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上総酒井氏の居城、のちに山麓には徳川家康の東金御殿が造営される

東金城と、その周辺の史跡

千葉県東金市にあった東金城を登城した(2017年11月)。東金城は半独立丘陵地にあり、東西約700m、南北500mの規模を持つ。標高74mの最頂部に主郭があり、西側の一段低い細長いところに二の丸の置く。北側の傾斜面に、腰曲輪、支尾根の堀切が設けてある。西端に大堀切と竪堀があるが、竪堀は消滅しているとのこと。16世紀前後の瀬戸美濃系のすり鉢断片が出土している。享徳の乱(1454年~1482年)のころ、「東常縁(千葉氏)の家臣、浜春利がここに城を構えたことに始まる」とされる。(鎌倉大草紙による)。その後、上総酒井氏の本城となるが、1590年の小田原攻めでは北条氏に従っており、共に歴史から姿を消した。

東金城と、八鶴湖(はっかくこ)八鶴湖(はっかくこ)から見た東金城遠景。細長い校舎(県立東金高校)の裏山が東金城である。
初期には鴇峰(ときみね)城と呼ばれたそうだが、ときみね~「とうがね」に転じたんだとか。

上総酒井氏の東金城

上総酒井氏は、戦国時代、上総国北部を支配していた豪族。初代は酒井定隆とされるが、「酒井清伝」と記載する古文書もあり、定隆と同一人物なのかは定かでない。現地の案内板では「東常縁の家臣、浜春利がここに城を構えたことに始まる」とあるが、浜春利の子が定隆という説もある。上総酒井氏の出自は不明な点が多い。

1488年、定隆は土気城に入り、長男・定治の系譜が土気城を継ぎ、三男・隆敏の系譜がこの東金城を本拠とした。上総酒井氏は法華宗を信仰しており、その領国では寺や民が改宗させられた。

上総国は北条氏と里見氏との勢力圏で板ばさみとなっていたが、土気城の酒井胤治は第二次国府台合戦において、里見氏方に寝返りその敗走を援護した。度々、北条氏からの攻撃を受けるようになり、東金酒井氏も北条に従い同族(土気酒井氏)を攻めたという。土気酒井氏もついに1576年には降伏して北条氏の傘下に入る。

豊臣秀吉による1590年の小田原攻めで北条が敗北したため、上総酒井氏も所領を失った。北条方の房総・武蔵の支城では、主戦力を小田原城籠城に引き抜かれたため、多くの城ではあっけなく降伏している。上総酒井氏の子孫は徳川氏に旗本になり存続した。

東金御成街道の終着地になる

1613年には徳川家康の命令で、鷹狩りを行うための宿泊所、東金御殿が造営される。命令を受けた佐倉藩主・土井利勝は東金代官に造営に当たらせた。船橋御殿~東金御殿をつなぐ東金御成街道も整備され、ここがその終着点となる。東金御殿を造営した際に八鶴湖は「御殿前池」として拡張された。その時に弁天池も設けられた。

鴇ヶ峰(ときがみね)八鶴湖は周囲1kmほどの規模。もともとあった「とき池」を拡張した人造湖であるが、規模からして池である。八鶴湖を取り囲む三方は、鴇ヶ峰(ときがみね)と呼ばれる小高い丘であり、その一角が東金城である。

家康が東金御成街道を初めて利用したのは1614年とされるが、徳川実記と照らし合わせると合点しないこともあり不明な点が多い。2代将軍・秀忠、(将軍になる前の)家光もこの街道を利用したと言うが、1630年を最後にこの方面での鷹狩は行われなくなり、1671年頃には東金御殿は取り壊しになった。本漸寺の案内板では、家康が2度、秀忠が7度、東金に来られたという。

大正から昭和初期に建てられた国の登録有形文化財 八鶴亭(旧・八鶴館)

八鶴湖畔に面する八鶴亭の建物は、もともと明治創業の旅館・八鶴館で、北原白秋や伊藤左千夫らの文人墨客が訪れた。現存する建物のほとんどは、大正から昭和初期に建てられたもの。昭和21年には当時学習院中等科時代の皇太子(今上天皇明仁)が宿泊した。

