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世界遺産!かつては世界有数の大銀山

石見銀山

DELLパソコンを持っての旅行記。今回は島根県大田市の石見銀山に行ってきたので、巡ってきた範囲でレポートする(2017年9月訪問)。全部見学したわけではないので一部となるが、紹介するのは、町並み地区~銀山地区~銀山街道(温泉津沖泊道)のコースになる。石銀地区は時間の都合で観光できなかった。

石見銀山観光要害山(山吹城)の頂上からみた石見銀山の集落(大森)。江戸時代前期にかけての最盛期には、日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも言われる。

よく言われるのは、「石見銀山はがっかり世界遺産」だが、ある程度の歴史的背景を知らないとそうなる。辺境の地にあり、交通規制もあるため、頑張ってたどり着いたものの「廃墟ばかりで見ごたえがない」と思うのだろう。世界遺産は楽しませるためのテーマパークではなく、そこに息づいてきた土地の記憶を感じることが重要。そこには利権をかけた血なまぐさい合戦、銀山支配者とそこに人生をかけた人々の営み、それらを想像しながら歩くことをお勧めする。個人的には「がっかり世界遺産」とは思わなかったが、処刑場など「負の遺産」を隠蔽しているような観光案内にはがっかりした。

世界有数の大銀山として知られた、石見銀山

16世紀、石見銀山は世界有数の大銀山として知られ、ヨーロッパの地図にも記載されていた(1595年にベルギーで作られたティセラ日本図)。石見銀山で生産された銀は海外で「ソーマ銀」「ソーマ・プレー ト」と呼ばれ、上質の銀で知られた。ソーマとは、大森(大田市)にあった「佐摩村」のことだと考えられる。日本から灰吹銀が大量にイギリス・オランダへ輸出された。17世紀初頭では年間20万kgと推定され、世界の生産高の1/3を占める。

※ヨーロッパで銀が重用された理由として、化学反応しやすい銀の特性を利用して銀食器を用い、毒混入を知るためだという。また、くすみやすい銀食器を常に磨いておくことで、貴族のステータスを見せつけるものでもあった。金のほうが銀よりも価値があるが、産出量の多い銀のほうが流通しやすく貿易に適していた。

戦国時代では大内氏、尼子氏、毛利氏によって争奪戦が展開され、毛利氏が制する。江戸時代には幕府直轄領となり幕府の財源となった。銀山旧記によると、最盛期には20万人もの人々が暮らしていたという。江戸が大都市となった時代、江戸の人口が100万人といわれるが、石見銀山周辺だけでその1/5ほどの人口がいたことになる。(現在では4000人ほどらしい)。

銀の生産は、採鉱と製錬の2つの工程になる。坑道を掘削して銀鉱石を掘り、採掘された鉱石から銀を取り出す製錬が行われる。銀鉱石は福石と呼ばれた。良質な銀鉱石が枯渇していた明治時代には、黄銅鉱や重晶鉱などの採石も本格化された。

日本最大の銀山だったが、明治期以降には質のいい銀鉱石は取れなくなり、銅の採鉱に転換。それも採算取れなくなり大正時代には休山した。戦時中に再産出を試みたが坑道の水害で断念、閉山されて現在に至る。近年、ボーリング調査も行われたが、もう採算の取れる鉱脈はないと判断された。2007年に世界遺産として登録されたが、鉱山遺跡ではアジアで初となる。

江戸時代の銀山柵内とは

銀山柵内江戸時代、石見銀山の周囲には柵を廻らせていたので、銀山柵内(さくうち)と呼ばれていた。柵から街道に通じる10箇所の出入り口に番所を置いていた(柵内番所)。番所の位置は時代により変化があったらしい。番所では、商人が物資を運び込むと税を徴収したり、人の出入りを監視していた。不正に銀を持ち出した鉱夫は、蔵泉寺口番所近くの公開処刑場で斬首・磔されたという。

銀山地区の観光では、蔵泉寺口番所跡から龍源寺間歩(坂根口番所跡の手前)を往復するルートが一般的。坂根口番所は銀山の西側であり、銀を運ぶ港のある温泉津(ゆのつ)と結ぶ主要街道(温泉津沖泊道)への出入り口である。

石見銀山観光ゾーン

観光としては以下の地区に分類される。銀山街道(温泉津沖泊道)は13kmほどのハイキングになり、そこそこ難易度が高いためか、ガイドブック等では詳しく掲載されていない。「このさき銀山街道があるよ~」程度の言及。 町並み地区~銀山地区の往復がメジャーな観光ルートと思われる。

