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戦国期の城下町の名残を探す

須賀川城にまつわる城館・史跡

須賀川市の探訪にて赴いた、城館・砦跡のまとめ。まずは市立博物館にあった須賀川城攻防図を参考に、城館、古戦場、砦、布陣などを確認して現地を訪問してみた。また須賀川城から自転車で行動できる範囲で、近辺の城館跡もチェックしている。資料として日本城郭大系を概ね参考にしている。なお、おまけとして須賀川城とはあまり関係ない近隣の史跡もまとめている。

須賀川・郡山市・鏡石町の歴史探訪記録

須賀川城と二階堂氏について

須賀川城は二階堂神社がある本丸を中心に、須賀川市本町・中町・宮先・北町のあたりに位置した。阿武隈川と釈迦堂川の合流する比高20mの台地上にあって、東山道が岩城街道と会津街道と交差するため交通の要衝であった。

二階堂氏の祖は藤原姓・工藤行政とする。源頼朝に仕え、鎌倉幕府の文官であり十三人の合議制の一人。鎌倉の永福寺に屋敷を構えていた。中尊寺の二階大堂を模した「永福寺」が二階建てであった事から二階堂とも称され、工藤行政は二階堂氏を名乗った。須賀川二階堂氏へ至る詳しい経緯は明らかではないが、以下の様な説がある。

須賀川への下向

二階堂氏が岩瀬郡を支配したのは鎌倉時代初期とされ、二階堂行村が領有していたのは岩瀬西部だったので、稲村城(新城館 + 稲村御所館)が拠点だったと考えられる。そのころ須賀川城の位置する場所は、岩瀬氏の支配下だったようだ(岩瀬氏は郡司政光の子孫)。

1334年には南朝方によって任命された評定衆に二階堂行朝の名が見られるため、鎌倉時代後期には須賀川城のあった場所を二階堂氏が支配したと考えられる。(岩瀬氏を下宿御所館に追いやったと考えられる)。そして、二階堂行朝から5代目の行続が須賀川城を築城したとされる。二階堂氏の家臣となった有力豪族は、西部衆(浜尾・守谷・保土原など)、東部衆(須田・矢田野・塩田・矢部・岩瀬・前田川など)がいる。

戦国期

対抗する勢力に北は伊達氏がおり、服属させた田村氏を使って二階堂氏を脅かす。今泉城では激戦を繰り広げた。また会津の蘆名氏も対抗勢力であり、1563年、蘆名盛氏は諏訪峠から横田・松山城を攻めている。蘆名氏に敗れた二階堂盛義は嫡子・盛隆を人質に出して和睦を結ぶ。1574年に当主の蘆名盛興が逝去すると、人質だった盛隆が蘆名の家督を継いだ。

当主・二階堂盛義が逝去すると、盛隆の弟・二階堂行親が当主となるが若くして死去。そのため、蘆名盛隆が二階堂氏の仕切りを行っていた。しかし、1584年、盛隆は黒川城(会津若松城)にて寵臣に暗殺された。(原因は男色関係のもつれという説もあり)。以後、二階堂氏は盛義の未亡人・阿南の方(大乗院)が須賀川城主となり、家老の須田盛秀が実質的な城代となった。

蘆名盛隆が没すると、佐竹義重の子・義広が蘆名を継いだ。須賀川城代の須田盛秀は佐竹氏と同盟を結び、伊達と対峙した。しかし家臣の西部衆は快しとはしなかった。伊達政宗は保土原行藤(江南斎)の寝返りに成功し、西部衆の多くはこれに従った。1589年、伊達政宗が須賀川城を攻撃。伊達氏に内応した家臣が多々おり、二階堂氏は滅亡した。政宗は家臣の石川昭光に須賀川城を与えた。

城郭分布図

須賀川市の城郭分布図須賀川城の近隣には、二階堂氏ゆかりの城館が多い。

須賀川城の堀跡

ちなみに地元では、須賀川城築城に関して他の説を取っている。「二階堂為氏が須賀川に下向して代官・二階堂治部大輔と争い、須賀川城主となった」と。神炊館神社(おたきやじんじゃ)には須賀川城の堀跡があるが、そこの「須賀川城外濠跡」の案内板にはこうある。

「中世の時代、岩瀬郡の大半は二階堂氏の支配下にあったが、その居城である須賀川城は1448年、二階堂為氏によって築城された平城である。1589年、城内に侵入してきた伊達の軍勢に対して、二階堂氏は必死の防戦を展開したが、敵に内応した守谷筑後守が城内に火を放ったため、二階堂氏は総崩れとなり須賀川城は落城。二階堂氏は滅亡した。落城後、堀が埋められ焼け跡も整備され、中宿、牛袋の農民は移住させられ町人となった。後に須賀川は奥州街道屈指の宿場町として再生した。現在、須賀川城の遺構はほとんど失われたが、この外濠は僅かに残ったひとつである。」

神炊館神社

奥州須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)に残る、須賀川城の堀跡。

神炊館神社は奥の細道の途次、芭蕉が参詣した神社である。全国でも唯一の社名であり、建美依米命(初代石背国造)が新米を炊いて神に感謝したことに因んでいる。地元では「お諏訪さま」と呼んでいるが、1445年に、須賀川城主・二階堂為氏が信州の諏訪神(建美名方命)を合祀したためである。