八鶴亭現在は所有者が変わり料亭となっている。平成21年5月に国の登録有形文化財に登録された。本館1階には60畳の大広間や玄関があり、2階に宿泊室を配している。

八鶴亭予約なしのランチを頂いたが、場所は本館の大広間だった。

いざ、東金城の登城

東金城東金高校のすぐ脇の道が登城口。(写真では左側が校舎)。現在では御殿山と呼ばれているが、かつての東金城。初期には鴇峰城と呼ばれたそうだ。東金史跡保存会 小川家所有の地で、石柱には「回顧探勝の士に限り開門したします」と彫られている。16時には閉門するようだ。

登城口から見て左側、つまり東金城の山麓にに千葉県立東金高等学校がある。どうでもいいことだが、「ゆうこりん」こと小倉優子の母校なんだとか。この東金高校の建つ場所が東金御殿跡地だが、この通り校内の散策は無理。

東金御殿は約6700坪の敷地であり、玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、弓部屋、老中部屋、台所などがあった。1630年、2代将軍・秀忠の御成を最後に鷹狩は行われなくなり、1671年には東金が天領から板倉藩領となった際、御殿は破却された。

防空壕登城口から見て右側、岩肌のところに旧日本軍の防空壕が設けられている。

太平洋戦争の敗戦間近、いよいよ本土決戦となったとき、大本営は米軍が千葉県の九十九里に上陸すると想定しており、東金にも決戦陣地が設けられた。この防空壕はその一部。防空壕といっても空爆から身を守るものではなくて、兵士が特攻で奇襲をかけるための待機場だったようだ。1945年8月に終戦となり本土上陸作戦は決行されず、千葉県が悲惨な戦場になることはなかった。

※連合軍のコロネット作戦(関東地方へ上陸する作戦)は、1946年3月1日が予定されていた。上陸地点は湘南海岸と九十九里浜~鹿島灘沿岸。湘南海岸に30万人、九十九里海岸に24万人、予備兵力合わせて107万人という大規模な兵士が投入される予定であった。

登城石碑の道を進むと上り坂となる。

東金城にいったしばらく苔むした石段が続く。

四郭跡展望台のようなところに「御殿山神社奥の院」の石柱が建つ。ここが四郭跡で、ここまではちゃんと整備されている。
少し手前に社があったが、どうやら登城というか参道を歩いていたようだ。この石柱の奥に堀切があり、かろうじて道になっているので堀切をまたいで先に進める。11月末だったから良かったが夏場はヤブ蚊地獄であることは想像つく。

1~3郭の境目-堀切あと分かりづらいだろうが、堀切跡。堀切をまたいで進むと平坦で一本道が続く。1~3郭の境目がもうわからん。

東金城のトーチカ跡太平洋戦争時のトーチカ跡に到着。日本語では「砲兵観測所跡」というらしい。東金城址としては二郭の南部にあたる。トーチカのこの隙間は、米軍が上陸するであろう九十九里浜(片貝)の方角を向いている。

トーチカ内部に入ってみた穴を降りてトーチカ内部。

東金城におかれた史跡トーチカのすぐ先は行き止まりで、陥没したコンクリートがある。これもトーチカ造成のときに造られたものだろうが、水を溜めるための窪みと紹介するサイトもあった。見た目ではただ陥没したコンクリートなのだが・・。藪を切り分けて堀切を越えればまだ遺構がありそうだが、整備されていないのでここで散策終了。

東金城周辺のスポット

本漸寺

鳳凰山 本漸寺(ほんぜんじ)。もとは上総国山辺郡松之郷にあった曹洞宗の寺院で同夢山願成就寺だった。(創建年代は不明)。その後、法華宗に改宗されて、巨徳山本漸寺となる。戦国時代に上総酒井氏が、日親を開山として現在地に移した。徳川幕府からは30石の御朱印を賜っている。何があったのか、2016年に法華宗を離脱し、現在は単立寺院となっている。

東金の本漸寺山門および参道。

本堂本堂。

庭園

鬼瓦唐破風屋根の建物。明治43年に茅ぶきから瓦葺きにしたときに外した鬼瓦が展示してある。

お手植え蜜柑徳川家康のお手植え蜜柑。1600年、関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は鷹狩を名目に江戸近郊の視察を行った。その際、東金に立ち寄ったが、第二の故郷「駿府」に気候風土が似ており、彼の地より蜜柑を取り寄せて本漸寺に自ら植樹した。品種は「しらわ」といい、ピンポン玉くらいの大きさで、皮は薄く比較的甘い。これが縁で柚子に発展する。現在の蜜柑は4代目である。

