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太田道灌により落城、滅亡した豊島氏の居城
石神井城(しゃくじいじょう)
東京都練馬区石神井台にあった石神井城を登城した(2018年11月)。石神井城は秩父平氏の流れをくむ豊島氏の居城であった。(葛西氏と江戸氏も同族の秩父平氏)。豊島氏は鎌倉時代末には石神井郷を領しており、平安末期から室町中期まで練馬区周辺(東京都区部北側)に勢力を持っていた。
三宝池からみた石神井城遠景。主郭あたりである。
石神井城は室町中期の築城と考えられるが定かでない。もともとは鎌倉後期に宇多氏・宮城氏が館を構えていた場所ともいう。北は三宝寺池の崖、南は石神井川の低地に挟まれた丘陵地にあり、四角形の曲輪をいくつか築き、城全体では9ヘクタールくらいの規模と推定される。標高49mほどの舌状台地の上に、東西350m、南北350m規模の主郭と外郭で構成されている。比較的単純構造の平山城である。三宝寺池が湧水地であり、生活面や軍事的に優れた場所だったことは言うまでもない。
戦国期になると、石神井城主・豊島泰経は、山内上杉氏に謀反を起こした長尾景春に加勢する(長尾景春の乱:1476~1480年)。豊島氏には扇ヶ谷上杉氏・家宰の太田氏と対立していた背景がある。太田道灌の江戸城へ対抗するため、この頃に石神井城が大掛かりな改築がされた可能性もある。
1477年4月、愛宕山(早稲田高等学院付近)に陣を敷いた太田道灌に攻められ、石神井城は落城した。太田道灌状によれば、最後の城主となった豊島泰経は落城後、平塚城に敗走し、再び攻められると小机城に落ち延びたとされる。その後の足取りはわかっていない。落城の際、豊島泰経が白馬に乗って三宝寺池に沈み、長女・照姫も後を追って入水したという伝説もあるが、これは架空の話である。
江古田・沼袋原の戦い(1477年)~豊島氏の滅亡
1476年の長尾景春の乱では豊島氏は景春に味方し、山内上杉氏・扇谷上杉氏と戦う。翌年、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌は江戸城から出陣し練馬城に攻撃をかけた。豊島泰経・泰明は迎え撃ち、江古田原で合戦となった。太田道灌が「練馬城に挑発をかけて、準備していた戦場の江古田原におびき出した」という説がある。(以前は平塚城に挑発をかけたと考えられていたが、近年ではそれは練馬城とのこと)
練馬城主・豊島泰明はこの合戦で討ち死にし、兄・泰経は石神井城に敗走した。道灌は石神井城に追撃をかけ、泰経は偽りの降伏をするものの、見破られ再び石神井城への攻撃が再開された。泰経は逃亡し石神井城は落城。1478年、泰経は平塚城より打って出る姿勢をみせたが、再び逃亡し消息不明となった。これにより本家の豊島氏は滅亡する。小机城に落ち延びた説があるが定かでない。練馬城もこの年に廃城したと考えられる。石神井公園のMAP
石神井城跡は現在の石神井公園の一部である。園内には石神井池、三宝寺池があり、武蔵野三大湧水池のひとつだが水量が減少しており人工的に地下水から揚水している。1993年には三宝池で巨大ワニが目撃されたと、ちょっとしたワニ騒動にもなった。
現地解説(石神井城跡発掘パネル展)の城郭図。現在わかりやすい遺構としては、「主郭、石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、三宝寺」の曲輪だろう。石神井城は舌状台地上に位置するが、台地の先端ではないため、東西に堀切を築いて遮断している。西側の堀切は住宅街の通り道になっているが遺構としての雰囲気はない。
現在の地図に堀跡、土塁跡の遺構を記してみた。
主郭跡
