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須賀川城攻防戦の史跡を巡る

須賀川城の面影を残すところはほとんどないが、数が少ないながらも土塁や堀跡が僅かに残る。その場所は、神炊館神社(おたきやじんじゃ)、長松院、本丸跡の二階堂神社くらいである。須賀川市はかつて鎌倉時代から戦国時代までの間、二階堂氏の城下町だった。1581年に二階堂盛義が死去すると、後室の大乗院(阿南姫:伊達晴宗の娘)が城主となっていたが、城代は須田盛秀が務めていた。

天正17年(1589年)、摺上原の戦いで黒川城(現・鶴ケ城)の蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が、須賀川に侵攻。二階堂家臣団のなかでは、佐竹氏との同盟を進める「須田盛秀」派、伊達氏に従おうとする「保土原行藤」派に分かれて須賀川城攻防戦を迎える。同年10月26日、須賀川城攻防戦となり、二階堂氏は滅ぼされる。

須賀川城の城跡

市街地化されてわずかしかないが、まずは須賀川城の城跡を巡る。

神炊館神社にある堀跡

須賀川の総鎮守である神炊館神社は市街地の中心にあり、松尾芭蕉が参詣した神社でもある。須賀川城主であった二階堂為氏が信州諏訪神を合祀したことにより、地元ではここは諏訪神社とかお諏訪様と呼んでいる。
2012年元旦のときの写真だが、灯籠などは東日本大震災によって倒壊したままだった。須賀川城落城後、須賀川城攻防戦で総大将を務めた須田盛秀の子孫が、代々神官職を継承しているらしい。

城跡
神炊館神社・境内にある案内板の裏側に堀跡が残っている。「須賀川城外濠跡」の案内板にはこうある。

中世の時代、岩瀬郡の大半は二階堂氏の支配下にあったが、その居城である須賀川城は1448年、二階堂為氏によって築城された平城である。1589年、城内に侵入してきた伊達の軍勢に対して、二階堂氏は必死の防戦を展開したが、敵に内応した守谷筑後守が城内に火を放ったため、二階堂氏は総崩れとなり須賀川城は落城。二階堂氏は滅亡した。

落城後、堀が埋められ焼け跡も整備され、中宿、牛袋の農民は移住させられ町人となった。後に須賀川は奥州街道屈指の宿場町として再生した。現在、須賀川城の遺構はほとんど失われたが、この外濠は僅かに残ったひとつである。

長松院にある土塁と空堀

長松院002長松院境内西側にある須賀川城土塁と空堀跡。平成15年の調査によると、「土塁の基底幅5.7m、高さが1.6m」であったが、当時はもう少し高さがあったとされる。堀跡は土塁の基底から対面までの上幅が12.6m、底面までの深さは2.3m、土塁上端から底面まで5.5mで断面はすり鉢状であった。

長松院
伊達政宗の進撃による落城後、堀は埋め立てられ、今日に至った。部分的な調査のため出土遺物はない。

長松院須賀川城のお堀
長松院にある土塁と空堀の断面図。

法事ちなみに、パソ兄さんは法事でなんどか長松院に訪れている。

二階堂神社に本丸跡

二階堂氏の本丸須賀川城本丸跡には二階堂神社が建つ。攻防戦では、須賀川城女城主である大乗院(政宗の実の伯母)が籠城していたと思われる。「松明あかし」の御神火は、ここで奉受され翠ヶ丘公園(五老山)へ運ばれる。

二階堂神社
2013年6月撮影。東北大地震の痕がまだ残る。 本丸は水掘に囲まれていたようだが、ほとんどのその遺構はない。

二階堂氏の本丸二階堂神社の社殿が天守台のようなところに置かれているが、当時の櫓台跡なのだろうか。

二階堂神社
須賀川城の縄張り図。まちなかプラザが2の丸にあたる。戦国期でありながら、須賀川城は平城という籠城に向かない城郭である。居館の要素が強かったのか、東の愛宕山を詰めの城としたのであろう。しかし主戦場は須賀川城周辺であり、愛宕山城が戦場になっていないのが不思議だ。

二階堂家臣団の須賀川勢 VS 伊達政宗!須賀川城攻防戦

須賀川城攻防戦は天正17年(1589年)10月26日午前8 時頃に開戦。豊臣秀吉による小田原攻めの半年くらい前である。その戦場となったのが、雨呼口(あめよばりぐち)、大黒石口(だいこくいわぐち)、そして激戦地となった八幡崎城である。

