千葉輔胤が築いた千葉氏最期の本拠地!本佐倉城
- 本佐倉城、千葉氏最後の城へ(2009年の登城)
- 千葉輔胤が築いた千葉氏最期の本拠地!本佐倉城(2014年の登城)
2009年に一度、本佐倉城(もとさくら-じょう)を登城したが、2013年には調査および整備され、案内板が設置された。そのため、2014年5月に再び本佐倉城に登城した。
本佐倉城の遠景(南方・根古屋方面から見た風景)。
1469年~1486年ごろ、将門山に千葉輔胤が築城したという。 享徳の乱において古河公方・足利成氏を支持しており、千葉宗家の拠点だった亥鼻城ではなく、古河にアクセスしやすいこの場所を選んだと推測される(印旛沼の南)。小田原征伐の1590年まで約100年に渡り、千葉氏の居城だった。
印旛浦に面する標高36mの台地上に築かれ、城の規模は東西約700m、南北約800m、面積約35万平方メートル。10つの曲輪を持つ大規模な城で、内郭群、外郭群、城下町を含む総構えの三重の同心円で構成されている。内郭は城主のための空間、外郭では家臣の屋敷などが置かれた空間である。
1.5km四方に城下町が点在。佐倉、酒々井、鹿島、浜宿の4箇所 城下には寺院が20、神社が17確認できる(祈祷寺として文殊寺、吉祥寺、東光寺、大仏頂寺、宝珠院)
江戸時代になると、佐倉藩として佐倉城へ城下町が移転したため、この地は土地開発で壊されることがなかったようだ。幸い後世の土地開発がなく、土塁や空堀などがしっかり残っており、国指定史跡なっている。とりあえずは遺跡保護の面では安心だ。
北(印旛沼方面)から見た本佐倉城の遠景。
城郭の大半は酒々井町にあるが、一部の曲輪(東光寺ビョウ)が佐倉市に面している。この写真では酒々井町が近日行われる見学会ため雑草を刈り取った後であるが、佐倉市のほうは手付かずであり、刈られていない雑草で境界線がくっきり露わになっている。
黄色で塗られた部分が本佐倉城の内郭群であり国指定史跡(平成10年9月に指定)。黄色線(荒上、向根古屋)のところは外郭群であり未指定地になっている。外郭群もちゃんと保護してもらいたいものだ。
千葉氏の系譜
まず、本佐倉城を築いた千葉輔胤および千葉氏の略系図を確認。
千葉氏の始まり
桓武天皇から始まり、桓武平氏の祖である高望王を先祖に持つ。平将門の叔父である平良文から平常兼へとつながるが、この平常兼が、下総国千葉郷に拠点をおいたことから千葉介を称し、千葉氏の初代当主となる。3代目の千葉常胤(平安末期~鎌倉前期)のとき源頼朝に従い、千葉氏の地位を盤石なものとする。
千葉氏 宗家滅亡
1455年に享徳の乱が勃発すると、千葉氏・馬加(まくわり)家の馬加康胤は古河公方・足利成氏を支持し、千葉氏宗家である千葉胤直・胤宣父子を討ち、宗家を滅ぼす。(宗家の居城である千葉城を攻めたのは、馬加康胤に加担した原胤房)
千葉氏当主を名乗るものの、後に馬加康胤・胤持の父子は、室町将軍・足利義政が派遣した東常縁(千葉氏一族・胤頼を始祖とする)によって討たれる。
下総千葉氏の登場
宗家の滅亡によって、馬加康胤の子孫である下総千葉氏と、宗家・胤直の弟である胤賢の子孫である武蔵千葉氏 とに分かれる。
※本佐倉城を築いた千葉輔胤は、馬加康胤の子で下総千葉氏と分類される。(※孫という説もあり、また、岩橋氏を名乗っていた。千葉輔胤については諸説あり)。千葉輔胤は宗家のいなくなった千葉城を居城としていたが、東常縁に攻められ佐倉に逃れ、本佐倉城を築いたと伝わっている。
本佐倉城への道中
京成大佐倉駅を降りてから、麻賀多神社、将門山大明神、八幡宮を経由して本佐倉城へ赴く。大佐倉駅は京成線の全69駅中で最下位の乗降数らしく、この辺りはほとんど通行人に遭遇しない。
