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須賀川城と二階堂氏

須賀川城は二階堂神社がある本丸を中心に、須賀川市本町・中町・宮先・北町のあたりに位置した。阿武隈川と釈迦堂川の合流する比高20mの台地上にあって、東山道が岩城街道と会津街道と交差するため交通の要衝であった。

二階堂氏が岩瀬郡を支配したのは鎌倉時代初期とされる。二階堂行村が領有していたのは岩瀬西部だったので、当初は稲村城(新城館)が拠点だったと考えられる。そのころ須賀川城の位置する場所は、岩瀬氏の支配下だったようだ。※岩瀬氏は郡司政光の子孫

1334年には南朝方によって任命された評定衆に二階堂行朝の名が見られるため、鎌倉時代後期には須賀川城のあった場所(現在の市街地)を二階堂氏が支配したと考えられる。こうしてかつての支配者、岩瀬氏を下宿御所館に追いやったと考えられる。第一次・須賀川城(愛宕山城 / 岩瀬山城)は鎌倉時代後期の築城とされており、稲村城(新城館)から移ったと考えられる。

そして、二階堂行朝から5代目の二階堂行続(二階堂治部大輔)が須賀川城を築城したという。二階堂氏の家臣となった有力豪族は、西部衆(浜尾・守谷・保土原など)、東部衆(須田・矢田野・塩田・矢部・岩瀬・前田川など)がいる。

藤葉栄衰記によれば、鎌倉の本家・二階堂氏では1444年に二階堂式部大輔(しきぶたゆう)が亡くなり、12歳の二階堂為氏が当主となる。代官として須賀川を統治していた二階堂行続(二階堂治部大輔)が勝手な振る舞いを始めたため、1445年に為氏は鎌倉を出発し治部大輔を攻撃したとある。

補足

二階堂氏の祖は藤原姓・工藤行政とする。源頼朝に仕え、鎌倉で政所執事の地位にいた。鎌倉幕府の文官であり十三人の合議制の一人。鎌倉の永福寺に屋敷を構えていた。中尊寺の二階大堂を模した「永福寺」が二階建てであった事から二階堂とも称され、工藤行政は二階堂氏を名乗った。須賀川二階堂氏へ至る詳しい経緯は明らかではないが、次の様な説がある。二階堂氏当主は鎌倉を離れることができなかった。そこで岩瀬郡には一族や家臣を派遣し、その支配を任せていた。派遣された初期のころは稲村城(新城館)を本拠地にしていたが愛宕山城へ移転したという。

二階堂為氏と治部大輔は和睦し、治部大輔は娘(三千代姫)を為氏に嫁がせ、3年後に岩瀬郡(須賀川)の統治を為氏に譲ると約束する。しかし反故にしたため、為氏は三千代姫と離縁し治部大輔を滅ぼす。岩瀬郡を支配した為氏は(市街地側の)須賀川城に入城し、城郭の改修と町並みを整備したという。(改修と築城とでは意味が大きく違うのだが、長松院や神炊館神社の説明では「1448年、二階堂為氏による築城」とある) 

須賀川城下町絵図須賀川城下町絵図。為氏の入城後に成立されたとされ、為氏が整備した城郭の様子と考えられている。このような経緯から、為氏が須賀川二階堂氏の初代当主という見方もある。

三千代姫堂暮谷沢(五老山近く)の三千代姫堂。

為氏に離縁された三千代姫は「暮谷沢」まで送られたが、涙橋の袂で自害したという。辞世の句は「人間わば岩間の下の涙橋流さでいとまくれや沢とは」。三千代姫はわずか15歳、乳母や侍女も殉じたという。 三千代姫の談話は後世に伝えられ、昭和30年に「暮谷沢の碑」が建立された。ちなみに、治部大輔は東町の治部稲荷神社(吉田塾のとなり)に祀られている。※暮谷沢は栗谷沢という表記もみられる

戦国期の二階堂

戦国時代の二階堂にとって、最も脅威だったのが会津・黒川城(現・鶴ケ城)の蘆名氏であった。さらに対抗する勢力に北は伊達氏がおり、服属させた田村氏を使って二階堂氏を脅かす。今泉城では激戦を繰り広げた。1563年、蘆名盛氏は諏訪峠から横田・松山城を攻めている。蘆名氏に敗れた二階堂盛義は嫡子・盛隆を人質に出して和睦を結ぶ。1574年に当主の蘆名盛興が逝去すると、人質だった盛隆が蘆名の家督を継いだ。