須賀川城を守るのは、須賀川勢(二階堂・須田一族・岩瀬東部衆・河東衆)の1200未満および、加勢(佐竹衆200人・岩城衆300人・竹貫衆500人)である。※ちなみに二階堂家の四天王は、「遠藤勝重、須田盛秀、矢部義政、守屋俊重」である。

雨呼口(あめよばりぐち)と大黒石口※大きな攻防図および補足記事はこちら

須賀川勢

二階堂一族・須田一族・岩瀬東部衆・河東衆
(加勢を入れても1200満たない)

加勢 :
佐竹衆200人・岩城衆300人・竹貫500人

伊達勢

須賀川勢と伊達勢
伊達勢・岩瀬西部衆(7000の軍勢)

一方、敵対する伊達勢は、岩瀬西部衆を加えた7000の軍勢となった。伊達勢の本陣は現在の須賀川桐陽高校付近である陣場山と、米山寺公園や日枝神社あたりだという山寺山王山。日枝神社は山寺城という出城であったらしい。

両者、釈迦堂川を挟んで対岸に陣を構えている。伊達勢に岩瀬西部衆が組みしており、二階堂氏から寝返った保土原行藤(江南斎)が政宗の本陣横に布陣する。

※須賀川城攻防図は、須賀川市立博物館に展示されていたもの。元の資料は藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑より。

伊達勢が攻め入ってきたのは、雨呼口(あめよばりぐち)と大黒石口(だいこくいわぐち)の2箇所。釈迦堂川南岸の雨呼口(あめよばりぐち)では激戦となった。

また、伊達勢が攻め入ってきたのは、3箇所という説もあり、3つめは南ノ原口だそうだ。南ノ原口の出城である方八丁館(高久田境・メガステージ須賀川あたり)には、二階堂勢として佐竹勢200人、岩城勢300人が布陣していた。

山寺城

山寺城伊達軍が陣を敷いたという山寺山王山(山寺城)。現在の日枝神社。二階堂家の四天王、遠藤勝重の館があったという。

宅地用に土採りされて地形が変わったようだが、遺構らしき様子は残っている。

戦場その1: 雨呼口(あめよばりぐち)の戦い

神田産業対する須賀川勢は、雨呼口で竹貫勢500人らが防衛。現在では神田産業や消防署の近辺となる。神田産業はダンボール製造メーカのようである。古戦場と思わせる跡地は見られない。

守屋俊重の寝返り

雨呼口の守備に就いている守屋筑後(俊重)とその弟・守屋采女は伊達に内応した。守屋俊重は長禄寺に放火し、須賀川城落城のきっかけとなった。落城は午後5時頃だという。(長禄寺は第2小の向かいにあり、二階堂氏の菩提寺である)

伊達政宗本陣は現在の須賀川桐陽高校
攻防図では西が上になっているので、見やすいように北側を上に向けて確認した。まずは諏訪神社(神炊館神社)より北側を表示。

守屋俊重が放火した長禄寺

須賀川城落城のきっかけとなった長禄寺の放火だが、ここは二階堂氏の菩提寺である。境内には大乗院阿南の五輪供養塔がある。

長禄寺からは見晴らし良く、城郭の一部だった面影がある。

二階堂氏の旧家臣団 墓地群。東北大震災で倒れたままの墓石。立て札をみると、ご縁のある方は長禄寺に申し出てくださいとのこと。

長禄寺の側には崖の上に建つ岩瀬病院がある。ここは須賀川城の搦手だったようだ。

岩瀬病院は曲輪っぽいところに病棟が置かれており、かつては搦手館でもあったのだろう。

戦場その2: 八幡崎・大黒石口(だいこくいわぐち)の戦い

須賀川勢の総大将・須田盛秀は大黒石口で、釈迦堂川を渡り攻めてくる伊達軍を迎え撃つ。そして、最後の激戦地といわれる八幡山(八幡崎城)には、岩瀬の東部衆と河東衆が布陣する。この2箇所を守る須賀川勢は、あわせて600弱だったという。

大黒石口の場所大黒町の交差点。

須田盛秀は大黒町交差点辺りに陣を構える~須賀川攻防戦
諏訪神社(神炊館神社)より南側を表示。二階堂家の女城主である大乗院は本丸で籠城。大乗院は伊達政宗の伯母である。

八幡崎城の外堀跡
虎口のひとつである大黒石口(だいこくいわぐち)で合戦となる。大黒石口は、現在の大黒池・須賀川病院・大黒町交差点辺り。八幡崎城の外堀跡と思われる大黒池が残り、古戦場跡の案内板が建つ。そしていつ頃のものなのか、大黒様が置かれている。

