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老中の城と呼ばれた佐倉城~空堀の規模が見もの

2014年9月、千葉県佐倉市城内町にある佐倉城を登城した。過去には2007年6月および12月にも登城しており、その時の写真も織り交ぜて紹介する。佐倉城の前身は千葉氏が途中まで手がけた鹿島城である。戦国時代、本佐倉城主の千葉親胤が、鹿島幹胤に命じて鹿島城を築城させたのが後の佐倉城となる。北部に印旛沼が広がる鹿島山の西端部に築かれた。

鹿島城を築城鹿島城を築城中、千葉親胤が北条氏の暗躍で暗殺されたため、工事は中止された。後に千葉邦胤の代で工事が進められたものの、邦胤の暗殺(オナラ事件)によってまた中断。小田原攻めにより千葉氏は滅び、結局、千葉氏の代で完成することはなかった。

千葉氏の始まり千葉氏略系図。千葉氏は1590年の小田原攻めにて北条氏とともに滅びる(改易)。土井利勝が本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれたが、のちに佐倉城へ移転したため本佐倉城は廃城となった。

なお鹿島城は、徳川家康家臣の土井利勝によって築城が再開され、佐倉城となった。下総の城らしく、石垣を用いない城郭となっている。1611年~1617年の7年間をかけて完成させ、城下町が形成され佐倉藩が置かれた。江戸防御の要衝として徳川譜代の有力大名らが封ぜられたが、幕府老中職の大名が多かったため、老中の城とまで呼ばれた。

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佐倉城の縄張り

明治時代の廃城令により建物が撤去されており復元もされていない。(江戸期の建造物である門の移築は1つある)
歩兵第2連隊および、歩兵第57連隊の駐屯地となったときに、空堀・土塁等が削平および埋め立てられてしまったが、佐倉城址公園として整備されたときに一部が復元された。城内に国立歴史民俗博物館(歴博)が建つ。

国立歴史民俗博物館侍屋敷跡(椎木曲輪)付近に国立歴史民俗博物館が建つ。1873年には、城内に陸軍第1軍管東京鎮台の佐倉営所・第57連隊が配置された。(通称・佐倉連隊)。兵営設置で建物が撤去されたため、佐倉城の名残は天守閣跡、城門跡、土塁、空堀、水掘等の遺構だけとなる。2006年には日本100名城に選定されている。(千葉県は佐倉城のみの選定)

歩兵第2連隊および、歩兵第57連隊について

明治7年、佐倉城に歩兵第2連隊が駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され西南戦争や日清戦争、日露戦争にこの地から出征された。明治42年には歩兵第2連隊に代わって歩兵第57連隊(佐倉連隊)が移転したが、昭和19年のフィリピン戦で壊滅した。

佐倉城散策佐倉城の縄張りMAP。要所に丁寧な案内板があり、初心者にも分かりやすい。ほとんどが復元のようだが、空堀の規模には眼を見張るものがある。佐倉城址の案内とともに、所々、歩兵第57連隊の史跡も解説されている。

佐倉城の愛宕坂国道296号線沿いの水掘。愛宕坂が歴博の正門入口となっている。

田町門跡

田町門田町門跡。成田街道に沿った城下町の一部、「田町」から城内への門だった。門の裏手には番所があったという。

愛宕坂

佐倉城の愛宕坂をのぼる歴博のある椎木曲輪へ上る道の愛宕坂。愛宕神社に下にあったためそう呼ばれた。車で歴博に来た時の出入口となっているが、連隊建設時、まっすぐ出入りできるように変更されてしまった。

古園石仏大日如来像愛宕坂の脇にある「古園石仏大日如来像」のレプリカが置かれている。現物は大分県臼杵市深田に所在する。佐倉譲渡の関連性がいまいち不明。

円勝寺跡と愛宕神社跡愛宕坂を登っていると、左側に円勝寺跡と愛宕神社跡がある。円勝寺は城内にあった真言宗の寺院だったが、明治の廃仏毀釈で消滅、愛宕神社は田町の氏神であるが、立ち入り禁止の連隊駐屯地となったため移転された。円勝寺跡からは東の城下町が眺望できる立地だった。

椎木曲輪(侍屋敷地区)に歴博が建つ

歴博椎木曲輪と呼ばれる侍屋敷地区に歴博が建つ。

杉坂姥が池の横にある丘上に歴博の駐車場があるが、ここも侍屋敷跡である。秋葉神社もあったらしい。この姥が池への坂がたぶん、「杉坂」と呼ばれた坂道。

佐倉城址マップ再び、佐倉城址マップを確認。

佐倉城縄張り図明治時代の佐倉城縄張り図。空堀の面積が広いことが分かる。

馬出し空堀

馬出し空堀佐倉城址の見どころでもある「馬出し空堀」が歴博のすぐ前面にある。馬出し空堀は城門前に築かれており、馬の出入りを敵に知られないために土手となっている。この空堀は連隊造営時に埋め立てられているが、昭和42年に2度発掘調査をして復元された。

