宇都宮城、多気城(つくば市)、太田城(常陸太田市)がある。
※河越城(川越城)の別名は初雁城、霧隠城。※太田道灌の3名城は、河越城、江戸城、岩槻城。

太田道灌による河越城の築城

享徳の乱(1455年~1483年)の勃発で、山内・扇谷の両上杉氏が古河公方と対立する。古河公方の勢力として古河城や関宿城・忍城などがあったが、これに対抗するため上杉持朝(扇谷上杉氏)が太田道灌に河越城の築城を命じた。(1457年)。河越城は扇谷上杉氏の居城とし拠点となり、同年に築城された江戸城には太田道灌が入った。
※河越城築城に関して、太田道灌の父・太田道真の主導だった説もある。

河越城は武蔵野台地の北東端に築城された平山城で、比高は5mほど。北は赤間川(新河岸川)、入間川・越辺川、南は遊女川の湿地帯で守られ、天然の要害を利用している。扇谷上杉氏の城としては、上杉持朝、政真、定正、朝良、朝興と続き、1537年、上杉朝定の代で小田原・北条氏綱に攻め落とされた。敗走した上杉朝定は武蔵松山城を居城として河越城奪還を画策した。

河越夜戦(1546年)

1546年、扇谷上杉氏(上杉朝定)・古河公方(足利晴氏)・山内上杉氏(上杉憲政)の連合軍が8万の大軍で河越城を包囲し、奪還作戦に出る。城代の北条綱成は3000の兵で半年ちかく篭城して耐え、援軍に駆けつけた北条氏康8000の軍が夜襲をかけた。上杉の連合軍は敗退し、上杉朝定が討ち取られたことにより扇谷上杉氏は河越にて終焉を迎えた。これが河越夜戦で、北条氏の武蔵国支配を決定づけた戦いとなった。

※河越夜戦は日本三大奇襲のひとつで、他には厳島の戦い(毛利元就vs陶晴賢1555年) 、桶狭間の戦い(織田信長vs今川義元 1560年)がある。

蔵造り資料館蔵造りの町並みを北へ進んでいくと東明寺があり、河越夜戦の古戦場である。古くは「東明寺口合戦」とも言われた。

蔵造り資料館石碑の後ろに稲荷諏訪天満宮があるが、戦死者を埋めた富士塚の上に建てられたものらしい。今は塚という印象はない。扇谷上杉氏の家臣・難波田憲重が東明寺口の古井戸で亡くなり、その霊を祀っているとのこと。江戸時代の宝暦(1751年~1764年)年間に塚を掘り返したら500体ほどの骨が発見されたという。明治時代の道路工事でも人骨が出ているので河越夜戦によるものと考えられているが、墳墓群の埋葬者という見解もある。

蔵造り資料館東明寺が古戦場といわれても、いまや偲ぶほどの雰囲気はない。1590年、豊臣秀吉による小田原攻めが開始されると、北条方の支城として河越城は前田利家ら豊臣勢に攻められ、降伏している。

川越藩、松平信綱による川越城の拡張整備

太田道灌が築いた河越城の様子は不明だが、江戸期・川越藩の川越城の遺構は判明している。1639年、川越藩、川越城の城主となった松平信綱は拡張整備を行った。本丸、二の丸、三の丸、追手曲輪、新曲輪などの各曲輪に、3つの櫓、13つの門を配置し、32万6千平方メートル余りの規模を持つ巨大な城郭となった。

川越城の城郭マップ現在の施設と跡地を重ねてみた。本丸御殿の周辺に堀や土塁が現存しており、中ノ門堀も復元だが残されている。市役所のあたりが西大手門、初雁中学と川越小学校が追手曲輪、川越第一小のグランド脇が南大手門で、第一小は中曲輪にあたる。特別支援学校の南側で川越高校の校舎あたり(八幡曲輪)までが三の丸、博物館と美術館は二の丸。川越高校のグランドあたりが本丸の位置。野球場とプールは帯曲輪。

中ノ門堀

川越城の遺構として「中ノ門堀」江戸期・川越藩の川越城の遺構として「中ノ門堀」が一部残されている。初雁通りを本丸に向かって東に進み、中曲輪の入り口である中ノ門跡まで行く。

中ノ門堀「中ノ門堀」を眺められる広場が設けてあるので見学しやすい。雰囲気作りに冠木門があるが、これは関係ない。

現地の説明板ではこうある。「西大手門(市役所方面)から本丸目指して城内に敵が攻め込んできた場合に、中ノ門堀が立ち塞がります。中ノ門堀を含む3つの堀が阻むことで直進できず、怯んだ敵を鉄砲や弓矢で打ち取ることができます。 中ノ門堀の当初の規模は、深さ7m、幅18m、東側の勾配60度、西側勾配30度。明治時代以降、河越城の遺構はことごとく破壊されましたが、中ノ門堀は城内に残された唯一の堀跡です。」

