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愛宕山城(初期の須賀川城)

須賀川市の翠ヶ丘公園内にある愛宕山が、かつて二階堂氏が居城としていたところだ。愛宕山城または岩瀬山城と呼ばれる。厳密には翠ヶ丘公園そのものが多郭式城館であり、愛宕山が主郭になる。
山館だった愛宕山はかつて「びわくび館」と呼ばれていたが、江戸時代に愛宕社が祀られたため「愛宕山」と呼ばれるようになった。

神炊館神社あたりにあった須賀川城は戦国期のもので、ここは二階堂氏が移転する前の城であった。ゆえに「古須賀川城」と呼ばれ、南北朝時代に拠点とした。移転後は須賀川城の詰城として活用され、家臣の守谷氏が領することになったようだ。

愛宕山城跡地の翠ヶ丘公園

翠ヶ丘公園は、「日本の都市公園100選」にも選ばれている。大正12年に公園化された。愛宕山、五老山、保土原舘、南舘、妙見山などを含むエリアから成り、東京ドームの約7倍の敷地(29.9ha)を誇る。

「五老山屋敷跡、岩間十三塚、妙見櫓、岩瀬総社妙見社、時宗金徳寺(こんとくじ)、十日山」などは愛宕山城の一連の施設と考えられる。琵琶池につながっている「下の川」は須賀川の地名の由来になった川であり、内堀として機能した。「下の川」は栗谷沢と呼ばれていた。

翠ヶ丘公園にある愛宕山城愛宕山が愛宕山城の主郭部であり、琵琶池や新池は水堀跡と考えられる。

愛宕山城の位置

伊達政宗本陣は現在の須賀川桐陽高校
須賀川城攻防戦図から見る愛宕山城の位置。須賀川城より東側にある。

古地図から見る、愛宕山城の周辺

二階堂神社にあった町割り図
左:二階堂神社にあった町割り図、右:博物館の須賀川城攻防図。日本城郭大系では、愛宕山をびわくび山と言っていたが、向かいの台地が枇杷の首山と記している。琵琶と枇杷では違うと思うのだが・・。いずれにしても御隠居岳というのは、愛宕山城の二の丸らしい。

愛宕山城の低地部

翠ヶ丘公園にある愛宕山城
翠ヶ丘公園は自然豊かで、四季折々楽しめそうだ。しかし目的は自然散策ではなく城跡。城址公園として整備されているようではないので、どこまで遺跡保護されているのかは不明。この石垣は遺構ではなさそうだ。

愛宕山城の主郭(山頂)

愛宕山城の本丸
標高278.4mの愛宕山は愛宕山城。石畳の上を登ると主郭である愛宕山城の本丸がある。山頂には虎口がしっかり残っており土塁で囲まれた平地が広がっている。愛宕神社の社殿はあるが、鳥居と手水場が朽ちている。(撮影:2013年4/28)

愛宕山城本丸愛宕山山頂(本丸)は結構広い。

愛宕山城土塁本丸の土塁は遺構状況がよい。

琵琶池(水堀)

琵琶池
琵琶池。愛宕山城の北側にある天然の要害で、水堀であったと思われる。琵琶池の西側の坂を「御隠居岳の坂」といい、須賀川八景の一つ。須賀川生まれで明治時代の銅版画家だった渡辺光徳の作品にもなっている。愛宕山城の城代を務めていた守屋筑後守の隠居所跡からそう呼ばれたようだ。須賀川城落城のときにはすでに引退の身であったのだろうか。

新池(水堀)

愛宕山城新池新池は愛宕山城の南に位置する水堀跡。

阿武隈川(天然の外堀)

阿武隈川
翠ヶ丘公園から東600mほど先に阿武隈川が流れる。翠ヶ丘公園は阿武隈川と釈迦堂川の分岐近くにあり、城郭を築くのに適している地形である。さらに岩盤の土地である。愛宕山城の西の要衝である天然の外堀といえる。

愛宕山城の一連施設

愛宕山城の縄張りにある一連施設をチェックする。

五老山

須賀川の五老山
天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が、この場所で和睦交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったという。五老山では二階堂氏の慰霊祭・松明あかしの会場となっている。五老山の通称は「赤っぱげ山」。植木が赤っぽいからだろうか?

須賀川の五老山
十日山から臨む五老山。

須賀川の五老山
五老山の山頂部。土塁のようなものが確認できる。

南館

南館愛宕山城主郭の南部に位置する曲輪。だから南館なのだろう。五老山と橋でつながっており、間には道路が通されている。おそらく、昔は堀切だったのだろう。

妙見山

妙見山堀切を挟んで五老山の南側に位置する妙見山。現在は須賀神社が鎮座している。もともとは妙見神社であったが、1872年に社名が須賀神社に代わった。二階堂氏時代ではこの妙見神社が須賀川の惣社であったが、二階堂氏滅亡後は、神炊館神社(諏訪神社)が惣社となっている。

須賀神社妙見山の山頂。所々、土塁跡が確認できる。

栗谷沢の滝(堀切より)~三千代姫伝説

栗谷沢の滝五老山と妙見山の間の堀切から、栗谷沢の滝が見られる。「暮谷沢」とも表記されるらしい。滝は、五老山の南側の岩盤部分にある。この「暮谷沢」は三千代姫終焉の地とされる。

文安元年(1444年)、二階堂為氏は須賀川に下向したが、城代の代官治部大輔は須賀川城の明け渡しを拒んだ。両家和睦のため、為氏は代官の娘「三千代姫」を妻にしたが、争いは治まらなかった。
為氏に離縁された三千代姫は「暮谷沢」まで送られたが、涙橋の袂で自害したという。辞世の句は「人間わば岩間の下の涙橋流さでいとまくれや沢とは」。三千代姫はわずか15歳、乳母や侍女も殉じたという。

暮谷沢の碑三千代姫の談話は後世に伝えられ、昭和30年に「暮谷沢の碑」が建立された。五老山の南側で、ここから頂上に上がれるが、たぶん当時は通れなかっただろう。

保土原舘

愛宕山城の本丸
保土原舘は現在、須賀川市立博物館が建つ。二階堂氏家臣であった保土原行藤の武家屋敷跡と思われる。保土原行藤は伊達政宗に内応し、須賀川城を攻めた。

愛宕山城の本丸
保土原舘の石垣。

愛宕山城の本丸
保土原舘の東を流れる「下の川」は水掘。「下の川」は昔、栗谷沢と呼ばれていた。急崖の岩盤上には博物館が建っている。館跡とはいえ、それなりの防衛機能を備えているようだ。須賀川城は保土原館のような小館や出城、詰め城などを配置し城下町全体で守りを固めていたと思われる。

須賀川城にまつわる城館

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