椎木門跡馬出し空堀の向かいにあった椎木門跡。前面に馬出しが設けられていた。

佐倉陸軍病院跡椎木門跡の近くに佐倉陸軍病院跡がある。創設は明治7年で、昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていた。

団体休憩所(芝生広場)と兵営の便所跡

芝生広場団体休憩所の平場は芝生広場となっている。何の跡地かは不明。

江原新田では連隊団体休憩所近くに兵営の便所跡が残る。江原新田では連隊と契約して、下肥や馬糞の払い下げを受けて汚物掃除を担当した。

へび坂から、水掘および出丸へ

佐倉城へび坂便所跡から伸びる「へび坂」。ちょっとしたグリーンアドベンチャーが楽しめて、水掘や出丸が堪能できる散策道。廃城系マニアがもっとも喜びそうな場所である。

出丸2つの出丸を巡ってから本丸へ赴く。便宜上、出丸には(1)(2)とした。出丸(1)の近くには、唯一残された城内の建築物が門として移築されている。

水掘夏場は樹木が生い茂り、水掘を見ながらの散策があまりできない。

水掘と出丸(1)団体休憩所(芝生広場)に近い方の水掘と出丸(1)に出てくる。

城主堀田家の菩提寺である甚大寺出丸(1)の出入口となる門。「この門はかつて城内にあった建築物であるが、廃城後、市内の酒造家で表門として使用されてきた。昭和37年に城主堀田家の菩提寺である甚大寺が譲り受け、のちに市に寄付してこの地に復元したもの」。ただし、もともとは城門ではなかったと考えられている。(ここでいう復元とは門として新たに設置したという意味だろう)

出丸(2)。さらに進むともうひとつの出丸(2)。

腰曲輪跡出丸(2)付近から本丸への坂道を登る。中腹には腰曲輪跡が残り、散策道となっている。

佐倉城 本丸

本丸台所門跡(不明門)から本丸へ入る。

不明門台所門跡(不明門)の手前にある土橋とその脇にある空堀。

角櫓跡

角櫓跡角櫓跡。現地での案内板はなし。

天守閣跡

天守閣跡天守閣跡。この天守台ではさほど大掛かりな天守閣ではなかったのだろう。なお、1813年、盗賊の失火により天守が焼失している。

佐倉城の夫婦モッコク

佐倉城の夫婦モッコク千葉県指定天然記念物、佐倉城の夫婦モッコク。土井利勝が佐倉城築城の際、「本丸に種々の庭木を植えて雄大な風格を示した」と伝えられているので、その庭木のひとつと考えられている。また、モッコクには「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られている。

銅櫓跡

土井利勝が将軍から拝領モッコクの横に銅櫓跡。土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したもので、太田道灌が造ったものだと言われている。木造、銅瓦葺き、六間四方、二階づくりだが、移築前のは三層だったようだ。

一の門跡

一の御門本丸の最初の門なので「一の御門」と呼ばれていた。御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝わる。

大規模な空堀一の門の手前、土橋の両サイドには大規模な空堀があり、目をみはる。写真ではなかなかその規模が伝えられなくて残念。

佐倉城 二の丸

二の丸付近次は佐倉城の二の丸付近を紹介。

二の門跡

土橋手前二の丸入り口の土橋手前には、堀田正睦とハリスの像が建つ。
二の丸の空堀も大規模だが、ヤブになっておりちょっと確認しにくい。そして、本丸から大手門に至る第二の門であった「二の門跡」がある。一ノ門の東方一直線上にあり、武器庫として使用されていたらしい。

堀田正睦の像

堀田正睦佐倉城では、明治の廃藩までの258年間に9家20大名が封ぜられ、堀田氏が通算141年治めた。
ハリスとの日米修好通商条約交渉に務めた堀田正睦(ほったまさよし)は、第19代の佐倉藩主。現在の順天堂大学の基になった「佐倉順天堂」の創設に寄与している。堀田正睦は、1810年に生まれ、1825年に佐倉藩主となる。1833年に藩政改革を宣言、1841年に幕府老中職に就き1855年には老中首座となる。1864年、佐倉城中の三の丸御殿にて卒する。甚大寺の葬られたが、後に法号から「文明公」と称えられた。

