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下総と武蔵の国境近く、国府台合戦の戦線となった城
葛西城(御殿山公園と葛西城址公園)
東京都葛飾区青戸にあった葛西城を再登城した(2023年11月)。葛西城は中川西岸に沿った標高1~2mの沖積微高地に築かれた平城。沖積(ちゅうせき)地とは河川の氾濫などで土砂が堆積して出来た土地であり、その地質上、地表で確認できる城郭遺構はない。
環七通りに分断された葛西城本丸跡(南側から撮影)。
西に御殿山公園、東側に葛西城址公園として整備されてその存在を偲ばせている。環七通り建設以前は、小高い丘の上に小さな祠が祀られている光景だったそうだ。葛西城址調査会や都教育委員会は保存対策を検討してきたものの、文化遺産を蔑ろにする荒んだ現代人によって押し潰されてしまった。
道路建設に伴い昭和47年から発掘調査がされ、大規模な堀や井戸などが検出、陶磁器や木製品が出土され、中世の城郭が明らかになっている。さらに古墳時代の居住跡も確認されている。中世の青戸は葛西地域の中心地だったと考えられる。葛西城の規模は宝持院付近から慈恵医大青戸病院付近と推定されているが、確認された城跡は環七通りの道路建設のために埋め戻されている。
葛西城の築城者と築城年代は不明。下総国葛西御厨に土着した秩父平氏(豊島氏)の庶家である葛西氏が城館として築いたとされるが定かでない。享徳の乱(1455年~1483年)においては、関東管領 上杉勢(大石氏)の城として改修されていたと思われる。江戸城の太田道灌(扇谷上杉家 家宰)と連携していたのだろう。敵対する足利成氏(古河公方)が1461年に葛西城を攻撃している。
享徳の乱によって対立した、古河公方勢と関東管領 上杉勢の勢力図。
小田原北条氏時代
1538年には北条氏綱(小田原北条氏2代当主)は大石氏を攻め、葛西城を攻め取る。北条氏の支配下に置かれると葛西城は小田原城の支城となり、小弓公方 足利義明との対立(第一次国府台合戦)で前線基地として使われる。
1560年に長尾景虎(上杉謙信)が関東に攻めてくると、それに従う豪族(太田氏一族の誰か)によって葛西城が攻略される。しかし、長尾景虎が小田原攻めを諦め越後国へ帰参すると、1562年に北条氏が葛西城を再び取り戻した。この時、北条氏に従う葛西地域の武将・本田正勝が忍びを使って協力したという。
北条氏家臣 遠山綱景が葛西城の城主であったときに第二次国府台合戦(1563年・1564年)が勃発するが、遠山綱景はその戦で討ち取られた。第二次国府台合戦の前哨戦として葛西城は里見軍の攻撃を受けており、葛西地域の寺社がその兵火で焼失した例がみられる。
足利晴氏が河越夜戦(1546年)で敗退すると古河公方は衰退する。晴氏の子である義氏(第5代古河公方)は、北条氏によって擁立されて傀儡として扱われる。北条氏の下、足利義氏の元服式(1554年)が行われたのが葛西城という。
落城と廃城
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐支城攻略戦では、戸田忠次らによって落城する。北条氏滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下となり、城跡は将軍の鷹狩の休憩所・宿舎として利用される。 葛西御殿または青戸御殿と呼ばれ、3代将軍家光の時代まで利用された。御殿は中世葛西城の主郭をほぼ踏襲していたという。1657年頃、明暦の大火で焼失した江戸城再建のため、資材用として取り壊された。
葛西城の縄張り(復元図)
葛西城復元図。東に中川、西側に湿地帯、曲輪は水堀と土塁で防御された縄張りとなっている。※葛西城の縄張りについては、御殿山公園に置かれていた説明板を参考にする。
