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臼井城~無敗と言われた上杉謙信が失敗した城攻め

千葉県佐倉市にあった臼井城を登城した(2009年)。現在、臼井城址公園として整備されており、15世紀以降の遺構と考えらる城跡は「本丸、二の丸」を中心とし、空堀、土塁等の旧態をよく残している。室町中期では太田道灌による下総千葉氏との戦い、戦国時代では上杉謙信が原氏(小田原北条氏の傘下にあった千葉氏一族)と激戦を繰り広げた城として知られる。

登城する人は逆走コース諸説あるが臼井城の起源は12世紀中頃(1114年)で、千葉氏一族である臼井常康が館を構えたことから始まる。1180年、源頼朝が下総国府を通った際、臼井常康は子や孫と共に奉迎しており、臼井氏については吾妻鏡にも記されている。14世紀中頃になると、臼井氏中興の祖とされる興胤が臼井城の基礎を築いたという。

室町中期の1479年には扇谷上杉氏の重臣・太田道灌が武蔵千葉氏に加勢し、敵対する下総千葉氏との激戦が臼井城で行われた。臼井久胤の代になっていた1561年に、里見義堯の家臣・正木時茂(嫡男の信茂とも)の攻撃によって臼井城は落城した。久胤は結城に落ち延びたが臼井城に復帰することはなかったので、臼井氏の時代は200年ほどで終焉を迎えた。

その後、乗っ取る形で同族(千葉氏一族)である原氏が城主となったが、小田原北条氏と同盟関係(傘下)にあったため、臼井城は実質的に小田原城の支城であったと考えられる。原氏は1566年の「臼井城の戦い」で上杉謙信を撃退している。1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が起こり、北条氏滅亡とともに原氏も滅亡した。原氏が臼井城を治めていたのは30年間ほどである。

徳川家康が関東に入封すると、家臣の酒井家次を臼井城に封じさせた。酒井氏は1604年まで臼井4万石を領有していたが上野高崎へ転封されると、臼井は幕府の直轄領となった。

臼井城の遠景師戸城から見た臼井城の遠景。外城ともいうべき洲崎砦跡の丘も見える。

上杉謙信が大敗した、臼井城の戦い(1566年)

1566年、「臼井城の戦い」では北条氏家臣の松田康郷の援軍もあり、千葉氏・原氏は上杉謙信を撃退している。臼井城の戦いは無敗とも言われた謙信にとって「最大の汚点」とされる。ただ、上杉謙信の伝記である「謙信公御年譜」には記録されていない。※ちなみに最後の川中島合戦(第5次)が終わったのは1564年。

軍師・白井胤治(浄三)の存在

1563~1564年の第2次国府台合戦以後、上杉氏の同盟国である里見氏が北条氏に追い詰められる。1566年、上杉謙信は救護のため下総国へ出兵する。

上杉軍は千葉一族である高城氏の下総小金城(松戸市)を攻めた後、1万5千の兵で臼井城を包囲する。このときの臼井城城主は原胤貞で、2千ほどの兵しかいなかった。原胤貞は本佐倉城の千葉氏(主君)に援軍を依頼したが、わずかな援軍しか送らなかったという。さらに同盟国の北条氏からの援軍は松田康郷率いる150騎のみ。落城は時間の問題と思われたが、千葉氏に使える軍師の白井胤治が臼井城にいたため、彼の策によって上杉謙信は撃退される。以後、謙信は関東における影響力を失い、北条氏と越相同盟(1569年)を結び、関東から手を引いた。

臼井城合戦の戦況

1566年3月20日開戦、23日:上杉軍に数千人の死傷者、4月半ばには撤退する。足利義昭(後に室町幕府将軍)が北条氏と和睦するよう臼井に書状を送ったことが撤退の理由とも考えられている。

備考:謙信が敗退したもうひとつの戦~生野山(なまのやま)の戦い

上杉謙信が敗退した戦いは、臼井城の戦い(1566年)以外に生野山の戦い(1561年)がある。武蔵松山城の支配をめぐり、北条氏康と上杉謙信との間で行われた。ただし。同年1561年には第4次川中島合戦(八幡原の戦い)があったので、謙信自身が兵を率いていたのか不明。もしくは戦に万全ではないコンディションだったのは間違いない。北条軍は生野山で迎え撃ち、野戦となり、上杉軍は撤退した。以後、謙信は里見氏と同盟を組み関東平定に乗り出す。

