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1589年10月26日、二階堂氏VS伊達政宗

須賀川城の攻防図と古戦場

1589年、伊達政宗の計略を知った二階堂家家臣や領民が、松明を手に十日山に集まり徹底抗戦を決意した。すでに政宗は岩瀬地方西部の諸将を取り込んだり内通者を味方につけていたので、二階堂勢が松明を灯して密かに団結したのである(松明あかしの由来)。同年10月26日、辰の刻(午前八時ごろ)に伊達政宗の攻撃が始まり、須賀川合戦の戦端が切られた。特に八幡崎城(八幡山)では須田七騎と塩田右近らの東部武士団に佐竹氏の援軍が加わり、伊達軍と最も熾烈な戦いとなった。

須賀川駅の画像とりあえず、須賀川駅の遠景。

遡ること1563年、会津(黒川城)の蘆名盛氏は岩瀬郡へと進攻し、須賀川城主の二階堂盛義は抗戦していた。盛義の正室は伊達晴宗の長女・阿南姫(大乗院)であったため、伊達軍は二階堂氏を援護している。

1566年、須賀川城主の二階堂盛義は蘆名盛氏に降伏し、嫡男の盛隆(6歳)を人質として会津(黒川城)に送った。1574年には、蘆名盛氏の嫡男・盛興の正室に彦姫(伊達晴宗の四女)を迎えることで、蘆名氏と伊達氏は和睦している。しかし同年、盛興が急死すると(酒毒が原因とも)蘆名氏には跡取りの男子がいなくなった。そこで人質だった盛隆(二階堂盛義の子)に彦姫を娶らせて蘆名家の家督を継がせた。

後見人だった蘆名盛氏は1580年に死去。1584年、蘆名氏家臣との不和もあり、盛隆は24歳で暗殺され、盛隆の子も若くして病死した。その跡継ぎとして、伊達政宗の弟・小次郎、そして佐竹義重の二男・義広が候補に挙げられた。佐竹氏との関係を強めていた蘆名氏は佐竹義広を跡取りに選ぶ。これにより伊達氏とは関係が悪化し、伊達政宗が蘆名氏と佐竹氏と戦う原因となった。そして佐竹を支援する二階堂氏も標的になった。

伊達政宗は1589年の5月~6月にかけて蘆名義広を攻撃し、磐梯山麓の「摺上原の戦い」にて蘆名氏を滅ぼした。義広は居城の黒川城(後の鶴ヶ城)を放棄し、実家の佐竹氏のもとへ逃れた。同年、なおも抵抗を続けていた二階堂氏と合戦となる・・・。

二階堂盛義がなくなった後、8年にわたり正室の大乗院(阿南)が須賀川城主を務めていた。大乗院は伊達政宗の叔母であるため、政宗は和睦を求めていたが、大乗院は応じなかった。息子(盛隆)が継いだ蘆名氏を滅ぼしたことや、宿敵の田村氏に味方していること、佐竹氏へ攻撃が及ぶことが抵抗の理由とされる。

二階堂氏&佐竹氏ほか(加勢) VS 伊達政宗&二階堂寝返り衆

須賀川二階堂氏、須田氏、岩瀬の東部衆と河東衆須賀川勢には、二階堂氏、須田氏、岩瀬東部衆、河東衆。その援軍には岩城衆300、竹貫衆500、佐竹衆200がある。一方、岩瀬西部衆は寝返って伊達勢に従軍している。各武将が布陣した場所は陣馬山(山寺城)、雨呼口(あめよばりぐち)、大黒石口、八幡崎城、方八丁館となっている。

須賀川城攻防図

須賀川城の攻防図と古戦場 方八丁館 1589年10月26日、伊達政宗と二階堂氏の合戦における須賀川城攻防図。藤葉栄衰記(野川本)・奥陽仙道表鑑より。須賀川市立博物館の展示資料を撮影したもの。須賀川城攻防の主戦場は、雨呼口(あめよばりぐち)、大黒石口(だいこくいわくち)、八幡崎城である。現在の地図と当てはめると、かなり距離感がおかしい。