川越城の堀跡-中門堀跡中ノ門堀。太田道灌時代の遺構を改修したものかもしれないが、はっきりしているのは松平信綱の藩主時代に造営されたもの。現在のは2008年に川越市が公園整備で復元したものらしい。案内板で「城内に残された唯一の堀跡です」と断言するのはいささか違和感がある。

本丸周辺の城郭

川越城の遺構として「中ノ門堀」本丸とその周辺の城郭。本丸の南西にある富士見櫓の高台は現存している。倒壊が進んでいるが川越城で一番見応えのある場所となるだろう。本丸の東側は三芳野神社のある天神曲輪。通りゃんせの歌詞に出てくる「天神さま」である。

川越城 本丸御殿

川越藩主・松平斉典が本丸御殿を造営1639年の江戸時代では、川越藩主・松平信綱が大規模な拡張・整備を行っている。1848年になると川越藩主・松平斉典が本丸御殿を造営した。本丸御殿は16棟、1025坪の規模があったが解体され、一部が残されている。現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみ。

御殿の外観本丸御殿外観

御殿の中庭内庭の様子。

大広間-無数のボールの跡36畳の大広間では城内で会議を行うときに使用された。具足が2体あるがこれについての案内板はなかった。また、戦後、中学校の運動場として使用されたこともあり、天井には無数のボールの跡が見られる。本丸御殿の大広間は川越城以外には高知城にしか現存していない。

大広間-無数のボールの跡大広間の襖絵。

通りゃんせの三芳野神社(天神曲輪)

三芳野神社川越城本丸御殿の向かいには、太田道灌が河越城を築城した時に造られた天神曲輪がある。ここにはわらべ唄「通りゃんせ」の舞台となった三芳野神社(みよしのじんじゃ)がある。三芳野神社は平安初期に成立したと伝わっており、河越城の築城において神社が天神曲輪に位置になってしまったため、「お城の天神さま」として親しまれてきた。城内に置かれたため、時間を区切って参詣することが認められた。しかし、参詣の帰りは厳しい取り調べがあったため、通りゃんせでは「行きはよいよい、帰りは怖い~」という歌詞になっている。

通りゃんせ 通りゃんせ(通りなさい、通りなさい)。/ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ。/ちっと通して下しゃんせ
御用のないもの通しゃせぬ。/この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
行きはよいよい 帰りは怖い(行きは良いですが、帰りは困難です)。
怖いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ。(困難ですが、通りなさい、通りなさい)。

・・・信号の横断歩道を渡るのが怖くなるような元ネタだ。なお、神奈川県小田原市の菅原神社が舞台という説もあり、どちらにも発祥由来の碑が置かれている。

現存する三芳野神社の社殿は、1624年に川越藩主酒井忠勝が造営したものであり、近くの喜多院、仙波東照宮とともに江戸幕府の直営社であった。

三芳野神社仕切りなく公園と隣接している三芳野神社。

天神さまへのお参りには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り富士見櫓を左手に天神門をくぐり、東に向かう小道を進み直線に進むルートだったという。この小道が「天神さまの細道」であるが、現在の参道は江戸時代より若干異なるとのこと。

※富士見櫓は、埼玉県立川越高等学校南側の小高い丘(城内で最も高い位置という)。現在は浅間神社と御嶽神社が建っている。※南大手門は第一小学校西門近辺で、近くの「永島家住宅」は武家屋敷跡。

三芳野神社が置かれている曲輪が天神曲輪と呼ばれた理由にこんな昔話がある。「道灌が水堀の水源を探していたところ、三芳野神社付近の井戸水で老人が足を洗っていた。この老人のおかげで水源を発見できたため、道灌はこの老人を天神の化身だと思い込んだ」

三芳野神社※追記:2018年5月に再訪問ときのもの。

川越城の土塁三芳野神社境内というか、公園内というか、ここには土塁跡が多々見られる。

土塁跡境内で一番大きな土塁跡。てっぺんには東屋が建っているが利用する人はいなさそう。

三芳野神社の土塁跡三芳野神社拝殿の背後(北側)の土塁跡。

富士見櫓

史跡富士見櫓富士見櫓跡の高台が残されている。現在は富士見稲荷神社となっている。

南方面富士見櫓跡から南方面への眺め。

史跡富士見櫓そのまま川越高校のグランド方面(北側)に下れば、堀跡まで見学できる。

富士見櫓の堀底堀底は藪状態なので立ち入る猛者はいないだろう。

城下町散策

川越氷川神社

土塁跡本丸御殿から北へ約400メートル、初雁中学校(追手曲輪)の北に位置する川越氷川神社。

川越氷川神社は、太田道灌の河越城築城後、この地の総鎮守とされた。現在では川越まつりの祭神で知られている。1637年に、徳川家光が建立した江戸城二の丸の東照宮をここに移築した。なお、氷川神社の南の通りは低地のため、堀跡だと思われる。