1589年に二階堂氏が滅び、会津城の上杉家の庇護を受けるようになると、神社のあった牛袋から現在の諏訪町に遷宮された(1598年)。上杉景勝は、信仰心厚く、北門の石鳥居を寄進している。江戸時代になると朝廷より「諏訪大明神」として「正一位」の位を授かったが、明治11年には現在の社名である「神炊館神社」に復称された。

神炊館神社の境内須賀川城内であった神炊館神社の境内。池も堀の一部と見られる。

伊達政宗との須賀川城攻防戦で、実質的な総大将を努めた須田盛秀だが、その次男・須田秀世は僧籍であったため戦から逃れ、須賀川に留まることができた。現在その子孫が神炊館神社の宮司職を代々務めているとのこと。

二階堂神社

二階堂神社本丸跡地の二階堂神社。大乗院阿南が籠城していたという。「松明あかし」の御神火は、ここで奉受され翠ヶ丘公園(五老山)へ運ばれる。

長松院境内

長松院長松院境内西側にある須賀川城土塁と空堀跡。平成15年の調査によると、「土塁の基底幅5.7m、高さが1.6m」であったが、当時はもう少し高さがあったとされる。堀跡は土塁の基底から対面までの上幅が12.6m、底面までの深さは2.3m、土塁上端から底面まで5.5mで断面はすり鉢状であった。伊達政宗の進撃による落城後、堀は埋め立てられ、今日に至った。部分的な調査のため出土遺物はない。

攻防図と古戦場

1589年10月26日、伊達政宗と二階堂氏の合戦における須賀川城攻防図。須賀川勢は「須賀川二階堂氏、須田氏、岩瀬の東部衆と河東衆」。援軍には岩城衆、竹貫衆、佐竹衆がある。一方、岩瀬西部衆は寝返って伊達勢に従軍。

須賀川城攻防戦の史跡藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑より。須賀川市立博物館の展示資料を撮影したもの。

伊達政宗本陣の陣馬山(現:桐陽高校)

須賀川城攻防図によると、陣馬山が伊達政宗の本陣だという。須賀川桐陽高校がその位置であり陣場町という地名が残る。陣馬山というくらいなので、おそらくこれは桐陽高校から日枝神社(山寺城)に至っていると思う。

須賀川女子高等学校が陣馬山桐陽高校の西側を撮影(2016年)。当時の土塁跡とみてよさそうだ。こちなみに1995年に共学になったが、旧校名は須賀川女子高等学校で、略称は須女(すじょ)で嫁様の母校。

陣馬山須賀川市立博物館にあった須賀川城攻防図で、伊達軍の布陣と雨呼口の守備の様子。桐陽高校は陣馬山の麓付近で、伊達政宗が本陣をおいた場所と判断できる。

山寺城

山寺城は二階堂家の四天王「遠藤勝重」の城だったという。おそらく、伊達政宗が本陣を敷いた陣馬山の一部だろう。陣馬山の山頂と思われる場所に、現在は日枝神社が建つ。文献では山寺山王山と呼ばれている。宅地用に土採りされて山寺の雰囲気はなくなっているが、曲輪らしき遺構は感じる。

日枝神社に隣接して、東側に米山寺跡がある。山寺とはこの寺のことだろう。

米山寺経塚群として国指定史跡になっている。

雨呼口(あめよばりぐち)

政宗本陣に近い、雨呼口では真っ先に激戦地となった。場所は神田産業から消防署のあたり。これは奥州街道からみた神田産業だが、この背後は崖になっており、釈迦堂川を越えてきた伊達軍を迎え撃ったのだろう。二階堂氏の重臣・四天王「守谷俊重」が雨呼口で守備していたが、政宗に内応して長禄寺に放火した。これで城と町は焼け落ち、二階堂氏の敗北が決定的となった。

大黒石口

大黒石口の戦い虎口のひとつ、大黒石口でも激戦となった。死守するも戦局が不利となり、最後の戦いの場は八幡崎城のみとなる。この大黒池(大黒石池)は八幡崎城の堀跡ではないかと推定しているが、残念ながら2015年に埋め立てられたと聞いた。(2013年に撮影)

大黒池(大黒石池)大黒池の側に、現地案内板、大黒様の石像、合戦の紙芝居が置かれている。

八幡崎城

石清水八幡宮の分霊八幡山に築かれた八幡崎城では、須賀川勢の岩瀬東部衆・河東衆が守り、激戦地となった。現地の案内板には以下のことが記されている。

「1057年、源頼義・義家父子が前九年合戦・後三年合戦で須賀川を通った際、八幡山に戦勝祈願のため石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まりとされている。1589年10月26日、伊達政宗の須賀川城攻略では、午前八時ごろに政宗側の攻撃で戦端が切られた。特に須田七騎と塩田右近らの東部武士団に、佐竹氏の援軍が加わり、伊達軍と最も熾烈な戦いとなった。」

