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江戸城 外堀の見附

虎ノ門

虎ノ門の名称は、四神相応の大道を表す「白虎」に由来すると言われている。白虎は西の方位を示すというが、厳密には虎ノ門の方角は江戸城の南南西である。仮に「北の丸」を真北としても虎ノ門は南西の方角なので、あまりしっくりこない。【 江戸城の外堀に配置された見附の位置

現存していたころの虎ノ門。奥に見える石垣の高台は延岡藩 内藤家の上屋敷である。

虎ノ門跡は中央合同庁舎7号館の向かいの「桜田通り」で、現在の虎ノ門交差点付近。中央合同庁舎7号館の北側にある三年坂は江戸時代にもあった坂だ。桜田通りは外桜田門から続く「小田原道」であるが、江戸時代初期はここも日比谷入江に面していた。家康の改修により日比谷入江は埋め立てられた。

ちなみに、外桜田門から虎ノ門に至る桜田通り一帯は「霞が関」と呼ばれる。江戸時代の地図にはすでに「霞ヶ関」の記述があり、古代、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて関所を置いたことに由来している。

外堀通りの虎ノ門駅出入口に「虎ノ門遺址」の碑が建っている。しかし実際の虎ノ門跡から100mほど離れて置かれている。これは外堀通りに合わせた形で設置したのだろうが、そもそも幸橋門から虎ノ門までの外堀通りが実際の外堀跡からずれているのでおかしな事になっている。

虎ノ門付近の古地図を見てみよう。ここの外堀は汐留川の上流となる。虎ノ門を越えた直後、延岡藩 内藤家の上屋敷に沿って直角カーブの堀となる。そして丸亀藩 京極家の金刀比羅宮(ことひらぐう)のところでまた直角カーブとなり溜池に至る。歌川広重の名所江戸百景「虎の門外あふひ坂」で描かれている「葵坂」もある。

虎ノ門の橋を越えたと急カーブの位置。実際、外堀通りも虎ノ門を越えると急カーブになっているが、外堀通りが外堀跡に沿っていないのでカーブは緩く、しかも延岡藩 内藤家の上屋敷跡を通過する形になっている。実際の外堀跡は金刀比羅宮のある道(矢印の方向)へ曲がっていく。

外堀が通っていた位置はこちら。虎ノ門交差点を南西に回り込んだ金刀比羅宮に差し掛かる道である。「新聞創刊の地」の碑石が建っており、日本初となる新聞(大衆啓発紙)、読売新聞発祥の地でもある。

明治7年(1874) 、子安峻(こやすたかし)らが、虎ノ門外琴平町1番地(千代田区霞が関3丁目)の旧武家長屋で起業した日就社(読売新聞社の前身)によって読売新聞が創刊された。

虎ノ門外の外堀跡に面した金刀比羅宮は、讃岐 丸亀藩京極家の上屋敷に勧請された神社である。なお、この通りが千代田区と港区の境になっており、外堀通りではなく実際の外堀跡が区の境になっているのが面白い。

金刀比羅宮


虎ノ門琴平タワー(2004年竣工)の複合施設として鎮座する金刀比羅宮。

1660年、讃岐丸亀藩の藩主 京極高和が芝の三田にあった江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請したのが始まりである。1679年に屋敷が移転となり現在地に遷座された。

なお、金毘羅大権現は神仏分離後に金刀比羅宮(ことひらぐう)と称した。「讃岐の金毘羅さん」で知られ、江戸に居ても讃岐国の信仰を側に置いていたかった事が窺える。因みに江戸では諸藩邸内の神仏を一般公開している事が多く、その賽銭収入が期待されていた。

銅鳥居は1821年に奉納された。その円柱には四神が飾られている。

四神を飾ったのは虎ノ門と無関係ではないだろう。

葵坂(あおいざか)

金刀比羅宮向かいの「虎の門三井ビル」が直角に曲がっていた外堀跡。脇の階段から外堀跡に沿って通ることができ、後述する櫓台跡にたどり着く。残念ながら、歌川広重の名所江戸百景「虎の門外あふひ坂」で描かれた葵坂(あおいざか)はビルの建つ位置である。名所江戸百景で描かれているのは冬の夜景で、葵坂下にある金毘羅大権現(現・金刀比羅宮)へ寒詣した2人連れが登場している。

