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米本城~村上氏滅びの城

千葉県八千代市米本字内宿に所在した米本城(よなもとじょう)へ登城した(2014年9月)。戦国期にかけての土豪・村上氏の居城で、八千代市郷土博物館の米本城址解説では次のようにある。「城の範囲は南北300m、東西150mで、南に飛び出た舌状台地に4つの曲輪と3本の堀から出来ている。米本城は2の堀から先の部分が室町時代中期に造られ、村上綱清のころに現在の大きさに拡張されたと考えられる。」 また佐倉風土記によると、「1558年3月13日、城主の村上綱清は自害し廃城となった」とある。

米本城の遠景新川側から眺めた米本城の遠景。1967年の土採りで、本丸・2の丸は消失した。どこもかしこも昭和40年代は城郭破壊のラッシュである。高度経済成長期、欲にかられて歴史などどうでもよかった人間が多かったのだろう。

信濃の国人領主で知られる清和源氏・村上氏は、武田信玄の北信濃侵攻によって終焉を迎えているが、一部の氏族が下総に移ったとされる。その一族である村上綱清は千葉氏家臣となった。ゆえに米本城はお隣(佐倉市)にある臼井城の支城であったと考えられる。臼井城は1561年、上杉謙信に従う正木氏(里見氏家臣)に攻められ落城していることから、米本城の落城は佐倉風土記にある1558年ではなく1561年であり、里見軍による攻撃だと推定される。

その後の第二次国府台合戦(1563年~1564年)で、里見氏は小田原北条軍に大敗し撤退している。千葉氏は北条軍の傘下にあるため、米本城を奪還していると思われる。北条氏・千葉氏が滅亡する小田原合戦(1590年)の後に米本城は廃城したと考えられる。

京成大和田駅からの徒歩史跡巡りのルートは、京成大和田駅からの徒歩。メインは飯綱権現砦(飯綱神社・権現山)、米本城、正覚院(武士の館跡)とする。マップをみると、他に妙泉寺城、吉橋城、尾崎館、高津館などの関連史跡がある。鎌倉時代に武士団がこのエリアにて急速に勢力を拡大してきたが、そのなかでも正覚院は最も古い史跡だそうだ。

※臼井城の支城は、米本城と臼井城の間にも多く点在している。例えば、宿内砦、小竹城、井野城、志津城、志津大口館、先崎城などがある。

飯綱権現砦(飯綱神社)~太田道灌が布陣したという砦

まずは米本城の砦とされる飯綱権現砦(権現山)へ向かう。飯綱神社が鎮座している砦跡だ。村上綱清の戦国時代から遡ること80年ほど前、室町中期の話になる。1479年、扇谷上杉氏の重臣・太田道灌が武蔵千葉氏に加勢し、敵対する下総千葉氏との激戦が臼井城で行われた。その前哨戦として太田道灌が米本の龍ヶ城を攻めたとの記録があり、龍ヶ城というのは米本城のことだと比定される。その龍ヶ城攻めのときに、太田道灌が権現砦に布陣したらしい。

※米本城の本丸西側には「りゅうげ坂」という地名がある。「りゅうげ」とか「ゆーげ」は城跡によくある地名で「要害」が訛った発音であるが、それが「龍ヶ」に転じたのではなかろうか。地元では「龍の牙みたいな地形だったから、龍牙城」みたいな口伝もあるそうだが、皆んな言いたい放題だな。

太田道灌が戦った相手
室町中期という年代からして、太田道灌が戦った相手は村上氏ではない。本戦が臼井城攻めなので、龍ヶ城(米本城の前身?)の城主は千葉氏の息がかかった者だろうが、一体誰と戦ったのだろうか。

地元では「太田道灌 VS 村上綱清」の伝承があるようだが、1432年生誕の太田道灌、1532年生誕の村上綱清なので、「ジャスト100歳差のドリームマッチ」ってことか。どこかの時代で歴史オンチが伝承しちゃったんだろうな。

八千代市文化伝承館-飯綱神社飯綱権現砦の頂上は平場になっており、八千代市文化伝承館、立派な神木、鐘楼、飯綱神社本殿がある。

八千代市文化伝承館は、「民俗文化や日本舞踊・三味線・茶道・華道などの日本古来の伝統文化を、保存・継承や発展させるための活動を手助けするための施設」らしい。やる気のなさそうな職員がいるだけで、特に見るべきものはない。飯綱神社三十三年式年大祭の神輿が展示してあるだけなので、これは郷土博物館で総括すればいいのではないかという印象。

飯綱(飯縄)権現飯綱神社本殿。飯綱(飯縄)権現とは、信濃国にある飯縄山の山岳信仰で知られる神らしい。信濃村上氏の一部がここに移ってきたということが確信できる場所だ。