江戸時代になると須賀川城の堀は埋められ、奥州街道の開通で宿駅として生まれ変わる。磐城街道、棚倉街道、三春街道、会津街道が交わる要衝地となった。1970年代に蛇行していた釈迦堂川の川筋が変えられたため、今となっては城郭が把握しにくい。かつて橋が架けられていた場所も今はただの道。渡河し西へつながるかつての街道も一部消失している。

釈迦堂川の川筋 方八丁館 そこで1960年代の航空写真と現在の地図(線画)を重ねて比較してみた。神田産業のあたりにあった雨呼口は今となっては釈迦堂川から離れているが、川筋が変えられる前は直下に川が流れる河岸段丘だったことが分かる。蛇行している川の周囲は氾濫して湿地化していると思われ、八幡山の八幡崎城は湿地で囲まれ、天然の要害で守られていた城だと推察できる。須賀川城東の外堀である下の川(栗谷沢)は昔も今も川筋は変わっていない。

陣馬山(山寺城)~伊達政宗の本陣

須賀川桐陽高校(旧須賀川女子高校)では陣場町という地名が残り、陣馬山の麓にある。伊達政宗はそこ本陣を置いたわけだ。おそらく陣馬山は桐陽高校から日枝神社に至っている小高い山だったのだろう。桐陽高校と山頂(日枝神社)の間は陣馬山中腹と思われるが、現在道路で分断されている。もともと堀切跡のようだ。

陣馬山は後の呼び名と思われる。かつては山寺城であり、二階堂家の四天王「遠藤勝重」の城だったという。応仁武鑑によると遠藤綱元が築城し、遠藤家代々の居城である。古くから会津街道の要地であった。釈迦堂川の北岸にある独立丘陵であり比高は13m。川に面して急崖だったようだ。城館は1の郭と2の郭で構成されていた。

遠藤勝重は須賀川城本丸で奮戦し、南ノ口原に転戦、討ち取られた。同族と思われる遠藤壱岐守(実名不明)は八幡崎城で伊達軍と戦っており、その奮戦ぶりから政宗に「希世の逸物」と賞された。後に伊達氏に仕えると名を遠藤但馬守と改めた。

桐陽高校は陣馬山の麓付近須賀川城攻防図でみる、伊達軍布陣と雨呼口守備の様子。雨呼口の大将は竹貫中務少輔(たかぬきなかつかさしょうゆう)で岩城家からの援軍であった。

伊達政宗本陣の右翼には、片倉小十郎(3番大将)、伊達成実(2番大将)、大内定綱(先手大将)を配置。伊達政宗の側には寝返り組で二階堂重臣の保土原行藤(江南斎)がおり、攻略などの助言をしたのだろう。陣馬山の東側(左翼)に「浜尾駿河守」の名が見える。いわゆる寝返り組の岩瀬西部衆の一員で浜尾盛泰(川島宗泰の兄)と思われる。右翼の「浜尾漸斎」とは浜尾行泰(川島宗泰の父)。

陣馬山(山寺城)日枝神社のある丘が、陣馬山の頂上だろう。

須賀川女子高等学校が陣馬山桐陽高校(西側を撮影)は陣馬山の麓で傾斜部に建てられている。伊達政宗が山頂ではなく麓に本陣を置いたのは、すぐに打って出る大勢だったのだろう。

陣馬山(山寺城)ついては、「陣馬山(山寺城)~伊達政宗の本陣」でさらに解説している。

雨呼口(あめよばりぐち)の戦い

政宗本陣に近い雨呼口では真っ先に激戦地となった。場所は神田産業や消防署のあたり。諏訪神社と普應寺の間の道から西川地区に行く坂道は「弘法壇坂」と呼ばれており、古くは「鹿(か)の出口」とも呼ばれた。その近くは江戸時代以前に雨呼口という場所だったそうだ。

雨呼口の布陣。消防署あたりは竹貫なる人物が大将、二階堂氏重臣で四天王の守谷俊重(守谷筑後)は長禄寺付近の大将として守備していた。守谷俊重は政宗に内応しており長禄寺に放火した。これで城と町は焼け落ち、二階堂氏の敗北が決定的となった。