八幡崎城八幡崎城の遠景。

岩瀬八幡神社八幡崎城址は現在は岩瀬八幡神社の境内となっており参道がある。山頂には鳥居や祠が置かれており、土塁が確認できた。

岩瀬東部衆・河東衆須賀川城攻防図による布陣配置。須賀川勢では岩瀬東部衆・河東衆が守備していたようだ。

方八丁館

方八丁館 須賀川城の南からの進入口、南ノ原口は高久田境・メガステージ須賀川あたりとされる。須賀川合戦では、南ノ原口の出城である方八丁館で、二階堂勢として佐竹勢200人、岩城勢300人が布陣していた。並木町の住宅地と田んぼの間の道を通り、メガステージ須賀川に向かうと「下の川」に当たるが、この辺はちょっとした防塁に見えなくもない。

中町通り(現:松明通り)

2013年度の松明あかし 中町通りは、現在では須賀川市中心市街地となっており、新町街道とか松明通りと呼ばれている。須賀川城攻防図にも中町通りの記載がある。当時も繁華街であったのだろう。(今は巨大ショッピングモールに客を取られて微妙な印象だが。) 円谷英二の故郷にちなみ、2015年にはウルトラマンのモニュメントが設置された。火祭りの松明あかしでは、メインストリートとなっている。

十日山

伊達政宗の計略を知った二階堂家家臣や領民が、松明を手にこの十日山に集まり徹底抗戦を決意したと言われる。政宗は岩瀬地方西部の諸将を取り込んだり、内通者を味方につけていたので、二階堂勢が松明を灯して密かに団結したものと思われる。松明あかしという名称はここから来ているようだ。

須賀川市十日山2017年12月31日に訪問した十日山。須賀神社や妙見公園の「下の川」を挟んだ西側の台地にあるが、一見、駐車場かと思ってしまう。特に史跡標柱などはないが、松明あかしの祭りになると、「十日山・一般者観覧場」の看板が置かれるのですでに周知である。現在、松明あかしが行われるのは五老山であるが、昔はこの山で行われていた。藪のところが土塁のような印象がある。

五老山(愛宕山城の一連施設)十日山から見た五老山(愛宕山城の一連施設)。天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が、この場所で和睦交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったという。五老山では二階堂氏の慰霊祭・松明あかしの会場となっている。

十日山坂十日山から2ブロック西側の下り坂に「十日山坂」の標柱がある。坂の東西に住宅があるため、標柱の位置に違和感がある。古地図を見るとここもかつては十日山であったようで、やはり大幅に削られてしまったようだ。松明明かしの発祥の地で、開催地でもあった由緒ある山を削ってしまうとはひどい話だ。

十日山の名はこの現地標柱によると、10月10日の「山の神」の祭りに由来する、とある。なおガイドブックによると、伊達政宗と和睦するか抗戦するか決めるため十日山に集まったのが、旧暦の10月10日と説明している。

愛宕山城(初期の須賀川城)

愛宕山城 南北朝時代ごろ、かつて二階堂氏が居城としていたところが、愛宕山城である。または岩瀬山城や古須賀川城と呼ばれ、初期の須賀川城とされる。後に現在の市街地(二階堂神社)を中心とした場所に須賀川城が置かれたが、戦国期は、愛宕山城を須賀川城の詰城として活用したようだ。愛宕山、五老山、保土原舘、南舘、妙見山などが城郭とみられる。

保土原館(現:市立博物館)

二階堂氏の庶流である保土原氏の城館「保土原館」には現在、市立博物館が建つ。保土原行藤は政宗に内応し、須賀川城攻めの先陣を務めた。攻防図をみると政宗本陣の側に配置されているので、須賀川城の弱点などをアドバイスしていたのだろう。なお、出家して江南斎と号している。保土原館では、岩山と周囲の川が天然の要害となっており、これだけでも史跡と呼べる。

保土原館の北には琵琶池が現存している。琵琶池の西側の坂を「御隠居岳の坂」といい、須賀川八景の一つ。須賀川生まれで明治時代の銅版画家だった渡辺光徳の作品にもなっている。愛宕山城の城代を務めていた守屋筑後守の隠居所跡からそう呼ばれたようだ。須賀川城落城のときにはすでに引退の身であったのだろうか。

蓮池跡(金徳寺と十念寺あたり)

蓮池跡 古地図を見ると、かつて金徳寺や十念寺の付近では湧き池の蓮池があった。須賀川市の「まちなか歩きのハンドブック」によると、十念寺の西側に蓮池があったようだ。また、この清水の流れが「須賀川の地名由来になった」とも。ということは、「下の川」の水源でもあるのか。つまり須賀川城水堀の水源となっていたと思われる。現在では池跡の雰囲気はまったくなく、池上町という地名だけがその名残。

搦手館(現:岩瀬病院と長禄寺)


釈迦堂川の崖上に建つ岩瀬病院が、かつての搦手館だという。須賀川城の北を守る出城だろう。目ぼしい遺構はないが、麓にある御北稲荷神社がその土塁っぽい。御北というのがキーワードか。須賀川橋を渡る手前の西方面にある。

また、須賀川橋を渡る手前の東方面には、ヘアピンカーブの坂道があり「岩瀬の渡し坂」と呼ばれている。古くはこの坂を下りきった先に、釈迦堂川を渡るための舟つき場や架け橋があったという。このあたりは須賀川城の搦手口と考えられる場所であり、城主の脱出口でもあるため、船着き場があることに合点がいく。岩瀬の渡し坂を降り、釈迦堂川の土手近くまで行くと、岩瀬の渡しを歌ったという万葉集の歌碑が置かれている。