武家・町家ゾーン

町並み地区

代官所ゾーン(500m)と武家・町家ゾーン(500m)の約1Kmの区間。この町並み地区は、石見銀山における政治経済中心地。武家や商家、寺社仏閣が混在している。※片道徒歩20分。乗り合いタクシーなら石見銀山資料館(代官所跡)が停留所

龍源寺間歩

銀山地区

銀生産の中心地。600以上の間歩(坑道)跡が点在する。観光案内所のある石見銀山公園から龍源寺間歩までの約2.3kmの区間。途中の山吹城登山口からひと山登り、下山しながら龍源寺間歩に向かう健脚ルートもある。

※2.3kmの低地ルートなら片道徒歩45分。乗り合いタクシーなら石見銀山公園が停留所。自動車の通行禁止のため、徒歩かレンタサイクル、ベロタクシー(自転車タクシー)のみの通行となる。遊歩道エリアは自転車禁止。

仙ノ山(標高537m)

石銀地区

石銀(いしがね)地区 は、仙ノ山(標高537m)の頂上付近。戦国から江戸時代にかけて銀の採掘や製錬が盛んだった地区。石見銀山最大の間歩(坑道)跡である大久保間歩がある。大久保長安が馬上で槍を持って入ることが出来たという。見学にはツアーの参加が必要。(12~2月はコウモリが越冬するため中止)。乗り合いタクシーなら石見銀山世界遺産センターが停留所。当方の訪問はなし。

温泉津沖泊道-銀山街道

銀の道(銀山街道)

石見銀山で採掘し、精錬された銀などを輸送港へ運ぶために通った旧街道。日本海側(温泉津沖泊道、鞆ヶ浦道)と瀬戸内海側(尾道道、笠岡道)で、いくつかの街道がある。
日本海側は冬になると荒れるため、江戸幕府の天領時代には瀬戸内海側の街道が整備された。世界遺産に登録されたのは、日本海側の温泉津沖泊道と鞆ヶ浦道。

温泉津沖泊道

龍源寺間歩の先にある坂根口番所跡から温泉津の沖泊までの街道で、毛利元就が整備したと伝わる。。ハイキングでは中国自然歩道として整備されている。標高430mの降路坂峠(ごうろざか-とうげ)を越えて西田の宿場町に出る。その先は所々、舗装道路で出くわしながら沖泊に至る。

鞆ヶ浦道

温泉津沖泊道よりも早い時期から利用されていた、鞆ヶ浦に至る街道。山吹城への登山コースに入り、途中から吉迫口番所跡へ向かうルート。かつては山賊の出没地。

町並み地区 (石見銀山における政治経済中心地)

代官所ゾーン(500m)と武家・町家ゾーン(500m)の約1Kmの区間。この町並み地区は、石見銀山における政治経済中心地。武家や商家、寺社仏閣が混在している。

代官所ゾーン

石見銀山資料館旧大森代官所跡(大森陣屋)に建っている石見銀山資料館は、明治35年に建てられた役所をそのままに、昭和51年に資料館として開館した。300点ほどの展示物を公開している。代官所だった大森陣屋は政庁であり、代官の居宅でもあった。現存する代官所遺構は普請の表門(1815年築)と門長屋のみ。

代官のなかで有名なのが井戸平左衛門で、1731年に第19代大森代官着任。翌年1732年の大飢饉に際し、領民を救うため税の減免、蔵開き、薩摩藩からさつまいもを取り寄せるなど講じた。地元では敬慕され、「いも代官、芋どのさん」と呼ばれている。大森にある井戸神社では井戸平左衛門を祀っている。

観世音寺

観世音寺代官所から500mほど歩くと、代官の祈願寺だった観世音寺がある。ここより先が武家・町家ゾーンとなる。

武家・町家ゾーン

武家屋敷と、商人や職人の住む町家武家・町家の風景。道に面して屋敷を建てる特徴がある。今も面影があるが、地役人が住む武家屋敷と、商人や職人の住む町家とが軒を接していた。長い間、この景観を保ってきたのかと言うと、そうでもないらしい。地元企業がテコ入れした景観であり、海外では世界遺産登録に疑問視したという。観光地化を進める前は廃屋が建ち並んでいた。(銀山を閉山したのだから当然だろう。)