釈迦堂川1960年代の蛇行していた釈迦堂川と現在の川筋。

これは奥州街道からみた神田産業だが、この背後は崖になっており、かつて直下には釈迦堂川が流れていた河岸段丘。川を越えてきた伊達軍を迎え撃ったのだろう。須賀川市の史跡上人壇廃寺跡保存活用計画書の「埋蔵文化財包蔵地」によれば、神田産業の周辺が「雨呼口館跡」としている。

守谷俊重が放火した長禄寺(搦手館の一部)

岩瀬病院に隣接する長禄寺は見晴らしの良い高台にあり、大乗院の菩提追善になっている。これも搦手館の一部だろう。長禄寺は二階堂氏の菩提寺である。二階堂氏の重臣・四天王「守谷俊重」が雨呼口で守備していたが、政宗に内応して長禄寺に放火した。これで城と町は焼け落ち、二階堂氏の敗北が決定的となった。長禄寺には二階堂家臣団の墓があるが、東北大地震で墓石が倒れたままだ。

須賀川城の搦手館については、「須賀川城と二階堂氏」で解説している。

大黒石口の戦い

岩瀬東部衆・河東衆大黒石口でも激戦となった。攻防図を見ると、総大将の須田盛秀はここを守備していたようだ。竹貫中務少輔の家臣・水野勘解由は「竹貫の強弓」で知られる射手であり、現在の長松院の墓地あたりに布陣している。河東衆に塩田右近大夫(細桙城の塩田政繁)の名がある。落城後自害とあるが石川郡に逃れており、その後、伊達政宗の命により石川昭光が処刑したと考えられる。遠藤壱岐守(実名不明)はその奮戦ぶりから政宗に「希世の逸物」と賞された。政宗は「殺すには惜しい」と、田村月斎と橋本刑部に命じ生け捕らせた。壱岐守は後に伊達氏に仕えると名を遠藤但馬守と改めた。

大黒石口で死守するも戦局が不利となり、八幡崎城での激戦に至る。

八幡崎の戦い

大黒石口のマップ大黒石口は八幡崎城の北の湿地帯を横切るルートのようだ。釈迦堂川が蛇行しているため、周囲も湿地帯の堀と思われ、堀底町とは字のごとく「堀にポツンとつくられた集落だった」と合点がいった。そして八幡崎城が湿地で囲まれた城であることが推察できる。須賀川アリーナや文化センターはかつての川の上に建っており、洪水で水没するのも分かる。

八幡崎城八幡崎城の遠景。さらに、「八幡崎城と大黒石口」で解説している。

本丸(現:二階堂神社)

須賀川城本丸須賀川城本丸の布陣。ここの大将は四天王の遠藤勝重(雅楽頭)であった。政宗に内応していた守谷俊重が長禄寺に放火し城と町が焼け落ちると、二階堂氏の敗北が決定的となる。遠藤勝重はここで奮戦後、南ノ原口に赴き嫡男と共に討死したという。

二階堂神社本丸跡地の二階堂神社。須賀川城主で政宗の伯母である大乗院(阿南)が籠城していたという。二階堂慰霊祭「松明あかし」の御神火は、ここで奉受され翠ヶ丘公園(五老山)へ運ばれる。

本丸については、「須賀川城と二階堂氏」で解説している。

方八丁館(南ノ原口)

方八丁館の守備1589年、伊達政宗との合戦における、方八丁館の守備。こちらは佐竹および岩城からの援軍部隊で守備されたようだ。八幡山(八幡崎城)の説明では「佐竹の援軍が加わった」とあるので、ここから八幡山へ駆けつけたようだ。ちなみに佐竹勢の人物で「茂武」ではなく、宇都宮氏一族の武茂(むもし)氏と思われる。

須賀川城南の防衛地点、方八丁館須賀川城の南からの進入口、南ノ原口は高久田境・メガステージ須賀川あたりとされる。須賀川合戦では、南ノ原口の出城である方八丁館に二階堂勢として佐竹勢200人、岩城勢300人が布陣していた。現在で麓に民家が建つ雑木林が方八丁館の跡地という。

方八丁館(南ノ原口)の探索はこちら

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