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江戸城 外堀の見附
飯田濠
江戸城の外堀で牛込堀の先、牛込土橋の堰の先、神田川に合流する船河原橋までの間には飯田濠があった。江戸時代には海からここまで船が上がってきて、米、味噌、醤油、酒、材木などが荷揚げされていた(牛込揚場)。【 江戸城の外堀に配置された見附の位置 】
戦後直後の飯田橋駅航空写真。牛込堀と神田川の間に飯田濠があった。
牛込揚場(飯田濠)の絵図。
1660年、牛込~和泉橋の堀さらいが行われ神田川(外堀)を逆上って牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いには河岸ができた。牛込橋東側の堀端には町方揚場と尾張様物揚場があり、武家地や町人地へまきや炭などの荷物を運ぶ軽子が「軽子坂」を往来したという。
昭和47年に市街地再開発事業としてビル建設が決定され、地元民の反対運動もあったが飯田濠は埋め立てられた。濠を保存してほしかったという地元民を慰撫するためか、水堀イメージ空間の「人工せせらぎ」を造った。しかし現状は干上がっているか、水たまりのような有り様になっている。1984年に暗渠となり、江戸城外堀の水は、この「人工せせらぎ」の地下水路を通って神田川に注いでいる。
1956年に赤坂門~牛込門までの外堀が国指定史跡になったが、飯田濠まで指定されていなかった事が悔やまれる。牛込揚場として江戸文化の歴史的価値は十分あったはずなのだが。
飯田濠跡に建つ、飯田橋ラムラ(RAMLA)
悲しいかな、飯田濠跡(ラムラ)を歩く。江戸城の外堀では、戦後の瓦礫処理や関東大震災でやむ無しの埋め立てはあったが、高度経済成長期の欲を優先した埋め立ては「飯田濠」だけである。
船河原橋。江戸時代では外堀に沿って旧江戸川(現在では神田川)に架けられていた。江戸城外堀は「溜池、弁慶池、真田堀、市谷堀、牛込堀~」と独立した外堀が続いてきたが、ここから神田川に合流する。
現在の船河原橋は神田川の南北対岸を結ぶ橋になっているが、江戸時代では北から流れて合流する神田川(旧名称:江戸川)の東西に架けられていた。つまり、外堀通りに沿った位置に架橋されていた。
ここは旧平川を埋め立てた起点であり、神田川の流路を船河原橋あたりで東に曲げる大工事が行われた地点である。
この先は神田川の下流、小石川門(水道橋駅近く)へつながっている。
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