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習志野の民話、「駒止谷に沈んだ恋」の地へ行く
千葉県習志野市実籾本郷の実籾城へ行った時に 、実籾本郷公園に立ち寄った。そこに民話広場があり、習志野市の民話「駒止谷に沈んだ恋」が案内板で語られていた。※駒止谷:「こまどめやつ」と読む
この民話は実籾本郷公園の出来事ではなく、ここより1.6km北にある駒止谷が舞台である。
案内板の古地図を見ると、公園の北側も湿地帯であったことが伺える。習志野原は江戸時代には大和田原と呼ばれ、見渡す限り茅や灌木が生い茂る広い原野だった。今の東習志野7丁目付近である。
駒止谷は大和田原を南北に区切る地形だった。谷底に向かって急斜面となっており、その下には帯状の泥沼が広がっていた。言い伝えでは旅人や騎馬武者らが渡ろうものなら、底なし沼に引きずり込まれるという。
田喜野井はおはんが池があるように湧水池、大久保は「大きな窪地」が地名の由来らしく湧水池であり、浜田川の水源になっている(水道は井戸水らしい)、実籾本郷公園の湧水も同じく浜田川の水源。住宅地開発が進んでいるが、このような湿地帯で大丈夫なんだろうかと、人事ながら心配になる。
とりあえず、「駒止谷に沈んだ恋」をお聞きください
大和田原に底なし沼の駒止谷があったという、大和田原の西南端に、働き者だが五反ばかりの少ない畑を耕す貧しい若者が住んでいた。病弱の父と弟をかかえてその日の暮らしを立てていた。
若者は荷車を引いて船橋の市場へ野菜を売りに行き、付近の村で一番美しいと評判のおきんを好きになった。しかし耕地をあまりもっていないので嫁に貰うことができなかった。そこで藩に申し出て駒止谷を耕す許可を得たが、そこは大勢の百姓が開墾に失敗している沼地だった。
たらいに乗って田植えをし稲を育て、その年、若者の稲は実り豊作となった。若者は翌年の収穫が増えたのなら、おきんと祝言をあげると約束をした。
しかし、次の年、その次の年も稲作に失敗した。その間、おきんは母親に死に別れ、遠い国へ出稼ぎにでてしまった。
ある夜、若者は、駒止谷の稲が数年ぶりに育ち、黄金の穂をつけている夢を見た。飛び起きて大和田原に駆けると、月明かりの下に稲穂が波打っていたため、震える手でその稲穂をつかんだ。その瞬間、稲穂ではなく泥沼に生えている葦の葉であることに気がつくが、泥沼に足を引きこまれ次第に身体は沈んでいった。
その後、若い娘が駒止谷に身を投げて死んだという噂が村々へ伝わった。谷岸に木綿の着物が包まれた風呂敷と下駄が揃えて置かれてあったという。その娘がどこの誰であったかは今でもわかっていない。
(この案内板ではおきんと断定しているが、普通に推察すればそういうことでしょうね。)
参考:習志野市HP~No.53 平成13年11月1日号 ならしの“よもやま話” 駒止谷に沈んだ恋
パソ兄さん、駒止谷跡に行ってみた
駒止谷は、ロイヤルホームセンター習志野とイオン東習志野ショッピングセンターの連絡路から面影を見ることができる。(東習志野7丁目付近)
現在の駒止谷は排水路。こちらは連絡路の西側。
フェンスの隙間から排水路を眺める。うーむ、コメントの言い様がない。隣接する日立産機システムの工業排水なのだろうか。見るからに汚水である。
そして東側であるが、ここは埋め立てられている。しかしすぐ先には再び排水路が露わになり、蛇行しながら京成大和田駅まで辿り、新川に合流する。現在では足止めされるほどの谷だったとは想像もできない。若者(名前はないのか?)とおきん(?)は、今もここに眠っているのだろうか。ちょっとおはんが池(船橋市の史跡)のおはんさんと話がかぶる。もともと一般受けしない史跡巡りばかりだが、この駒止谷ではある意味、過去最強の史跡巡りとなった。まあ、嫌いじゃないぜ!