岩瀬病院に隣接する長禄寺は見晴らしの良い高台にあり、これも搦手館の一部だろう。長禄寺は二階堂氏の菩提寺である。
二階堂氏の重臣・四天王「守谷俊重」が雨呼口で守備していたが、政宗に内応して長禄寺に放火した。これで城と町は焼け落ち、二階堂氏の敗北が決定的となった。長禄寺には二階堂家臣団の墓があるが、東北大地震で墓石が倒れたままだ。

岩瀬森館(現:鎌足神社)


須賀川駅からみえる小さな森が鎌足神社。かつて岩瀬森館と呼ばれたところだ。その名の通り、藤原鎌足に起因する神社だが、現地案内板によると、「藤原義定の次男、義政が1185年に岩瀬郡四ッ清水城に在城し、鎌足霊を奉斎した」とある。この四ッ清水城がこの岩瀬森だという。二階堂氏は藤原氏の流れを組むので、何らかの関係性があったことは間違いない。


ちょっとした森になっており、周囲には民家が並ぶ。一部坂道になっており、堀があったのではないかと思う。須賀川城から見て、釈迦堂川の外側にあるため、伊達軍の部隊が布陣した可能性がある。

千本館(現:須賀川ボタン園)

二階堂氏の庭園とされる千本館 須賀川牡丹園は二階堂氏の庭園とされる千本館の跡地だという。園内にある牡丹稲荷神社にその遺構が残っている。須賀川牡丹園は明和3年(1766)、薬種商を営んでいた伊藤祐倫が兵庫県宝塚市から苗を求め、薬用に植栽したのが始まり。その後、柳沼家が伊藤家から譲り受け、柳沼源太郎が受け継いた柳沼牡丹園となる。 柳沼牡丹園になってから、薬草ではなく鑑賞目的となったようだ。昭和7年には国指定名勝となっている。園内は10ヘクタールあり東京ドーム約3倍の広さ。290種類7000株の牡丹を有する。

和田城

和田大仏訪問 二階堂四天王で、実質的な総大将を務めた須田盛秀の居城が和田城という。城跡らしい印象はなく、和田の大仏が鎮座している。須田盛秀が居城としたのは伏見館という説もある。須田盛秀は、二階堂氏の敗北が確実になると自ら居城に火を放ち、脱出したという。

伏見館

伏見館須賀川市和田大仏にあった伏見館は須田盛秀の居城とされる。これは大仏大橋から見た伏見館。

伏見館の岩盤
阿武隈川に面している岩盤がシンボルになっている。

須賀川の伏見館
伏見館も和田城に隣接し、阿武隈川のすぐ川沿いに位置する。そのため和田城とセットでみたほうがいい。籠城するなら伏見館のほうが有利であろうが、それにしても小さい城館である。

金剛院 (須田盛秀・先祖代々の菩提寺)

実質的な総大将を務めた二階堂家臣・須田盛秀曹洞宗の寺院である堅固山・金剛院(須賀川市和田宿62)。伊達政宗との須賀川城攻防戦(1589年)では、実質的な総大将を務めた二階堂家臣・須田盛秀の先祖代々の菩提寺。入り口に「須田美濃守秀行公開創道場」とある。須田秀行は須田盛秀の養父とされ、和田城主であった。須賀川城攻防戦の前に死去している。

須賀川落城後、須田盛秀は居城であった和田城に火をかけ、常陸国に落ちのびた。佐竹義宣に仕え、茂木城主、角館城、横手城の城代となった。須田盛秀の墓は晩年を過ごした秋田県横手市の金剛山天仙寺にある。享年96だという。

徳川家臣・本多正純が、宇都宮城に釣天井を仕掛けて徳川秀忠の暗殺を図った嫌疑の事件(1622年)が起った。本多正純は改易させられ流罪先の横手城で生涯を終えたが、このとき、横手城城代の須田盛秀が監視役を務めた。

金剛院境内金剛院境内の様子。

市野関館(万力館)

市野関館は、水郡線 川東駅のすぐ南側の丘陵地に位置している(須賀川市市野関舘山)。急崖上にあるが、遺構の残存状態は悪いので、縄張りは不明。近くに「平館、西館、蛭館」という3つの方形館があり、何かしろの関連性が考えられる。館主は二階堂氏家臣の須田秀泰である。秀泰には「江藤万力」という家臣がおり、その名から「万力館」とも呼ばれる。

市野関館比高30mほどの丘山。大仏大橋からの遠景。

江藤萬力山公園主郭と思われる山頂には「江藤萬力山公園」の標柱が建っている。現在ではソーラーパネルの設置場所となっており、立ち入り禁止となっている。ここまでの探索となるが、パネルの置かれている段差部分は土塁跡なのだろうか。

江藤万力という人物この江藤万力という人物・・、藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑によれば、1589年の伊達政宗との合戦では河東衆として八幡崎城(八幡山)に布陣していたようだ。

蛭館(東館)

蛭館水郡線川東から東北700mの水田地帯に位置している。南に長い台形の方形館で、堀は北で75m、南で110mの規模。
館主は二階堂氏家臣・須田氏の一族である簾田治郎(室町時代)とされる。蛭館は「東館」にあたり、川東駅の西側の阿武隈川河岸に「西館」があるという。