旧大森区裁判所

旧大森区裁判所現在では町並み交流センターとなっている旧大森区裁判所。幕府の直轄時代から明治初期まで銀の窃盗には厳しく、疑われば簡単に斬首され、冤罪の処刑もあったようだ。明治維新により人権意識が高まり、村人の基金で裁判所が設けられ法により裁かれるようになった。

旧河島家

河島家代官所の地役人を代々勤めた武士の屋敷で、1800年初頭に建てられた旧河島家。武具や調度品など武家の佇まいが見られる。河島家は地役人の総括をする組頭まで昇進した。※地役人とは土着で銀山附役人を代々勤めた武士のこと。

1610年、河島家は初代代官奉行の大久保長安に召し抱えられて以来、銀山附役人を代々勤めた。1800年に大火事があり再建され、後の25年間に増築されたと推定される。平成2年に主屋と塀・庭を修復・復旧した。この大森地区では、河島家のような屋敷構えが上層部の武家屋敷である。

栄泉寺

栄泉寺栄泉寺。「竜宮門からの眺めが見事」とガイドにあったので登ってみたが、たいして高くないのでかなり想定内の眺めだった。

羅漢寺五百羅漢と千人壺

五百羅漢25年ほどの歳月をかけて造られた501体の羅漢像が石窟に安置されている。この反り橋は15枚の福光石を組み合わせて作られている。五百羅漢は、銀山の過酷な労働により亡くなった鉱夫たちを弔ったもの。

鉱夫の職業病として、気絶(けだえ)がある。いわゆる呼吸不全であり、原因は石塵のほかに明かりを灯する際に出る油煙にある。これらは肺に蓄積して発病する。鉱夫たちは30歳になると、長寿祝いをしたと言われるほど短命だった。ただ、代官所が行った待遇は良かったとのこと。

また、五百羅漢では一説によると、処刑された罪人も弔っているという。羅漢寺の奥には「千人壷」がある(下のマップ参照)。千人壷は雑木林にある墓穴で、羅漢寺の管轄となっている。罪人の遺体以外にも、身寄りのない鉱夫、重病患者などが千人壷に投げ込まれたという。数が多いという意味で「千人」と呼ばれていたようだが、遺体は羅漢寺の向かいにある水路で運ばれたと、伝承されている。

遺体廃棄場の千人壷石見銀山処刑場と遺体廃棄場の千人壷といった黒歴史は、観光案内から抹消されている。千人壷も藪に埋もれ、意図的に風化されているらしい。羅漢寺周辺は何か異様な雰囲気だったが、まあそういうことだったのか。

羅漢像が安置されている石窟この先、羅漢像が安置されている石窟まで立ち入るには羅漢寺への拝観料が必要になる。ちなみに、羅漢寺の創建は1764年だそうだ。昔から、ここに参拝すれば”亡くなった遺族に会える”という言い伝えがある。

福光石反り橋や五百羅漢は福光石で出来ているという。これは温泉津駅に置かれていた福光石で、1500万年前の火山灰などが凝灰岩になったもの。温泉津には400年以上も採掘・加工がされている採石場がある(福光石石切場)。

石見銀山公園

石見銀山公園観光案内所がある石見銀山公園で、町並み地区は終了石見銀山公園といっても、公園というか大型駐車場というべき場所(ここには石見銀山一帯の立体地図が置かれている。)この先から銀生産の中心地だった銀山地区になる。

観光車両の進入はここまでで、この先に続く龍源寺間歩や山吹城へは歩きか、レンタサイクル、ベロタクシー(自転車タクシー)の利用に限られる。なお、ここからきれいな台形をした山吹城を眺望できる。戦国時代、石見銀山の支配と防衛に利用された山城であり中心地でもあった。この城で大内氏、尼子氏、毛利氏による戦国大名の攻防戦が繰り返された。

銀山地区 (銀生産の中心地)

【銀山地区の大きなマップはこちら】銀生産の中心地だった銀山地区。ここで坑内を見学できるのは龍源寺間歩だけだが、600以上の間歩(坑道)跡が点在する。観光案内所のある石見銀山公園から龍源寺間歩までの約2.3kmの区間。低地をぶらりと歩くなら片道45分が目安。【銀山地区の大きなマップはこちら

