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臼井城の支城や砦~宿内砦、小竹城、志津城など
千葉県佐倉市にあった臼井城では、砦を含めば千葉県屈指の巨城であることがうかがえる。防衛とネットワークの砦には稲荷台砦、田久里砦、仲台砦、洲崎砦などがある。
支城・砦のリスト
- 宿内砦 : 詳細不明だが、もっとも遺構が残る砦
- 稲荷台砦 : 臼井城の付城と印旛郡誌に掲載されている。(稲荷台公園)
- 王子台砦 : 上杉謙信が陣を置いたことから謙信一夜城ともいわれる(一夜城公園)
- 洲崎砦 : 単郭で土塁の一部が残る(八幡台1号公園のある丘陵地)
- 田久里砦 : 台地の端に位置する単郭(長谷津児童公園)
- 仲台砦(中台町砦): 日本城郭大系によれば、臼井氏家臣の小竹高胤の居城
- 小竹城 : 小竹高胤が築城。臼井城の支城として機能したと考えられるが居館の構造
- 井野城 : 宮ノ台公園の八社大神に遺構。窪地であり居館や砦の機能なし
- 臼井久胤幽居跡: 土塁と堀が一部残る。「御屋敷」という地名。
- 宗徳寺 : 原氏の菩提寺。墓地入口に「権現水」がある
- 志津城 : 臼井城の支城。臼井昌胤の次男 志津胤氏の居城(天御中主神社)
- 志津大口館 : 舌状台地にある春日神社~報恩寺の一帯。志津氏との関係性あり?
- 岩戸城 : 岩戸胤安の居城。志津胤氏の謀反を知り、竹若丸を鎌倉へ逃した人物
- 先崎城 : 臼井城から北西3km先にある支城。鷲神社が城址
- 師戸城 : 臼井四天王のひとりであった師戸四郎の居城
- 飯野城 : 佐倉市民の森から東に1kmほど「野鳥の森」。歴史等は不明
- 寺崎城 : 密蔵院のある台地。本佐倉城に移転する前の拠点というが城郭遺構不明
- 吉見城 : 臼井屋敷跡近く。少林寺堂のあたりだが城郭など未詳
宿内砦
臼井城本丸からは500mほど南の位置にあり、私有地らしいが宿内公園として開放されている。かつては長源寺の寺領だったとか。長源寺が移設されると原氏家臣の大森氏の所領となり「おおもり山」と呼ばれていた。
宿内公園として整備(?)されており、「臼井城の砦跡です」と簡素に説明されている。なお、日本城郭大系には宿内砦が記載されていない。
いくつかある臼井城の砦で一番遺構を残しているのが、宿内砦。
宿内砦から市街地を眺められる。臼井城の縄張りは市街地に至るまで広がっているが、都市開発により遺構の破壊がされている。宿内砦も取り壊される危機があったが、くい止めることができたという。
稲荷台砦
稲荷台公園がその跡地だというが、宅地化されており遺構は残っていない。線路を敷設するため、大規模な掘割工事が行われたところでもある。もともと稲荷台近辺は湧水地であり、掘割工事で大量の水が流出したため、手繰川へ導水した。水の手があるため砦になったのかもしれない。
一方、宿内砦ならびに長源寺の西隣にある高台には稲荷神社がひっそりと鎮座している。特に遺跡という情報はないが、とても気になっている。そもそも住所が「稲荷台」ではないので、稲荷台砦ではないのだろう。