西館

川東駅川東駅。この奥が西館となるが、市街地化している。

石見館

石見館須賀川市雨田蔀久保にあった石見(いわみ)館は、須賀川東部の阿武隈山系丘陵地にあり、比高35mの単郭山城。山頂部を削平している。地名が蔀久保であるが、蔀(しとみ)とは格子を取り付けた板戸のことである。西側に信戸(しど)という地名があり、蔀が転じたと考えられる。館主は佐藤石見だという。

下宿御所館

下宿御所館

須賀川市森宿坪ノ内にある下宿御所館は、東北線の西側にあり、規模は350m × 300m、比高35mほどの丘陵地にある。大手口は東側のようだ。現在は顕国魂神社と愛宕神社がある。城館の西(この写真:顕国魂神社の参道側)は断崖絶壁で、さらに阿武隈川が天然の要害になっている。館主は明らかではないが、顕国魂神社と岩瀬国造神社が合祀されたことから、岩瀬氏の平山城だったことが推察される。 二階堂氏の須賀川所領は、鎌倉時代後期と考えられており、鎌倉時代初期は岩瀬氏の支配とされる。岩瀬氏は上人壇廃寺跡付近の郡司屋敷に居住していたが、領主の座を譲ってからは下宿一郷の領有に限られ、下宿御所館を築城して移住したと考えられている。姓も「吉田」に改名したとされる。

滑川館(柏木城)

滑川館(柏木城)へ行く

現在、柏城小学校になっているところが滑川館で、阿武隈川の支流である滑川を利用した城館である。(須賀川市滑川字東町)。この城館に関する記述は、二階堂氏と田村氏との対立抗争を記した軍記に出てくるらしい。須賀川城の北を防衛する重要地だったことはもちろん、滑川は多賀城への通過地点であり、古代より岩瀬郡の重要な防衛線と考えられる。この緑地部分が本丸であり、遺構はやや残されているらしい。校内に緑地帯と城郭遺構を持つ小学校は珍しいだろう。 須賀川城攻防図では、雨呼口に布陣した二階堂家臣、滑川藤十郎の名前が見える。伊達政宗と対峙していたころ、滑川館は彼の居館だったと思われる。ちなみに雨呼口では、伊達政宗に内応していた守屋筑後(守谷俊重)が大将を務めていたようだ。

筑後塚供養塔群

柏城小学校の西側の道を少し北に進み、分岐点の位置に筑後塚供養塔群がある。現地案内板の説明ではこうある。

もともとは柏城小学校前にあったが、道路改修のために現在地に移された。伊達政宗に内応した二階堂家臣・筑後守・守谷俊重の功績により須賀川城は落城した。しかし、伊達政宗は主君を裏切った筑後守を許せず、この地(白石坂)で成敗した。筑後塚のいわれは、これにちなむ。※須賀川市森宿白石坂は柏城小学校よりやや南にある。

ただし、二階堂家臣の寝返り組は多々おり、守谷俊重だけが成敗されることは考えにくい。そのまま伊達家家臣になったと思われ、この信ぴょう性は低い。敗戦を決定づけた守谷の寝返りに里人が許せず、ここで成敗されたことにしようと伝承を作り上げた気がする。実際、須賀川城落城後、守谷俊重は守谷館に在城しており、浜尾村・下小山田村を領有している。1590年に豊臣秀吉の奥州仕置により伊達政宗は米沢へ移封となり、会津を没収された。その際、守谷館を去ったという。

守谷館

圓福寺から妙経寺あたり須賀川市守谷舘にある圓福寺から妙経寺あたりが守谷俊重の居館であったと思われる。須賀川城攻防図でも、琵琶池のすぐ北西に守谷館があり、伊達政宗との合戦では守備を置いたようだ。守谷舘の前にある坂道は、「館の坂」と呼ばれた。古くは田村口や三春街道といわれた。

なお、日本城郭大系では愛宕山城のことを守谷館と紹介していたが、守谷氏が愛宕山城の城代を務めていただけで、やはり居館を守谷館と呼ぶほうが適切ではないかと思う。

妙経寺-守屋筑後(守谷俊重)琵琶池のすぐ北西に妙経寺があり、北側から見ると断崖上にお堂が建っている。地の利からここが守谷館と思われる。守屋筑後(守谷俊重)は雨呼口で大将を務めていたが、伊達政宗に内応しており城内を放火、伊達軍を雨呼口から引き入れた。これにより主君である二階堂氏は滅亡した。

越久館

越久館 越久館(おきゅうだて)は須賀川市越久字館にある城館で、会津中路への要衝と考えられる(日本城郭大系によると、会津街道は往古、須賀川から中宿、山寺、籾山、越久、袋田、矢沢、畑田、住田、七ツ石を経て諏訪峠を抜け、会津中路に通じていたという。)。おっきゅうとは、読み方がかなり特殊である。

一夜館

一夜館(須賀川市)

一夜館は、須賀川市仁井田一夜舘にあった城館。滑川を北の要害とした台地先端部に位置する。段丘崖下からの比高は15mくらい。一夜舘公園として整備されているので、アクセスしやすい。城郭が確認できるだけで、歴史は分かっていない。物見台(たぶん)から少し上がると公園広場に出る。陣城のような雰囲気。公園広場の奥に従軍碑、慰霊塔、公園碑、十六義民碑が建っており、周りは遺構とみられる土塁が確認できる。