葛西城の規模は宝持院付近から慈恵医大青戸病院(2012年改称:慈恵医大葛飾医療センター)付近と推定されている。現在、環七通りがその城跡を割り、それぞれ東西の位置に葛西城址公園と御殿山公園として存在している。
葛西城の東には中川。
中川西岸より慈恵医大葛飾医療センターを臨む。縄張りでは葛西城の南端とされている。ちなみにこの病院は、2002年の慈恵医大青戸病院事件(医療過誤事件)で有名になっている。
堀の位置
御殿山公園に置かれていた縄張り図。これは小田原北条氏時代の縄張りで、水色が発掘された堀の位置。茶色は推定される堀の位置。
堀の位置を詳しく地図で当てはめてみると、葛西城址公園と御殿山公園は本丸跡のようだ。堀跡の多くは現在道路となってわりと位置を把握しやすい。
発掘調査は環七道路の予定地内に限られたので確認された箇所が狭い。土塁は検出されなかったが、後世の人々が削平したからと考えられる。主郭の堀の中からは成人前の女性の頭骨が出土している。後頭部に3箇所の斬創あり、戦国時代、打首にされ堀に投げ込まれたのであろう。
博物館で展示されていた縄張り図。
紺色が発掘された堀跡、水色が想定される堀跡である(ただし、御殿山公園に置かれていた縄張り図では発掘とされているのにそこが想定(水色)になっており情報が食い違っている)。堀の幅は最大で約20mもあった。環七道路の線上に本丸があり、そこに橋脚跡が2箇所、井戸跡が確認されている。こちらを参考にすると、狭い範囲でしか発掘調査しておらず、謎が多いまま埋め戻しているようだ。
御殿山公園
環七で分断された本丸の西側が御殿山公園。地表での遺構はもちろん無い。南側の史跡広場に葛西城についての説明板がある。さらに奥の西隣にも公園があってそちらには復元図の案内板が建っている。
御殿山公園の様子。
葛西城址公園
環七で分断された本丸の東側が葛西城址公園。地表での遺構はもちろん無い。
葛西城址公園の様子。公園を囲んでいる道路は堀跡の位置とみてよさそうだ。
青砥藤綱の伝承地~青砥と青戸
御殿山公園に建てられている「青砥藤綱城跡」の碑。葛西城の築城前には「青砥藤綱の館」があったという地元の伝承が残されている。青砥藤綱は鎌倉時代後期の武士であるが、この時代の遺物は発掘されておらず伝承は誤りとされる。地名である「青戸」と混同されてしまった伝承のようだ。
しかし伝承としては根強い。東京都葛飾区高砂にある極楽寺(近年になって大光明寺と改名)には、藤綱が奉納したといわれる弁才天像や江戸時代に建立された藤綱の供養塔がある。寺伝によれば青砥藤綱が菩提寺として創建したとされる。
葛西城から1km(直線距離)離れた所に鎮座する大光明寺。『葛飾区史』によると元は青龍山西涼院 極楽寺。第二次国府台合戦の時には観蔵寺とともに焼失したという。
東京都葛飾区青戸の青砥神社(創建時:三社明神)は、青戸村の鎮守として1576年に創建された。明治期に白髭神社と改称され、昭和に「青砥神社」と改称された。環状七号線の建設に伴い、葛西城址にあった「青砥藤綱神社」が青砥神社に合祀された。最寄り駅の京成線「青砥駅」は、駅名にて青砥藤綱の伝承をリスペクトしているものと思われる。
「青戸」周辺地域では「戸」のつく地名が河川に沿って密に分布している。江戸をはじめ、奥戸(葛飾区)、亀戸(江東区)、今戸(台東区)、花川戸(台東区)などである。「戸」とは「津」が訛った言葉とされ港があったところと考えられている。中世以降、海と内陸をむすぶ交通の要衝だった。なお、大戸(おおと)が転訛して青戸なんだとか。個人的には「津」が「戸」に転じるのに無理があると思い、渡しがあった「渡」から「戸」に転じたと思っている。近くにある石浜城の記事でも紹介したが、このあたりは古来より渡しで有名である。
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