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江戸城 外堀の見附
小石川門
小石川門は1636年の天下普請で、岡山藩 藩主・池田光政によって築造された。1872年(明治5年)に枡形石垣が取り壊され、1877年、その石材は常盤橋(石橋)に利用された。【 江戸城の外堀に配置された見附の位置 】
1871年(明治4年)の小石川門。
2024年現在の小石川門跡。石垣も残されていない。
東京都内で現存する石橋で最古の「常磐橋」の基礎に、小石川門の石材を転用していることが2012~2020年の修繕事業で判明している。
城門を撤去した際には小石川橋(木橋)を架け直している。関東大震災で被災した後は、1927年(昭和2年)に鋼橋に架け替えられた。老朽化のため2012年に改修されている。
水道橋分水路側から見た小石川橋。
小石川橋の下を流れる神田川。
小石川橋の北には徳川御三家・水戸藩の上屋敷跡。現在のTokyo Dome Cityおよび、庭園だった部分は都立小石川後楽園になっている。外堀の外側、見附の門外、つまり城外に位置している。1657年の明暦の大火では、外堀の内側(門内)の大半が焼失した経緯があり、御三家の上屋敷は江戸城外(門外)に移転している。
小石川橋の側には、神田川と日本橋川の河川分流点。江戸時代では江戸城の洪水を防ぐため、ここから「堀留」までの日本橋川は埋め立てられている。1903年に再び開削され現在に至っている。
日本橋川の南(下流)、つまり小石川門の南に進むと、讃岐高松藩の上屋敷および中屋敷があり、さらにその先が事実上の江戸城外堀の起点「堀留」となっている。
日本橋川を跨ぐ三崎橋。および、そこから見える小石川橋の様子。三崎橋は明治期の日本橋川再掘削にともない架橋されたが、現在の鋼橋は1954年に改架された。
東へ、さらに神田川の下流へ進む。
小石川橋と水道橋の間の北岸に、市兵衛河岸の案内板あり。砲兵工廠の荷揚げ場として賑わった。明治時代では、市兵衛河岸から神田の昌平橋まで往復した客船があり、「早船」といわれた。市兵衛河岸という地名は昭和39年に消滅した。
水道橋と神田上水 懸樋(かけひ)跡
外堀・神田川に架かる現在の水道橋。JR線は土塁の上であり、現在の高架下の位置に「三崎稲荷」があったようだ。現在の橋は、1928年(昭和3年)、関東大震災の復興事業で架けられた鋼製アーチ橋。
古地図を見ると、江戸時代では現在の位置よりやや東側に架かっていた。都立工芸高校(吉祥寺跡)の正面。神田川の開削に合わせて架けられたであろうから、架橋時期は江戸時代初期だろう。水道橋のすぐ北側(都立工芸高校)に吉祥寺があったので「吉祥寺橋」と呼ばれた時期もある。しかし、吉祥寺が明暦の大火(1657年)で焼失し文京区本駒込三丁目に移ったので、そう呼ばれなくなった。
吉祥寺跡に建つ都立工芸高校
吉祥寺について補足 : 吉祥寺は太田道灌によって江戸城 西の丸(現・皇居宮殿)に創建された。徳川家康が江戸に入封すると、江戸城改修のため水道橋のところへ移転させた。明暦の大火(1657年)で焼失したあとは文京区本駒込の地に移転して現在に至る。
この明暦の大火で吉祥寺と供に「門前町」も焼失したが、水道橋は大名屋敷として再建することになった。焼け出された門前町の住人を移住させた開墾先が、現在の「武蔵野市吉祥寺」である。吉祥寺を偲んだ住人たちが「吉祥寺村」と名付けたことに由来する。そのため、吉祥寺という寺院は武蔵野市吉祥寺には初めから無い。
水道橋あたりの神田川。
神田上水懸樋(掛樋・かけひ)跡。文京区側にはこのような碑があるが、対岸の千代田区ではJR線の敷地のため跡地の碑はない。
ここ、神田川に木製の樋(とい)を架けて、神田や日本橋方面に神田上水の水を通していた。水道橋と水道橋駅の由来になった場所である。1590年、徳川家康が入封するとまず溜池を上水として利用したが、さらなる飲料水を確保すべく最初に「小石川上水」が開削された。これが後の神田上水となったとされる。
神田山の一部、駿河台