謙信が敗退した戦いは、この2つの合戦が挙げられる。しかし謙信自身が確実に出陣しており万全の状態で戦って敗退したのは「臼井城の戦い」だけだろう。

城郭と城内散策

臼井城址公園はっきり残っている空堀跡は3箇所。城郭の西側には千葉氏の守り神である妙見社が鎮座している。

臼井城址公園
臼井城址公園となっているのは二の丸と本丸のエリア。三の丸近辺には臼井城で討ち死にした太田道灌の弟・太田(図書)資忠の墓がある。妙見社も三の丸と考えられる。公園の南口は二の門跡と思われ、本丸から東口への通路は搦手口だろう。

城郭図現地案内板に城郭図があった。

三の丸~太田図書の墓

資忠の墓
三の丸にある太田(図書)資忠の墓。

太田図書の墓-墓石三の丸の土塁に墓石が建っている。

室町中期になると千葉氏一族は古河公方と関東管領上杉氏との抗争(享徳の乱:1454年~)に巻き込まれる。千葉氏は武蔵千葉氏と下総千葉氏の二派に分かれ戦うことになる。

1478年12月、扇が谷上杉氏の家宰である太田道灌は、古河公方を支持する下総千葉氏の千葉孝胤(のりたね)を境根原合戦で撃破するが、孝胤は同族である臼井持胤の臼井城へ落ち延びた。1479年正月になると太田道灌は弟の太田資忠(太田図書)と千葉自胤(武蔵千葉氏)を率いて臼井城を包囲する。臼井城の守りが堅固であり、太田勢は一旦引き揚げようとしたが、そのすきを突いて城兵が討って出た。乱戦となり臼井城は落城したものの、太田資忠は53名とともに戦士したと伝わっている。

天満宮三の丸は天満宮の手前までかな。

通路があり、堀切跡
ちなみに天満宮の北側にある竹やぶの道が素晴らしい景観。

三の丸 / 二の丸の間の空堀跡

上杉謙信を撃退した城郭
太田図書の墓(三の丸)から二の丸へつながる道路。この下は深い深い空堀となっており、上杉謙信を撃退した城郭のシンボルとなっている。車が道路から転げ落ちたら間違いなく大惨事になりそう。

庚申塚と古峯神社

物見台の土塁
二の丸の入り口(南口)の向かい側は高台になっており庚申塚がある。かつては物見台の土塁ではないかと想像してしまう。

古峯神社が鎮座そのまま上に登ると古峯神社が鎮座していた。

臼井城本丸へ

臼井城址公園入口
二の丸から本丸へ。

土塁に挟まれる形で威圧感
本丸の広場。

上杉謙信を見送った
ここから敗退していく上杉謙信を見送ったのだろうか・・。

佐倉・国際印旛沼花火大会では鑑賞スポット本丸からは民家が見下ろせる高台となっており、佐倉・国際印旛沼花火大会では鑑賞スポットの穴場になっている。すぐ近くには長嶋茂雄の母校、臼井小学校がある。

印旛沼が広がり
本丸から北の方角を見渡すと印旛沼が広がり、北の防衛ラインを実感できる。おそらく昔は民家のところも印旛沼だったのだろう。さらに印旛沼を渡った先は、臼井城の支城である師戸城が北方を守っている。他には小竹城、志津城、岩戸城が支城として臼井城の防衛を固めている。

搦手口(からめてぐち)

本丸から東口へは搦手口となっている。公園マップでは東口につながる道である。搦手口とは緊急事態用の脱出路で、領主はここから密かに逃げ出すことができる。小さな石垣が積まれており、ちょっと気になるポイントである。

臼井城搦手口
急坂が続く。

臼井城の砦、支城、関連施設

臼井城址公園として整備されているのは臼井城の主要エリアだけであり、砦を含めば千葉県屈指の巨城であることがうかがえる。防衛とネットワークの砦には稲荷台砦、田久里砦、仲台砦、洲崎砦などがある。

臼井城址公園のあたりと限定せず、これらの砦を臼井城の一部として総合的に散策してみれば、臼井城の縄張り全体がつかめてくるだろう。しかしながら砦跡は宅地化により見るに堪えない状態である。 そのなかでも遺跡保護運動のあった宿内砦が遺構をよく残している。

【 記事はこちらでまとめた : 臼井城の支城や砦~宿内砦、小竹城、志津城など

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出典-日経コンピュータ 2019年8月22日号 顧客満足度調査より

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