DELLユーザーパソ兄さんの、須賀川市歴史探訪記
嫁様が福島県須賀川市の出身であるため、年に2~3回ほどこの地に訪れている。須賀川といえば二階堂氏の城下町であり、地味ながらも数々の史跡が残っている。たびたび歴史散策のウォーキングに出かけており、資料も集まったので、数年に渡り巡ってきた須賀川史跡の探訪先をまとめてみた。
円谷英二の出身地・須賀川
須賀川市といえば円谷英二の故郷であるため、観光PRにウルトラマンが度々登場している。(福島空港=ウルトラマン空港みたいに・・。)2013年5月5日には、ウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」と姉妹都市協定を結んだくらい関係は親密。おそらく最も遠距離の姉妹都市協定であろう。
なお、ここの地には円谷さんが多い。1964年東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉も出身であり、毎年10月には「 円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。ちなみに、円谷は本来「つぶらや」ではなく「つむらや」と読むそうな。
糀業を営んでいた大束屋が円谷英二の生家。現在は大束屋珈琲店になっており、近くに記念碑が建つ。長松院の大銀杏によじ登って大空に夢をはせた・・とある。
二階堂氏の城下町、須賀川~ゆるキャラは「ボータン」
須賀川市といえば、鎌倉時代から戦国時代までの間、二階堂氏の城下町だった。1589年、摺上原の戦いで黒川城(現・鶴ケ城)の蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が須賀川に侵攻。同年、二階堂氏は滅ぼされる。毎年11月に行われる「松明あかし」は二階堂氏の霊を弔う伝統行事である。
松明あかしは日本三大火祭りの1つ。須賀川駅にはゆるキャラの「ボータン」がいる。火を表す「ボー」と名物のボタンをかけたネーミングがナイス。
VS 伊達政宗!須賀川城攻防戦
須賀川城攻防戦は天正17年(1589年)10月26日(豊臣秀吉による小田原攻めの半年くらい前になる。)その戦場となったのが、雨呼口(あめよばりぐち)の戦い、大黒石口(だいこくいわぐち)の戦い、そして激戦地となった八幡崎城の戦いである。
午前8時頃開戦、須賀川城を守るのは、須賀川勢(二階堂・須田一族・岩瀬東部衆・河東衆)および加勢(佐竹衆200人・岩城衆300人・竹貫衆500人)である。※ちなみに二階堂家の四天王は、「遠藤勝重、須田盛秀、矢部義政、守屋俊重」である。
二階堂一族・須田一族・岩瀬東部衆・河東衆 |
伊達勢・岩瀬西部衆(7千の軍勢) |
対する伊達勢は7千であり、本陣は現在の須賀川桐陽高校付近である陣場山と山寺山王山。山寺山王山は、米山寺公園や日枝神社あたりだという。日枝神社は山寺城という出城であったらしい。
両者、釈迦堂川を挟んで対岸に陣を構えている。伊達勢に岩瀬西部衆が組みしており、二階堂氏から寝返った保土原行藤(江南斎)が政宗の本陣横に布陣する。
須賀川市立博物館に展示されていた、伊達VS二階堂の「須賀川城攻防図」。資料は藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑より。
伊達勢が攻め入ってきたのは、雨呼口(あめよばりぐち)と大黒石口(だいこくいわぐち)の2箇所。釈迦堂川南岸では激戦となり、雨呼口(あめよばりぐち)の戦いと呼ばれる。
伊達勢が攻め入ってきたのは、3箇所という説もあり、もうひとつは南ノ原口だそうだ。南ノ原口の出城である方八丁館(高久田境・メガステージ須賀川あたり)には、二階堂勢として佐竹勢200人、岩城勢300人が布陣した。
