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北条氏による上野国支配の拠点

北条氏邦の居城!鉢形城

埼玉県寄居町にある鉢形城を登城した。現在は鉢形城公園として整備されている(2019年9月)。荒川が秩父山地から関東平野に流れ出て、そこに形成された扇状地形に鉢形城は築城された。城の中心部は荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に位置する。上州や信州方面における要所にあり、城の東では鎌倉街道「赤浜の渡し」があり、秩父方面への街道「釜伏峠」を下ると鉢形城にあたる。城の三方では外秩父山地、上武山地の丘陵地が囲むため、城からの視界は良くない。そのため主要な高台には物見台や狼煙台を置き、監視や防衛にあたっていたようだ。

北条氏邦の居城!鉢形城玉淀河原から眺める鉢形城。

構造は連郭式平山城鉢形城の構造は連郭式平山城。地形上、西以外は堅固であるが、西側(八高線側)が陸地で開けており弱点となっている。そのため本曲輪から西側に何重も堀切を作り、二の曲輪、三の曲輪などいくつもの曲輪を築き防衛とした。さらに外周部では寺院を密集させている。大手の位置は改修により移動しているが、最終的には現在の諏訪神社の南側にあったと推測されている。外城では小さな河川を水濠として利用している。深沢川の南側には拡張した外曲輪があり、下級武士の武家屋敷とした。そのさらに南は城下町を形成していた。

小規模であるが初期的な城下町が形成されたようで、鉢形城周辺では殿原小路、鍛冶小路といった小路名が伝わっている。昭和7年に国指定史跡となり、24万平方メートルが指定面積になっている。標高は三の曲輪が最高点で122mとなっている。

歴史館で展示鉢形城歴史館で展示されていたジオラマ。

正喜橋と荒川昭和46年に架設した正喜橋と荒川。そして玉淀河原から眺める鉢形城の北部遠景。毎年5月には「寄居北條祭り」、8月には「寄居玉淀水天宮祭」が開催される。崖下は巻淵と呼ばれる水流逆巻くところ。

長尾景春の乱と、鉢形城の築城

1476年、関東管領 山内上杉氏の家臣、長尾景春が主君に反旗を翻し築城したと伝わっている(長尾景春の乱)。しかし、後の城主となる北条氏邦の菩提寺・正龍寺の文書には「平将門が源経基を追って鉢形城に拠る」とある。畠山重忠が居城したという伝説もあるため、長尾景春が築城する以前から何らかの施設がすでにあったと考えられる。

鉢形城が戦場となった長尾景春の乱の誘因は、長尾家の家督と家宰職が弟の長尾忠景に与えられたためである。1478年、扇谷上杉氏家宰の太田道灌が鉢形城を攻め動乱は鎮圧されるが、中世の秩序は崩壊し関東地方における戦国時代の兆しをみせた。鉢形城には上杉顕定(山内上杉氏)が入城し、この時期に大改修が行われたと考えられる。そして顕実、憲房と続き関東管領の拠点のひとつとなった。

扇谷上杉氏の定正が家臣で家宰職の太田道灌を誅殺。山内、扇谷の両上杉氏は険悪な関係となり、長享の乱(1487年~1505年)が勃発。1488年に扇谷上杉氏の定正が山内上杉氏の顕定を攻めたが、鉢形城の落城までには至らなかった。

後北条氏の関東支配

1491年に伊豆を攻略した北条早雲(伊勢新九郎)は、1494年に上杉定正と連合して鉢形城を攻撃。鉢形城の上杉顕定と高見原(小川町)で対峙する。北条早雲は1516年頃までには相模国を平定しており、二代氏綱は小田原城を拠点に関東地方で台頭する。1524年には(扇谷上杉氏)朝興の江戸城を攻略、1537年には朝興の子・朝定の河越城を攻略する。1546年、北条氏康の河越夜戦により朝定は討ち取られ、扇谷上杉氏は滅亡した。

河越夜戦により武蔵国における後北条氏の影響力は強まり、滝山城の大内定久ら上杉氏に従っていた豪族は後北条氏への臣従を余儀なくされる。1558年、この地域(鉢形領)の豪族であった藤田康邦北条氏邦を娘婿として迎え入れる。後北条氏は関東一円に進出しており、北条氏邦は北関東の支配拠点として現在の規模に大改修し、後北条氏の支城として甲斐・信濃からの侵攻へ備えた。上杉憲政(山内上杉氏)は長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れ、関東管領職ならびに家名を譲り、世襲してきた山内上杉氏は実質的に消滅した。