主郭の北にある三宝寺池は崖、ほかの3方は堀と土塁で守られている。南には石神井川が要害となっている。主郭は平坦であり、柱穴が発見されているので建物があったと考えられる。幅12m、深さ6mの堀跡が確認されており箱堀であると判明。また水が溜まっていた痕跡がないため空堀であったようだ。
12~16世紀の中国製陶磁器や常滑焼が出土しており、内郭建物で居住していた可能性がある。ただ、その出土物が石神井城と直接関係があったという確証はないとのこと。生活痕が乏しいことから居住ではなく、開戦前に貴重品を内郭に運び込んでいたという説もある。
主郭へは三宝寺池の辺りにある石神井城石碑から上っていく。
主郭はフェンスで囲まれ史跡保護されているが、堀跡は確認できる。
立ち入り禁止の説明板。「石神井城跡のなかでも特に保存状態が良いところなので、養生が必要」とある。しかし、東京文化財ウィーク2018(10月27日~11月4日)の期間にあわせて登城したので、主郭に入ることができた。この期間内は現地解説(石神井城跡発掘パネル展)が実施されていた。
箱堀
主郭の堀跡に立ち、なかなか貴重な体験であった。ここは箱堀だったようだ。
箱堀についての解説板。底面が平で台形をひっくり返したような形を箱堀という。堀の半分ほどは同じ土層が堆積しており、意図的に埋め戻されたと考えられる。その後に自然崩落により浅くなっていったとのこと。1477年の豊島氏滅亡とともに廃城になっているが、再起を図られないように堀を埋め戻したのだろうか。
とりあえず、堀跡をざくざくと歩く。
土塁に上がり平場に入る。
江戸時代の文献にも石神井城のことが記されており、豊島氏の古城であったことが知られていた。江戸後期には主郭跡は畑だったようだ。この図では氷川神社の参道が堀切に見えるのだが、もっと西側でくすのき緑地の通りにあった。
主郭(内郭)と「東側の土塁」の間にある堀切を通る。南方のブロック塀があるところが三宝寺境内で、城全体で見ると「東側の土塁」にあたる。そこが「城主の平時の居館場所」という説もあり。
三宝寺
三宝寺は室町時代の応永元年(1394年)に創建されたと伝わる。もともと石神井池の南方(現在の野球場周辺)にあったが、石神井城落城後、現在の地に移ったとされる。豊島氏滅亡後は、小田原北条氏、徳川氏の庇護を受けた。三代将軍・徳川家光が狩りをしたとき、ここを休憩所としたことにより、山門は御成門と呼ばれた。
境内には、勝海舟邸にあった長屋門が移築されている。
豊島氏の菩提寺、道場寺
豊島山道場寺は豊島氏代々の菩提寺。1372年、石神井城の豊島景村の養子・輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて創建したと伝わる。豊島泰経や一族の墓といわれる石塔3基があるが非公開。道場寺には北条氏康の印判状(1562年)が所蔵されており、税金免除など記されている。練馬区における後北条氏の文書は今のところ唯一である。
太田道灌が陣を敷いた、愛宕山塁
石神井城の南、石神井川の対岸にある愛宕山に太田道灌が陣を敷いたという。現在では早稲田高等学院がある場所。地元民は城山と呼び、江戸名所図会にも「太田道灌の城跡なり」と記されている。日本城郭大系によれば遺構らしいものは何もないとのこと。規模は300m×400m、標高50m、比高8mといい、石神井城攻めの臨時的な城塁とある。東方にやや深い谷があったらしく、近くには道灌堤という堤防があり、その堤防道は江戸への近道だったそうだ。
その近くの橋が愛宕橋。
祝儀山
愛宕山から350mほど南西の位置に「祝儀山ちびっこ広場」がある。太田道灌が石神井城を攻めた時、協力した地元民に与えた土地だそうだ。” ご祝儀の山 ”ってことね。しかし、もはやわざわざ見学にいくほどの景観ではない。
石神井城のレポートは以上。
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