大佐倉駅。古き良きむかしの日本にちょっとタイムスリップした感覚になる。
麻賀多神社
麻賀多神社(まかたじんじゃ)の産土うら参道から急峻な石段を登る。麻賀多神社は合計18社あり、印旛沼地方に在所するかなり珍しい神社だという。地形や土塁らしき遺構からして本佐倉城の砦になっていたと思われる。
将門山大明神(将門神社・口ノ宮神社)
将門神社の創立年代は明らかではないが、本佐倉城を築いた千葉氏により建立されたという。後に佐倉城主の厚い崇敬を受け、1654年の遷宮では佐倉藩藩主・堀田正信が3mを超える石鳥居を寄進した。明神式という形式の鳥居だが、石を産出しないこの地域では希少な石造物である。鳥居の横にあるマテバシイは、1754年に堀田正亮が口之宮明神を建立したときに植えられたと伝わる。
また、確証となる発掘がされていないものの、この土地は平将門生誕地と伝わっている。
八幡社から本佐倉城へ向かう
本佐倉城の城外に広い境内を持つ神社。城主の信仰が厚かったのか、田地などの寄進をしているらしい。江戸時代には祭礼日に酒々井まで神輿の渡御があり、神幸競馬も行われたらしい。八幡社は舌状台地の土塁の上に建っており、お堂から先は行き止まりになっている。しかし、強行突破で崖を降りて近道を回った。
八幡社の置かれている舌状台地。
あとから気づいたが、お堂の奥に行かず左側の小道を通れば崖を下りることもなかった・・・。
本佐倉城の縄張り
本佐倉城の散策マップでは、緑のところが土塁となっている。紺色は空堀跡。南北と東側には印旛沼の水が流れ込んでいるようで水堀として機能していたようだ。八幡社から蜘蛛の巣とヤブにまみれながら、どどどっと土塁を駆け下り、エリア1から6へと向かい、城外に沿って歩き、東山馬場へ入ることにした。
エリア1は、八幡社の土塁下に広がる空堀跡で枡形道になっている。アスファルトが敷かれているが当時はそこそこの規模の空堀であったと思われる。エリア2の細い坂道を登って荒上曲輪へ上がる。
荒上(8郭)~外郭のひとつであり侍屋敷
エリア3は平場であり、荒上曲輪とよばれる場所で本佐倉城の外郭の一部で侍屋敷と考えられる。どうやら主郭を狙う敵に対して横矢として機能したみたいだ。現在では民家1戸と畑が広がっている。
水ノ手
エリア4。荒上曲輪から下りる道で、水ノ手と呼ばれている場所。湧き水でもあったのだろうか。柵を越えた林の中に窪地(水ノ手)があるらしいのだが、私有地なので入ってはいけないとガイドに書かれている。この先にある中池と同じく、城の水源と推測される。
エリア5と6は歩き応えのある切り通しになっており、ジュラシックパークみたいな雰囲気。北に向かうエリア5はかなり荒れており、今回は水ノ手沿いのエリア6を通っている。
根古谷~移築された妙見社
根古谷(根小屋)と呼ばれる場所に出ると荒れた妙見社がある。城内・妙見宮跡(奥の山)に建っていたものが、いつの頃からからこの場所に移された。
中池
そして右手側(城の南)には畑と水田が広がる。かつては中池と呼ばれる池があってで、中島には弁天社が祀られていたらしい。城内部の貴重な水源になっていた可能性がある。中池の範囲および中島に位置は確定されていない。
本佐倉城の主郭エリア
酒々井町教育委員会蔵の本佐倉城俯瞰図をみてみよう。北には印旛沼が広がり、東と南も湿地帯で守られた立地となっている。作成時が古いのか、主殿の位置が現地案内板と違っている。(城山にあると推定されているが、こちらも確かではないようだ)
2013年時点の研究に基づいた案内板が設置されており、城郭がチェックできる。以下、内郭部に潜入する。
東山馬場(5郭)~馬の飼育