上杉謙信、武田信玄との抗争

1560年、長尾景虎(上杉謙信)は上杉憲政を擁して関東平定に動き始める。後北条氏は甲相駿三国同盟を結び、武田氏と今川氏と同盟することで対応。上杉に従う関東豪族の掃討を進めた。1568年、同盟を破棄した武田信玄と対峙することになり、後北条氏はこれまで争ってきた謙信と同盟を結ぶことでこれに対抗。(越相同盟)

武田信玄は鉢形領や相模に乱入し小田原城下まで押し寄せた。攻略を諦め兵を引き上げた武田軍に、北条軍(氏康・氏政、氏照、氏邦)が挟み撃ちをかけるが返り討ちにあった(三増峠の戦い)。氏康の死後、協定締結により信玄に西上野の領有を認め、信玄との抗争に終結。その後、上杉謙信との抗争が再び始まるが、謙信が臼井城攻め(1566年)で大敗したことにより、関東における謙信の影響力がなくなる。後北条氏による武蔵国平定は完全なものとなった。岩槻城には北条氏房が入城、深谷領を氏邦が管轄し上野へ進出する。

信長の横死、上野国の獲得、秀吉の台頭

1575年、信玄の家督を継いだ武田勝頼が長篠合戦で大敗。衰退した武田氏は1582年に滅亡する。西上野には織田信長の家臣・滝川一益が入部し、岩槻城の奪還を目指す太田資正は信長と結び、織田政権が北条氏の脅威になってくる。しかし1582年の本能寺の変で信長が横死すると、北条氏直と氏邦は出陣し滝川一益を破り(神流川の戦い)、西上野を制圧。徳川家康と同盟を結ぶことで上野沼田領を獲得し、上野国は北条氏邦の管轄下となる。

織田政権の基盤は幾多の合戦により豊臣秀吉が獲得し、反北条勢力の佐竹氏や太田氏との関係を深めていく。真田氏との間でこじれた沼田領問題は名胡桃城事件に発展し、惣無事令違反として秀吉に付け込まれる原因となった。名胡桃城事件とは・・沼田城を任されていた北条氏家臣・猪俣邦憲が、調略により真田氏の名胡桃城を占領した事件。

「北条記」では邦憲が独断で名胡桃城を奪取したとするが、奪取後に北条氏から追及がないことから単独行動とは考えられず、秀吉に従うことを良しとしない北条氏政か氏邦の指令があっても不思議ではない。いずれにしても北条氏に豊臣政権への臣従がないため、小田原征伐は避けられなかったと思われる。

小田原征伐と鉢形城の落城

1590年の豊臣秀吉による小田原征伐が開始される。小田原城での籠城を良しとしない北条氏邦は鉢形城に戻り、3000の軍勢で敵に備える一方、天神山城や八幡山城などの出城や砦の守りを固めた。前田利家・上杉景勝・真田昌幸の北国軍と、浅野長政、本多忠勝、鳥居元忠の徳川軍(3万とも5万とも)に鉢形城は包囲され攻防戦となった。1ヶ月余りにおよぶ籠城戦となり、6月14日、北条氏邦は城兵の助命を条件に開城。(伝御殿曲輪の説明板では3ヶ月で落城としている)。徳川氏が関東入封すると、家康配下の成瀬正一、日下部(くさかべ)定好が代官となりこの地を統治。鉢形城は廃城となった。

※成瀬正一は下総国葛飾郡 栗原藩の成瀬正成の父 ※日下部定好は織田信長に仕えていたころ、豊臣秀吉とは同僚。秀吉との諍いで出奔し、家康に仕官した経歴がある。

鉢形城の北部(本曲輪周辺)から登城

鉢形城の本曲輪周辺正喜橋から登城し、鉢形城の本曲輪周辺を散策する。

散策マップ本曲輪周辺の散策マップ。

笹曲輪と本曲輪ジオラマで見る笹曲輪と本曲輪。

北の要害、荒川

鉢形城北部では鉄壁正喜橋から見下ろした荒川。鉢形城北部では鉄壁を誇る天然の水堀。

侵入は不可能鉢形城北部の絶壁。橋のない当時はここからの侵入は不可能に近い。なぜか心霊スポットに認定されている。

笹曲輪

笹曲輪正喜橋を渡り、笹曲輪へ。現在は30号線で分断されているが、道路を挟んで南側が公園化されている。(北側は民家)