二階堂氏家臣・浜尾種泰は新田館を居館とし、新田開発および町割りを行った。もともとは誉田(ぼんた)村だったそうだが、仁井田の村名の起源となった。1449年に常林寺が浜尾氏によって開基されたが、二階堂氏滅亡後は、浜尾氏館跡地に移されたと伝わっている。一夜館は浜尾氏と関係があるのかもしれない。

片岸館

仁井田字片峰-片岸館存在が眉唾ものであるが、須賀川市大字仁井田字片峰にある片岸館へ行ってみた(2016年8月)。地名が片峰なので片峰館じゃないのかと思うのだが、そもそも城郭なのかが怪しい。ただ、地図には切通とあるので、その可能性は否定できない。
仁井田小学校のすぐ西側の墓地が目印になるので発見しやすい。西に森、東に墓地という低い丘陵地であり、間を突き抜けている道路は堀跡だったのか、新たにぶち抜いたのかは不明。墓地は削平したと考えられる。

片岸館堀切(仮)の脇から横堀のような通路があり入ってみたが、墓地への小路だった。新たに道を作るならわざわざ堀にする必要がないので、堀跡に手を加えたと思うのだが、もはや遺構のレベルではない。それにしても、夜であれば肝試しになりそうな雰囲気だった。突入する前にこの暗がりからオジさんがひょこっと現れてびっくりしたが、中に入ると立ち小便の形跡があった。後々、親戚に聞いたら、墓参りで立ち小便する人が多々いるらしい。ここの南600mのところに浜尾氏の館跡(現・常林寺)があるので、浜尾氏と関係があるのかもしれない。

籾山御所宮館

籾山御所宮館須賀川市森宿御所宮にある籾山御所宮館。滑川と東北新幹線が交差する場所で、地名を頼りに訪れてみたが、どこを見るべきなのかさっぱりわからない。棚田なのか郭なのかわからないところと、その丘陵地を撮影しておいた。

日本城郭大系によると、会津街道は往古、須賀川から中宿、山寺、籾山、越久、袋田、矢沢、畑田、住田、七ツ石を経て諏訪峠を抜け、会津中路に通じていたという。籾山は当時では要衝だったみたい。御所というくらいだから、お偉い方の館でもあったのだろうか。

江泉館

鏡石町-江泉館跡 岩瀬郡鏡石町深内町(フコウチマチ)にある、江泉(ごういずみ)館。白河風土記によれば、城主は「深内藤内」とされるが、須賀川市史によると二階堂氏の一族で家臣の「浜尾氏」とも言われる。かつて二階堂氏が拠点にしていた「稲村城」の東南の守りをとして新造された城館のようだ。

稲村御所

稲村御所

福島県須賀川市稲字にあった稲村御所。 もともとは二階堂氏が須賀川城以前に本拠としていた稲村城(新城館 + 稲村御所館)の一部と考えられる。足利満貞の下向に伴い、二階堂氏が譲渡したと思われる。

城郭跡に赤城寺と赤城神社がある。関東公方 足利満兼の命を受けた足利満貞が下向して奥州府を開くが、約40年間(応永6年(1339年)~永享年間)にわたって御所として使用したという。ゆえに足利満貞は稲村公方と呼ばれる。 稲村御所では南堀と思われる遺構や掘立柱建物跡などが発見されている。また15世紀代の陶器などが出土しているが、16世紀代の遺物が見つかっていないことから、戦国時代には廃城され使われなかったと推測される。永享の乱において、兄・篠川公方は幕府方であったが、稲村公方は幕府に反する鎌倉公方・持氏に従っていた。1439年、鎌倉の永安寺で持氏と共に自害したという

松山城

松山城は二階堂氏の重要な支城

須賀川市木之崎に位置する松山城は二階堂氏の重要な支城だった。松山城は田村氏・蘆名氏の同盟軍から攻撃を受けたり、二階堂氏が奪還したりと近隣大名での攻防戦となっている。

伊達政宗の須賀川城攻めの際、先にこの松山城を攻め落としているらしい。 現在、岩崎山史跡公園となっているのは松山城の南端傾斜部分であり、中腹では急崖の岩盤が露出している。主郭部は奥の藪の中であり、343mの山頂にある。北に古墳があるが、城郭の一部に使われたことだろう。岩崎山は鎌倉~明治時代まで霊地であり、岩盤を利用した供養塔が散らばっている。

長沼城

長沼城

長沼城は、長沼小学校のすぐ北の公園で本丸跡、東三の丸跡あたりが整備されている。確証はないが南北朝時代に長沼氏(下野国小山氏の一族)が築城したと伝わっている。 長沼城が置かれたのは半島状の丘陵地で、西から東へ延びる日高見山に主郭がある。北西部は自然の地形を利用したと思われる堀切で一旦区切られ、山麓の地蔵堂へと縄張りが続く。 長沼城は軍事や交通で要地であるため、蘆名氏と二階堂氏でたびたび争いが起きている。

蘆名盛氏が手中に収めると新国貞通を城主においた。奥州仕置によって会津領となり、蒲生氏郷、続いて上杉景勝の支配下になる。1600年、徳川家康の上杉討伐が動き出すと、景勝は家康迎撃のため長沼城を拡張させた。

