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第一次・須賀川城(愛宕山城 / 岩瀬山城)

鎌倉時代、二階堂氏は鎌倉幕府の重役であり、政所執事の地位にいた。これは政治を担う政所のなかで2番目に高い地位であり、二階堂氏当主は鎌倉を離れることができなかった。そこで岩瀬郡には一族や家臣を派遣し、その支配を任せていた。当時、稲村城(新城館)を本拠地にしており、鎌倉時代末には愛宕山にも城を築いていたとされる。

1333年に鎌倉幕府が滅び、1336年に後醍醐天皇(南朝)と足利尊氏(北朝)が対立し南北朝時代になると、稲村城を拠点としている二階堂氏は北朝につき、岩瀬郡では桙衝館で結城氏と戦っている。南北朝が合一した後の1399年、 鎌倉公方である足利満兼が満直を篠川御所へ、満貞を稲村御所へ派遣する。この時期に二階堂氏は愛宕山城へ移ったと考えられる。(南北朝時代には拠点とした説もある)。

須賀川市の翠ヶ丘公園内にある愛宕山が、かつて二階堂氏が居城としていたところだ。愛宕山城または岩瀬山城と呼ばれる。現在の市街地にあった須賀川城の前身として機能していたことから、第一次・須賀川城、古須賀川城などとも呼ばれる。愛宕山城の縄張りとして、関連史跡に次のようなものが挙げられる。愛宕山城の主郭、新池、琵琶池、ビワ首山(御隠居岳)、十日山、妙見山、栗谷沢の滝、五老山、南館、保土原館、守谷館。

愛宕山城は、翠ヶ丘公園の一帯

翠ヶ丘公園翠ヶ丘公園そのものが多郭式城館であり、愛宕山が主郭になる。愛宕山を中心に保土原館や守谷館などの二階堂家臣の館が配置されている。 日本城郭大系いわく、山館だった愛宕山はかつて「びわくび館」と呼ばれていたが、江戸時代に愛宕社が祀られたため「愛宕山」と呼ばれるようになった。 ということは、愛宕山城とは後世の呼び方であろう。二階堂神社を本丸とする須賀川城へ移転した後は詰城として活用され、家臣の守谷氏が領することになったようだ。

翠ヶ丘公園は、「日本の都市公園100選」にも選ばれており、大正12年に公園化された。愛宕山、五老山、保土原舘、南舘、妙見山などを含むエリアから成り、東京ドームの約7倍の敷地(29.9ha)を誇る。 五老山屋敷跡、岩間十三塚、妙見櫓、岩瀬総社妙見社、時宗金徳寺(こんとくじ)、十日山などは愛宕山城の一連の施設と考えられる。琵琶池につながっている「下の川」は須賀川の地名の由来になった川であり、内堀として機能した。また「下の川」は栗谷沢とも呼ばれていた。

縄張り

翠ヶ丘公園に城郭の名残日本城郭大系の縄張り図や博物館の資料を基に、航空写真から城郭を割り出してみた。二の丸はほぼ壊滅、十日山も東側に少し残された程度。水堀跡では、下の川、新池、琵琶池に名残がある。

須賀川市博物館の愛宕山ジオラマ須賀川市立博物館の愛宕山城ジオラマで、ここでは第一次須賀川城と記している。これは西側から俯瞰した様子。なお、日本城郭大系に記載されている縄張りとと一致しない箇所がいくつかある。

愛宕山城 / 岩瀬山城ジオラマ北西の位置から見た様子。南館は五老山でくくっている模様。

須賀川市立博物館の展示資料藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑を基に作成された城郭図で、須賀川市立博物館で展示されていたもの。琵琶池など形がちょっとおかしい箇所が多々ある。1589年の伊達政宗との合戦では、守谷館(妙経寺あたり)に二階堂勢の兵を配置したようだ。

枇杷ノ首山-岩瀬山城本丸跡(二階堂神社)に置かれている城郭図。原図は遠藤改助氏旧蔵によるもの。日本城郭大系では、愛宕山をびわくび山と言っていたが、向かいの台地(二の丸)を「枇杷ノ首山」と記している。琵琶池と関連するなら「枇杷」では違うと思うのだが・・。いずれにしても御隠居岳というのは、愛宕山城の二の丸らしい。

