


須賀川城にまつわる城館・史跡
須賀川市の探訪にて赴いた、城館・砦跡のまとめ。まずは市立博物館にあった須賀川城攻防図を参考に、城館、古戦場、砦、布陣などを確認して現地を訪問してみた。また須賀川城から自転車で行動できる範囲で、近辺の城館跡もチェックしている。資料として日本城郭大系を概ね参考にしている。なお、おまけとして須賀川城とはあまり関係ない近隣の史跡もまとめている。

須賀川・郡山市・鏡石町の歴史探訪記録
- 須賀川城と二階堂氏
- 須賀川城の攻防図と古戦場~二階堂氏VS伊達政宗。各家臣の配置と、今の古戦場跡を巡る!
- 第一次・須賀川城(愛宕山城 / 岩瀬山城) ~かつて二階堂氏が居城としていた一帯(現・翠ケ丘公園)
関連史跡: 愛宕山城の主郭、新池、琵琶池、ビワ首山(御隠居岳)、十日山、妙見山、
栗谷沢の滝、五老山、南館、保土原館、守谷館 - 稲村御所~関東公方 足利満兼の命を受けた足利満貞が下向して、御所として使用
- 篠川御所~篠川公方・足利満直の居城。ちなみに弟の満直は稲村公方
- 下宿御所館~二階堂氏に領主の座を譲ってから移住した岩瀬氏の城館
- 蓮池跡(金徳寺と十念寺あたり)~須賀川城水堀の水源となっていたと思われる
- 千本館~(現:須賀川ボタン園)二階堂氏の庭園跡と伝えられている
- 和田城~二階堂四天王で、実質的な総大将を務めた須田盛秀の居城
- 滑川館(柏木城)~滑川は多賀城への通過地点であり、古代より岩瀬郡の重要な防衛線
- 越久館~城主は稲村二階堂の家臣・矢部豊前。会津中路への要衝
- 一夜館~城郭が確認できるだけで、歴史は分かっていない。浜尾氏と関係があるのかもしれない
- 江泉館~稲村城の東南の守りをとして新造された城館
- 松山城~田村氏・蘆名氏の同盟軍から攻撃を受けたりと、近隣大名での攻防戦となっている
- 長沼城~軍事や交通で要地であるため、蘆名氏と二階堂氏でたびたび争いが起きている
- 守山城~三春田村氏が本城としていたが、三春城へと居城を移した
- 上人壇廃寺跡~奈良・平安時代の寺院跡。見た目は残念な国指定史跡
- 江持洞門~鬼亀こと佐久間亀五郎が手掘りによって貫通させた洞門
- 宇津峰城(うづみねじょう)~南朝方・北畠顕信が率いた拠点で、天然の要害を利用した山城
- 日本三大火祭の松明あかしに参加~須賀川二階堂氏の慰霊祭
以下の史跡は記事規模が小さいため、このページにて集約している。
- 岩瀬森館~現・鎌足神社。藤原義政が1185年に岩瀬郡四ッ清水城として在城したとある
- 伏見館~和田城に隣接。同じく須田盛秀の居城とされる
- 金剛院~須田盛秀の先祖代々菩提寺
- 市野関館(万力館)~館主は二階堂氏家臣の須田秀泰であるが、彼には江藤万力という家臣がいた
- 蛭館(東館)、西館、石見館~須賀川東部の館など
- 片岸館~そもそも城郭なのか怪しい
- 籾山御所宮館~籾山は当時では要衝地。お偉い方の館でもあったのだろうか。
- 古館~館主は二階堂氏の重臣・須田秀信の5男、須田源蔵。古くは古墳時代の遺跡跡。
- 探索予定の史跡
須賀川駅からみえる小さな森が鎌足神社。かつて岩瀬森館と呼ばれたところだ。その名の通り、藤原鎌足に起因する神社だが、現地案内板によると、「藤原義定の次男、義政が1185年に岩瀬郡四ッ清水城に在城し、鎌足霊を奉斎した」とある。この四ッ清水城がこの岩瀬森だという。二階堂氏は藤原氏の流れを組むので、何らかの関係性があったことは間違いない。