本佐倉城入り口から東山馬場へ。広い面積を有し馬場と考えられるが、建築跡などは見つかっていない。現在ではここがメインの出入口である。
東山馬場から4郭方面を眺めた様子。月星紋の盾が並べられている。
東山虎口
東山馬場から東山虎口へ。2段階に蛇行した枡形道になっている。
北側から見た東山虎口の俯瞰図。2つの門に閉ざされた厳重な守りだったようだ。
東山虎口の土塁に登ると城北が一望できる。案内板によると、筑波山が見えるらしいがこの時は見えなかった。現在では開発によって見えなくなっているが、当時は京成線(コンクリートの高台ライン)のあたりまで印旛沼が迫っていたらしい。本佐倉城は北からの侵入に堅固であったと思われる。
東光寺ビョウ(6郭)~利用目的は不明
東山虎口の土塁から撮影。左側に東光寺ビョウで、物見台のある広大な空間。東光寺ビョウの北側に水田が広がる。
なお、曲輪の呼び名は「成田参詣記~安政5年(1858)」に基づいたものであり、「東光寺ビョウ」をそのまま用いているとのこと。東光寺と言っているが寺院の跡地は発掘されておらず、移転した経歴もないとのこと。ビョウ(ビャウ)も何なのか分からないという。ビョウは「廟」と想像する方もおられるよう。
東光寺ビョウから進入できる虎口は2つあるようだ。(北側からみた案内写真より)
東光寺ビョウの様子。京成電車に乗る人から見えるように本佐倉城の看板が置かれている。東光寺ビョウの崖下あたりでヤブをかき分けると「大佐倉の湧水」がある。ここも水の手だったかもしれない。
東山
東山は東西に細長い巨大な土塁。北側に突き出す先端には物見台がある。
東山と東光寺ビョウの間にある物見台。
城山(1郭)~城主の執務と接待
城主が客を迎えたり宴会をする郭。大形の掘立柱建物跡が2棟発見されており、主殿と推測されている。会所に属する庭園や物見櫓跡が見つかっている。
なお、千葉邦胤は1585年、新年の祝賀会にてオナラをかました近習(鍬田万五郎18歳)を叱責したが、この城山での出来事と推測できる。邦胤は逆恨みされたため、就寝中に刺されて亡くなった。
邦胤の嫡男には重胤がいたが幼少だったため、ボスである北条氏が千葉直重(北条氏政の実子)を当主にと千葉氏を継がせた。オナラ事件と言えど、千葉氏家督が北条氏に乗っ取られる要因となった。
大堀切
城山(左側)と奥の山(左側)を分ける大堀切。2mほどのスロープで登り切った平坦面には木戸跡が見つかっている。
城山と奥の山の分岐点。
ガイドさんが推定する御主殿跡
城山への坂道(城山通路)は城山を登るための唯一の通路。通路幅は1.8mあり、砂によって舗装されていたという。勾配かつ蛇行を繰り返した道であり厳重な防御を施した形跡が感じられる。(城山通路をほぼ登りきった場所から撮影)
城山への坂道を上がる途中で、南方側の道を外れたところに平場がある。ガイドさん曰く、「御主殿はここにあったのではないかと思う」と語っていた。本佐倉城は御主殿跡がはっきり確定しておらず、当時の常識から本丸(城山)に御主殿あるとは考えられないとのこと。城内案内板では城山に主殿跡といっているが、執務と接待の城山に居館を構えるものなのか疑問であると。
なお、ガイドさん推定の御主殿は城山の低地にあるので、北風の寒さも凌げる絶好の場所だと言っていた。
城山門跡
左折れの坂虎口である城山虎口。手前には門跡が見つかっている。門の左右には塀が連結し、門の入った目の前は土壁とその上に塀がめぐっていたという。
門手前の通路が2手に分かれて、右は門の方向(主殿かもしれない場所)、左は奥の山に渡るための木橋があったかもしれないという場所の方向になる。
城山は曲輪の縁沿いに土塁がめぐらされており、また眺めの良い立地条件が揃っている。
