聖武天皇の詔で建立した下総の国分寺。国分館の比定地も探る
下総国分寺跡
千葉県市川市国分にある国指定史跡「下総国分寺跡・下総国分尼寺跡」に行ってきた(2015年10月)。天平13年(741年)、奈良の大仏建立で知られる聖武天皇は、全国に、一国一寺として国分寺建立の詔を発した。
下総の国では市川に国府があったので、この地に国分寺が建立された。建立の年代は明らかではないが、奈良時代であることは確実視されている。過去に数回の火災を受け、現在では跡地となってしまった。金堂、講堂、七重塔の遺構が昭和40~41年発掘調査で発見され、法隆寺様式の伽藍配置だったことが分かった。東大寺式伽藍ではないので、国分寺としては珍しい。
※国分寺の正式名を、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)といい、僧寺(男性僧侶の寺)。
※国分尼寺の正式名称を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、尼寺。
国分山国分寺にある、下総国分寺跡
聖武天皇の詔では寺名を「金光明四天王護国之寺」として建立された。僧寺(男性僧侶の寺)である。
明治に改称となり「国分山金光明寺」と称した。この下総国分寺跡(下総国分僧寺跡)に建つ現在の寺は、「国分山国分寺」と称して寺院を継承している。現在の建物は江戸や明治期以降に建てられたもの。
南大門(仁王門)は天平時代の創建時、今より20m以上離れた位置に建立されたというが、幾度の火災により現在の位置になった。宝暦年間(1751年~1763年)に建立された桜門造りの山門は明治時代に焼失したという。
法隆寺様式の伽藍配置
現在および創建時の建物位置を記した配置図。発掘調査により発見された「金堂、講堂、七重塔」の遺構位置はこの通りで、法隆寺様式の伽藍配置。本堂は金堂跡の場所にあたる。現在の墓地側には講堂跡がある。丸いポツポツは礎石の位置で、創建時の礎石が多く残っている。
伽藍の復元想定図。※市立市川歴史博物館展示資料より
※金堂:本尊の釈迦仏座像が鎮座するお堂。 ※七重塔:高さは17階建てビルぐらい。 ※講堂:僧がお経の勉強する堂。
下総国分寺の礎石
植木にある石は礎石の一部。
礎石に注目。
七重塔
住職のお宅と思われる敷地内に、七重塔跡の石碑。
講堂跡
墓地の中央辺りにある講堂跡。ちらほらと礎石が点在している。
下総国分寺の史跡広場
墓地の北には2箇所の空き地があるが、ここも遺跡。平成13年の発掘調査により、下総国分寺に関連する大型の掘立柱建物跡や遺物が発見された。国分村に連綿と続く旧家・山崎茂右エ門の子孫が、先祖代々住んできたこの土地を文化遺産として提供、公有化に協力した。その山崎氏はどこへ行ったのか・・・思ったら、下総国分寺のすぐ東側に屋敷を構えていた。家名の茂右エ門の表札があるので、すぐ分かった。
北下瓦窯跡の発見
平成16年、東京外かく環状道路建設に伴い発掘調査がされたが、下総国分寺の東側へ約300m離れた台地斜面地で、北下瓦窯跡が発見された。下総国分寺の瓦を焼いたと考えられ、登り窯と平窯の2つが確認されている。平成22年、国指定史跡としてこれが追加された。
下総国分寺では堂塔が瓦葺き建物なので多くの瓦が出土している。初期の軒先瓦では宝相華文という文様が施されているが、他の国分寺では例を見ないという。
市立市川歴史博物館に展示されている、出土した下総国分寺の瓦。
バス停・国分の向かいにある丘が北下瓦窯跡(きたしたかわらかまあと)。国指定史跡なのに、放置された工事現場のようだ。中世では国分館の土塁として使われたのではなかろうか。
北下瓦窯跡の丘を登ってみたが、削平された地面に砂利が敷かれているだけ。そして、フェンス越しに、傾斜面に造られた北下瓦窯跡があった。ブルーシートがかぶせてあり、重石が置かれているのみ。案内板もないので、工事中にしかみえない。向かいでは着々と外環道(東京外かく環状道路)の工事が進んでいる。市川市にとって吉と出るか凶と出るか・・。
追記:北下瓦窯跡の説明板建つ
令和5年、現地に市川教育委員会から「北下瓦窯跡」の説明板が建てられた。
説明板によると、北下遺跡は「台地斜面の地域」と「低地の国分川旧流路」のふたつに分類される。
台地斜面の遺跡は工房跡である。二基の瓦窯跡、また梵鐘など鋳物を作った跡も二基確認された。窯跡は瓦を焼いた「平窯」と、傾斜を利用した「窖窯」の二基となっている。このように二基とも異なる瓦窯であるが下総国分寺創建期に操業しており、様々な瓦職人が集められていたことがわかる。二基の瓦窯跡は国史跡に指定されている。
一方、「低地の国分川旧流路」では下総国府東辺の祭祀場であった。人形や人面墨書土器が出土し、これらは罪を移して川に流す儀式に使ったものである。河床では雨乞いや正月の祭祀に使った穴の遺構が確認されている。史跡認定されなかったのか、東京外かく環状道路になって消滅した。
下総国分寺の造営を担当した、造寺所跡
同じく令和5年、造寺所跡(下総国分寺跡 附北下瓦窯跡 第二六次調査地点)に説明板が建てられた。国分尼寺のすぐ東側に位置している。
出土した墨書土器に「造寺」や「瓦」と書かれており、この地点が下総国分寺の造営を担当した造寺所跡とされ、北下瓦窯の工房も管轄したと考えられる。8世紀後半から10世紀の建物跡が確認され、18棟の掘立柱建物跡や10棟の竪穴建物跡(4棟は鍛冶工房)があった。常設施設の建物では配置が決まっており、竪穴建物から掘立柱建物に建て替えられていた。