ちょっとした森になっており、周囲には民家が並ぶ。一部坂道になっており、堀があったのではないかと思う。須賀川城から見て、釈迦堂川の外側にあるため、伊達軍の部隊が布陣した可能性がある。
伏見館
須賀川市和田大仏にあった伏見館は須田盛秀の居城とされる。これは大仏大橋から見た伏見館。
阿武隈川に面している岩盤がシンボルになっている。伏見館も和田城に隣接し、阿武隈川のすぐ川沿いに位置する。そのため和田城とセットでみたほうがいい。籠城するなら伏見館のほうが有利であろうが、それにしても小さい城館である。
金剛院 (須田盛秀・先祖代々の菩提寺)
曹洞宗の寺院である堅固山・金剛院(須賀川市和田宿62)。伊達政宗との須賀川城攻防戦(1589年)では、実質的な総大将を務めた二階堂家臣・須田盛秀の先祖代々の菩提寺。入り口に「須田美濃守秀行公開創道場」とある。須田秀行は須田盛秀の養父とされ、和田城主であった。須賀川城攻防戦の前に死去している。
須賀川落城後、須田盛秀は居城であった和田城に火をかけ、常陸国に落ちのびた。佐竹義宣に仕え、茂木城主、角館城、横手城の城代となった。須田盛秀の墓は晩年を過ごした秋田県横手市の金剛山天仙寺にある。享年96だという。
徳川家臣・本多正純が、宇都宮城に釣天井を仕掛けて徳川秀忠の暗殺を図った嫌疑の事件(1622年)が起った。本多正純は改易させられ流罪先の横手城で生涯を終えたが、このとき、横手城城代の須田盛秀が監視役を務めた。
市野関館(万力館)
市野関館は水郡線 川東駅のすぐ南側の丘陵地に位置しており比高30mほどの丘山。(須賀川市市野関舘山)。写真は大仏大橋からの遠景。急崖上にあるが、遺構の残存状態は悪いので縄張りは不明。近くに「平館、西館、蛭館」という3つの方形館があり何かしろの関連性が考えられる。館主は二階堂氏家臣の須田秀泰である。秀泰には「江藤万力」という家臣がおり、その名から「万力館」とも呼ばれる。城代だったのかカリスマ家臣だったのか不明。
大仏大橋から見るとここ。(空港方面)
主郭と思われる山頂には「江藤萬力山公園」の標柱が建っている。現在ではソーラーパネルの設置場所となっており、立ち入り禁止となっている。ここまでの探索となるが、パネルの置かれている段差部分は土塁跡なのだろうか。
この江藤万力という人物・・、藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑によれば、1589年の伊達政宗との合戦では河東衆として八幡崎城(八幡山)に布陣していたようだ。
蛭館(東館)
水郡線川東から東北700mの水田地帯に位置している。南に長い台形の方形館で、堀は北で75m、南で110mの規模。
館主は二階堂氏家臣・須田氏の一族である簾田治郎(室町時代)とされる。蛭館は「東館」にあたり、川東駅の西側の阿武隈川河岸に「西館」があるという。
西館
川東駅。この奥が西館となるが、市街地化している。
石見館
須賀川市雨田蔀久保にあった石見(いわみ)館は、須賀川東部の阿武隈山系丘陵地にあり、比高35mの単郭山城。山頂部を削平している。地名が蔀久保であるが、蔀(しとみ)とは格子を取り付けた板戸のことである。西側に信戸(しど)という地名があり、蔀が転じたと考えられる。館主は佐藤石見だという。
存在が眉唾ものであるが、須賀川市大字仁井田字片峰にある片岸館へ行ってみた(2016年8月)。地名が片峰なので片峰館じゃないのかと思うのだが、そもそも城郭なのかが怪しい。ただ、地図には切通とあるので、その可能性は否定できない。