戦国期の二階堂1581年、当主・二階堂盛義が逝去すると、盛隆の弟・二階堂行親が当主となるが若くして死去。そのため、蘆名盛隆が二階堂氏の仕切りを行っていた。しかし、1584年、盛隆は黒川城(会津若松城)にて寵臣に暗殺された。(原因は男色関係のもつれという説もあり)。以後、二階堂氏は盛義の未亡人・阿南の方(大乗院)が須賀川城主となり、家老の須田盛秀が実質的な城代となった。 ※大乗院は伊達政宗の伯母。

1584年、蘆名盛隆が没すると、佐竹義重の子・義広が蘆名を継いだ。(この年に伊達政宗が伊達家当主になる)。須賀川城代の須田盛秀は佐竹氏と同盟を結び、伊達と対峙した。しかし家臣の西部衆は快しとはしなかった。伊達政宗は保土原行藤(江南斎)の寝返りに成功し、西部衆の多くはこれに従った。1589年、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼすと(摺上原の戦い)、同年、須賀川城を攻撃。伊達氏に内応した家臣が多々おり、二階堂氏は滅亡した。政宗は家臣の石川昭光に須賀川城を与えた。

1590年、豊臣秀吉による小田原合戦で北条氏が滅ぶと奥州仕置が行われ、蒲生氏郷が会津に転封となる。そして蒲生氏の与力大名で蒲生氏郷の妹婿である田丸直昌が、須賀川城と3万石を与えられた。田丸直昌は、関ヶ原の戦いでは西軍に与しており、小山評定で唯一、徳川家康に従わなかった武将として知られる。(ただし、実際には小山評定に参加しておらず、創作された逸話とされる。)

城郭分布図

須賀川市の城郭分布図須賀川城の近隣には、二階堂氏ゆかりの城館が多い。

二階堂氏の戦記~藤葉栄衰記

二階堂氏のおこりから滅亡が記された戦記藤葉栄衰記(とうようえいすいき)は、二階堂氏のおこりから滅亡が記された戦記もの。二階堂為氏の須賀川下向や伊達政宗との合戦を中心に、豊臣秀吉の天下統一までが記載されている。書かれた年代や筆者は不明だが、二階堂栄衰記の奥書(1625)や写本(1616)から江戸時代に成立したと考えられる。中世の須賀川について書かれた記録がほとんどないため当時を知る貴重な資料となっていが、事実が疑わしい内容もある。なお、「藤葉」とは二階堂氏が藤原氏の末葉(子孫)であることに由来している。

須賀川城の城郭

城郭図。原図は遠藤改助氏旧蔵本丸跡(二階堂神社)に置かれている須賀川城・城郭図。原図は遠藤改助氏旧蔵によるもの。

須賀川城攻防戦の史跡藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑より。須賀川市立博物館の展示資料を撮影したもの。須賀川城の出入り口には、雨呼口(あめよばり口)、大黒石口(だいこくいわ口)、田村口、荒町口、上野口(うわの口)、鍋師橋口などがあった。

田村口は二階堂家臣・守谷俊重の館があったことから「館の坂」ともいう。古くは三春街道ともいわれ現在では新町街道(54号線)である。大黒石口は第一小学校沿いの118号線で、堀底町へのルートかと思われる。

政宗本陣に近い雨呼口釈迦堂口では「岩瀬の渡し坂」があり、下りきった先に船着き場や架け橋があったという。政宗本陣に近い雨呼口では真っ先に激戦地となった。場所は神田産業や消防署のあたり。諏訪神社と普應寺の間の道から西川地区に行く坂道は「弘法壇坂」と呼ばれており、古くは「鹿(か)の出口」とも呼ばれた。その近くは江戸時代以前に雨呼口という場所だったそうだ。

須賀川城-荒町口-鍋師橋口鍋師橋口に至る坂では江戸時代まで鋳物屋があったらしく、梵鐘や半鐘、日用品の鍋や釜が作られていた。鍋師橋は「下の川」に架かっていた。現在では須賀川南町郵便局から東の道に入り、笠間稲荷神社から南東に下りる道である。円谷幸吉生家があった通りだ。

荒町口に至る坂では江戸時代以前から地名が「荒町」だった。当時の戸数が12軒だったため「十二軒坂」ともいわれた。和田や前田川方面へ行く道であった。現在では石川街道(118号線)の南にある道で、日本料理屋の時田がある通り。

本丸周辺の遺構

主郭須賀川城の主郭マップ。右が北側である。※須賀川市立博物館の展示資料(藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑より)