銀山地区銀山地区の前半部分。まず、このエリアで訪問した場所を紹介する。

蔵泉寺口番所跡と、石見銀山処刑場

蔵泉寺口番所跡近くに石見銀山処刑場今は見る影もないが、山内と大森町の境目にあった蔵泉寺口番所跡は最大規模の番所だったという。いわば銀山の玄関。この番所では人や銀の出入りを監視したり、持ち込まれた物品に対する税を徴収した。なお、龍源寺間歩から続く、銀山街道のスタート地点には「坂根口番所」があり、同じく中心的な番所であった。舗装されているが道幅は当時のままであり、かつて両横には家並みが連なっていたという。

伝承では蔵泉寺口番所跡近くに「石見銀山処刑場」があったとされる。石見銀山の鉱夫などが銀を盗むなどすると、公開処刑されたという。温泉津方面の番所で人の往来が多く、見せしめには都合が良い場所と考えられる。斬首または磔された罪人の遺体は「千人壷」へ廃棄されたという。

世界遺産登録におよび、刑場跡案内板は撤去されたとのこと。Cafe住留というところでランチを食べたが、その付近らしい。ネットで撤去された案内板を調べたら、「山際の田園の真ん中」にあったと記されていた。他の画像を見ると、岩肌に彫り物やお堂が沿って建てられており、石碑なども置かれている。現在では風化して埋もれているとのこと。(これはひどい話だ。世界遺産に登録されるべきではなかったかもしれない。)

現在ではこの先、観光車両の出入り禁止地点となっている。真正面に山吹城である要害山が見える。

大久保石見守墓所

大久保長安正覚山大安寺跡(1605年建立)にある大久保長安の墓。大久保長安(1545~1613年)は甲斐武田氏の家臣だったが、武田氏滅亡後は徳川家康に仕える。手腕を買われ石見銀山初代奉行となった。間歩の開発を進め、銀山経営や税制改革、街道整備などを行った。晩年には採掘量が思わしくなく、代官職を罷免され失脚。駿府にて病死した。死後すぐに横領が疑われ、長安の息子7人は切腹させられた。長安の家系は断絶した。(1613年・大久保長安事件)

銀山川沿いの遊歩道レンタサイクルでは通れない銀山川沿いの遊歩道。龍源寺間歩まで手っ取り早く自転車で行くよりも、歩くことをオススメする。

下河原吹屋跡

下河原吹屋跡西本寺の向かいに、平成3年の発掘調査で発見された下河原吹屋跡がある。ここは江戸時代初期の吹屋(ふきや)跡とされる。吹屋とは銀製錬所のことである。吹屋では、運ばれた鉱石を選鉱して荒割りして不要な素石を除く(鏈拵)、そして吹床(ふきどこ)で鉱石分を溶かして銀を取った。

灰床で銀を含んだ貴鉛を溶かす鉱石に鉛を加えて溶かし貴鉛を作る(素吹)。灰床で銀を含んだ貴鉛を溶かすと鉛が酸化し灰の中に沈み、灰吹銀が残される(灰吹)。最後に清吹によって銀の純度を上げる(清吹)。これが鉱石の製錬である。

灰吹法は、1533年に博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が連れてきた宗丹と桂寿によって伝えられたという。この技術は一ノ坂、生野、鶴子、多田などの銀山に伝えられた。灰吹法により、1kgの銀鉱石の中に含まれている1gほどの銀を取り出したという。

灰吹銀写真左 : 灰吹銀、純度を上げた銀、黒いのは残った炉滓(素吹で再利用される)。 
写真右 : このサイズの鉱石から取れる銀の量。

なお、石見銀山が開発された初期のころは、博多経由で朝鮮へ運ばれ、朝鮮で製錬されていた。しかし鉱石のままでは輸送費用がかかり、取引では質のいい鉱石に限られるという障壁があったため、現地での製錬が行われた。灰吹法はすでにヨーロッパでは紀元前に存在していたという。

朝鮮王朝実録によると、1538年に朝鮮の柳緒宗が倭人に灰吹法を伝え、処罰されたとある。神谷寿禎らが伝えた1533年と近いことから、石見銀山における灰吹法は朝鮮経由で伝わったと考えられている。

銀山の鉱床

福石鉱床永久鉱床
福石鉱床 東側に位置する鉱床であり、炭酸系のマグマが岩の割れ目にしみこんだ鉱床(鉱染型)。
戦国時代、仙ノ山尾根の石銀(いしがね)地区一帯にある福石鉱床から開発が始められた。初期の頃は地表に自然銀が露出していたと考えられている。主に銀鉱石として採掘されたが、江戸期の採掘で良質な銀鉱石は枯渇した。元禄年間(1688年~1704年)には産出量が減る。
永久鉱床 炭酸系のマグマが上昇した鉱床(浅熱水性鉱脈型)。
福石鉱床の品質低下により、江戸時代から開発。明治・大正にかけて本格的に開発される。永久鉱床では銅に含まれた銀を分離するために、複雑な工程の製錬となった。1886年から藤田組が再開発を試みるが、採算取れず1923年に休山。1941年、軍事物資のため銅の再産出を試みるが、採算がとれないので中止。