米本城攻めの策さすが砦というだけのことはあり、見晴らしがいい。太田道灌もここで米本城攻めの策を練っていたのであろう。

参道こちらが昔ながらの参道のようだ。急階段で年配者には恐怖を感じるだろう石段。

城橋

国破れ蛍哀しむ城の橋米本城に差し掛かる城橋に到着。新川(かつては平戸川)を挟んで米本城が確認でき、新川が天然の要害だったことは言うまでもない。城橋の手前には「国破れ蛍哀しむ城の橋」という碑が置かれている。城橋はほとんど車道であり、並列して歩行用の橋があるのでそちらを渡った。真っ先に米本城址には行かず、まずは村上氏に縁のある長福寺へ。

村上綱清の開基で菩提寺、長福寺

長福寺米本城主、村上綱清開基の寺である米本山長福寺(曹洞宗)を参拝した。村上氏の菩提寺で、村上綱清の墓といわれる五輪塔がある。所々、城郭らしき地形が見られるのでここも米本城の縄張りであろう。また、村上綱清が米本城主であるとされるのは、こういった長福寺との関係から推察されたものである。

戒壇石(結果石)山門の左側に建つ戒壇石(結果石)には「禁芸術売買之輩」と彫られおり、1838年に建立された。芸術売買の輩を禁ずと読む。芸術売買の輩とは旅芸人や物乞いまがいの人たちを指しており、高い風格ゆえに境内での見世物商売を禁じていることを記した石碑である。

米本神社(北東を守る妙見社)

米本神社ならびに白旗神社米本城から北200mほど離れたところにある米本神社ならびに白旗神社。米本神社はもともと千葉氏の信仰する妙見社で、妙見とは北斗七星を神格化した軍神としている(ゆえに千葉氏は九曜紋や月星紋を用いる)。村上氏は千葉氏一族ではないが、千葉氏の傘下にあることがよく分かる。なお、米本城の東北(鬼門)の守りが米本神社で、南東の守りが七百余所神社とされる。

米本城への入り口

米本城への入り口はここです米本城への進入路は、下調べしておかないとほぼ100%分からない。竹の塀が目印であり、案内板はない。一見、民家の敷地だと思ってしまうので入るのを躊躇するだろう。

米本城址~今も昔も滅びの城

今も昔も滅びの城大手門付近にある案内板。文字がかすれていてほとんど解説が読めない。城址もろくに整備されていないので、気軽に散策できるのは腰曲輪ぐらい。追記:案内板は2016年に新調されたもよう(写真は2014年時点)

縄張り米本城の縄張りをチェック。かすれて読みにくいが、城下には家臣団の屋敷と思われる名前が記されている(~左衛門、右衛門など)。根古屋の文字が見えるので、城の周囲に家臣団が住んでいることが分かる。村上家臣団の子孫は今も近辺に住み続けているそうだ。

大手門(案内板があるところ)から東に「根宜内-ねぎち」と呼ばれる地名があるが、地元の伝承では「落城したときに兵が逃げた道」だそうだ。「逃げ地、逃げ口」の訛りが転じた地名とされる。ただ、城跡には根木内(ねぎうち、ねぎち)という地名がよくあるので、「ねぎち=にげぐち」という発想は誤りだと思われる。通常、脱出口である搦手から逃げるもので、表玄関である大手門から堂々と逃げるのも変な話だ。ちなみに日本城郭大系によれば、根木内とは「根城内」、すなわち「本城の内側」を指すらしい。

米本城・立体模型郷土博物館で展示されている米本城・立体模型。20mくらいの舌状台地に「本丸、2の丸、3の丸」までの三つの郭を連ねる構造であり、その他多くの曲輪を複雑に配置し、土橋でつないでいる特徴がみられる。これは松戸市の根木内城に似ている。規模は違うが小金城も類似している。同じく千葉氏の政権下であるため、城の構造が似ていることに合点がいく。

立体模型の白いラインは破却されたエリアを指す。1967年の土採りで、本丸・二の丸は消失した。現状では櫓台が確認できないため、本丸の南端か、二の丸の東端に置かれたと考えられる。埋没していた遺物の発掘はされておらず、酷いことに土取りの際に紛失したとされる。

畑だらけのこの地で、よりによって主郭を破壊するなど訳がわからん。米本とか村上とか地名が使われているのに、その基になっている遺跡を破壊する行為が理解できない。また郷土博物館まであって八千代市の歴史を語り継いでいる割には、遺構管理がおざなりというのはどういうことだろうか?

昭和20年の終戦後、城址の土地所有者が本丸の空堀を埋めようと土塁を崩した。その時、土塁の下から炭化した焼米が大量に発掘されたという。村上氏が米本城へと改修したときに、焼米を埋めたまま土塁を造成したため、結果的に焼米の遺物保存に至ったとされる。つまり、村上氏が改修する以前に城が戦火で焼かれた証拠であり、これは太田道灌が攻撃した裏付けにもなる。(米本城=龍ヶ城 説)

二の丸・本丸の位置に加茂農場追記: 加茂家(文左衛門)は村上氏の家老だったという。Google Mapで2021年の様子をみると、根古屋から削平された二の丸・本丸の位置に加茂農場がある。昭和46年(1971年)にタイストール牛舎を新築したという。本丸の南では本丸の一部を残しつつ隔てて削平されているが、そこには(有)加茂自動車整備がある。まあ、そういうことなんだろうな・・と察する。