城郭確認北を上向きにして確認。

須賀川城の史跡らしいところはそこのみである。衛星写真から、曲輪・堀跡を当てはめてみる。距離感が合わなくてかなり想定箇所が多々あるが、田善通りは本丸西の堀跡で間違いないだろう。伊達軍との戦いで守備隊が置かれていたことから、本丸の西(保健センター)には堀を挟んで引橋でつながっていた曲輪があったようだ。しかし現在は削平されておりまったく面影はない。その脇道に長松院の墓地につながる道があるが、そこも堀跡と思われる。また長松院の墓地は高台になっており、そこにも守備隊が配置されているため砦として機能していたようだ。(70年代の航空写真をみると雑木林だったが伐採して墓地にしたようだ)。

比定して考察してみると、犬馬場というのは普應寺のあたり、三の丸は千用寺のあたりだろう。堀跡もうまくつながらない箇所が多々あるが、とりあえず神炊館神社(諏訪神社)と長松院の境内に堀跡の説明板が置かれており、須賀川城の史跡らしいところはそこのみである。

伊達軍と対峙本丸の西側の砦には遠藤隊、長松院墓地のある台地先端上には弓取隊が布陣し伊達軍と対峙した。強弓とか鉄砲と書かれているので、狙撃チームが配置されたようだ。本丸の西の曲輪に布陣していたのは、四天王の遠藤勝重(雅楽頭)。ここでの奮戦後、南ノ原口に赴き討死したらしい。

他の城郭マップ他の城郭マップとも照らし合わせてみる。普應寺と千用寺の北側には大規模な堀(堀大カケ)があったようだ。

二階堂神社(本丸跡)

二階堂神社本丸跡地の二階堂神社。大乗院阿南が籠城していたという。「松明あかし」の御神火は、ここで奉受され翠ヶ丘公園(五老山)へ運ばれる。この写真を撮ったときは震災で境内が荒れている状態。城郭図を見て分かる通り、本丸の曲輪跡はもっと広かったはず。社殿の建つ高台のみ残してすべて削平したようだ。

標柱が修復2020年に再訪問したときは、標柱が修復されていた。第67代文部大臣 天野貞祐(あまのていゆう)による書であるが、須賀川に縁がある人物ではなさそう。出身は神奈川県津久井郡(相模原市)。標柱を建てた時、当時の文部大臣だったからだろう。

御神木御神木。市指定天然記念物の大ケヤキで樹齢は350年とされる。

本丸からの景色本丸の雰囲気を感じるため、高台から周囲を眺める。(かつて堀で囲まれていただろうイメージを膨らませて)

亜欧堂田善生誕の地保健センター前に建つ「亜欧堂田善生誕の地」碑。田善通りから撮影したが、そこは堀跡で間違いないだろう。

長松院境内(土塁と空堀跡)

長松院長松院境内西側にある須賀川城土塁と空堀跡。平成15年の調査によると、「土塁の基底幅5.7m、高さが1.6m」であったが、当時はもう少し高さがあったとされる。堀跡は土塁の基底から対面までの上幅が12.6m、底面までの深さは2.3m、土塁上端から底面まで5.5mで断面はすり鉢状であった。

長松院-堀は埋め立て伊達政宗の進撃による落城後、堀は埋め立てられ、今日に至った。部分的な調査のため出土遺物はない。

断面図土塁・堀跡の断面図。恵家林とは墓地の方。

要津院(ようしんいん)

要津院では薬師如来長松院のすぐとなりに要津院が建つ。応永年間(1394年~1428年)に建立され、薬師如来を本尊としている。二階堂氏7代・須賀川城主の二階堂盛義(大乗院の旦那)が厚く信仰したと伝わる。

神炊館神社(堀跡)

神炊館神社(おたきやじんじゃ)奥州須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)に残る須賀川城の堀跡。現地の案内板にはこうある。

「中世の時代、岩瀬郡の大半は二階堂氏の支配下にあったが、その居城である須賀川城は1448年、二階堂為氏によって築城された平城である。1589年、城内に侵入してきた伊達の軍勢に対して、二階堂氏は必死の防戦を展開したが、敵に内応した守谷筑後守が城内に火を放ったため、二階堂氏は総崩れとなり須賀川城は落城。二階堂氏は滅亡した。落城後、堀が埋められ焼け跡も整備され、中宿、牛袋の農民は移住させられ町人となった。後に須賀川は奥州街道屈指の宿場町として再生した。現在、須賀川城の遺構はほとんど失われたが、この外濠は僅かに残ったひとつである。」

