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鷺沼城~源頼朝が兵を整えた宿所とされる城址

千葉県習志野市鷺沼にある鷺沼城を訪問した。(2014年4月)。平安時代後期に鷺沼太郎源太光義(満義)が築城したと伝わるが定かではないし、情報が交錯しているようだ。鷺沼氏は千葉氏の家臣と考えられ、現在の津田沼周辺を治めていた豪族とされる。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に鷺沼館(鷺沼御旅館)の記載があるが、それが鷺沼城であると考えられている。石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国へ落ち延びて再挙兵するが、房総半島を進軍して鷺沼館で兵を整えたとされる。

阿野全成が、10月1日に下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面し、兄弟の中で最初の合流となった。地名からその地がここだと考えられている。※阿野全成:源義朝の七男で、兄弟には「義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、 全成、義円、義経」 がいる。源義経とは同母で常盤御前の子。幼名は今若丸

鷺沼城の遠景
南西部から見た鷺沼城の遠景。連郭式平山城。現在は埋立地であるが、中世、鷺沼は海であり、現在の菊田神社 辺りにあった久々田(くぐた)浦では漁が盛んだったようだ。

菊田遊歩道
習志野市役所の右側、菊田遊歩道を300m南下したところに鷺沼城の本丸がある。遊歩道は菊田川であったが、現在は暗渠化されている。かつては鷺沼城の西を守備する天然の要害だったと思われる。

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鷺沼城址公園の4つの進入路を攻める

鷺沼城は鷺沼城址公園として整備されており、4箇所からの進入路がある。鷺沼城の明確な縄張りが分からないため、当時の城道だったのかは不明である。

北西からの進入路~切岸が楽しめるポイント

切岸まず、もっとも趣きのある北西からの進入路。菊田遊歩道から見る切岸は見応えがある。

鷺沼城ガイド-切岸
間違いなく当時の城道ではないが、切岸が楽しめるビューポイントである。本丸の様子は後に紹介するにして、別ルートである残り3つの進入路を紹介する。

南西側の進入路~鷺沼ガス供給所跡地


南西側の進入路は芝生の広がる平地になっており、低い土塁といった印象。家臣の屋敷か、御主殿でもあったのだろうか。平地の奥には階段があり、本丸へとつながっている。


ちなみにこの場所は、鷺沼ガス供給所があった。現在は、習志野市ガス事業発祥の地として史跡になっている。

「昭和32年1月、ここ鷺沼の地に試験井を掘削したところ、天然ガスが自噴し、昭和33年にガス供給事業を開始。その後、東京湾への廃水規制が強化されたため、平成9年に井戸からの天然ガス汲み上げを休止。平成18年にすべての井戸を廃坑にした。」

ってことは、この平地は城郭ではなく、ガス供給所建設のため削られている可能性が高い。

南東からの進入路~正面入口


城郭に正面入口というのも変だが、南東からの進入路が鷺沼城址公園の正面入口となる。石垣でちょっとだけ城跡っぽくしているが、当時のものの再利用なのか定かではない。なお、ささやかな枡形道になっている。


南東には「しらさぎばし」が架かっており、大規模な堀切が確認できる。城の反対方向に進むと、すぐ枡形道となっており城郭を思わせる。もしかしたら、曳橋でも架けられていたのかもしれない。

北東から~住宅地


北東は住宅地からの進入となる。搦手口なんだろうか?

鷺沼城址公園内


園内の様子と見取り図。主にA号・B号の2基の古墳、源太石碑、遊具から成る。


樹木で視界を塞がれているが、見晴らしの良い台地で城郭としては好条件である。

源太石碑~源太で混乱しており人物が特定できない


昭和34年建立の源太石碑。(鷺沼源太満義諸武士之碑)

碑文には、こうあるが時代背景がおかしい。「正応年間(1288-1292) (伏見天皇時代)、市川城主里見氏および源太氏をはじめ下総10有城主一圓となり北条氏康と戦い、敗れ、戦死したものの霊魂の冥福を祈る」という旨が刻まれている。また、「房総里見軍記」に、国府台合戦に鷺沼氏が里見氏に加わり参戦したことが記されている。しかし、第一次合戦(1538年)、第二次合戦(1563年-1564年)とも年代があっておらず、合点がいかない。

津田沼町郷土教育資料によると、正応年間には、源太光義という豪族が州事の地位にあったという。(すでに満義と光義で混在)。平安末期の当時、下総の国は千葉介の配下にあったという。しかし戦国期、国府台合戦で北条氏と戦ったということは、鷺沼氏の末裔は千葉氏から離反したということか?