石見銀山には「福石鉱床」と「永久鉱床」の2つがある。仙ノ山の山頂を境に、それぞれ東西で異なる鉱床が存在する。

西本寺

四脚門の西本寺山門下河原吹屋跡から臨む西本寺(さいほんじ)。四脚門の西本寺山門は17世紀初頭の特徴を持つ。もともと曹洞宗龍昌寺にあったが、昭和32年に現在地に移転された。(代官墓所であった龍昌寺は廃寺となっている。)1604年に龍昌寺の伽藍造営という記録があるため、この門もそのときに新築されたと考えられている。大田市では最古級のものとされる。

山吹城が廃城されると、その追手門を移築したという話もあるが、大田市では江戸初期の新築と説明しており、現地案内板には山吹城の追手門とは説明していない。

豊栄神社

豊栄神社豊栄神社(とよさかじんじゃ)は、毛利元就の木像を御神体とした神社。
もともと洞春山・長安寺という寺だった。(洞春とは毛利元就の法号)。1561年に石見銀山を掌握した毛利元就は、山吹城内にが自分の木像を安置したが、1571年には長安寺を建立し、そこに木像を移したと伝わっている。明治2年になると、朝廷が元就に対して豊栄神社の神号を与えたため、長安寺は豊栄神社に変えられた。

1866年、第2次長州戦争が起こると、長州藩士達が石見に侵入・駐屯したが、その際、毛利元就の木像が安置されていることに驚いたという。ここには長州藩士による灯篭などの寄進物などが残っており、長州の隊士名が灯篭や鳥居に刻まれている。なお、長州藩の石見侵入で、江戸幕府による石見銀山支配は終焉を迎える。

清水谷製錬所跡

近代的な大型製錬所清水谷製錬所清水谷製錬所は、明治28年(1896年)に当時の巨額資金20万円を投資して造られた。近代的な大型製錬所だったが、鉱石の質が悪く、期待通りの成果がなかったため1年程度で操業停止となった。

清水谷製錬所は高さ33mほどの谷に造られ、斜面に沿って8段の石垣を築き、連なるように建物があった。現在、リサイクル家電から金属を取り出す技術の基礎を、この製錬所を設計した人物、武田恭作が開発したらしい。

山吹城跡登山口

山吹城跡山吹城跡登山口。山頂まで1.1kmのコースだが、急峻な階段が続くなどわりと健脚コースである。

山吹城は戦国時代、石見銀山支配のため、要害山(標高414m)に築城された山城である。基礎となる砦はすでにあったらしいが、1533年ごろ周防の戦国大名・大内氏が築城したとされる。要害山は独立した山で四方は急斜面であり、軍事的に優れた地形である。30年近く銀山を巡る争奪戦の末、1562年には毛利氏の支配となる。

江戸時代になると、大久保長安が休役所を奉行所として使い、山吹城を改修。後に、奉行所は大森(町並み地区)に移転して代官所となった。それに伴い1600年代に廃城されたと考えられる。

要害山(標高414m)に築城された山城山吹城跡の現地マップ。山吹城跡登山口から鞆の浦への銀山街道につながっている。パソ兄さんが向かっているのは龍源寺間歩とその先の銀山街道(温泉津・沖泊方面)。

山吹城跡登山口から鞆の浦鞆の浦への銀山街道を通れば、永久製錬所跡がある。今回は山吹城ルートで龍源寺間歩に向かっている。

龍源寺間歩付近の登城口龍源寺間歩付近の登城口に到着。舗装された道を真っ直ぐ進むと、龍源寺間歩の入り口となる。

山吹城の登城レポート。戦国時代、山吹城を制する者が銀山を制する

その他の間歩と、集落跡

福神山間歩、出土谷集落跡龍源寺間歩のまえに、新切間歩、福神山間歩、出土谷集落跡を紹介。

新切間歩

新切間歩江戸中期~後期の間歩で、最初は水抜き鉱として掘られた。1715年ごろ鉱脈にあたり、代官・鈴木八右衛門の時代に開発された。江戸後期には、520mまで堀り進んでいたが休山となった。