神炊館神社は奥の細道の途次、芭蕉が参詣した神社である。全国でも唯一の社名であり、建美依米命(初代石背国造)が新米を炊いて神に感謝したことに因んでいる。地元では「お諏訪さま」と呼んでいるが、1445年に、須賀川城主・二階堂為氏が信州の諏訪神(建美名方命)を合祀したためである。

1589年に二階堂氏が滅び、会津城の上杉家の庇護を受けるようになると、神社のあった牛袋から現在の諏訪町に遷宮された(1598年)。上杉景勝は、信仰心厚く、北門の石鳥居を寄進している。江戸時代になると朝廷より「諏訪大明神」として「正一位」の位を授かったが、明治11年には現在の社名である「神炊館神社」に復称された。伊達政宗との須賀川城攻防戦で、実質的な総大将を努めた須田盛秀だが、その次男・須田秀世は僧籍であったため戦から逃れ、須賀川に留まることができた。現在その子孫が神炊館神社の宮司職を代々務めているとのこと。

神炊館神社の境内須賀川城内であった神炊館神社の境内。池も堀の一部。

2020年元旦、神炊館神社で初詣

神炊館神社で初詣2020年元旦には神炊館神社で初詣をした。地元の人のほとんどが「諏訪神社、お諏訪様」と呼んでいる。今回ついでに史跡も追加で見ておこう。

須賀川城の堀跡石橋がかけられている池は須賀川城の堀跡。

土塁が残されていた池の傍らには土塁が残されていた。

奥の竹藪には大規模な堀跡が残されている境内にある天満宮。石橋を渡ってすぐ左側にある。この高台も土塁跡なのだろうか?奥の竹藪には大規模な堀跡が残されているが、入り込める状況ではない。傍らに須賀川城堀跡について書かれた説明板が建っている。

参道の鳥居北口参道の鳥居。かつて上杉景勝が寄進した鳥居が建っていたのを記憶しているが、東北大震災により倒壊したもよう。

上杉景勝が寄進した鳥居境内に置かれていた倒壊した鳥居の石材。多分、上杉景勝が寄進した鳥居かも。

諏訪の杜へ

須賀川城の城郭を堪能本殿で参拝を済ませてそのまま引き返すのは勿体ない。須賀川城の城郭を堪能するなら、更に奥へ進み三八稲荷奥宮へ行こう。

三八稲荷奥宮城郭図で諏訪林と書かれている場所である。現在は「諏訪の杜」と呼ばれており、樹齢300年のエドヒガンの巨木が群生している。生育環境の悪化から樹勢が衰退しており危機にさらされている実情とのこと。

現在は「諏訪の杜」須賀川の西側を見渡せる高い位置にあり、本丸の防衛ラインであったことが窺える。須賀川城があった時代、この先、西側には田や沼が広がっていたそうな。

遺構なのか堀跡かと思ったが、大地の先端だから腰曲輪なのだろうか?遺構なのか定かではない。

長松院の墓地に出る南に進み「諏訪の杜」を抜けると長松院の墓地に出る。70年代の航空写真をみると、墓地はまた雑木林だった。

須賀川市の史跡上人壇廃寺跡保存活用計画書の「埋蔵文化財包蔵地」によれば、「諏訪の杜」の西100m先にある長沼輪業(自転車屋)の一画が「諏訪館跡」という。そこに小さな神社があるのはその名残か。

中町通り(現:松明通り)

中町通り二の丸のすぐ隣のメインストリートが中町通り。

二の丸跡tette(テッテ)須賀川市民交流センターのある位置が二の丸跡。tetteは平成31年1月11日に開館した施設だが、もっと前には赤トリヰ中町店があったところ。

中町通りは、現在では須賀川市中心市街地となっており、新町街道とか松明通りと呼ばれている。須賀川城攻防図にも中町通りの記載がある。当時も繁華街であったのだろう。(今は巨大ショッピングモールに客を取られて微妙な印象だが。) 円谷英二の故郷にちなみ、2015年にはウルトラマンのモニュメントが設置された。火祭りの松明あかしでは、メインストリートとなっている。

二階堂氏の家臣・高久田家の子孫が経営する、いげた屋魚店

いげた屋魚店中町と本町の交差点あたりにある「いげた屋魚店」で、店のウインドウには二階堂氏の家臣について書かれている。祖先は二階堂為氏の家臣「高久田四郎義兼」で、高久田境にあった高久田館に居住し須賀川城の南口を守衛していたという。