東側の要害、阿武隈川

阿武隈川愛宕山城の東にある阿武隈川は、天然の要害である外堀と言える。

愛宕山城(岩瀬山城) 主郭

愛宕山城の本丸標高278.4mの愛宕山。石畳の上を登ると主郭である愛宕山城の本丸がある。山頂には虎口がしっかり残っており土塁で囲まれた平地が広がっている。

愛宕山城主郭愛宕山城の主郭(山頂)。

愛宕山虎口岩瀬山城虎口がしっかりと残されている。

土塁跡山頂の平地と周囲を囲む土塁跡。

板碑応長2年(1312年)銘の板碑が置かれている。これは江戸時代に松平定信が編集した文化財図録「集古十種」にも掲載された板碑である。鎌倉時代末には愛宕山城を築いていたとされる証拠か。

鳥居と手水場愛宕神社の社殿はあるが、鳥居と手水舎が朽ちている。(撮影:2013年4/28)

遺構愛宕山の麓あたり。ここらは水堀跡かと思われる。

新池(水堀跡)

新池愛宕山城主郭の南に位置する新池は水堀跡。

新池新池のジオラマ。

琵琶池(水堀跡)

琵琶池琵琶池は愛宕山城主郭の北西にある水堀跡であった。

ビワ首山と根小屋の台地ジオラマの琵琶池。その西側にはビワ首山と根小屋から成る二の丸があった。なお、二階堂神社に置かれている城郭図によれば、ビワ首山と根小屋の台地をまとめてビワ首山(御隠居岳)としている。

二の丸(ビワ首山-御隠居岳)

御隠居岳二の丸はほとんど破壊されており、琵琶池の西側にあるビワ首山が残っているくらい。この写真にある琵琶池の西側の坂を「御隠居岳の坂」といい、須賀川八景の一つ。須賀川生まれで明治時代の銅版画家だった渡辺光徳の作品にもなっている。愛宕山城の城代を務めていた守屋筑後守(守谷俊重)の隠居所跡からそう呼ばれたようだ。伊達政宗に内応した守屋筑後守だが、須賀川城落城のときにはすでに引退の身であったのだろうか。

根小屋西側の根小屋も高台のはずだが、自由広場として完全な平地化されている。えぐり取ってしまったようだ。ジオラマには池があったが埋め立てたようだ。

御隠居岳の石柱フェンスのある方がビワ首山(御隠居岳)で進入できない。御隠居岳の石碑と愛宕山公園の石柱が置かれている。琵琶池に架かる橋の先に愛宕山の登山口があり、搦手口に向かうコースである。

粟津森御隠居岳の坂から南下していくと、自由広場と公園の中間に少しだけ盛り上がった地形があり、岩盤の岩肌と石垣跡がみられる。不自然でちょっと気になる場所だが、「粟津森」の石碑が置かれている。城郭図やジオラマにも、小さな岩山が記されている。

池があるはず小さな岩山の南は堀跡だろう。かなり拡張して公園広場にしたように思われる。

保土原館(現:市立博物館)

保土原館保土原館のジオラマ。藤葉栄衰記(野川本)では保土原館の東にあった山を「小栗山」としていたが、これでは保土原館が小栗山になっている。

須賀川市立博物館保土原館には現在、須賀川市立博物館が建つ。二階堂氏家臣であった保土原行藤の武家屋敷跡と思われる。保土原氏は二階堂氏の庶流であるが保土原行藤は伊達政宗に内応し、須賀川城攻めの先陣を務めた。攻防図をみると政宗本陣の側に配置されているので、須賀川城の弱点などをアドバイスしていたのだろう。なお、保土原行藤は出家して江南斎と号している。