仁井田小学校のすぐ西側の墓地が目印になるので発見しやすい。西に森、東に墓地という低い丘陵地であり、間を突き抜けている道路は堀跡だったのか、新たにぶち抜いたのかは不明。墓地は削平したと考えられる。
堀切(仮)の脇から横堀のような通路があり入ってみたが、墓地への小路だった。新たに道を作るならわざわざ堀にする必要がないので、堀跡に手を加えたと思うのだが、もはや遺構のレベルではない。それにしても、夜であれば肝試しになりそうな雰囲気だった。突入する前にこの暗がりからオジさんがひょこっと現れてびっくりしたが、中に入ると立ち小便の形跡があった。後々、親戚に聞いたら、墓参りで立ち小便する人が多々いるらしい。ここの南600mのところに浜尾氏の館跡(現・常林寺)があるので、浜尾氏と関係があるのかもしれない。
須賀川市森宿御所宮にある籾山御所宮館。滑川と東北新幹線が交差する場所で、地名を頼りに訪れてみたが、どこを見るべきなのかさっぱりわからない。棚田なのか郭なのかわからないところと、その丘陵地を撮影しておいた。
日本城郭大系によると、会津街道は往古、須賀川から中宿、山寺、籾山、越久、袋田、矢沢、畑田、住田、七ツ石を経て諏訪峠を抜け、会津中路に通じていたという。籾山は当時では要衝だったみたい。御所というくらいだから、お偉い方の館でもあったのだろうか。
須賀川市の東部を流れる阿武隈川の西岸台地にあった古館は、須賀川市古館に位置する。古い住所では須賀川市中宿字古館なので「中宿古館」と日本城郭大系で書かれている。
館主は二階堂氏の重臣・須田秀信の5男、須田源蔵で、江持と堤を領していたという。ゆえに城館の別名は「源蔵館」。古くは古墳時代の遺跡跡のようで、古墳跡が7基発見されている。阿武隈小学校のある位置と見ていたが、日本城郭大系によれば、40年も前の話になるが「平坦な畑になっている」と記されている。ピンポイントではわからなかったが、この台地上にあったようだ。
古館は、川に面して絶壁になっている、河岸段丘の丘陵地(比高20m)に築かれた城館である。現在では新町街道と呼ばれているが、かつて須賀川城への進入路である田村口であり、その要衝地であったようだ。調査により、間口60m、奥行き8mの大規模な屋敷だったことが分かっている。100m四方の平場で中央に井戸跡があったという。
丘陵地の上から阿武隈川を見下ろす。
古館のある丘陵地直下の阿武隈川。
須賀川城攻防図に、古館が描かれている。田村口というのは、現在の新町街道(54号線)
取材予定地リスト
以下、取材予定
稲村城(新城館)
二階堂氏が岩瀬郡を支配したのは鎌倉時代初期とされる。二階堂行村が領有していたのは岩瀬西部だったので、当初は稲村城(新城館)が拠点だったと考えられる(南側には稲村御所があるので、稲村城と混在しないように注意が必要)。そのころ須賀川城の位置する場所は、岩瀬氏の支配下だったようだ。※岩瀬氏は郡司政光の子孫
1334年には南朝方によって任命された評定衆に二階堂行朝の名が見られるため、鎌倉時代後期には須賀川城のあった場所(現在の市街地)を二階堂氏が支配したと考えられる。こうしてかつての支配者、岩瀬氏を下宿御所館に追いやったと考えられる。第一次・須賀川城(愛宕山城 / 岩瀬山城)は鎌倉時代後期の築城とされており、稲村城(新城館)から移ったと考えられる。
藤葉栄衰記によれば、鎌倉の本家・二階堂氏では1444年に二階堂式部大輔(しきぶたゆう)が亡くなり、12歳の二階堂為氏が当主となる。代官として須賀川を統治していた二階堂行続(二階堂治部大輔)が勝手な振る舞いを始めたため、1445年に為氏は鎌倉を出発し治部大輔を攻撃したとある。