伊達政宗により須賀川城が落城すると家臣団は散り散りになるが、高久田家は町人となった。町人になるまでの経緯は不明だが、元禄初期には本町(現在地)に移り肴屋を営んでいる。昔は保存のすべがなく生魚があまり扱えなかったため、乾き物を多く扱っていたという。生魚は福島県いわき市南部の勿来(なこそ)から馬で運んできたという。高久田家の当主は代々「金吾」を名乗っていたが、大正2年に14代金吾が夭折して金吾の名は途絶えた。しかし魚屋としては存続している。

高久田館については、「高久田館(鹿島館)、および南高久田館」で解説している。

搦手館(現:岩瀬病院と長禄寺)

桐陽高校は陣馬山の麓付近岩瀬病院と長禄寺のあたりは須賀川城の搦手であり、伊達軍と対峙したときは守谷俊重が大将として防衛にあたっていたが、実は伊達政宗に寝返っていたというオチ。長禄寺に火を放ち、須賀川勢の敗北はほぼ確定した。

岩瀬病院搦手ちなみに本丸跡(二階堂神社)に置かれている城郭図では、搦手が岩瀬病院あたりではない。千用寺の北あたりか・・。。

岩瀬病院
釈迦堂川の崖上に建つ岩瀬病院が、かつての搦手館だという。(博物館の展示資料マップだともっと南側になっているので、一致しない)。諸説ありそうだが須賀川城の北を守る出城だろう。

岩瀬病院-須賀川城の最北と言う意味
目ぼしい遺構はないが、麓にある御北稲荷神社がその土塁っぽい。御北というのは須賀川城の最北と言う意味か。

御北稲荷神社岩瀬病院の直下にある御北稲荷神社

長禄寺

岩瀬病院に隣接する長禄寺は見晴らしの良い高台にあり、これも搦手館の一部だろう。長禄寺は二階堂氏の菩提寺である。二階堂氏の重臣・四天王「守谷俊重」が雨呼口で守備していたが、政宗に内応して長禄寺に放火した。これで城と町は焼け落ち、二階堂氏の敗北が決定的となった。

長禄寺現在の長禄寺。大乗院の菩提追善になっている。

砦見晴らしのいい高台にあり、砦とも言える。

二階堂氏家臣団の墓所長禄寺には二階堂氏家臣団の墓所がある。2015年に訪問した時は東北大震災で倒壊したままだった。「ご縁のある方は申し出てください」と札が立てられている。

岩瀬の渡し坂

岩瀬の渡し坂また、須賀川橋の東方面にはヘアピンカーブの坂道があり「岩瀬の渡し坂」と呼ばれている。古くはこの坂を下りきった先に、釈迦堂川を渡るための舟つき場や架け橋があったという。このあたりは須賀川城の搦手口と考えられる場所であり、城主の脱出口でもあるため、船着き場があることに合点がいく。

万葉集の歌碑岩瀬の渡し坂を降り、釈迦堂川の土手近くまで行くと、岩瀬の渡しを歌ったという万葉集の歌碑が置かれている。(矢印のところ)。土手を上がると釈迦堂川を眺められ、当時を偲ばせる。

釈迦堂口

釈迦堂坂現在の釈迦堂坂。須賀川駅と市街地をつなぐ坂で、釈迦堂川に架けられた須賀川橋から緩やかな坂道が続いている。近くに「岩瀬の渡し坂」があることだし、搦手とつながる釈迦堂口と理解してよさそうだ。ただし現在の355号線はバイパスで新たに造られた道なので、昔はウルトラマンタロウの脇にある小さな道が本来の街道だったようだ。須賀川橋も御北稲荷のすぐ前にかけられており、脇道がその名残。

釈迦堂川須賀川橋から見た釈迦堂川。歌碑の場所であれば渡し船は矢印のあたりから出航していたのだろう。

下の川(栗谷沢)

須賀川の地名の由来とされる「下の川」は、天然の要害性を利用した須賀川城の東の外堀である。須賀川の開発が進む前の1960年代の航空写真と比べても、川筋は変わっていない。おそらく須賀川城の時代と変わっていないと思われる。今でこそ護岸工事され小規模な小川になっているが、周囲は低地であるため、広範囲の湿地帯だったと思われる。

下の川(栗谷沢)メガステージから下流(北側)に向かって土手を歩く。千日堂あたりの風景。ここから北西の位置が主郭だが低地が広がってその先は崖となっている。このまま北上し下流へ進むと翠ケ丘公園(愛宕山城)を通り、琵琶池を経由し釈迦堂川へつながる。

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須賀川城にまつわる城館

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