田久里砦
台地の端に位置する単郭の砦(長谷津児童公園)。臼井城 5峠のひとつ。1114年、臼井常康が築いたと伝わっており、守護神として妙見社が置かれていたもよう。西側には手繰川が流れており、「てくり」がなまって「たくり」になったのだろう。
田久里砦の西側で小竹地区の間に流れる手繰川。
洲崎砦
洲崎砦は臼井城を防衛する北の要衝。「八幡台1号公園」の現地案内板に砦のことが記されている。洲崎台と呼ばれ、以前は印旛沼を見下ろす景観の良い高台で名勝地:臼井八景であった。宅地化されるまでは丘陵一面に松林が広がっていた。洲崎台下は八幡下と呼ばれ、耕地開拓されるまでは印旛沼の水が寄せていた。日本城郭大系よれば単郭で土塁の一部が残るとのこと。
洲崎砦が築かれた舌状台地(師戸城からの遠景)
小竹川からみた、洲崎砦ならびに臼井城のある台地遠景。
洲崎台下(八幡下)の八幡社
八幡下の森には鎮守の八幡社が鎮座しており、第6代城主の臼井興胤が1338年に宇佐八幡から勧請したものである。。
仲台砦(中台町砦)
八幡社のすぐ西側で、千葉県佐倉市八幡台2丁目の一画にある。日本城郭大系によればもとは臼井氏家臣の小竹高胤の居城だという。
小竹城(おだけじょう)
明徳年間である1390年頃に臼井氏家臣の小竹高胤が築城したと伝わるが、遺構構造から判断される築城時期は16世紀初頭。臼井城の支城として機能したと考えられるが、居館的な性格となっている。臼井氏滅亡後は里見氏に従い、のちに高橋と改姓し帰農したと伝わる。跡地は現在私有地で、1辺50mほどの土塁や空堀が残る。
小竹城の虎口。その先は民家なので登城はここまで。
虎口の土塁に標柱が建つ。
現地案内板にある小竹城の縄張り。
小竹城へは飯田製作所の南にある小路をまっすぐ。説明板があるので、土塁に挟まれたその道を進めば虎口にあたる。
城跡の南(説明板のすぐそば)には小竹氏の墓がある。小竹氏は臼井氏の庶流。
さくら霊園の南にある坂道から、北東の位置に臼井城の台地が見える。その間には手繰川が流れ、小竹城が臼井城南西を守る高台にあったことがうかがえる。
志津城
志津城は臼井城の支城で、臼井昌胤の次男 志津胤氏の居城。志津城は宅地化により規模が小さくなったと思われるが、天御中主(あめのみなかぬし)神社に遺構が残る。
1314年、臼井城主で兄である臼井祐胤が病死すると家督の座を狙い、兄の遺児である竹若丸を殺害しようと計画。竹若丸の乳母阿多津(阿辰)から知らせを聞いた岩戸胤安は竹若丸(後の臼井興胤)をかくまい、鎌倉・建長寺へ逃がす。
竹若丸が臼井興胤として成長すると臼井城に復帰し、不遜な態度を続ける志津胤氏を成敗する。志津城は落城し、そのまま廃城になったという。ただし、志津胤氏のエピソードには創作または脚色の可能性があるとのこと。
天御中主神社のすぐ北側には城郭の名残かよくわからない傾斜面や高低差がある。宅地化で今や知り得ないことだ。志津駅からの道中、志津さんの表札を所々見かけた。先祖代々住んでおられるのだろう。
天御中主神社が唯一はっきりしている城址ということか。神社周辺の道は堀跡か?
標柱の奥にある池も遺構なのだろうか?