守山城

磐城 守山城

福島県郡山市田村町守山にある守山城。守山城の二の丸と三の丸の間にある堀跡。幅25mの規模が残されている。平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に築城したのが始まりと伝わる。南北朝時代まで、坂上田村麻呂の子孫である田村庄司氏の本拠地となった。永享の乱(1438年~)が起こり、鎌倉公方勢によって田村庄司氏は没落する。

その後、三春田村氏が本城としていたが、三春城へと居城を移した。※三春の田村氏は田村庄司氏の同族ではない。

篠川御所

篠川御所 郡山市安積町笹川にある東舘稲荷神社が篠川御所の東館にあたる。篠川公方・足利満直の居城で知られる。(2016年8月訪問)。阿武隈川に沿って築かれており、城の東は断崖で守られた水際の城館である。鎌倉公方の足利満兼の弟・満直が、1399年~1440年の間在城したため篠川御所と呼ばれる。南北朝時代、南朝方の宇津峰城や守山城に対抗するための要地でもあった。そのため築城はその頃だと思われる。環濠土居敷といわれる四角い郭を数個寄せ集めた群郭式城郭をとっており、足利氏の居城・鑁阿寺と似たような形である。南北朝時代に出現した形式だという。

宇津峰城

宇津峰城

宇津峰城は、標高676mの独立峰にある。枡形(千人溜まり)、長平城、鐘撞堂、御井戸沢を中心に、東乙森、弓射峠、西乙森の出城で構成。麓の出城には、紫塚城、御代田城、谷田川城、宮田陣馬、西山館、堤鐘撞堂、細久保館、蛇頭館、滑津館などがある。

南北朝の騒乱では、守山城を拠点とした田村氏の勢力下にあり、南朝方の本拠が置かれた。1340年に、田村宗季が鎮守府将軍の北畠顕信(北畠顕家の弟)を宇津峰城に迎えたとされる。しかし北朝方の南奥武士(二階堂、佐竹、会津、石川、相馬、岩城、結城など)の総攻撃により、入城から7年後の1347年に落城した。

観応の擾乱で足利尊氏と弟・直義の争いになると、この地は畠山と吉良の戦いの場となったが、1351年に田村氏は宇津峰城に入城し、北畠顕信と共に多賀城を占領した。多賀城に顕信が入城し国府に着任した。一方、多賀城を追われた吉良貞家は、奪回を狙って須賀川市の稲村城に入った。

1352年、多賀城を占領した顕信だったが、吉良勢に敗れて、再び宇津峰城で籠城戦をすることになった。1362年頃までは陸奥で活動していたようだが、それ以降の足取りは明らかでない。

江持洞門と羽黒神社

江持洞門 手掘りによって貫通させた鬼亀こと佐久間亀五郎の江持洞門を訪問した。そして「肝を冷やす急勾配の参道」、江持洞門の岩山に建つ羽黒神社へ行った。場所は、須賀川市江持。

上人壇廃寺跡

上人壇廃寺跡 須賀川駅のすぐ北側にある上人壇廃寺跡は、奈良・平安時代の寺院跡である。続日本記に記載されている石背国設置(養老2年/西暦718年) に深く関わる遺跡と考えられる。(陸奥国の統治から分かれ、白河・会津・安積・信夫の四郡とともに石背国の統治下になった) ※所在地:福島県 須賀川市上人壇・岩瀬森。国指定史跡。

取材予定地リスト

以下、取材予定

舘ケ岡城

須賀川市舘ケ岡舘山に位置する。現在は、市指定史跡「舘ケ岡磨崖仏及び供養碑群」 となっており、舘ケ岡地区を流れる滑川の南岸で、向山丘陵の西崖面にある。和田大仏と並ぶ岩瀬地方の磨崖仏で、安山岩の崖面を彫って造られている。天長元年(824年)の記年銘が彫られており、像の高さは約2.2m、肩幅約1.2m (和田大仏よりやや小柄)。この向山丘陵は中世、二階堂家臣・須田氏の居城として使われたという。

新田館

須賀川市仁井田舘内(常林寺があるところ)に新田館はあった。岩瀬西部衆の浜尾氏の館跡地。
1449年に常林寺が浜尾氏によって開基されたが、二階堂氏滅亡後は、新田館の跡地に移されたと伝わっている。※願成寺を新田館とする記述もあるが、すかがわ広報誌(1981年)では常林寺と書かれている。

二階堂氏家臣・浜尾種泰は新田館を居館とし、新田開発および町割りを行った。もともとは誉田(ぼんた)村だったそうだが、仁井田の村名の起源となった。1449年に常林寺が浜尾氏によって開基されたが、二階堂氏滅亡後は、浜尾氏館跡地に移されたと伝わっている。(仁井田神社の祭神は誉田別命(ホンダワケノミコト)だったので、もとは誉田村だったのであろう)。

今泉城

今泉城は、福島県須賀川市今泉町内にあった。浜尾行泰は1582年、居館の新田館を遠藤対馬守に明け渡して今泉城へ移っている。行泰の子・川島宗泰が政宗に内応したときは、兄・盛泰が今泉城城主になっており、これを説得したという。

仙台城の築城や江戸城外堀の普請奉行で知られる伊達政宗の家臣、川島宗泰(豊前守)は浜尾種泰を祖としており、二階堂家臣の時は浜尾氏を名乗っていた。1589年の須賀川城攻めでは、父・浜尾行泰(右衛門大夫)、兄・浜尾盛泰(駿河守)と共に伊達氏に内応した。