高久田館(鹿島館)
鹿島館とも呼ばれ、200m×200mほどの規模の平山城。高久田館は下の川(栗谷沢)の上流に位置する。明治年間による採石により保存状態は悪い。白河風土記では「村より寅卯の方、11丁余りにあり、山の高さ4丈あまりの畑となる」と記載。大正時代の岩瀬郡誌では「大字高久田の東北方、11町あまりなる字前田の丘の上に在りて、草野となり石材採掘により大部分が破壊された」と記している。 高久田館の城主は二階堂氏重臣の箭部(矢部)紀伊守とされているが、居住していたのは鹿島八郎、須田大蔵、高久田義兼らと考えられている。須賀川城落城の1589年に廃城したと考えられる。
須賀川の市街地にある「いげた屋魚店」を経営する高久田家の祖先は二階堂為氏の家臣「高久田四郎義兼」で、高久田境にあった高久田館に居住し須賀川城の南口を守衛していたという。 伊達政宗により須賀川城が落城すると家臣団は散り散りになるが、高久田家は町人となった。町人になるまでの経緯は不明だが、元禄初期には本町(現在地)に移り肴屋を営んでいる。昔は保存のすべがなく生魚があまり扱えなかったため、乾き物を多く扱っていたという。生魚は福島県いわき市南部の勿来(なこそ)から馬で運んできた。高久田家の当主は代々「金吾」を名乗っていたが、大正2年に14代金吾が夭折して金吾の名は途絶えた。しかし魚屋としては存続している。
須賀川市舘ケ岡舘山に位置する。現在は、市指定史跡「舘ケ岡磨崖仏及び供養碑群」 となっており、舘ケ岡地区を流れる滑川の南岸で、向山丘陵の西崖面にある。和田大仏と並ぶ岩瀬地方の磨崖仏で、安山岩の崖面を彫って造られている。天長元年(824年)の記年銘が彫られており、像の高さは約2.2m、肩幅約1.2m (和田大仏よりやや小柄)。この向山丘陵は中世、二階堂家臣・須田氏の居城として使われたという。
須賀川市仁井田舘内(常林寺があるところ)に新田館はあった。岩瀬西部衆の浜尾氏の館跡地。
1449年に常林寺が浜尾氏によって開基されたが、二階堂氏滅亡後は、新田館の跡地に移されたと伝わっている。※願成寺を新田館とする記述もあるが、すかがわ広報誌(1981年)では常林寺と書かれている。
二階堂氏家臣・浜尾種泰は新田館を居館とし、新田開発および町割りを行った。もともとは誉田(ぼんた)村だったそうだが、仁井田の村名の起源となった。1449年に常林寺が浜尾氏によって開基されたが、二階堂氏滅亡後は、浜尾氏館跡地に移されたと伝わっている。(仁井田神社の祭神は誉田別命(ホンダワケノミコト)だったので、もとは誉田村だったのであろう)。
今泉城は、福島県須賀川市今泉町内にあった。浜尾行泰は1582年、居館の新田館を遠藤対馬守に明け渡して今泉城へ移っている。行泰の子・川島宗泰が政宗に内応したときは、兄・盛泰が今泉城城主になっており、これを説得したという。
仙台城の築城や江戸城外堀の普請奉行で知られる伊達政宗の家臣、川島宗泰(豊前守)は浜尾種泰を祖としており、二階堂家臣の時は浜尾氏を名乗っていた。1589年の須賀川城攻めでは、父・浜尾行泰(右衛門大夫)、兄・浜尾盛泰(駿河守)と共に伊達氏に内応した。
横田陣屋は須賀川市横田字北之後にあった陣屋跡。護真寺の西にあり、松山城の近く。「横田陣屋の御殿桜」の案内板が建っている。
桙衝(ほこつき)館は、東の江花川を外堀として、北には水堀と土塁の遺構が残る。南朝方の支配下であったが、1347年に北朝方の伊賀盛光が入城した。南北朝時代後の動向は不明だが、戦国期、二階堂家臣の塚原伊予が城代を務めていたと伝わっている。桙衝館の北側土塁の下にある五輪塔は、塚原伊予のものらしい。