天御中主神社の境内。
社殿は修復中だった。神社の説明板では次のように記載している。
「天御中主神社ではもともと妙見菩薩を祀っていた。千葉氏一族が信仰していた氏神で知られている。神社を含むこの一帯が志津城跡と考えられ、中世には志津氏あるいは千葉氏系統の豪族が館を構えていたとされる。現在の社殿は1626年、付近の八幡神社と同じ年に創建されたと伝わっている。明治時代の神仏分離令により妙見菩薩と同一とされた天之御中主神に改められた。現在でも妙見様と呼ばれており、昭和50年代までは境内で盆踊りが行われていた。」
社の右隣はさらに高台になっており、疱瘡神が祀られている。この社殿の裏山から中世の常滑焼の大がめが出土し、なかから人骨や古銭、かわらけなどが見つかっている。このあたりが城館だったころのものとされる。
推定600年の保存樹。現在の社殿が創建された1626年に管理保存の対象にされたとのこと。
稲荷神社
天御中主神社から155線を挟んだ東側に稲荷神社の高台がある。志津城との関連性がありそうで訪ねてみた。
稲荷神社から志津城(天御中主神社)を見下ろしたところ。外城だったのか、台地が土取りまたは155線開通で削平されてしまったのか・・詳細不明。城郭の規模が大きかったとするなら、台地上でつながっていてもおかしくはないだろうなあ、という印象。
志津大口館
この報恩寺から春日神社までの舌状台地一帯が志津大口館という。志津氏との関係性そうな支城である。
報恩寺境内には土塁らしき遺構はある。
報恩寺から北に進み、堀跡と思われる2つの道に挟まれた春日神社へ。
春日神社境内にも土塁と思われる遺構がちらほらと。
岩戸城
岩戸胤安の居城。後見人・志津胤氏の当主乗っ取りの野心を知った岩戸胤安は、後継者である竹若丸(後の臼井興胤)を鎌倉・建長寺へ逃がす。岩戸胤安は志津胤氏に岩戸城を落とされ、自刃したとされる。忠臣として称えられ、天御中主神社の東側、西福寺に顕彰碑が建てられている。岩戸城は千葉県印西市岩戸の宗像神社近く。
先崎城(まつさきじょう)
小竹川の北の台地に築城されたと考えられる先崎城。先崎地蔵尊や先崎鷲神社あたりと推測される。臼井城から北西3km先にある支城である。
先崎地蔵尊。お堂の左側には先崎城主の墓が建てられている。背後の竹林に埋もれた高台は城址と考えられる。
先崎鷲神社も城址の一部であろう。左右に道が別れているが、堀跡のようにも見える。
鷲神社の境内。ケヤキの大樹は樹高16m、幹囲6.3m。応永年間(1394~1428)の神社火災といわれる焼損の跡が残っている。つまり先崎城の時代から神社として存続していたということか。
鷲神社には土塁と思われる遺構がいくつか見られる。
鷲神社の説明板には先崎城について触れられていない。「鷲神社は徳川家光から5石の朱印地を賜った。神輿は1804年に制作され、伝統行事のオハマオリは現在も受け継がれている」とある。佐倉風土記によれば937年の創建。本殿は1844年の建立。鳥居は1673年に建立したもので、深川の石屋五郎兵衛による作。
井野城
ユーカリが丘の都市部ど真ん中ともいうべき場所に位置する井野城。史跡というか、八社大神神社の高台として残されたような雰囲気。
臼井城が眺められる高さはある。
丘の中央には窪地があり、これが一応、井野城の遺構らしく主郭としている。土塁に囲まれたというより大きな窪地という雰囲気。地面は草が生い茂りよくわからない。ここは臼井城の原氏の支配下であっただろうが、戦闘向きでも居館でもなく用途がよくわからない支城。大掛かりな狼煙を上げるとか、儀式とかそんなものだろう。
一画に鎮座する八社大神神社。神社の説明板によれば、城の守護神として創建された可能性があるとのこと。もともとは12柱の神々をまつり十二社大神と称していたが、四柱が他の村へ分祀されたため八社大神になったとされる。
井野城の麓にある公園と調整池。発掘によれば、公園のある位置に奈良・平安時代の建物跡が見つかったとのこと。中世遺構に破壊されたとする。
同じく麓は参道入口。これらをひっくるめて「宮の杜公園」なのだろう。
師戸城
臼井城から印旛沼を挟んだ先には支城である師戸城がある。築城年代は定かでないが、臼井城の支城として14世紀(鎌倉末期ごろ)に築城されたと考えられ、「臼井家由来抜書」によれば、臼井四天王のひとりであった師戸四郎が居城していたという。戦国時代には臼井城・師戸城は原氏一族の支配となっており、16世紀中頃に現存の形になったと考えられる。現在は県立印旛沼公園として整備されている。【詳しくは、師戸城の登城記へ】
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出典-日経コンピュータ 2019年8月22日号 顧客満足度調査より