横田陣屋

横田陣屋は須賀川市横田字北之後にあった陣屋跡。護真寺の西にあり、松山城の近く。「横田陣屋の御殿桜」の案内板が建っている。

桙衝館

桙衝(ほこつき)館は、東の江花川を外堀として、北には水堀と土塁の遺構が残る。南朝方の支配下であったが、1347年に北朝方の伊賀盛光が入城した。南北朝時代後の動向は不明だが、戦国期、二階堂家臣の塚原伊予が城代を務めていたと伝わっている。桙衝館の北側土塁の下にある五輪塔は、塚原伊予のものらしい。

矢田野城

須賀川市矢田野藤原にあった城館。

常松館(岩渕館)

岩瀬川の北岸にあり、舌状の地形を成す岩渕丘陵にある。一部に空堀を作ることで独立台地に築きあげている。北西部に二の丸、東部には根小屋の集落が広がっている。館主は二階堂氏家臣・常松氏で、前田川平館から岩渕館に移った。(常松氏が家臣になったのは二階堂盛重の時。)

1589年の伊達政宗による須賀川攻めでは、常松氏は岩瀬西部衆と共に伊達軍へ寝返った。この2年後、伊達氏の岩出山移封に伴い、伊達家臣として仙台へ移り、岩渕館は廃城となった。

大里城

高さ350mの山頂にあり、比高は50m。三方が急斜面で西には空堀を設けてある。山頂の本丸は25m × 20m、東南に二の丸がある。大里城の南方には、「羽黒山」と「開場山」があるが、二階堂氏家臣の矢田野氏が大里城で籠城した際、伊達軍の来攻に備えて攻撃拠点に使われたという。

1589年に伊達政宗が二階堂を滅ぼすと、二階堂家臣の矢田野義正は伊達軍として取り込まれる。1590年、政宗に従って小田原に参陣するが、逃亡して大里城に籠城し、政宗に反旗を翻した。政宗は、新たに須賀川城主となった石川昭光や片倉小十郎に命じて大里城を包囲させた。矢田野は鉄砲のほかに、石や木を投げて反撃。入城できない伊達軍は水の手を攻めるが落城せず。最終的に浅野長政の意見(秀吉による仲裁)を聞き入れ、政宗は大里城の包囲を解いて終結した。

中宿古館

中宿古館は須賀川市東部、阿武隈川の西岸台地にあり、比高20m、川に面して絶壁になっている。もともと古墳時代の遺跡跡だが居館跡も発見された。調査により、間口60m、奥行き8mの大規模な屋敷だったことが分かっている。館主は須田秀信の5男、須田源蔵で、江持と堤を領していたという。建物があった場所は、阿武隈小学校のある位置だろう。

古館須賀川城攻防図に、古館が描かれている。田村口というのは、現在の新町街道(54号線)

浜尾館

浜尾氏の館跡か。

乙字ヶ滝と上代館

調査

木舟城(狸森城)

南北に長い丘陵地に置かれている。主郭は南北に並ぶ3つの郭で、堀切によって区画されている。その南端の郭が本丸のようだ。城主は二階堂氏家臣・矢部氏で、1444年に矢部定清が二階堂為氏の家臣になり、須賀川へ入ったとされる。ただ、矢部氏はもともと狸森地方で勢力を持っていた氏族だとされる。木舟城に入城したのは、4代目である矢部清通。
1589年に、伊達政宗が二階堂氏を滅ぼすと、木舟城は廃城となった。

矢柄城

矢柄(やい)城は宇津峰城の西2kmの位置にある。宇津峰登山口の木曽集落の南側にある丘が城跡。宇津峰城の外郭防衛用の支城のひとつである。1352年、北畠顕信は宇津峰に籠城したが、吉良貞家が率いる北朝軍の総攻撃により、矢柄城が落城、続いて宇津峰城も落城した。これにより南奥州の南北朝の騒乱は終結した。

細桙城

細桙(ほそほこ)城は、二階堂氏家臣・塩田氏の居城とされる。主郭は東西100m、南北40mの規模。細桙城の南にある「新館山」という砦は出城と考えられる。1589年、伊達政宗が二階堂氏を滅ぼすと、細桙城も多くの城館とともに廃城となった。

刑部内館・松が館

刑部内館は、宇津峰城の南西麓に位置する丘陵地にある。比高45mほどの輪郭式山城。館主は二階堂氏家臣、遠藤藤蔵之介とされる。遠藤氏は蛇頭館に在城していたが、戦国期に田村氏が脅威となり、刑部内館を築城して移ったと考えられる。北東では堀切で切られた松が館があり、そこは二階堂氏家臣・佐久間主殿助が館主を務めていたという。刑部内館と松が館を合わせて一つの城として機能したと考えられる。松が館は刑部内館の増設部分とみてよさそうだ。

なお、鎌倉時代に、田村一族の刑部仲能は鎌倉幕府の評定衆であり勢力があった。その刑部と関係があるのだろうか・・?

成山館

郡山市成山町(成山公園)にあった城館。応永年間(1394年~1428年)に、伊東満祐の居城だったと伝わっているが、築城年代も含め不明とのこと。篠川御所が近いので、何らかの関係性はありそうだ。

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