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日蓮四大法難のひとつ、松葉ヶ谷法難の草庵跡をめぐる
妙法寺、安国論寺、長勝寺
松葉ヶ谷は名越に含まれる地域(鎌倉市大町)であり、日蓮四大法難のひとつ「松葉ヶ谷法難」の舞台。日蓮が草庵を構えた場所で、この草庵跡は妙法寺(日蓮宗最初の寺)、安国論寺(立正安国論を著した場所)、長勝寺(大本山・本圀寺の前身)のいずれかとされる。江戸時代に旧跡を巡る論争があったが、結論は出ていない。
松葉ヶ谷(まつばがやつ)法難とは
1260年8月27日の宵、小庵にて日蓮が読経していると、一匹の白猿が袖をひいてどこかへ案内しようとする。猿に導かれて山中に分け入ると、他宗らによって小庵が襲撃されたので、猿がその危機を知らせてくれたのだと悟った。近くに山王権現の祠が有り、山王様の使いである猿が助けたと感じたという。
1260年7月、鎌倉幕府の五代執権 北条時頼へ「立正安国論」を提出する。異常気象や疫病は浄土宗などの邪教を信仰するからだといい、法華経を正法とするよう訴えた。辻説法などでも他宗を批難していたため恨みを買っていた。翌月に浄土教信者らによって松葉ヶ谷の草庵が夜間襲撃され、焼き討ちされた。伝説では日蓮は白猿に助けられ、下総中山(若宮)にある富木常忍の館(後の中山法華経寺)へ避難した。翌年、日蓮は鎌倉に戻り、政治批判とみなされたため5月に伊豆流罪となる。
日蓮四大法難
1260年 | 松葉ヶ谷の法難 | 立正安国論を提出後、浄土教信者らによって松葉ヶ谷の草庵が夜間襲撃される。 |
1264年 | 小松原の法難 | 母の看病のため安房国東条郷片海へ帰郷するが、それを知った東条郷の地頭・東条景信によって襲撃される。 |
1271年 | 龍の口の法難 | 極楽寺良観(忍性)と降雨祈願の勝負におけるいざこざで、龍の口の刑場へと連行された。執行される寸前に強烈な光り物が現れ、刑の執行は中止された。 |
1279年 | 熱原法難 | 身延入山後、天台宗の住僧や農民らが次々と日蓮宗に改宗。それによって生じた、日蓮門下と天台宗側との抗争。 |
妙法寺
楞厳山(りょうごんざん)妙法寺は、1253年、布教のため安房国清澄寺から鎌倉入りした日蓮が最初に草庵を結んだ地と伝わっており、「松葉ヶ谷の法難」の草庵跡とされる比定地。後に後醍醐天皇の子息・護良親王の皇子であった楞厳丸(りょうごんまる)が日叡となり、1357年、父母の供養および日蓮の遺跡保護のために妙法寺を建てた。江戸時代になると徳川将軍家、徳川御三家、肥後細川家などからも帰依を受けている。
総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは、11代将軍・徳川家斉を迎えるためであったとされる。明治中期までは境内に将軍御成の間が置かれていた。本堂は文政年間に、夭折した息女を弔うために細川斉樹が建立したもの。
妙法寺の境内案内図。
総門
室町時代建立の妙法寺 総門。拝観料(300円)を払う受付が左隣にあり、総門は封鎖されている。境内山頂の大塔宮御墓まで行くのであればそこそこの運動量になる。
大覚殿
妙法寺境内にある大覚殿では、かつて熊本城天守に祀られていた加藤清正の像を安置している。細川家が寄進したもの。
「薩摩屋敷事件」戦没者の墓
妙法寺 仁王門の脇にある、名越家供養塔と「薩摩屋敷事件」戦没者の墓。1867年に江戸の芝三田で起きた薩摩屋敷焼き討ち事件で戦死した薩摩方と幕府方の遺骨を収めている。もとは芝三田の薩摩屋敷跡に建てられた清正公堂(妙法寺の支院)の境内にあったが1995年にここへ移された。