タウンゼント・ハリスの像

タウンゼント・ハリス日米修好通商条約150周年として平成20年に建立したタウンゼント・ハリスの銅像。
1856年、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスは大統領の親書を携え下田に到着。目的は日本との通商条約と開国の実現。ハリスは堀田正睦と幾度も直接交渉を重ねた。調印後、1862年に帰国した。

佐倉城の礎石

佐倉城の礎石本丸の空堀方面から見た二の丸。二の丸では藩政を執る役所が置かれた。

礎石二の丸の一角(連隊の兵舎跡)に佐倉城の礎石が置かれている。兵舎跡の基礎には大量の石がつめてあり、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石が埋め込まれていた。明治時代この場所に陸軍営所を置く際、佐倉城の建物を取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用した。

佐倉城 三の丸

池付近を紹介。次は三ノ丸および姥が池付近を紹介。

三逕亭(さんけいてい)三ノ丸にある茶室の三逕亭(さんけいてい)。京都大徳寺の塔頭、孤蓬庵の茶室・忘筌(重要文化財)を模したものであり、昭和58年に東京港区の乃木神社から移築された。三逕(二の丸および本丸への道と、椎ノ木曲輪への道、本丸下を巡る道の3本の道)が合する所に置かれている。佐倉城址とは関係なさそうだ。

三の門跡

三の門跡三の門はお作事の諸道具を入れた倉庫だった。三の丸では家老屋敷が置かれていた。

三の丸の空堀三の丸の空堀。現在では芝生の生えた緩やかなスロープとなっているが、昔はどれくらいの規模であったのだろうか。堀の向こう側には自由広場と駐車場があるが、かつての旧武家町だったそうだ。

佐倉城址公園の三の丸方面三の丸の空堀に架かる土橋。現在では佐倉城址公園の三の丸方面入口である。

旧武家町

旧武家町自由広場と駐車場は旧武家町らしい。三の丸では家老屋敷が置かれているので、空堀の外側であるこの場は下級武士の屋敷跡だったのだろうか。奥に石で囲われた土塁があるが、遺跡なのかは不明。

空堀跡佐倉城址公園の三の丸方面入口の付近に、空堀跡を整備した小道がある。ここから姥が池へ下っていく。。

姥が池の伝説

姥が池天保年間、姫君を抱いていた乳母が水草を取ろうと池に手を伸ばした時、姫君を池に落としてしまう。姫が溺れたことを悲しみ乳母も池に身を投げたという。以来、姥が池と呼ばれる。

また、この池は江戸時代、かきつばたの名所だった。そして春先にはヒキガエルが数千匹集まり、七日間、蛙合戦が行われたと「古今佐倉真佐子」に記されている。

池を覗くとミドリガメ2007年6月、姥が池の様子。池を覗くとミドリガメが泳いでおり、餌を貰えると思ってかたくさん集まってくる。2014年9月でも亀は健在だった。

訓練用の12階段~処刑台じゃないよ

訓練用の12階段姥ヶ池と菖蒲園の間にある「訓練用の12階段」。心霊サイトでは処刑台などと言っているが、兵士が高所からの飛び降り訓練に使用したコンクリート製の階段である(写真も残されている)。コンクリート製であり、木製よりも取り壊すことが面倒であるため、今日まで残ったと考えられている。昔はこれについての案内板がなく、ポツンと佇んでいたため、根も葉もないオカルト話が湧いて出たようだ。

菖蒲園

2007年6月の菖蒲園姥が池の先には菖蒲園がある。これは2007年6月の菖蒲園風景。

弾薬庫の跡

弾薬庫の跡地三ノ丸からあずまや方面に進むと弾薬庫の跡地が見られる。

爆発に備えて土手弾薬庫は姥が池西側坂道を登った奥の窪地にある。爆発に備えて土手が組まれている。そして建物に使われたコンクリートの一部も残っている。

これも弾薬庫弾薬庫跡の案内板近くにコンクリートの建屋があるが、これも弾薬庫なのだろうか?後日調べたら、どうyら油脂倉庫らしい。銃の手入れに使う油の貯蔵庫とのこと。弾薬庫の近くに置くのは尚更危ないと思うのだが・・。

佐倉城は駐屯地造営のため、城郭が一旦滅茶苦茶にされた経歴があり、すでに生の城郭でないところが非常に残念。空堀の規模には圧巻されるが、これも掘り起こした復元というのだから誠に残念なところである。日本百名城というわりには、城郭テーマパークといった印象である。ただ、出丸付近は整備されすぎた主郭とは違い、雰囲気がガラリと変わるので結構楽しめる所だ。

佐倉城の登城レポートは以上。

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