江戸時代では溜池落口に向かって登り坂になっていたが、現在では平坦な通り道であり一部はこのような建造物の上を歩く状態。この先、商船三井ビルディングが建つ位置が葵坂となっている。

商船三井ビルディングの1階。古地図にあわせて見ると、オープンテラスのレストランがある開けた敷地はかつての外堀である。

延岡藩 内藤家 上屋敷と、外堀石垣

虎ノ門に隣接していた延岡藩 内藤家の上屋敷。その跡地は外堀通りが貫通し、霞が関ビルディング、東京倶楽部 ビルディング、霞が関コモンゲート西館など高層ビルが建ち並び、中央合同庁舎7号館も建って面影はない。しかし、内藤家の上屋敷に面する外堀石垣が国指定史跡で残されている。※名称:江戸城外堀跡(虎ノ門南側石垣)

明治時代には、延岡藩 内藤家上屋敷跡地に建てられた「工部大学校」があった。日本初の工学教育機関で1873年(明治6年)開校、東京大学工学部の前身の一つ。1886年に帝国大学と合併、本郷(文京区)に移転したので、跡地は帝室博物館などに使用されたが、1923年(大正12年)の関東大震災で建物は倒壊した。1939年、倒壊した建物の煉瓦などを利用して「工部大学校阯碑」を建てた。

工部大学校建設時の明治10年にはまだ堀や石垣が現存していた。この地点の外堀は文部省庁舎の完成とともに埋められた。

外堀のこの石垣が再現修復したものを含め4箇所公開されている。各地点の名称は便宜上のもので、現地案内でこう呼ばれていたのでそのまま採用している。普請分担した西国外様大名家とその範囲は記載の通り。

古地図にて、公開されている石垣のポイントと重ね合わせてみた。屋敷の南端に位置している。では、順にその石垣を紹介していく。

史跡その1: 中庭部の石垣

旧庁舎中庭の石垣。延長35m、高さ4.5mで7段積まれた石垣で、再現修復されている。この地点は摂津三田藩の九鬼久隆らが築いた。

史跡その2: 地下鉄部の石垣

虎ノ門駅地下出入り口の石垣。延長25m、高さ7.4mで15段積まれた石垣で、再現修復されている。これはほぼ築城当時の高さだそうだ。修復に至っては鍛冶橋の北側から出土した石垣の石材を利用している。東京駅八重洲口に造られた再現移築でも同じ石材が使われてたようだ。この地点の石垣は豊後佐伯藩の毛利高直らによって築かれた。

下の階層は地下展示室になっている。

復元工事中の写真。先述の通り、この石垣は鍛冶橋北側(丸の内1丁目)で出土した外堀石垣石を利用している。

史跡その3: 旧教育会館の石垣

国立教育会館があった場所で、延長9.5m、2段積まれた石垣が公開されている。ここは備中松山藩の池田長常が築いた地点である。残念ながら露出している部分は江戸時代に積まれたものではないが、石垣下には旧来の石垣が残っているため史跡指定されている。

国立教育会館時代の様子。

ちなみに国立教育会館は、1964年(昭和39年)に教育研修施設として建てられた。この時に外堀石垣の石材を積み替えて使用したのだろうか。法人が2001年に解散した後、国立教育会館は文部科学省の分館として使用されたが、2004年に解体されたとのこと。

この石垣の対角線上に櫓台跡があり、かつて一列に並んでいた石垣を想像できる。現在では外堀通りが石垣のあった場所を貫通して通っている。

史跡その4: 櫓台跡

国指定史跡、外堀の櫓台跡。1636年、因幡鳥取藩の池田光仲によって築造された。現地案内板では「江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓のうちの一つ」と説明している。外堀の隅櫓では他に筋違門と浅草門に所在していたがどちらも取り壊されており、ここのみ唯一石垣が現存している。かつて西側の溜池落口に櫓が存在しており、これと一対だったという。

櫓とは要所を見張るための建物。外桜田門を起点とする小田原道が通っていたり、溜池上水の起点であることから、外郭の守備においてかなり重要な地点であったようだ。

櫓台跡の場所は歩道橋の左下。中庭部、地下鉄部、旧教育会館部の3つと一直線のはずだが・・・と困惑しがちだが、これは外堀通りが外堀跡に沿ってないのが原因。

櫓台跡が切り離されて見えるのは、現在の外堀通りが延岡藩内藤家の屋敷跡をぶち抜いているせい。外堀通りが、そのまま外堀跡と思い込まないほうが良い例である。

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