神田上水懸樋から更に神田川の下流へ進み、駿河台の西部に到着。かつては神田山の一部であった丘陵地だが、どうやら御茶ノ水駅の駅舎が神田山の頂上とみてよさそうだ。
安政年(1856年)の様子。旗本の屋敷でひしめき合っている。駿河台は神田山の南端に位置していた。
徳川家康が関東に入封して江戸城の改修と町づくりを始めると、神田山を切り崩して日比谷入江(日比谷公園や新橋周辺)を埋め立てた。今度は埋め立てにより日比谷入江に流れ込んでいた平川が下流で氾濫するようになった。江戸城での洪水を避けるため、飯田橋から隅田川までの流路が開削され、江戸城の外堀でもある神田川が形成された。この工事により神田山は駿河台・本郷台・湯島台に分裂した。
家康が駿河国で没すると、家康付の任を解かれた駿河衆(旗本)が江戸にやって来てこの地に多くの屋敷を構えた。ここから住んでいた駿河国の富士山が見えたことから「駿河台」と呼ぶようになった。
駿河台(西部)~お茶の水橋
駿河台の西部(御茶ノ水駅の西側)、明大通りの「お茶の水橋」から上流方面の外堀を撮影(西の小石川門方面)。都心では珍しい渓谷の面影を残している。
もちろん、江戸時代に「お茶の水橋」なんてものは架かっていない。1891年(明治24年)に架けられ、鉄橋としては初の日本人による設計であった。1901年(明治34年)に修復工事、関東大震災で被災したので1931年(昭和6年)に現在の「お茶の水橋」が架けられた。お茶の水という地名は、徳川将軍家が用いる「茶の湯」の清水が、この渓谷付近から湧き出ていたことに由来する。
同じく上流方面の外堀。カクンと曲がった外堀・神田川の流路など古地図とほぼ一致している。
JR線は土塁のあった場所を利用しているようだ。
北岸の土塁。職員用の歩道があるが一般開放されていない。
御茶ノ水駅の北を流れる外堀・神田川。何やら外堀の景観を壊す余計な建造物を造っているな。
駿河台(東部)~聖橋
駿河台の東部(御茶ノ水駅の西側)、聖橋(ひじりばし)に到着。江戸時代には無かった橋である。1927年(昭和2年)に関東大震災後の復興橋として架けられた。立体的な橋脚美のデザインは、昭和6年に開通した音無橋(北区滝野川)でも採用された。名称は一般公募によって決められ、北側の湯島聖堂、南側のニコライ堂を結ぶ橋であることから「聖橋」と考案された。
御茶ノ水駅ホームから観た聖橋と神田川。
北の城外に湯島聖堂。
聖橋から筋違門橋跡の東方面(神田川下流)を臨む。
聖橋は鉄道マニアや観光客の撮影スポットになっている。江戸城の外堀ファンは比較的少なそうだ。
外堀の神田川を撮りたいので電車抜きで撮影。
筋違門に向かってややカーブを描いた外堀・神田川。
駿河台(元・神田山)の頂上から筋違門跡まで東に400mほどだが、「淡路坂」を下っていく。坂の上に鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられた坂である。
淡路坂の脇には「太田姫神社元宮」がある。または太田姫稲荷とも。旧名では一口(いもあらい)神社、または一口稲荷といった。そのため、淡路坂は一口坂という別名もある。
この場所は江戸城にとって鬼門の方角である。江戸城を築城した太田道灌が、ここに太田姫稲荷を創建したのは鬼門封じを兼ねていると考えられる。ただし、現在は400mほど南に移転。そのためここは元宮になっている。
淡路坂の様子。
淡路坂を下った先に神田郵便局前の交差点。この高架下をくぐると昌平橋。
江戸時代の地図にも、淡路坂、太田姫稲荷、昌平橋が描かれている。昌平橋のすぐ東側に、外堀の見附「筋違門」があった。
昌平橋
昌平橋は1624~1644年の寛永年間に架けられたと伝わっている。橋際から駿河台に登る坂道(一口坂・淡路坂)に因んで、一口橋(いもあらいばし)と呼ばれた。1691年に湯島に孔子廟が設けられると、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになった。
下流側の万世橋から見た昌平橋。
「絵本江戸土産」1850年の昌平橋
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