雨呼口(あめよばりぐち)の戦い
対する須賀川勢は、雨呼口(消防署・神田産業の近辺)で竹貫勢500人らが防衛。しかし、雨呼口の守備に就いている守屋筑後(俊重)とその弟・守屋采女は伊達に内応。守屋俊重は長禄寺(須賀川城本丸近くにあり、二階堂氏の菩提寺)に放火し、須賀川城落城のきっかけとなった。落城は午後5時頃だという。
攻防図では西が上になっているので、見やすいように北側を上に向けて確認した。まずは諏訪神社(神炊館神社)より北側を表示。
八幡崎・大黒石口(だいこくいわぐち)の戦い
須賀川勢の総大将・須田盛秀は大黒石口(大黒池・須賀川病院・大黒町交差点辺り)で、釈迦堂川を渡り攻めてくる伊達軍を迎え撃つ。そして、最後の激戦地といわれる八幡山(八幡崎城)には、岩瀬の東部衆と河東衆が布陣する。この2箇所を守る須賀川勢は、あわせて600弱だったという。
諏訪神社(神炊館神社)より南側を表示。二階堂家の女城主である大乗院は本丸で籠城。大乗院は伊達政宗の伯母である。
虎口のひとつである大黒石口(だいこくいわぐち)で合戦。八幡崎城の外堀跡と思われる大黒池が残り、古戦場跡の案内板が建つ。そしていつ頃のものなのか、大黒様が置かれている。
須賀川の各所で見られる物語ボックス。ここでは八幡崎・大黒石口の戦いが語られている。
奥州街道(4号線)から見る、大黒池。ここは水が干上がっていた。(2013年6月訪問)。これが八幡崎城の外堀だとすると、かなりの規模である。大黒石口の戦いでは戦局が不利となり、最後の戦いの場は八幡崎城のみとなる。
最後の激戦地!八幡崎城
須賀川勢の岩瀬東部衆・河東衆が守り、激戦地となった八幡崎城を訪問(2008年8月)。登山口にあった説明板には次のことが書かれていた。
「1057年、源頼義・義家父子が前九年合戦・後三年合戦で須賀川を通った際、八幡山に戦勝祈願のため石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まりとされている。1589年10月26日、伊達政宗の須賀川城攻略では、午前八時ごろに政宗側の攻撃で戦端が切られた。特に須田七騎と塩田右近らの東部武士団に、佐竹氏の援軍が加わり、伊達軍と最も熾烈な戦いとなった。」
遠景の八幡山。そして八幡山の登山口から登り始め、1分もしないうちに頂上に到着。
頂上には岩瀬八幡神社の鳥居と祠があるが、社はない。これだけでは城跡っぽくないと思い、裏手に回り隈なく探索したところ八幡崎城のものと思われる石垣を発見。(地味に感激!)
八幡崎城には土塁跡も残っている。
妙法寺から見る、八幡崎城の遠景。なお、妙法寺では「通りぬけ厳禁」と記されていた。通りぬけするつもりはなかったが、境内に立ち入ったら和尚さんと思われる人物にずっと監視されていた。・・落ち着かず、すぐに撤退。
須賀川城跡を探索する
須賀川城は鎌倉時代、二階堂為氏が初代城主となって整備。(藤葉栄衰記藤葉栄衰記では二階堂行続が築城したという)。須賀川城の面影を残すところはほとんどないが、数が少ないながらも土塁や堀跡が僅かに残る。その場所は、神炊館神社(おたきやじんじゃ)、長松院、本丸跡の二階堂神社くらいである。
堀跡:神炊館神社
市街地の中心にある神炊館神社(おたきやじんじゃ)は、松尾芭蕉が参詣した神社でもある。地元ではここは諏訪神社とかお諏訪様と呼んでいるが、須賀川城主であった二階堂為氏が信州諏訪神を合祀したことによる。この写真は2012年元旦の初詣で撮影。灯籠などは東日本大震災によって倒壊したままだった。
須賀川の総鎮守である神炊館神社。須賀川城落城後、須田盛秀(VS伊達政宗の須賀川城攻防戦で総大将を務めた二階堂重臣)の子孫が、代々神官職を継承して現在に至っているらしい。