なお、菊田神社の伝承によると、1181(治承5)年、鹿ケ谷の陰謀の罪を受けて船で相模から安房を目指した藤原師経を、鷺沼源太光則が久々田浦で迎 えたという。(藤原師経は後白河法皇の近臣、西光の次男)
その場所は、津田沼6丁目の「神の台」であるとされ、下総三山の七年祭りの際には、菊田神社の神輿が立ち寄り、祭典が行われる。

なお、鷺沼には以下のような民話がある。一部は創作が盛り込まれているようだが・・・習志野市の観光パンフより一部転載。

鷺沼の民話「とげぬき源太さま」

平安時代、千葉の殿さまの家来であった源太さまの家は鷺沼館でした。子どものころの源太さまは、体が弱く、弟たちのように剣術の稽古ができず、畑を手伝うこともムリでした。そこで、毎日遊びにくる村の子供達の子守役になっていました。

夜に海藻を採りに行くヨバマの日は、村の大人が出て行くため、子どもたちだけが家に残されてしまいます。11歳になった 源太さまは、「それじゃ、あぶねえ」と、家々を見て回るようにな りました。そんな源太さまだったから、武術はからきし弱かったけ れど、大人になると、家来にも村人にも慕われて領主さまになられま した。

鷺沼城には源太宮の石祠(源太塚)があり、「とげが抜けないときは源太さまにお願いすると、すぐ取れる」と、真顔で言う婆様がいます。

鷺沼では、伝説や軍記物語などにおいて複数の源太さまの存在が伝えられています。ただ、「源太塚」 に祀られている源太さまが、誰のことを指すのかは分 からないようです。鷺沼の人々は今でも「源太さま」を信仰しており、「源太塚」の前を通る時には、必ず被 り物をとって礼拝をしているそうです。

A号墳と、源太宮の石祠


源太石碑の裏側にあるA号古墳と、源太宮の石祠。通称:源太塚。
刺が抜けない時にはお祈りするか・・。

鷺沼城址公園には2基の鷺沼古墳が残されている。A号墳は6世紀後半ごろに造ら れ、全長約25mの前方後円墳で周 囲には溝をめぐらせてある。発掘では人物埴輪、馬などの 埴輪、円筒埴輪など多数の埴輪の細片が発見されたという。この鷺沼を本拠地とした豪族の墓と考えられている。

B号墳と石棺


B号墳も同じく古墳時代後期(6世紀後半)。A号墳よりやや小さめの前方後円墳。
くびれ部付近から発見された長さ約2m、幅は約80㎝の箱式石棺では、南房総から運ばれたと考えられる砂岩・凝灰岩を加工して作られている。もとは蓋石が覆っていた。成人男性2体分の人骨や、直刀破片・鉄鏃などの副葬品が出土した。

遊具、その他


遊具の周りは、遺構とは思えない土塁がある。


戦国期の鷺沼城の井戸跡かと思ったが、鷺沼ガス供給所があった事実から、天然ガス汲み上げた昭和期の井戸だとすぐ分かった。また、雰囲気作りの埴輪さんが設置されている。

根神社~砦跡のような雰囲気あり

鷺沼城址公園から100mほど南東の位置に根神社がある。地形や立地条件から「砦ではないか」と思えてしまうが、鷺沼城と何らかの関係がありそうだ。


正確には不詳であるが創建は承平 年間(931~937年)とも伝えら、鷺沼地域の産土神として崇敬されている。神紋の九曜紋が本殿と手水鉢に確認できる。近くの八剣神社は根神社の末社。


根神社から幕張新都心を眺めることができ、境内の隅は急勾配なので「やっぱ曲輪でしょ」と思う。


根神社に隣接する習志野市こどもセンターも高台であり曲輪っぽい。


慈眼寺は平地にある。室町時代から続く 寺院であろうと想定されているが、鷺沼城の防衛線になる地形ではない。


鷺沼緑地も何か関係ありそうな雰囲気であるが、立ち入ることができなかった。

鷺沼城は詳細が分かっていないので、ほとんど空想の城郭巡りとなった。

菊田神社~かつての久々田浦・入江へ向かう

再び鷺沼城に戻り、菊田遊歩道を通り、緩やかな坂道にある習志野市役所(旧本庁舎)に出る。

習志野市役所
「本庁舎48年間ありがとう」の横断幕。本庁舎は2011年の東日本大震災で被害を受け、倒壊するおそれがあるため新庁舎へ移転予定(2014年4月時点では仮庁舎で業務)。昔、習志野市民だったことがあるが、職員の対応にいい印象がない。

消防本部
習志野市消防本部近辺は高台と窪地の地形。入江だったのであろうか?

鬼面石柱
市役所前交差点より北上し、習志野市教育委員会の横を通過するが、謎の鬼面石柱を発見。補強されているので遺物保存しているようだが、説明板が一切なく内容不明。

習志野市の菊田神社
菊田神社に到着。(鷺沼城址公園より600m北)

きくたみずどりこうえん
菊田神社に隣接する菊田水鳥公園。ここらは久々田浦の入江だったらしい。

境内の様子-菊田神社
菊田神社ならびに菊田水鳥公園では、砦のような雰囲気を感じる。しかし、鷺沼城との関連は分からない。

菊田神社の古伝によると、久々田大明神として810年代に祭祀された。当時、この境内は小嶋であり、東西両側は丘で砂土が堆積した入江であったという。西側に居住区があり久々田大明神を産土神(うぶすながみ)として信仰していた。

治承4年、左遷された藤原師経および一族郎党が、相模国より乗船し袖ヶ浦にきたところ、海が荒れこの地に着船上陸。一行は久々田大明神祭神の神徳と感銘し、この地を安住の地とした。さらに祖先の藤原時平を合祀したという。後に一族は三山の郷(二宮神社近辺)に移住したと伝わる。

その後、年が変わり入江も浅瀬となり、嶋や丘の土を採取して浅瀬を埋め、水田を拡張した。この時、藤原師経一族郎党が着船したのを記念し、境内が船の形になるように造ったと伝わる。

宝暦年間に社名を菊田大明神と改名された。

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