須賀川市矢田野藤原にあった城館。
岩瀬川の北岸にあり、舌状の地形を成す岩渕丘陵にある。一部に空堀を作ることで独立台地に築きあげている。北西部に二の丸、東部には根小屋の集落が広がっている。館主は二階堂氏家臣・常松氏で、前田川平館から岩渕館に移った。(常松氏が家臣になったのは二階堂盛重の時。)
1589年の伊達政宗による須賀川攻めでは、常松氏は岩瀬西部衆と共に伊達軍へ寝返った。この2年後、伊達氏の岩出山移封に伴い、伊達家臣として仙台へ移り、岩渕館は廃城となった。
高さ350mの山頂にあり、比高は50m。三方が急斜面で西には空堀を設けてある。山頂の本丸は25m × 20m、東南に二の丸がある。大里城の南方には、「羽黒山」と「開場山」があるが、二階堂氏家臣の矢田野氏が大里城で籠城した際、伊達軍の来攻に備えて攻撃拠点に使われたという。
1589年に伊達政宗が二階堂を滅ぼすと、二階堂家臣の矢田野義正は伊達軍として取り込まれる。1590年、政宗に従って小田原に参陣するが、逃亡して大里城に籠城し、政宗に反旗を翻した。政宗は、新たに須賀川城主となった石川昭光や片倉小十郎に命じて大里城を包囲させた。矢田野は鉄砲のほかに、石や木を投げて反撃。入城できない伊達軍は水の手を攻めるが落城せず。最終的に浅野長政の意見(秀吉による仲裁)を聞き入れ、政宗は大里城の包囲を解いて終結した。
浜尾氏の館跡か。
調査
南北に長い丘陵地に置かれている。主郭は南北に並ぶ3つの郭で、堀切によって区画されている。その南端の郭が本丸のようだ。城主は二階堂氏家臣・矢部氏で、1444年に矢部定清が二階堂為氏の家臣になり、須賀川へ入ったとされる。ただ、矢部氏はもともと狸森地方で勢力を持っていた氏族だとされる。木舟城に入城したのは、4代目である矢部清通。
1589年に、伊達政宗が二階堂氏を滅ぼすと、木舟城は廃城となった。
矢柄(やい)城は宇津峰城の西2kmの位置にある。宇津峰登山口の木曽集落の南側にある丘が城跡。宇津峰城の外郭防衛用の支城のひとつである。1352年、北畠顕信は宇津峰に籠城したが、吉良貞家が率いる北朝軍の総攻撃により、矢柄城が落城、続いて宇津峰城も落城した。これにより南奥州の南北朝の騒乱は終結した。
細桙(ほそほこ)城は、二階堂氏家臣・塩田氏の居城とされる。主郭は東西100m、南北40mの規模。細桙城の南にある「新館山」という砦は出城と考えられる。1589年、伊達政宗が二階堂氏を滅ぼすと、細桙城も多くの城館とともに廃城となった。
刑部内館は、宇津峰城の南西麓に位置する丘陵地にある。比高45mほどの輪郭式山城。館主は二階堂氏家臣、遠藤藤蔵之介とされる。遠藤氏は蛇頭館に在城していたが、戦国期に田村氏が脅威となり、刑部内館を築城して移ったと考えられる。北東では堀切で切られた松が館があり、そこは二階堂氏家臣・佐久間主殿助が館主を務めていたという。刑部内館と松が館を合わせて一つの城として機能したと考えられる。松が館は刑部内館の増設部分とみてよさそうだ。
なお、鎌倉時代に、田村一族の刑部仲能は鎌倉幕府の評定衆であり勢力があった。その刑部と関係があるのだろうか・・?
郡山市成山町(成山公園)にあった城館。応永年間(1394年~1428年)に、伊東満祐の居城だったと伝わっているが、築城年代も含め不明とのこと。篠川御所が近いので、何らかの関係性はありそうだ。
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