蔵造りの町並み

川越一番街観光地で知られるのは蔵造りの町並みで、一番街と呼ばれている。重要伝統的建造物群保存地区、美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれているが、断片的でその町並みはそれほど長くは続かない。蔵造りが立ち並ぶのは片側だけなので、テレビや雑誌のいい所撮りを真に受けていると、少し拍子抜けするところもある。歩行スペースの狭さや自動車の通行量の多さが気になるので、改善が必要かと思われる。都心に出やすいこともあり都市化が進んでいる。最寄り駅の川越駅や本川越駅周辺では本当に蔵の町なのかと疑ってしまうくらいだ。

川越、時の鐘時の鐘は現在4代目であり、1日に4回(6時、正午、15時、18時)鐘の音を響かせる。

蔵造り資料館(一般100円)市指定文化財の蔵造り資料館(一般100円)に入ってみた。蔵造り資料館の建物は、当時煙草卸商であった小山文造が建てたもので、蔵造り家屋の意匠や構造、敷地内の様子を体験できる。この日はアートギャラリーに使われていて、素人のアート作品を展示。たとえプロの絵画でもこういうのはやめてほしい。

仙波東照宮

仙波東照宮2018年5月に再び川越市を訪問。三大東照宮の1つ、仙波東照宮(他の2つは日光東照宮・久能山東照宮)。堀に囲まれた曲輪上に建ち、河越城の出城跡じゃないかと思える構えである。1617年、徳川家康(祭神:東照大権現)を久能山から日光山に改葬する際、南光坊天海が喜多院で法要し創建された。1638年に焼失するが、徳川家光の命令で川越藩主・堀田正盛が造営に当たった。

堀や土塁仙波東照宮の堀や土塁の規模はわりとある。

仙波東照宮が「あんたがたどこさ」の発祥地とされる

ちなみに童謡「あんたがたどこさ」(肥後手まり唄)発祥の地のひとつとされる。歌詞が熊本のことなので熊本県熊本市が発祥とも言うが、歌詞が関東方言なので仙波東照宮である説も出ている。戊辰戦争時、彰義隊の残党を追って官軍が仙波山に駐屯していた史実が背景となっている。歌詞の内容は、官軍(熊本藩出身の兵士)が川越の子どもたちと問答する様子だという。「船場山には狸がおってさ~」は「仙波山の徳川家康」とのこと。熊本説と川越説では、史実、方言の理由で川越説のほうに納得してしまう。

ただし、仙波山とは仙波東照宮のことではなく、向かいの日枝神社古墳のことだそうだ。

喜多院

喜多院仙波東照宮と隣接している星野山 喜多院。川越大師で知られる天台宗の寺院で良源を祀っている。もとは830年に慈覚大師円仁が創建した無量寿寺。1599年、天海僧正が住職として入寺したとき、寺号を喜多院と改めた。1638年の川越大火の後、徳川家光の命で江戸城の建物が移築されたため、重要文化財(国指定)の建物がいくつかある。境内にある五百羅漢の石像が有名だが、拝観料が必要なのでスルーした。

無量寿寺の三院

天台宗 星野山 無量寿寺には中院、北院、南院の三院があった。そして中院が関東天台の総代。北院の院代であった天海僧正が北院を喜多院と改め、1617年に徳川家康の法要を行った。もともと中院をあった場所に仙波東照宮を建てたため、中院は現在の位置に移転した。

仙波山-南院南院は多聞院という名刹であったが、明治時代の廃仏毀釈により交配し、このような遺跡のみとなっている。

仙波山と言っている南院跡になぜかこのような看板があった。日枝神社古墳を仙波山と言っているな・・・。

日枝神社(仙波古墳群のひとつ、日枝神社古墳)

仙波古墳群のひとつ日枝神社。喜多院のそばにある日枝神社。日枝神社古墳(仙波山)と地図にある。仙波古墳群のひとつで、道路を通すため大正時代に前方後円墳を開削している。元々の神社は喜多院の境内にあったが移転した。太田道灌は江戸城築城の際、東京赤坂の日枝神社に分祀している。

浮島稲荷神社

浮島稲荷神社富士見櫓の南に位置する浮島稲荷神社。地元の人々から「うきしま様」と呼ばれ、かつては末広稲荷とも呼ばれていた。

所在地は久保町で地形が低い窪地を示している。創建時期は不明だが、太田道真・道灌父子が河越城築城の際、城地守護のため奉斎したとされている。また、慈覚大師が喜多院を開いたときに、ここへ移したという話もある。この一帯は「七つ釜」といって清水が湧き出る穴が7つあり、葦が生い茂る沼沢地であった。一面に葦があるため、遠くから神社を眺めると浮島のように見えたという。伊勢物語に歌われる「三芳野の里」とはこのあたりを指しているという。

川越城の七不思議に「片葉の葦」という話がある。川越城が攻められたときに姫と乳母が城外へ落ち延びたが、この七つ釜のところで足を踏み外してしまい沼地に落ちてしまった。姫は葦を掴みはい上がろうとしたが水底へ沈んでしまった。その後、姫の恨みによって葦は片葉になったという・・・。

河越城が攻められた戦といえば、1524年から4度にわたる北条氏綱の争奪戦か、1546年の河越夜戦か、1590年の小田原攻めだろうが、いずれにしても創作の昔話だろう。

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