木橋があったかも?の場所
城山から向こう側が奥の山(妙見社跡)。曲輪と曲輪の間が大堀切で分断されているため、城山から奥の山へ木橋が架かっていた可能性があるとのこと。無論、頑丈な橋ではなく、戦闘時にすぐに壊せる橋であろう。
奥の山(2郭)~儀式・儀礼の場
大堀切を左に曲がり長い階段を上ると奥の山があり、妙見宮があった場所らしい。ゆえに妙見曲輪ともいう。
有名であるが妙見様は千葉氏の守護神である。儀式や儀礼のための郭で、西側に15m方形の基壇が見つかっている。奥の山にはベンチとテーブルがあるので昼食に良い場所である。敵の支配によって慣例の千葉妙見宮(千葉神社)で元服できなかった場合は、ここで行われた。本佐倉城城主5代(昌胤)と8代(邦胤)はここで元服している。
奥の山の南方(奥の山と倉跡の間)には、(たぶんマニアだけだろうけど・・)吸い込まれそうになる竹やぶへの道がある。縦堀跡のようにも思えるが、ここの険しい道を降りると、先ほど通過した妙見社の近くに出ることができる。ボランティアガイドさんによると、以前の土地所有者が畑のために邪魔な土を持ったらしくて、「この付近は当時の完全な城郭ではない」と言っていた。
倉跡(3郭)~本佐倉城でもっとも広い郭
掘立柱建物が広範囲に分布。炭化した米も発見されており、倉庫群とされる。調理具や貯蔵具も見つかっており生活空間であったことも推測される。
内郭群7郭あるうち、最も広範囲な倉跡。倉跡は3段になっている。戦国期の城にしては倉が広すぎるので疑問視している人もいる。完全な推測であるが、半農半士の体質が反映されているとの意見もある。
4郭~利用目的は不明
東山馬場に隣接し、倉跡の虎口にあたる場所。郭の名前はない。4郭の北側にある茂みのなかに諏訪神社が鎮守している。
曲輪の上にある諏訪神社。
城山と4郭の間にある堀底道に4郭虎口があった。塀跡の先に門跡が見つかったという。堀底道は現在、アスファルトの散策路となっており、堀という印象がない。
セッテイ(7郭)~人質館が置かれた
セッテイというのは、「接待」という意味で考えられている。ゆえに接待郭または人質曲輪。厳重な虎口、土塁なし、大規模な空堀という形状から人質郭と考えられている。人質といっても同盟相手の高貴な方を迎えているわけで、そういう意味で「接待」という意味合いがある。セッテイ(7郭)では他の曲輪ではあまり見れれない調理具や貯蔵具、墓石、茶壺、火箸などが見つかっている。
※現在、セッテイ郭と呼んでいるのは、「東光寺ビョウ」と同じく、江戸時代に書かれた成田参詣記に基づいた。
セッテイの西側にある堀切を通ってセッテイ空堀へ向かう。
セッテイ空堀は、本佐倉城跡の中で最大規模の空堀。セッテイとの高低差は約16mと城内最大。堀底幅は広いところで7m。セッテイに関しては特に警戒を厳重にしていたようだ。
セッテイ虎口は、セッテイへ進入するための出入口。土塁と土塁に挟まれた右折の坂虎口。発掘調査されていないが、木戸など柵や塀などが置かれたと思われる。人質の脱走を防ぐためか厳重な虎口の形態となっている。
セッテイまでの道中に金明竹がある。金明竹とは黄色い縦模様の入った真竹で、本佐倉城ではこのあたりだけに群生している。「怨念の力によって」とか言いたくなるが、その理由は分からないとのこと。
セッテイ山に登ったが、ここがセッテイ(7郭)であり人質を住まわせたと考えられている場所。ここから見る大規模なセッテイ空堀が脱走を阻んでいるとうなづける。藪、大量の蜘蛛の巣、やぶ蚊、蛇、スズメバチとの遭遇で、夏場の探索はかなり危険な曲輪と感じた。次回は冬場に探索するとして引き返すことにした。(そもそもセッテイは行き止まりなので引き返すしかない)