「須賀川城外濠跡」の案内板にはこうある。
中世の時代、岩瀬郡の大半は二階堂氏の支配下にあったが、その居城である須賀川城は1448年、二階堂為氏によって築城された平城である。1589年、城内に侵入してきた伊達の軍勢に対して、二階堂氏は必死の防戦を展開したが、敵に内応した守谷筑後守が城内に火を放ったため、二階堂氏は総崩れとなり須賀川城は落城。二階堂氏は滅亡した。
落城後、堀が埋められ焼け跡も整備され、中宿、牛袋の農民は移住させられ町人となった。後に須賀川は奥州街道屈指の宿場町として再生した。現在、須賀川城の遺構はほとんど失われたが、この外濠は僅かに残ったひとつである。
長松院にある土塁と空堀
長松院境内西側にある須賀川城土塁と空堀跡。平成15年の調査によると、「土塁の基底幅5.7m、高さが1.6m」であったが、当時はもう少し高さがあったとされる。堀跡は土塁の基底から対面までの上幅が12.6m、底面までの深さは2.3m、土塁上端から底面まで5.5mで断面はすり鉢状であった。
伊達政宗の進撃による落城後、堀は埋め立てられ、今日に至ったらしい。部分的な調査のため出土遺物はない。
長松院にある土塁と空堀の断面図。
須賀川城本丸跡:二階堂神社
須賀川城本丸跡には二階堂神社が建つ。攻防戦では、須賀川城女城主である大乗院(政宗の実の伯母)が籠城していたと思われる。「松明あかし」の御神火は、ここで奉受され翠ヶ丘公園(五老山)へ運ばれるらしい。
2013年6月撮影。東北大地震の痕がまだ残る。
古須賀川城の探索!翠ヶ丘公園にある愛宕山城へ
神炊館神社の西側にあり、「日本の都市公園100選」にも選ばれている翠ヶ丘公園へ行く。愛宕山、五老山、保土原舘(武家屋敷跡地・現在は市立博物館)、南舘などを含むエリアから成り、東京ドームの約7倍の敷地(29.9ha)である。公園化したのは大正12年。
翠ヶ丘公園は自然豊かで、四季折々楽しめそうだ。しかし目的は自然散策ではなく城跡。
翠ヶ丘公園内にある愛宕山が、かつて二階堂氏が居城としていたところだ。愛宕山城または岩瀬山城と呼ばれ、厳密には翠ヶ丘公園そのものが多郭式城館であり、愛宕山が主郭になる。
二階堂氏が神炊館神社あたりにあった須賀川城へ移転する前の城なので、「古須賀川城」と呼ぶこともあるらしい。南北朝時代はここが拠点だったそうな。本拠地の移転後、須賀川城の詰城として活用されたようだ。
石畳の上を登り、主郭である愛宕山城の本丸へ向かう。(標高が278.4m)。山頂には土塁で囲まれた平地が広がっている。愛宕神社があるが、鳥居やお清め場と思われるものは朽ち果てている。(撮影:2013年4/28)
おまけ:十念寺~代参犬シロの伝説
城跡とは関係ないが、愛宕山のすぐ西側には十念寺がある。ここには、英会話番組「リトル・チャロ~東北編第6話」で紹介された代参犬シロの犬塚がある。嫁様の親戚たちに聞いても知らないとのことで、地元でもすごく有名というわけではなさそうだ。
江戸時代、須賀川の旧家・市原家で飼われていたシロが、病に倒れた主人の代わりに伊勢参りへ行ったという伝説が残る。(二か月後に須賀川に戻ってきたらしい。)。十念寺のお堂は東日本大震災よる被害で修復中だった。(2012年8/12撮影)
須田盛秀の居城と伝わる和田城~和田大仏および横穴古墳群
福島空港へ向かうときに福島県道63号古殿須賀川線を通りますが、大仏大橋という橋が架かっている。この橋の近辺に和田大仏があるそうなのでやって来た。ただ、和田アキ子の石像でないことを祈るばかりだ。
そしてその場所は、二階堂家重臣の須田盛秀の居城「和田城」だという。