大黒石口(だいこくいわぐち)で合戦大黒池。2015年には埋め立てられてしまったようだ。

須賀川の物語ボックス
須賀川の各所で見られる物語ボックス。ここでは八幡崎・大黒石口の戦いが語られている。

須賀川の物語ボックス
奥州街道(4号線)から見る、大黒池。ここは水が干上がっていた。(2013年6月訪問)。これが八幡崎城の外堀だとすると、かなりの規模である。大黒石口の戦いでは戦局が不利となり、最後の戦いの場は八幡崎城のみとなる。

戦場その3: 八幡崎城の激戦

八幡崎城八幡崎城では、須賀川勢の岩瀬東部衆・河東衆が守り、激戦地となった。現地の案内板には以下のことが記されていた。

「1057年、源頼義・義家父子が前九年合戦・後三年合戦で須賀川を通った際、八幡山に戦勝祈願のため石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まりとされている。1589年10月26日、伊達政宗の須賀川城攻略では、午前八時ごろに政宗側の攻撃で戦端が切られた。特に須田七騎と塩田右近らの東部武士団に、佐竹氏の援軍が加わり、伊達軍と最も熾烈な戦いとなった。」

八幡山(八幡崎城)~須賀川
八幡山こと八幡崎城。

八幡崎城の石垣発見
頂上には岩瀬八幡神社の鳥居と祠があるだけ。裏手に回り隈なく探索したところ八幡崎城のものと思われる石垣を発見。

八幡崎城土塁
八幡崎城には土塁跡も残っている。

妙法寺から八幡崎城へ
妙法寺から見る、八幡崎城の遠景。なお、妙法寺では「通りぬけ厳禁」と記されていた。通りぬけするつもりはなかったが、境内に立ち入ったら和尚さんと思われる人物にずっと監視されていた。

南の守り、方八丁館(南ノ原口)

伊達勢が攻め入ってきたのは、雨呼口と大黒石口の他に、一説では南ノ原口があるという。南ノ原口の出城である方八丁館(高久田境・メガステージ須賀川あたり)には、二階堂勢として佐竹勢200人、岩城勢300人が布陣していた。

方八丁館
方八丁館の場所は定かではないが、須賀川市と鏡石町の境に棚田と鬱蒼とした森がある。森の裏には一里塚があるが、このあたりは土塁や堀切跡のような雰囲気があるため、方八丁館はこの辺なんじゃないかと推察される。おそらく、ここを守備していた兵は八幡崎城に加勢に行ったのではないだろうか。

須賀川の一里塚
一里塚のある通り。江戸時代に整備されたであろうが、堀切や土塁をそのまま活かしたのではないだろうか。

和田城へ撤退

和田城と伏見城八幡崎城の戦いの後、須田盛秀は居城の和田城へ後退。籠城の後、自ら焼き払い常陸へ落ち延びた。和田城に隣接する城館に伏見館があるが、ここも須田盛秀の居館とも言われている。籠城するなら伏見館のほうが有利だと思うが、最終的な戦場はこの2つの城とみてよさそうだ。

二階堂氏の霊を弔う伝統行事「松明あかし」

松明あかし
なお、須賀川市のゆるキャラが「ボータン」であり、松明の火を表す「ボー」と名物のボタンをかけたネーミングになっている。毎年11月に行われる「松明あかし」は伊達氏に滅ばされた二階堂氏の霊を弔う伝統行事であり、日本三大火祭りの1つになっている。

元気だぞ!須賀川2015年10月訪問時の須賀川駅内。元気だぞ!須賀川。ウルトラマンと松明あかしが2大観光産業のようだ。どちらかをメインにしないと、逆にインパクトがかけてしまうような気がするが・・。

須賀川市は、円谷英二の故郷

円谷英二の生家長松院の近くには円谷英二の生家があり、糀業を営んでいた大束屋があった。現在は大束屋珈琲店になっており、近くに記念碑が建つ。石碑には「長松院の大銀杏によじ登って大空に夢をはせた・・」とある。

須賀川市は円谷英二の故郷であるため、観光PRにウルトラマンが度々登場している。(福島空港=ウルトラマン空港みたいに・・。)2013年5月5日には、ウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」と姉妹都市協定を結んだ。なお、ここの地には円谷さんが多い。1964年東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉も出身であり、毎年10月には「 円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。ちなみに、円谷は本来「つぶらや」ではなく「つむらや」と読むそうな。

ウルトラマンの須賀川JR須賀川駅と、駅前にあるウルトラマンの石像。

松明通2015年3月、須賀川市の中心街「松明通り」の歩道に、モニュメント4体が配置された。早々にエレキングが破壊されたようで、配置よりも破壊行為のほうがニュースになっていた。

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