江南斎保土原行藤(江南斎)の布陣。伊達政宗のすぐ側におり、もっとも有力な内応者だったと思われる。

急崖の岩盤上保土原館の石垣。後世のものなのか史跡なのかは不明。急崖の岩盤上には博物館が建っている。

保土原行藤保土原舘の東を流れる下の川(栗谷沢)は水掘。館跡とはいえ、それなりの防衛機能を備えているようだ。保土原館では、岩山と周囲の川が天然の要害となっており、これだけでも史跡と呼べる。須賀川城は保土原館のような小館や出城、詰め城などを配置し城下町全体で守りを固めていたと思われる。保土原館の北には琵琶池がある。

博物館までバリアフリー保土原館の西側。どこまで遺構なのか分からないが、とりあえず博物館までバリアフリーになっている。

十日山

松明あかし-十日山伊達政宗の計略を知った二階堂家家臣や領民が、松明を手にこの十日山に集まり徹底抗戦を決意したと言われる。政宗は岩瀬地方西部の諸将を取り込んだり、内通者を味方につけていたので、二階堂勢が松明を灯して密かに団結したものと思われる。松明あかしという名称はここから来ているようだ。

須賀川市十日山2017年12月31日に訪問した十日山。妙見山(須賀神社や妙見公園)から「下の川」を挟んだ西側の台地にあるが、一見、駐車場かと思ってしまう。特に史跡標柱などはないが、藪のところが土塁のような印象がある。松明あかしの祭りになると、「十日山・一般者観覧場」の看板が置かれるのですでに周知の場所である。

現在、松明あかしが行われるのは五老山であるが、明治時代までは十日山で行われていた。十日山の周辺に住宅が増えたため、松明あかしの会場は妙見山と五老山の2箇所になったが、妙見山の木が大きくなってしまい、現在では五老山のみとなった。

十日山坂十日山から2ブロック西側の下り坂に「十日山坂」の標柱がある。坂の東西に住宅があるため、標柱の位置に違和感がある。古地図を見るとここもかつては十日山であったようで、やはり大幅に削られてしまったようだ。松明明かしの発祥の地で、開催地でもあった由緒ある山を削ってしまうとはひどい話だ。

十日山の名はこの現地標柱によると、10月10日の「山の神」の祭りに由来する、とある。しかしガイドブックによると、伊達政宗と和睦するか抗戦するか決めるため十日山に集まったのが、旧暦の10月10日と説明している。

なお、松明あかしに関する記録で最も古いとされるのが「白河風土記」である。これは江戸時代に白河藩の儒学者・広瀬典が著した地誌であるが、伊達政宗との抗戦を決めた「10月10日」説を記している。江戸時代には松明を持って十日山に集まる行事があり、当時は「ムジナガリ」と呼んでいた。慰霊祭と言えなかったのは当時の領主に配慮してのことだとされる。

明治から昭和初期にかけての松明あかしについては「東奥紀聞」に記されている。「派手な商売の家などでは直径2・3尺に高さ4・5間ある松明を作って担いでいった」と書かれている。このことから松明や行事の規模が大きくなったことが伺える。

妙見山

妙見公園妙見公園側(南側)から見た妙見山。

妙見山下の川を挟んで十日山の向かい側。また堀切を挟んで五老山の南側に位置する妙見山。ほとんど岩盤となっている郭であり愛宕山城の城郭の一部と考えられる。十日山周辺の住宅が増えてしまい、松明あかしは妙見山と五老山の二箇所で行われていた。その後、妙見山の木が大きくなり、昭和初期から現在まで五老山のみで行われている。

現在は須賀神社が鎮座している。もともとは妙見神社であったが、1872年に社名が須賀神社に代わった。二階堂氏時代ではこの妙見神社が須賀川の惣社であったが、二階堂氏滅亡後は、神炊館神社(諏訪神社)が惣社となっている。

西側の崖妙見山の西側の崖。水濠である「下の川」に沿っている。

西側岩肌妙見山の西側岩肌には、いつの時代のものか分からないが信仰らしきものが彫られている。

妙見山の山頂妙見山の山頂。所々、土塁跡が確認できる。

妙見山墓地誠忠館の奥には墓地らしきものがあるが、鳥居もあり何だかわからない。塚らしいものが多数あり、当初ここが十三塚だと勘違いしたものだ。

栗谷沢の堀切

堀切栗谷沢の滝がある堀切はこの矢印の位置で、五老山、十三塚、妙見山の間にある。ちなみに、「すかがわ坂物語まちなかマップ」によると、昼間でも暗いことから、くらいさわ・・・転じて暮谷沢(栗谷沢)となったとのこと。千葉県の土気城の堀切では、暗い坂から転じた「クラン坂」ってのがあるけどな。

