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江戸城 外堀の見附
四谷門と市谷堀
四谷門は麹町と新宿区四谷方面を結んでおり、江戸城半蔵門を起点とする甲州街道の通過点で、物資や町人が行き交う門として交通の要所であった。門の警備は3年ごとに旗本が担当していた。
四谷門は、1639年に萩藩 藩主・毛利秀就によって枡形石垣が築造された。1639年に旗本・室賀正俊と大岡正清によって門が構築される。当初は外麹町口、四谷口、山の手口などと呼ばれていたが、1673年~1681年(延宝年間)頃には四谷門と呼ばれた。ちなみに、四谷という地名は、武州豊島郡霞村関戸という原野に百姓家が四軒あったことに由来しているという。【 江戸城の外堀に配置された見附の位置 】
1872年(明治5年)に門が撤去されたが枡形石垣は残された。市電の敷設に伴い、1899年(明治32年)にはそれもほとんど撤去され現在は少しだけ現存している。
四谷門外の図。位置からして手前が真田堀。土塁の規模が想像以上に大きい。
四谷門の配置。
現在の四谷門跡。
北側の石垣
冠木門北面にあたる枡形石垣の一部。
石垣の上に生い茂るムクノキは江戸時代からあるとのこと。稲荷が祀られていたそうだ。
一部、石垣が土手に埋もれている。
南側の喰違土橋から四谷門まで土手道が続いてきたが、四谷門から北へ向かて土手道が続いている。枡形石垣と一体となっているこの土手道は、古地図にも描かれていた。
四谷見附の土橋
四谷見附の土橋。現在では半分が土橋だが、残りはJR線の架橋になっている。現在は南隣の四谷見附橋(1913年開通)が主な街道となっている。
市電が通っていた頃の四谷門土橋。
1988年、JR四ツ谷駅改修工事で発掘された四谷門石垣の石(角の部分)が展示されている。
南側の石垣
四谷門 南側に少しだけ隅石部が残っている。1988年、JR四ツ谷駅改修工事に伴う発掘調査が行われ、渡櫓門石垣下段の内、5段が発見された。石には「雁金紋」の刻印が確認され、毛利家の普請であることが裏付けされた。
一部が露出した状態で保存されている。
四谷門周辺から玉川上水の木樋(もくひ)や石垣樋が発掘されている。※これは給水のために地下に埋設された樋管。
市谷堀 ~ 四谷門から市谷門までの外堀
四谷門から市谷門までの江戸城外堀は市谷堀と呼ばれる。市谷堀は現在、「南は埋め立て地、北は水堀」となっており、その土手側にはJR線が通っている。外濠公園(国指定史跡)としては飯田橋駅付近から四ツ谷駅南側までの約2kmの範囲である。
1926年(大正15年)、関東大震災からの復興にて砂利置き場に活用するため、現在の外濠公園グラウンド一帯(市谷堀の南側)が埋め立てられた。1936年(昭和11年)に土手の部分と埋め立て地が外濠公園として開設された。
市谷堀の堀さらい作業分担
赤坂門から神田川に入るまでの区域の堀は川ではないので水循環が悪い。1636年(寛永13年)の天下普請で江戸城外堀が築かれた後、大名の手伝普請によって頻繁に堀さらいが行われている。赤坂門から水道橋(当時は吉祥寺橋)まで、8つの丁場(工事区域)に分けられていた。各丁場ごとに6家が担当した。
1645年、江戸幕府の命により行われた市谷堀の堀さらい作業分担図(堀浚丁場図)。8つの丁場のうち、市谷堀は二番丁場と三番丁場に当たる。この市谷堀の堀さらいでは、東国の大名6家(真田・佐竹・南部・水野・松平・鳥居)によって行われている。
市谷堀の埋め立てエリア
JR四ツ谷駅の北、埋め立てられた市谷堀を走るJR線。
明治30年代の市谷堀(四谷~市谷間)。明治27年に開業した甲武鉄道(後のJR中央線)は外堀の土手を削って線路が敷かれた。
飯田橋駅で展示されていた明治期の市谷堀。
外濠公園グラウンド一帯、埋め立ての様子。
1926年(大正15年)、関東大震災からの復興にて砂利置き場に活用するため市谷堀の一部を埋めててしまったが、現在は千代田区立外濠公園となっている。
外濠公園総合グラウンド テニスコート。
外濠公園野球場。
市谷堀の東側では、江戸城外堀の土塁が土手道として整備されている。
市谷門に向かって進むが、しばらくは埋め立てられてたJR総武線・中央線の風景が続く。
市谷門の手前200mほどのところで、埋め立てられずに残った市谷堀の水堀が現れる。
市谷門付近のJR市ヶ谷駅に到着。市ヶ谷橋から臨む市谷堀。水堀として残った範囲が一望できる。
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