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米ヶ崎城と夏見城!船橋市の史跡巡り
何度かに渡り、千葉県船橋市にある史跡を巡っている。今回は米ヶ崎城と夏見城を探索するが、夏見城に限っては船橋に残る城で唯一、城主が分かっている貴重な史跡だ。(2014年1月実施)
なお、船橋市の城郭では「花輪城 、船橋城 、船橋御殿、飯山満城、 夏見城、 米ケ崎城 、八木ケ谷城、小野田城、 金堀城、 楠ケ山城 、小穴城、 坪井城 、洒山城 、高根城、 金杉城 、小栗原城 」 があるという。
米ヶ崎城(こめがさきじょう)
千葉県船橋市米ケ崎にある米ケ崎城へ行った。ここより600m先に夏見城があるが、そこを拠点とする夏見氏が鎌倉時代に米ヶ崎城を築城したと推測される。しかし推測に過ぎず、文献・文書・資料もなく全く不明である。昭和45年の土地改良として、船橋取手線県道切り下げ等が行われ遺構は破壊されている。城址には意富比神社(おおひじんじゃ)が祀られており、伊勢神宮の荘園(船橋御厨)の一部とも考えられる。船橋大神宮(意富比神社)の新嘗祭(にいなめさい:収穫祭にあたるもの )で、他の村よりも先んじて新米を供えたことにより「米が先」と呼ばれ、米ケ崎という地名に転じた。
単郭式平山城である米ヶ崎城の遠景。芝山団地入口の交差点から200mほどの位置にある高台。
やや蛇行したアスファルトの道を登ると、広大な畑にたどり着く。ぽつんと雑木林が見えるが、そこに意富比神社がある。一面畑の平場で、明らかな縄張りらしい遺構は見られない。
畑の奥、高台の縁辺で所々見られる土塁が唯一の遺構。高台の西側および西南側に残る。そして急カーブの道は城の名残かもしれない。
土塁に登ると、足がすくみそうになる崖であることが確認でき、城郭の立地条件としてはうなずける。
城郭内にある意富比神社(おおひじんじゃ)。もともと土塁だったのか少しばかり土が盛られており、その上に建立されている。
境内には土地改良記念碑が建つ。ここに米ヶ崎町字城之内という地名が見られる。文献もなく米ヶ崎城の詳細が分からない上は、城之内と呼ばれたことが城址の証と判断するしかない。
夏見城(現・長福寺)
米ヶ崎城より西600m先にある長福寺が夏見城跡である。船橋市に残る城址で唯一城主が明らかになっており、戦国時代には「夏見政芳」が城主を務めていたという。この人物が長福寺を再興させたらしい。1568年に隣国より攻められ落城となった(長福寺縁起による)。
当時の勢力図から察するに、下総国葛飾郡・小金城(千葉県松戸市)を拠点としていた高城氏に滅ぼされたのであろうか?かつて村人のうわさ話では城跡には抜け穴があったとされており、夏見氏は抜け穴を通って逃げおおせたという伝承が残る。(それはありえないと思うが・・。)
夏見城の遠景。小高い丘である。
海老川に繋がる川があり、これも当時の地形のままであれば、夏見城の防衛ラインの一部であろう。
城址に残る曹洞宗の夏見山・長福寺。山門には石像の金剛力士像が並ぶ。境内横の急坂がカーブになっており、西側の空堀跡かと思われる。抜け道なのか、行き交いする車で危険である。
長福寺の墓地奥には林があり、きっちりと夏見城の遺構が残されている。
切岸と思われる丘陵斜面で見晴らしの良い台地である。落下防止のフェンスがあったようだが、今は朽ちて支柱だけ残っていた。足を滑らせて落ちれば命の保証はないだろう。
遺構の北にはさらに盛り土があり、伝説では古井戸があったとされる場所に雪解塚(ゆきどけづか)が建つ。夏見城落城の際、戦没者が井戸に飛び込んだ伝承が有り、後に塚が建てられたそうだ。この塚には雪が積もらないらしく雪解塚と呼ぶ。個人的見解では井戸場と言うより、物見台であったような気がする。長福寺の北側には住宅地が広がっているが、そこも城郭だった可能性はある。
長福寺の北西に建つ稲荷神社も城郭の一部であると思われる。盛り土で作られた「富士塚」があり、浅間大神の石碑が見られる。富士塚には斜めに生えた樹木やタイヤゴムの配置があり、一風変わった富士塚である。
平安時代、夏見は伊勢神宮に寄進された荘園の一部であり、夏見御厨(なつみみくりや)と呼ばれた。天禄時代(970-974)、舟の出入りが多くて「南津海(なつみ)」と呼ばれていたことに由来する。一方、景行天皇行幸の折、地名を尋ねられた里人が「いま菜を摘んでいます」と答え、夏見に転じたという説もある。
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