栗谷沢の滝

三千代姫伝説-栗谷沢(暮谷沢)の滝五老山と妙見山の間の堀切にある栗谷沢(暮谷沢)の滝には「三千代姫伝説」が伝わっており、三千代姫終焉の地とされる。 文安元年(1444年)、本家の二階堂為氏は須賀川に下向したが、城代の代官・治部大輔は須賀川城の明け渡しを拒んだ。1445年に為氏は治部大輔を攻撃する。

(補足:鎌倉時代、二階堂氏は鎌倉幕府の重役であり、政所執事の地位にいた。政治を担う政所のなかで2番目に高い地位であり、二階堂氏当主は鎌倉を離れることができなかった。そこで岩瀬郡には一族や家臣を派遣し、その支配を任せていた。初期は稲村城(新城館)を本拠地にしていた。その後、愛宕山城へ移転)

二階堂為氏と治部大輔は和睦し、治部大輔は娘(三千代姫)を為氏に嫁がせ、3年後に岩瀬郡(須賀川)の統治を為氏に譲ると約束する。しかし反故にしたため、為氏は三千代姫と離縁し治部大輔を滅ぼす。岩瀬郡を支配した為氏は須賀川城(市街地側)に入城し、城郭の改修と町並みを整備した。

為氏に離縁された三千代姫は「暮谷沢」まで送られたが、涙橋の袂で自害したという。辞世の句は「人間わば岩間の下の涙橋流さでいとまくれや沢とは」。三千代姫はわずか15歳、乳母や侍女も殉じたという。 三千代姫の談話は後世に伝えられ、昭和30年に「暮谷沢の碑」が建立された。ちなみに、治部大輔は東町の治部稲荷神社(吉田塾のとなり)に祀られている。伊達政宗に滅ぼされた本家・二階堂氏は須賀川二階堂としては分家よりも比較的歴史が浅いということになる。

暮谷沢の碑五老山の南側で栗谷沢の滝のすぐとなりに「暮谷沢の碑」が建つ。階段があるところは少し窪んでいるが、空堀跡の名残である。ただ少し埋めているようにも思える。この東側(写真では右)は十三塚の曲輪となる。

三千代姫堂昭和63年、五老山側に三千代姫堂が建立された。

岩間不動堀切にある岩間不動。ちょうど妙見山の崖下にある。

十三塚の曲輪

十三塚坂妙見山の北東に、十三塚と根小屋の曲輪がある。東屋のある広場は削平したように思われる。(奥の薄暗い茂みは妙見山)。ここに面した坂道を「十三塚坂」という。石碑にはこう刻まれている。「西側の林には、須賀川領主であった二階堂家追善供養止めの13の土盛りの塚があった。現在は雑木に覆われ、場所も判然としない」

二階堂盛義(大乗院の旦那)の供養石柱のあるところから少し北上した所。この雑木のなかに十三塚があるのだろうか?十三塚は二階堂氏の精霊菩提追善のために13の塚を造営した場所で供養を行っていたそうだ。二階堂盛義(大乗院の旦那)の供養も行われたところでもある。

五老山

五老山の通称は「赤っぱげ山」五老山のジオラマ。五老山では二階堂氏の慰霊祭・松明あかしの会場となっている。五老山の通称は「赤っぱげ山」。植木が赤っぽいからだろうか?背後には薬研堀があるらしい。ジオラマでは五老山としているが、この館は南館であろう。

三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が、この場所で和睦交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったという。

