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江戸城 外堀の見附

神田橋門

「将軍の御成門」とも呼ばれる神田橋門は、1629年に下野真岡藩主の稲葉正勝(春日局の子)によって構築された。徳川将軍が上野寛永寺に参詣する御成道であったため門の警備は厳重であった。1873年(明治6年)に櫓門が撤去され、1884年に木橋が架け直されたが関東大震災で焼失した。その後も再び架橋され、現在の神田橋は1980年に、下を走る地下鉄千代田線の工事に伴い架け替えられたものである。橋の横に僅かに枡形の石材が残っている。【 江戸城の外堀に配置された見附の位置

1871年の神田橋門の様子(現地説明板より)。

現在の神田橋。

大正14年の神田橋。

大正時代にあった神田橋の橋脚石だろうか。

神田橋 下流側の石垣。

鬼門に位置する、神田橋門

神田橋門は江戸城の鬼門にあたる。北東の上野寛永寺で邪気を浄化し、神田橋門付近には一橋徳川家や出羽鶴岡藩酒井家など徳川家とつながりの強い大名家を配置して、さらに気を浄化している。

ちなみに、平将門を祀った神田明神は、古来、神田橋門内(芝崎村)に鎮座していた。しかし、1603年の江戸城改修によって神田駿河台に移り、さらに1616年、現在の場所(千代田区外神田2丁目)に移っおり遷座しても鬼門の方角に置かれている。

江戸城および城下町は陰陽道に従って造られている。鬼門(北東)および裏鬼門(南西)は、古来より鬼の出入り方角であるとして忌むべき方角とされている。

エネルギーともいうべき「気」が鬼門(北東)から裏鬼門(南西)へ流れていくとされ、そこに邪気が流れ込むと災いが起こると考えられていた。江戸城では鬼門に該当する門が「神田橋門」、裏鬼門が「外桜田門」である。

江戸城の北東に上野寛永寺を建てて「気」を浄化している。また、一口太田姫神社元宮や神田明神も鬼門に配置されている。鬼門(北東)にあたる神田橋門付近には徳川家とつながりの強い大名家の屋敷を配置して、さらにその気を浄化した。

浄化された気は裏鬼門(南西)の外桜田門付近から出ていく。そのため、南西方面には謀反の可能性が比較的高い外様大名の屋敷を配置したという。つまり謀反の気を起こさぬよう、邪気に触れさせない配置となっている。たしかに長州藩毛利家上屋敷は桜田門外だし、その周囲には仙台藩伊達家、米沢藩上杉家の屋敷あった。長府藩主 毛利綱元の上屋敷(毛利庭園)は港区六本木で裏鬼門の方角である。

鬼門(神田橋門付近)に上屋敷が配置された、徳川家とつながりの強い大名家とは、御三卿の一橋徳川家、徳川四天王の出羽鶴岡藩酒井氏、越前福井藩松平家である。

神田橋門外の対岸は鎌倉河岸で、江戸城築城では資材を荷揚げする重要な河岸場であった。現在では神田橋から東200mほどの下流で鎌倉河岸跡を結ぶ鎌倉橋が架けられているが、鎌倉橋は昭和4年に架橋されたもので江戸の当時は存在していない。

鎌倉橋から見える江戸城 外堀の石垣。江戸時代であれば、鎌倉河岸から見えた石垣である。

鎌倉河岸

鎌倉河岸跡と説明板。河岸跡にはビル建設が進んでいた(2024年)。江戸城の築城では相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げしたため、「鎌倉河岸」と呼ばれた。魚や青物などの生鮮食品も集まり、水上交通のターミナルとして賑わった。1657年の絵図には隣接する町に鎌倉町と記載されている。

鎌倉河岸では豊島屋という酒屋があり、そこで販売されていた「白酒」が有名であった。

関東大震災直後の鎌倉河岸。奥の橋はおそらく常盤橋。

鎌倉橋 ※昭和4年に架橋

先述したとおり、鎌倉橋は1929年(昭和4年)に架けられた橋で、江戸時代には橋は架かっていない。橋の名称は対岸の鎌倉河岸に因んでいる。

鎌倉橋には太平洋戦争の傷跡が残されている。1944年11月から米軍による爆撃と機銃掃射を受けたが、鎌倉橋の欄干には銃弾跡が30箇所ほど残されている。

銃弾跡。機銃掃射で追い回されて橋の下に逃げたという戦争体験の話しがあるから、鎌倉橋でもそのような惨劇があったのだろう。

銃弾跡は長らくそのまま残されていたが、いつまにか穴埋め補修されている。

比較的浅い銃弾跡はそのまま。

次は神田橋門の下流にある常盤橋門へ行く。

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