五輪塔。

本漸寺四世・日殷の墓

日殷の墓本漸寺4世である日殷(1527~1590)は京都に生れ仏門に入る。京都妙満寺25世に昇進し、1583年、正親町天皇の命で大僧正に任ぜられ、東金本漸寺4世となった。日殷の墓は丸山公園より東600m先にあり、ハイキングコースを歩き、小さな池を越えた先の拓けた広場にある。供養碑は1725年頃の建立と推定される(所在地 松之郷1914)。天保年間(1830~1843年)には、ここに参詣すれば何事も成就するとの民間信仰が起こり、露店やお籠り堂が出来るほどだったという。

最福寺

安国山最福寺。創建年代は不詳であるが、一説によれば807年、日本天台宗の祖・最澄により創建されたという。1479年には法華宗に改宗し、酒井定隆の援助を受けた。現在は日蓮系の単立寺院。同時期に背後の鴇ヶ嶺山頂(現・古山王神社と山王公園)の山王神社(日吉神社)も創建されている。

最福寺は上総十ヶ寺の一つで、徳川幕府から三十石の寺領を受けている御朱印寺である。本堂はもともと八鶴湖畔にあったが、1703~1709年に現在の位置に移築。その時、本堂に使われた丸柱40本は浅草寺から譲り受けた古材と伝わる。明治42年に萱葺から瓦葺に替え、平成5年に銅葺屋根に替えられた。

日善上人1614年(家康73歳)、大阪冬の陣の10日前のとき、日善上人を駿府城に招き2人だけで密談したというが、そのときの場面を想像したブロンズ像だそう。しばし話し合いを行っていたことが「駿府記」に記載されている。

家康「豊臣家は自分にとって恩人であり、主人にあたる。取り潰すのは人間として忍びない」

日善上人「民のこと、国全体の将来を考えると、心を鬼にして決断されるのは”今でしょ”」

・・・みたいな会話のようだ。

御成街道の切り通し(山王坂)と日吉神社

日吉神社から八鶴湖に通じる参道の切り通しを山王坂という。1387年に日吉神社が現在地に移転した時に造られたとか、1614年の御成街道が造成されたときに造られたという説がある。

切り通し(山王坂)土気城の切り通しを彷彿させる雰囲気。東金城および土気城が上総酒井氏の本拠であるため、個人的には「もともと上総酒井氏時代に切り通しの基礎はあって、御成街道造成時には拡張工事をしたのではないか」と思う。

S字状のカーブ途中からS字状のカーブがある。

切り通し-山王坂の滝S字状カーブの角に” 滝 ”とな??。非常に小規模な滝ではあるが・・。

御成街道の最終地点夕方前でも暗くなるので、すでに街灯が点いている。まさに御成街道の最終地点に差し掛かる道として風格がある。

東金のハイキングコース道陸神切り通しを登りきる手前の所に道陸神。古来より道陸神とは道路の悪霊を防ぎ、道行く人の安全を願って祀られた。足腰を治す神とも伝えられ、人に見られずにわらじをお供えすればご利益があるという。

山王さま日吉神社日吉神社に到着。、地元では「山王さま」と呼ばれる。参道の大杉は家康の命令で植樹されたものなんだとか。樹齢は250年から450年ほどらしい。

もともと、現在の古山王神社があるところに天台宗開祖・最澄が近江国・山王神社(日吉大社)から分霊したのが始まり。(807年)。1387年に、酒井定隆が鴇峰城(東金城)の鬼門鎮護のため、現在日吉神社のある場所に遷座した。明治維新まで神仏習合で「山王権現」と呼ばれていたが、明治元年に日吉神社と改名された。遷座のあとも、もとの地には古山王神社を置き、崇敬してきた。

古山王神社と山王公園からの夜景

東金市の山王公園山王台公園。そこからの夜景。さらに高台に上ると、古山王神社の社殿がある。昭和五十九年に老朽化した社殿を建て直し、日吉大社から分霊を勧請した。

レポートは以上。

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