る鉢形城のジオラマ笹曲輪に置かれている鉢形城のジオラマ。この位置は北方面から見た地形。この手前側の曲輪が笹曲輪である。

一部に石垣が見られる笹曲輪から本曲輪へはさらに高台となっており、一部に石垣が見られる。このすぐそばが鉢形城の搦手にあたる。

搦手搦手。現在では公園の入口として整備されているが、角度のある道といい、かろうじて虎口っぽくなっている。

搦手橋と深沢川

四十八釜と搦手橋深沢川の上には笹曲輪から馬出に架かる橋があり、搦手橋と呼ばれる。四十八釜について書かれた石碑が建っている。深沢川の両岸は断崖絶壁となっており、激しい渓流によって幾多の淵が形成されている。その淵は釜と呼ばれ、四十八釜と総称された。石碑あるところから南西に馬出し曲輪が位置する。(写真では左手前側)

伝・御殿曲輪

御殿曲輪本曲輪のなかでも高い台地に御殿曲輪とされている場所がある。御殿下曲輪はシルバー人材センターなどの施設があり散策できず。

伝・御殿曲輪の高台二の曲輪から見た伝・御殿曲輪の高台。鉢形城のなかでも古い遺構のように感じられ、長尾景春時代の基礎部分ではないかと思う。伝承では御殿と言われているが、三の曲輪に庭園および居住区が発見されているため、北条氏邦の大改修後は御殿ではなかったかもしれない。

鉢形城の南部(二の曲輪・三の曲輪周辺)

位置する二の曲輪・三の曲輪周辺鉢形城の南部に位置する二の曲輪・三の曲輪周辺。その西側(八高線方面)は地形上弱点であり、より一層複雑な曲輪と堀で防御性を高めている。深沢川を挟んで東側は外曲輪であり、現在は鉢形城歴史館の敷地になっている。

外曲輪(鉢形城歴史館側)

深沢川を越えた鉢形城本曲輪(御殿曲輪)から鉢形城歴史館へ向かう。そこは深沢川を越えた鉢形城の外曲輪にあたる。

土塁から外曲輪へ進入氏邦桜のある近辺の土塁から外曲輪へ進入する。

氏邦桜土塁の脇から生えている氏邦桜。2018年に命名された愛称で、鉢形城の桜として親しまれているエドヒガン。樹高は18mほどで樹齢は150年ほどと推定されている。

深沢川を渡り鉢形城歴史館当時、橋がかかっていた場所か不明だが、深沢川を渡り鉢形城歴史館へ向かう。

外曲輪外曲輪の標柱。

二の曲輪

鉢形城の弱点二の曲輪、三の曲輪周辺の散策路。鉢形城の弱点であるため、複雑な曲輪と堀の構えになっている。

鉢形城の二の曲輪、三の曲輪二の曲輪、三の曲輪のジオラマ。

参道は土塁の上城山稲荷神社のあるところが二の曲輪。参道は土塁の上となっている。

障子堀であることが判明二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀。堀の底には畝が発見されており、障子堀であることが判明している。小田原城、岩槻城、深谷城などに見られる遺構で、これまでは後北条氏の築城特徴として知られていたが、実は後北条氏以前から障子堀は用いられてきたことが分かっている。

曲輪発掘調査平成9年に実施された二の曲輪発掘調査の写真。掘立て柱建物跡、工房跡、土坑、溝などが検出されている。出土品から鍛冶工房跡と判断された。

隣接する馬出二の曲輪に隣接する馬出跡。

三の曲輪

秩父曲輪三の曲輪にて突き当りの最も高いところは秩父曲輪と伝わっている。北条氏邦の重臣・秩父孫次郎が守備していたため「秩父曲輪」と呼ばれる。諏訪神社の方まで進むと虎口に復元された石積み土塁がある。

上部が削られた石積み土塁秩父曲輪から諏訪神社(馬出)へ至る虎口。かつては畑であったため、上部が削られた石積み土塁が検出された。土塁の部分には櫓が建てられていた可能性があり、櫓と蔀(しとみ)に挟まれた空間は武者溜まり(城兵が一時待機する場所)と考えられる。