セッテイ空堀に下りた。セッテイと倉跡を分ける空堀で、高低差は10m近くある。堀底幅は最大で9mあり、堀底道を進むにもまっすぐ見通せないように曲がりくねっている。なお、堀底道の探索は冬場にしたほうがよい。
堀底道の突き当たりにある南奥虎口は、東山虎口と同じく城北側の玄関口。発掘調査で木戸跡や柵列跡、通路跡が見つかっている。現在は見晴らしがいいが、木戸には柵が連結して東光寺ビョウ側から虎口内部は見えなくなっていたという。
東光寺ビョウの西端から、セッテイ西側の空堀へ侵入できる。
その道中に双体道祖神が置かれていた場所。最近、心ないものによって盗難されたらしく、写真のみが張られていた。関係者がオークション等に出品されていないか調査しているらしいが、未だ出てきていないという。
本佐倉城の廃城
千葉氏滅亡のあと、土井利勝が本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれたが、後に佐倉城へ移転したため本佐倉城は廃城となった。本佐倉城では一度も合戦になることはなかったという。
千葉氏の菩提寺 勝胤寺
千葉氏の菩提寺であり釈迦如来を本尊とする曹洞宗の寺院、勝胤寺。1532年に本佐倉城主 千葉勝胤が華翁祖芳和尚を招き、創建したと伝えられている。酒々井町のゆるキャラ「勝っタネ!くん」は千葉勝胤がモデルとなっている。
勝胤は和歌にも精通していたようで、歌人 衲叟馴窓(のうそうじゅんそう)が1514年に編纂した「雲玉和歌集」には勝胤を評価する文が見られる。
「平のなにかしと申たてまつりて 弓馬の家にすくれ威を八洲にふるい 諸道に達して政を両総におさめ中にも 大和歌に心をよせて作倉と申地にさきくさのたねをまき給」
※平のなにかし⇒千葉勝胤を指す。 ※作倉と申地にさきくさのたねをまき給⇒佐倉に幸の草の種を蒔く
本堂裏右手に「佐倉城主千葉胤富などの菩提を弔った石塔がある。この石塔は昭和50年に市指定史跡として登録された。
1454年 | 馬加康胤らによる千葉氏内紛。千葉城落城と宗家滅亡 | |
1469 ~1486 |
馬加康胤の子。千葉輔胤(下総千葉氏)が本佐倉城を築城。 輔胤の子・千葉考胤が臼井城を攻める武蔵千葉氏&太田道灌らと合戦。 |
|
1496~ | 千葉妙見宮(千葉神社)を占領され、本佐倉城内に妙見宮を遷座する。勝胤による本佐倉城大改修。親胤による城南部の拡張。 | |
1557 | 妙見宮で親胤の暗殺。叔父の胤富が家督継ぐ | |
1558~ | 胤富は後北条とともに武田・上杉・里見氏と戦う。 | |
1573 | 本佐倉城が火災。胤富が普請を命ずる | |
1585 | 邦胤がオナラ事件で暗殺される。 | |
1590 | 豊臣秀吉の小田原攻め。千葉氏は小田原へ出兵。 5月に本佐倉城落城。7月小田原城落城。千葉氏の滅亡 |
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1592 | 家康の五男、武田信吉が佐倉領を拝領し、陣屋を構える |
本佐倉城は一度も戦場になったことはないそうだが、 「1590年5月に本佐倉城落城」というのは、無血開城といったところだろうか・・。
下総(佐倉)千葉氏 歴代当主~メンバー紹介
初代 | 千葉輔胤 (岩橋輔胤) |
千葉大系図では馬加康胤の庶子とされる。 印旛郡酒々井町岩橋に所領があったため岩橋氏を称したという。1457年、千葉宗家を滅ぼした康胤と胤持(兄)が東常縁らに討たれ、居城の千葉城を抜け出し佐倉に逃れた(本佐倉城を築城)。 古河公方の足利成氏を庇護し、長尾景春の乱では景春に助力し上杉氏に対抗した。(反・室町幕府派) ※千葉氏当主を自称したというが、2代目の孝胤から自称したともされる。 |