大仏大橋の麓まで来たが、大仏があるようには思えない光景。川沿いにまっすく道が伸びており鬱蒼とした森が続く。所々、タイヤなど不法投棄されているのが痛々しく目に映る。(訪問日2013年4/26)
森の中に石段を発見。後に車で来る参拝者もいた。和田大橋は建設計画時、大仏の真上を通る予定でしたが、「このぉ、罰当たりがぁ」という意見もあり、若干ルート変更で大仏を避けるように建設された。
説明板を見ると次のように書かれている。「横穴古墳群が築造されていた崖面に彫り込まれた鎌倉時代の磨崖仏(まがいぶつ)で、高さ3.6mの大日如来座像。一方、伝説では808年、弘法大師が諸国行脚のときに三鈷という仏具で彫ったと伝えられている。」
和田の大仏に初参詣。ここの説明板では大日如来としているが、阿弥陀如来という説もある。
大仏の乳部がえぐれているが、昔、乳の出ない産婦が削って飲んでいたそうな。母乳が出る信仰から、削った粉を煮立てて飲んでいたらしい。
古墳時代の横穴墓が数カ所見られます。石背の国(岩瀬郡)の中心地であったと思われ、阿武隈川流域を中心に支配していた豪族の墓跡と考えられている。えぐれて消失したのか、単に風化したのか横穴に仏のシルエットが残っていた。
この和田大仏がある崖一体は、二階堂氏の重臣・須田氏の和田城(伏見館)だったそうな。四天王と呼ばれ、伊達政宗戦では総大将を務めた須田盛秀の居城だったと言われる。須田盛秀は籠城していた和田城を自焼して退去した話もあるようだが、「籠城できるだけの防衛機能があるとは思えない」と考える方もおられるよう。とにかく、遺構らしいものは確認できず、城跡を期待して行く所ではない。
須賀川牡丹園(二階堂氏の別邸庭園跡のある牡丹稲荷神社)へ
和田大仏を参拝したあとは、須賀川牡丹園へ向かう。別に牡丹が見たいわけではなく、目的は二階堂氏の庭園跡。園内にある牡丹稲荷神社に遺構が残っているらしい。
須賀川牡丹園は明和3年(1766)、薬種商を営んでいた伊藤祐倫が兵庫県宝塚市から苗を求め、薬用に植栽したのが始まり。その後、柳沼家が伊藤家から譲り受け、柳沼源太郎が受け継いた柳沼牡丹園となる。この辺りから薬草ではなく鑑賞目的となったようです。昭和7年には国指定名勝となっている。園内は10ヘクタールあり東京ドーム約3倍の広さ。290種類7000株の牡丹を有する。
須賀川市と中国洛陽市は昭和57年から牡丹を架け橋に友好交流を続けており、記念建立した牡丹姫の像が正門前にある。
せっかくなので牡丹などを鑑賞。基本的には無料開園らしいのですが、見頃の頃は有料になるらしい。平成25年度の有料開園期間は4月26日(金)~5月31日(金)までで、訪問したのは4/26でちょうど有料時期だった・・。まだ見頃になっておらず、人工的に早咲きさせた牡丹が一部並び、もっぱらチューリップのほうが目立っていた。ちなみに須賀川で生まれた牡丹の品種は、希望の光、須賀川の微笑、昭和の夢。
園内にある牡丹稲荷神社
二階堂氏の別邸・庭園跡が残る、牡丹稲荷神社。説明板をみると次のようにある。「この牡丹園は昔この地を治めていた領主二階堂家の別荘庭園であったと伝えられている。周辺農家および柳沼家とともに牡丹稲荷神社を崇拝し、現在も子孫によって神社の祭りは絶えることがない。言い伝えでは、この神社に参拝すると、生まれてくる女子は牡丹のように美しく心優しく健やかに育つと言われている」
牡丹畑はその二階堂氏の庭園跡を利用したものであると考えられる。この土畳を有するコの字型削平地は建造物の跡。上池、ケヤキ、竹林がある場所は庭園だった。
須賀川牡丹園訪問の翌日、2013年4/27の福島民報朝刊を何気なく読んでいたら、有料開園初日の記事が書かれていた。後方でテクテク歩くパソ兄さんの姿が写っていたのには驚いた。