虎口諏訪神社(馬出)側から見たその虎口。

2つの区域で構成される、秩父曲輪

秩父曲輪は一段高く三の曲輪にある秩父曲輪は一段高くなっており、6段の階段が確認されている。最上段には間口約3mほどの四脚門が建つ(復元)。

池を囲むように掘立て柱建物跡秩父曲輪の内部は大きく2つに区画されている。庭園が発掘された区域では池を囲むように掘立て柱建物跡が確認されている。庭園区域よりも低い南の空間では生活用品が出土しており、日常の生活区域とされる。

天目茶碗発掘されたカワラケ、天目茶碗、染め付け皿、石臼など。

柱建物跡に四阿庭園区画の掘立て柱建物跡に四阿が建っている。

石積み土塁庭園の池跡。背後に石積み土塁(復元)。

庭園という特質もあり石積みは防衛上のためではなく美観目的復元された廃城直前時期の石積土塁。庭園という性質もあり石積みは防衛上のためではなく美観目的であることが窺える。

生活区域と石組み排水口秩父曲輪の生活区域と石組み排水口跡。

諏訪神社(馬出)

土塁と堀に囲まれた諏訪神社三の曲輪虎口を通過すると、土塁と堀に囲まれた諏訪神社がある。かつて鉢形城の馬出として機能した。日尾城主だった諏訪部遠江守が家老となり鉢形城に出仕したとき、守護神であった信州の諏訪神社を分祀したのが始まりという。1590年に鉢形城は落城し、家臣たちは散り散りになったが城下の人たちが鎮守として崇敬してきた。明治42年には萩和田の八幡神社が合祀されている。

大手

大手とされる虎口諏訪神社の隣に大手とされる虎口がある。

伝・逸見曲輪周辺

逸見曲輪とその堀跡複雑な形状をしている逸見曲輪とその堀跡。堀の真ん中にぽっこり存在する曲輪は弁天社跡。

藤田氏ゆかりの正龍寺

曹洞宗の寺院、正龍寺鉢形城の北に位置し鐘撞堂山の麓にある曹洞宗の寺院、正龍寺へ行く。山号は高根山、院号は藤源院。1590年の小田原征伐による鉢形城の攻防戦後、開城合意は正龍寺で交わされた。

正龍寺の創立は、花園城主・藤田(猪俣)政行が高嶺山に箱根権現を祀ったことに始まる藤田氏の菩提寺。藤田能国の時代(1187年)、城下に青龍が出現し龍泉の湖をつくり住んだ伝承があり、1348年に青龍寺と改めた。1532年、藤田康邦が八大龍王をまつり、後に昌龍寺に改名。康邦の養子、北条氏邦の帰依もあり大きく栄えた。1591年に徳川家康が関東入封すると、現在の正龍寺に改号された。

仁王像山門と仁王像。

藤田康邦夫妻、北条氏邦夫妻境内に藤田康邦夫妻、北条氏邦夫妻の墓がある。

藤田康邦は、正龍寺の西の山に築かれた花園城を中心に藤田郷を支配した豪族。藤田氏は武蔵七党である猪俣党の系譜で、藤田康邦は15代当主と伝わる。室町時代には関東管領・山内上杉氏の重臣として仕えていた。1546年の河越夜戦で北条氏康に降伏、その家臣となった。

後北条氏の北関東支配が強まり、北条氏康の三男(夭折の長男を含めば四男)、乙千代丸(後の氏邦)を養子に迎えた(1558年)。娘の大福御前を娶らせて藤田氏の家督を譲ったあと、用土氏を称し用土城に居城を移した。※異説もあり。康邦の子には用土重連や藤田信吉がいたが、北条氏にとっては邪魔な存在であり、用土重連は氏邦に沼田城で毒殺され(1578年)、藤田信吉は武田勝頼に寝返り沼田城代に任じられた。(1580年)

藤田氏を継承した氏邦は天神山城に入るが、永禄年間(1568年)には鉢形城を改修して居城とした。1590年の小田原征伐で豊臣秀吉に降伏し正龍寺に蟄居。前田利家に預けられ能登七尾で晩年を過ごした。1597年に50歳で没したと伝わる。

寄居町の風景正龍寺から見下ろす寄居町の風景。

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