2代 | 孝胤 (のりたね) |
輔胤(岩橋輔胤)の嫡男。 長尾景春の乱では景春に助力。幕府が千葉氏当主と認めている武蔵千葉氏の千葉自胤(よりたね)が、太田道灌の支援を受けて対抗。境根原合戦および、退却して籠城した臼井城の戦いで敗北。下総・上総の大半は自胤に制圧された。しかし享徳の乱の終焉により、孝胤は下総千葉領の支配を確立したとされる。 |
3代 | 勝胤 | 孝胤の嫡男。 古河公方の足利政氏・高基親子と対立。上杉顕定について戦った「立河原の戦い」では大敗。小弓公方・足利義明と対立。 |
4代 | 昌胤 | 勝胤の嫡男。 この頃には千葉氏当主としての支持を集めていたという。昌胤が家督をついでも勝胤が死ぬまで実権を保有した。小弓公方・足利義明が千葉城の地まで勢力を延ばし、小弓公方とそれを支持する里見氏と対立。北条とともに第1次国府台合戦に参戦し、足利義明を討つ。※北条氏と同盟を組んでおり、この時はまだ対等な立場であった。 |
5代 | 利胤 | 昌胤の嫡男。正室は北条氏康の娘。 小弓公方・足利義明が千葉城の地まで勢力を延ばしていたため、慣例の千葉妙見宮(千葉神社)で元服できなかった。本佐倉城に造られた妙見宮で元服。 河越夜戦では北条方に助力。死去し、当主だった期間は1年ほどしかない。 |
6代(暗殺) | 親胤 | 利胤の嫡男。(もしくは利胤の弟という説もあり) 若年で家督を継いだため、家臣の原胤清・胤貞親子(北条派)が実権掌握。 原親子に反感を覚えた親胤は、反・北条派である古河公方の足利晴氏と同盟。そのため北条氏の暗躍により暗殺される。 |
7代 | 胤富 | 親胤の叔父、利胤の弟。元は千葉六党「東氏」の一族(海上氏) 1561年、里見氏の家臣・正木信茂に臼井城や小弓城を攻略される。 上杉謙信の小田原城を攻めの時は、北条氏に援軍を派遣。 一時和睦して、謙信の関東管領就任式(鶴岡八幡宮)に参列。 1562年、北条氏の助力で臼井城や小弓城を奪還しており、臼井城合戦では謙信を敗退に追いやっている。北条氏との関係を深めた人物。 |
?代 | 良胤 | 胤富の長男(次男?)、邦胤の双子の兄という説もあり。 反北条氏の姿勢を取る。織田信長と通じたため家臣によって幽閉・追放。 |
8代(暗殺) | 邦胤 | 胤富の次男または三男。正室は北条氏政の娘。 里見氏を避けるため、千葉妙見宮(千葉神社)で元服せず本佐倉城の妙見宮で元服。北条氏に何度も助力。オナラ事件が起き、近習の逆恨みにて暗殺される。 ※嫡男に幼い重胤がいたが北条氏の干渉にて家督を譲られなかった。 |
9代 | 直重 | 北条氏政の子。正室は千葉邦胤の娘。 北条氏照の養子だったが、邦胤暗殺後に下総千葉氏の家督を継ぐ。 秀吉の小田原征伐では、小田原城に籠城した。 |
登城ついでのおまけ~ 酒々井まがり家まで歩く
本佐倉城から南下、向根古屋の横にある双体道祖神を通過し、甲子正宗の酒蔵のある「酒々井まがり家」まで歩いた。
酒々井まがり家に到着。ここはお土産屋および食事処になっている。この家屋は新潟県の「旧清野邸」を移築したもの。江戸の元禄期に建てられたものを明治初期に移築し、曲がり屋形式の民家に移築再生したという。その清野邸がダム建設工事で水没する運命にあったところを、平成6年、飯沼本家(甲子正宗のメーカ)が清野氏から譲り受けたらしい。酒々井まがり家で酒粕カレーを頂き、帰りは南酒々井駅で・・、って、電車の本数少ねえ~。
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