五老山(愛宕山城の一連施設)十日山から見た五老山(愛宕山城の一連施設)。

五老山五老山の頂上。虎口らしき遺構と土塁があるがほぼ削平されている。江持石の石碑が置かれている。

須賀川石とか江持石、馬つなぎ石須賀川地方は石の産地でもあり、特徴的なのは安山岩質凝灰岩。通称では、須賀川石とか江持石と呼ばれる。大正時代までは運搬に馬が使われており、賑やかな通りの店先では「馬つなぎ石」が置かれていた。須賀川城が城下町として存続していれば石垣の城にでも改修されたのだろうなあ。※馬つなぎ石は須賀川市博物館の入り口に展示

南館

南部に位置する曲輪愛宕山城主郭の南部に位置する曲輪。だから南館なのだろう。ジオラマでは五老山として一括りで扱われている。現在では五老山と橋でつながっており間には道路が通されているが、近代になってぶち抜かれたものだろう。

守谷館

圓福寺から妙経寺あたり須賀川市守谷舘にある圓福寺~妙経寺あたりが、守谷俊重の居館であったとされる。須賀川城攻防図でも、琵琶池のすぐ北西に守谷館があり、伊達政宗との合戦では守備を置いたようだ。

圓福寺から妙経寺あたり守谷舘の前にある坂道は「館の坂」と呼ばれ、守谷館に由来する。古くは田村口や三春街道といわれた。ここから博物館への下り坂を「御隠居岳の坂」といい、目の前にビワ首山(御隠居岳)が見える。この御隠居も守谷俊重と関係があるのだろう。

妙経寺-守屋筑後(守谷俊重)妙経寺が建つ崖の様子。守谷館はこの天然の要害を利用した城館だったようだ。

守谷館遠景北側からの守谷館遠景(岩瀬の渡し坂付近からの眺望)

座頭ころばし妙経寺の西脇にある急峻な坂は中宿の集落に続いており、その急勾配から「座頭ころばし」と言われた。古くからあるということは、もともと守谷館の竪堀であったのだろうかと想像する。この墓地からは見晴らしがよく、伊達政宗が本陣をおいた陣馬山(日枝神社)が見える。愛宕山城の一部とするなら北の物見郭として機能しそうだ。

なお、日本城郭大系では愛宕山城のことを守谷館と紹介していたが、守谷氏が愛宕山城の城代を務めていただけで、やはり居館を守谷館と呼ぶほうが適切ではないかと思う。

雨呼口で大将を務めていた守谷俊重守屋筑後(守谷俊重)は雨呼口で大将を務めていたが、伊達政宗に内応しており城内を放火、伊達軍を雨呼口から引き入れた。これにより主君である二階堂氏は滅亡した。筑後塚は成敗された守谷俊重の墓というが、あまり信憑性がない。

筑後塚供養塔群

柏城小学校の西側の道を少し北に進み、分岐点の位置に筑後塚供養塔群がある。現地案内板の説明ではこうある。

もともとは柏城小学校前にあったが、道路改修のために現在地に移された。伊達政宗に内応した二階堂家臣・筑後守・守谷俊重の功績により須賀川城は落城した。しかし、伊達政宗は主君を裏切った筑後守を許せず、この地(白石坂)で成敗した。筑後塚のいわれは、これにちなむ。※須賀川市森宿白石坂は柏城小学校よりやや南にある。

ただし、二階堂家臣の寝返り組は多々おり、守谷俊重だけが成敗されることは考えにくい。そのまま伊達家家臣になったと思われ、この信ぴょう性は低い。敗戦を決定づけた守谷の寝返りに里人が許せず、ここで成敗されたことにしようと伝承を作り上げた気がする。実際、須賀川城落城後、守谷俊重は守谷館に在城しており、浜尾村・下小山田村を領有している。1590年に豊臣秀吉の奥州仕置により伊達政宗は米沢へ移封となり、会津を没収された。その際、守谷館を去ったという。

金徳寺と十念寺

金徳寺と十念寺南側から見た愛宕山城一帯。西側の台地に金徳寺(こんとくじ)と十念寺がある。とくに金徳寺は歴史が古く二階堂家城主や三千代姫の供養寺である。十念寺は1592年の開基なので二階堂が滅んで会津領時代に始まった寺である。古地図を見ると、かつて金徳寺や十念寺の付近では湧き池の蓮池があったが、ジオラマでは再現されていない。

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