加茂家(文左衛門)当時、加茂家(文左衛門)の侍屋敷は城の北側にあったようだ。文左衛門屋敷の西隣には市郎右衛門の屋敷があった。これら屋敷跡も独立した曲輪と考えられる。

寂れたキャンプ場みたいな雰囲気腰曲輪。朽ちたテーブルと椅子が置いてあり、寂れたキャンプ場みたいな雰囲気。虫除けを塗りたくったのにもかかわらず、ヒトスジシマ蚊が大軍で総攻撃をしかけてくる。ある意味、米本城の攻防戦。虫除けのおかげであまり刺されることはなかったが、ギリギリの距離まで包囲してきた。今(2014年9月)、都心の方ではデング熱が話題になっているので、こいつらには非常に警戒する。

しろぬし様こと咳の神様写真左は「しろぬし様」こと、咳の神様。そして写真右は2の堀へ続く道を封鎖している様子。いずれにしてもこの先は破壊された城址だ。

もう少し探索したい所だが、ヒトスジシマ蚊があまりにも多いのでここで退避。また、管理されていない藪地と蚊で調査が億劫になるため冬場での探索がよさそうだ。史跡としてまともな整備がされていない上に、主郭および城郭の半分は破壊されていることが非常に残念。

咳の神様

1344年の板碑があり、しろぬし様、「咳の神様」と呼ばれる。地元では、竹筒にお茶を入れて奉納すると咳が治るという信仰がある。老兵が逃げ遅れて茂みに隠れていたが咳をしたため敵兵に見つかり殺された。板碑はその老兵の墓だとも言われる。1344年は鎌倉幕府が滅んで間もない南北朝時代であるため、太田道灌の攻城や村上氏の米本城築城以前に何かしろの城郭(龍ヶ城?)があったのであろう。「しろぬし様」というくらいだから一介の老兵ではなく城主なのではないかと個人的に想像する。板碑の西隣には金毘羅大権現、石尊大権現、大杉大明神の石神様があり、本丸から移されたものという。

七百余所神社~本当に700名がここで自刃?

七百余所神社米本城の南東の守りである七百余所神社(地図で見るとほとんど真南だけど)に到着。砦の要素もあり土塁と思われる遺構が残っている。米本城から落ち延びた村上綱清および武士700名がここで自刃したという伝承があるが、七百余所神社という社名は、八百万(やおろず)ならぬ七百の神々が祀られているからではなかろうか。それに家臣団の子孫が未だに住み続けていることから700名自刃伝説はにわかに信じがたい。

それにしても、村上綱清は1532年生まれ、1558年または1561年没だから20代後半で亡くなったのか。しかし、その後に起きた土気城攻めに関して、古河公方足利義氏の書状に活躍の記録が残っていたりと、確かな史実が分かっていない人物のようだ。

戦にまつわる地名

「おんまわし」という地名米本城近くには「おんまわし」という地名があり、村上綱清が追いつ追われつの激戦を繰り広げた場所がその由来という。矢中(やなか)は互いの矢が飛び交って落ちたところ。ただ、米本城と飯綱権現砦が対峙している場所なので、村上氏の時代(戦国時代)ではなく、室町中期、飯綱権現砦に布陣した太田道灌と土豪の戦いで生まれた地名ではなかろうか。

鎌倉時代の典型的な武士の館跡。正覚院

正覚院館郷土博物館の西200m先、階段を降ると、「村上のお釈迦様」で知られる正覚院館址(しょうがくいんかん-し)がある。そこは鎌倉時代の典型的な武士の館跡である。

鴛鴦寺(お しどりでら)正覚院、通称では鴛鴦寺(お しどりでら)と呼ばれる。

正覚院のオシドリ伝説というのがある。・・・1156~1158年ごろ平真円という人がおり殺生を好んでいた。あるとき、近くの阿蘇沼で一羽の鴛鴦(おしどり)を射止めカゴに入れて帰った。その夜、真円の枕元に女が立ち、夫を殺したと嘆き哀しむ。「日くるれば誘いしものを阿蘇沼のまこもがくれの一人寝ぞうき」と歌を残す。真円が翌朝起きると、オスの鴛鴦にメスの鴛鴦がくちばしを合わせて死んでいた。真円は殺生を恥じ出家し、ここに草庵を建て、池証山鴨鴛寺(ちしょうざんおうえんじ)正覚院と名づけた。

ところで、近くの阿蘇沼ってどこなんでしょうね。

本堂裏手境内の様子。本堂裏手の墓地の奥には堀が残されているらしい。

釈迦堂正覚院釈迦堂とその近辺、鐘楼。

土塁現存している土塁。

厳島神社隣接する厳島神社。昔は沼に浮く小島だったのであろう。

以上、千葉県八千代市の村上氏の居城、米本城址巡りレポート終了。主郭が破壊されたとはいえ、整備次第では魅力的な史跡となりそうな余地はある。後世の地元民がこれ以上の破壊を許さないためにも、整備して知名度を上げるべきだろう。

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