出土した9世紀中頃の墨書土器では「井上、遊女、牛、馬、荷酒、」と書かれており、これは井上馬家(推定地:市川市市川)に因むものとされる。文字から流通や遊興に関わっていると考えられる。なお、遊女と書かれた墨書土器の出土では、確認された日本最古の「遊女」用語になる可能性があるとのこと。
市川市の地勢と、下総国分寺の位置
市川市は南北に細長く、北部は標高20~30mの台地と段丘の地勢となっている。そして台地の間に樹枝状の支谷が幾重も入り込んでいる。市川市の中央部(葛飾八幡宮のあたり)は、縄文期に海退が形成した砂州が東西に延びており、現在では千葉街道が通っている。八幡荘の西側に国衙領(国の土地)があり、国分寺はこの国分台に位置する。
古地図によると千葉街道は昔、佐倉道と呼ばれていたようだ。
国分台の先端に建立された、下総国分寺跡(東側)と下総国分尼寺跡(西側)。
※国分寺の正式名を、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)といい、僧寺(男性僧侶の寺)。
※国分尼寺の正式名称を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、尼寺。
国分館の跡地を比定してみる
この国分台地のどこかに国分館という城館があり、下総国分寺跡の東側に土塁や堀の一部が残るという。源頼朝に従い奥州合戦(1189年)に参加した千葉常胤の子らは千葉六党と呼ばれ、その1党である胤通は国分と名乗り、この地を治めている。国分館(国分城)の基礎は千葉胤通によるものだろう。
千葉六党の治めた各領地。下総国分寺跡近くには根古屋という地名もあり、戦国期においても城館があったと考えられる。
市川市の中世城館跡。国分館は国府台城の東に位置する。二次国府台合戦で討死した正木大膳(信茂)が、最初に布陣していたのは国府台城より東の国分寺付近と言われ、大膳山と呼ばれた。おそらく国分館の比定地というところだろう。宅地化で国分館の確かな遺構は確認できないが、部分的な雰囲気だけは何となく感じる。では、想像力を働かせて探索してみよう。
国分台地のジオラマ。国分寺の東側300m、北下瓦窯跡より北方面に土塁らしき遺構と崖が確認できる。
北下瓦窯跡の土塁は北に向かってやや縦長。
竺園寺(ちくおんじ )の本堂は低地にあるが、墓地は高い位置にある。また裏手(西側)には竹藪が北に向かってしばらく続く。天然の要害を利用した国分館の切岸ではなかろうかと思う。
竺園寺よりしばらく崖が続くが、登ってみれば平坦な畑しかない。大膳山とはここのことだろうか?確かに東への見晴らしは良いし、国分川が天然の要害となっている。
竺園寺すぐ南の上り坂。縦堀跡に思えなくもない。また、曲輪と思われる高台に民家が建っている。
縦堀跡風の坂から脇道に入り、日枝神社方面に歩く。曲輪に沿った歩道のようで、眼下には土塁が確認できる。
日枝神社および隣接する龍珠院に着いたが、城郭の雰囲気はない。それにしても日枝神社のご神木が巨木で印象的。
経王寺のすぐ南西にある稲荷神社は、物見台のような雰囲気がある。地図に載っていない場合が多いので、探すのにはちょっと苦労する。この先、さらに南西はもっとも遺跡らしい城郭がある。
枡形虎口のようなところに入ると、空き地が広がる。
ほぼ確実に曲輪跡である。東への見晴らしもいい。
この曲輪からライフ市川国分店に向って下りる階段。曲輪の外周部に設けられている。
コンクリートで固められているが、国分寺の南もかなり城郭の雰囲気を残しており、松香園は曲輪の上に建っているのだろう。堀切跡または竪堀のようなところもある。国分寺から東、竺園寺~日枝神社 / 龍珠院、経王寺にかけてのエリアを国分館と比定してもよさそうだ。ちなみに、昭和初期ごろでは、この国分寺に上がっていく坂を「水汲み坂」と呼んでいたらしい。台地上では井戸を掘るのに費用がかかるから、下から水を汲んで上がったという話がある。
国分台地の北端、堀之内
国分台地の北端には堀之内という地名があり、堀之内貝塚や市川歴史博物館がある。堀之内という呼び名は、武士の館を指す用語なので、国分館がつくられた平安末期~鎌倉初期に武家が住んでいたのかもしれない。
市川歴史博物館の向かいの道路は堀跡にみえなくもない。このあたりは小さな丘が点在しているが、中世との関連性は不明。
下総国分尼寺跡(しもうさこくぶんにじあと)
下総国分寺(国分僧寺跡)の北西500m離れた国分尼寺跡公園が、下総国分尼寺跡。明治のころまでは小高い場所だったらしい。国分僧寺と同じく、聖武天皇の詔が発せられ「法華滅罪之寺」として建立された。伽藍の区画割と石碑のみが当時を偲ばせる。
布目瓦が多く出土していたため、江戸時代以来、ここが国分僧寺跡と考えられ、「昔堂(むかしどう)」と呼ばれていた。しかし昭和7年に「尼寺」と書かれた土器が出土したため、下総国分尼寺跡と認定された。昭和42年の発掘調査では金堂・講堂跡が発見されている。かつてはここが僧寺と考えられていたため、尼寺は弘法寺か法華経寺か?などと考えられた時期もある。
左の写真が金堂跡、右のが講堂跡。子どもたちの遊び場で賑わっていた。
国分尼寺跡公園の脇にある馬頭観音の石造物。ここはかつて馬捨て場であったため、供養のための馬頭観音なのだろう。
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