苔石段
仁王門の先には苔石段。中央から先は立ち入り禁止なので脇の階段を登る。4月~6月が新緑で見頃とのこと。
法華堂
妙法寺境内にある法華堂。文化年間に水戸家によって建立され、日叡作の除厄祖師が本尊。
日叡上人お手植えのソテツ。
鐘楼。
松葉ヶ谷 御小庵跡
妙法寺境内にある松葉ヶ谷 御小庵跡。1253年~1271年までの18年間、日蓮が鎌倉での布教活動の拠点とされた霊跡。松葉ヶ谷法難の草庵跡と考えられる比定地のひとつ。
妙法寺にある墓
開山した日叡上人の父母を供養する寺であるため、母(南の方)と父(大塔宮 護良親王)の墓がある。
御小庵跡を左に曲がり、狭い足場をひたすら進むと「南の方御墓」がある。南の方は日叡の母。
日叡上人の墓および、日蓮聖人塔。
小庵跡からさらに上の山頂にある大塔宮御墓。後醍醐天皇の皇太子であった護良親王の墓。鎌倉幕府倒幕に尽力したが、足利家と対立すると鎌倉二階堂に幽閉され、1335年に28歳の生涯を閉じた。妙法寺中興の祖、日叡上人の父である。
安国論寺
妙法華経山 安国論寺の境内には、1260年、日蓮が「立正安国論」を執筆した岩穴がある。1253年の創建で日蓮による開山としているが、厳密には弟子の日朗が岩穴の側に安国論窟寺を建てたのが始まりで、松葉ヶ谷法難の草庵跡と考えられる比定地のひとつ。岩屋にちなんで「安国論窟寺」とも言われた。
日蓮は32歳から20年間ほど当地に滞在し、法華経の宣教を行っていたという。39歳(1260年)のとき、岩屋で立正安国論を書き、前執権 北条時頼に建白した。そのため松葉ヶ谷の焼き討ちにあうが、裏山の南面窟に一時避難したと伝わっている。
安国論寺境内の配置図。裏山の富士見台から由比ガ浜海岸が一望でき、そこで日蓮が富士山に向かい題目を唱えたとされる。
松葉ヶ谷根本霊場の石柱。および山門。
山門をくぐり札所のあたりで、境内維持のため100円以上の浄財を求められるので賽銭箱に100円を入れる。実質的な拝観料。
安国論寺の本堂。
安国論を書いた法窟。建屋と連結しているので見逃しやすいかも。
日蓮六老僧の一人、日朗上人の荼毘所。生前、松葉ヶ谷の地で荼毘に付してほしいと遺言されていた。1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた。右脇にある長い階段を登っていくと、南面窟にたどり着く。
日朗上人荼毘所から南面窟へつながる上り階段。
現在ではコンクリートで補強された南面窟。ここは松葉ヶ谷法難のときに、日蓮が白猿に導かれて一時避難した岩屋である。後に法性寺に逃げ延びる。
長勝寺
大本山本圀寺の旧末寺である長勝寺。妙法寺および安国論寺と同じく、松葉ヶ谷の草庵跡の比定地であり、京都市の本圀寺の前身とされている。1253年、日蓮に帰依した石井長勝が自らの屋敷に法華堂を建てたことに始まる。1345年、洛中に移ったため荒廃していたが、日際が石井山長勝寺として再興させた。
日蓮乞水
長勝寺から300mほど東に日蓮乞水(にちれんこいみず)がある。1253年、清澄寺(千葉県鴨川市清澄322-1)での修行を終えた日蓮は鎌倉へと向かい、松葉ヶ谷に草庵を結んだ。そのときに喉の渇きを覚えた日蓮が、この地に杖を突き刺し、水が湧き出たという伝説の井戸である。鎌倉五名水のひとつで、他の名水には金竜水(建長寺西総門前)、不老水(建長寺裏門)、銭洗水(銭洗弁財天)、梶原太刀洗水(朝比奈切通し手前)がある。
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