福神山間歩

福神山間歩代官所直営の操業地の場合は、御直山(おじきやま)と呼ばれるのに対し、個人操業地の場合は自分山(じぶんやま)という。福神山間歩は、山師が操業した自分山だったが、1767~78年のころに御直山となった。御直山は1844年には23ヶ所まで増えたが、自分山は55ヶ所(1730年)から天保15年には9ヶ所に減っている。福神山間歩は3カ所の坑道がある。

佐毘売山神社

佐毘売山神社龍源寺間歩の出口の約200m東に位置する佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)。「さひめ山」とは、三瓶山の古名。神谷寿禎(かみやじゅてい)による灰吹法は、この付近で初めて導入したとされる。建造物は1819年に再建されたもの。地元では「山神さん」という愛称で呼ばれる。

出土谷集落跡

石垣の遺構があるが、鉱夫たちの集落傾斜に沿って石垣の遺構があるが、鉱夫たちの集落だった。灰吹法を伝えた桂寿は出土谷に滞在していた、という伝承がある。なお、銀の採掘のために木々が伐採されてきたが、きちっと植林もしてきたため自然環境が保護されてきた。

龍源寺間歩

龍源寺間歩開発された間歩(坑道)龍源寺間歩は江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、代官所直営の操業地にある。(御直山-おじきやまと呼ばれる)。御直山のなかでも代表される「五か山」のひとつに数えられる。坑道は水平に630m続いているが、公開されているのは157mの区間。高さは1.6m~2m、幅は0.9から1.5mほどの坑道。岩質は角礫凝灰岩。

「五か山」 (代官所の直営): 龍源寺間歩, 永久間歩、大久保間歩、新切間歩、新横相間歩

ヘビノネゴザ鉱床のあるところに自生するらしいヘビノネゴザ(オシダ科)。貴金属を好む性質があり、金銀山発見の手がかりになったという。

通路両横の坑道が江戸時代に銀を採掘した跡見学で歩く通路は明治期に掘られた跡であり、通路両横の坑道が江戸時代に銀を採掘した跡である。電灯が登場するまで、サザエの殻(螺灯-らとう)に菜種油入れて火を灯した。

30センチほどの間隔で窪みが掘られているが、これが一日の作業で掘り進んだ距離なのだとか。

ひおい坑通路両横の坑道で鉱脈を追って掘った跡で、「ひおい坑」という(ひ押しという採掘方法)。これが江戸期のものらしい。他には竪坑という坑道があり、垂直に掘られ溜まった水を100m地下の永久坑道に排水したという。

見学で通っている坑道は横相(よこあい)という方法で掘られた水平坑道。ひ押しのように鉱脈を直接掘り進むのではなく、鉱脈の走っている方向を調査した上で、直角に掘るという方法。排水を兼ねた水平坑道で、測量技術が発達してから行われた。

龍源寺間歩入り口(入場券売り場の管理棟間歩の見学は一方通行のルートであり、157m先の進入禁止エリアまで着いたら左の新坑道(緑ライン)を通って出口に出る。この新坑道は平成元年に観光用として掘られたもので、その年に内部を歩きながらの見学が可能になった。

温泉津・沖泊方面の銀山街道は、龍源寺間歩入り口(入場券売り場の管理棟)の奥から始まるので、大きく一周してからまた戻る羽目になる。(逆走できない)

龍源寺間歩をスルーするように真っ直ぐ龍源寺間歩の出口。

再び管理棟のところに戻り、そのまま龍源寺間歩をスルーするように真っ直ぐ歩き始めたら、管理棟からおじさんが出てきて、「そっちは銀山街道だから、行ったら大変なことになるよ!」と呼び止められた。まあ、お気軽なルートではないから、銀山街道を通る観光客は滅多にいないのだろう。「温泉津温泉の宿泊先に歩いて帰るので、下調べはしてある」と返答したら、納得して管理棟に戻っていった。

坂根口番所跡

坂根口(さかねぐち)番所跡舗装道が終わると、坂根口(さかねぐち)番所跡。先述した蔵泉寺口番所跡と同じく、中心的な番所であったようだ。かつては建物があったが、現存していない。ここから銀山街道(温泉津沖泊道)だが、峠(標高430mの降路坂)を越えなければならない。銀山街道(温泉津沖泊道)は毛利元就によって整備されたと伝わる。

パソ兄さんの、石見銀山観光レポート

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