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国宝指定されている5天守のうちの、ひとつ
松江城(別名・千鳥城)
DELLパソコンを持っての旅行記。今回は島根県松江市にある国宝天守、松江城を登城したのでレポートする(2017年9月)。豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関が原の戦い(1600年)で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴の嫡男)が出雲・隠岐24万石を与えられ、月山富田城に入城した。しかし、堅固な山城では城下町の形成には不向きであり、水上交通には不便、大砲などの近代戦には不利であった理由から、末次城跡である極楽寺山(亀田山)に松江城を築城することにした。
ただし、忠氏は築城地を選定したものの普請前に死去。父・吉晴が孫・忠晴に代わって普請に関わるが完成目前で死去。そのため、松江城の築城主は曖昧になっており、ガイドによって3人のうち誰かになっている。
1607年から約5年かけて築城が進められ1611年に一応の完成となった。(1634年、京極氏の入封により三の丸増築で松江城が全容完成している。)本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪が囲っている。城山の南に三の丸があり藩主の御殿が置かれた。
城主は堀尾氏、京極氏と続くが、嫡子なく断絶(人柱の怨念という噂も?)。松平氏が入封してから10代続き、明治維新を迎えた。これまでに松江城は戦乱に巻き込まれることはなかった。廃城令により1875年、天守閣以外は取り壊された。城郭一帯は1934年に国の指定史跡に指定された。天守は1935年、当時の国宝保存法により国宝指定を受けているが、2015年に改めて国宝に指定された。
松江藩主の系図(三家十四代)
堀尾氏 | 堀尾吉晴 | 松江開府の祖。城普請の名人と言われる。 息子の忠氏と協力して藩政を行う。(父子で共同統治)。後に孫に代わって統治。松江城と城下町の建設をした。1611年、松江城完成目前で急死。 |
堀尾忠氏 | 松江藩の初代藩主。松江城の城地選定者。 跡を継いだ忠晴が幼少のため、父・吉晴が松江を統治。 |
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堀尾忠晴 | 松江藩の2代藩主。目立った治績は伝わっていない。 1633年、嗣子なく没、堀尾氏改易 |
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京極氏 | 京極忠高 | 1634年、若狭国小浜藩より26万石で入封。三の丸で松江城の全容完成。 3年余りの短い統治期間であったが、斐伊川の大土手「若狭土手」を改修するなど治績を残している。幕府天領の石見銀山を任されるなど、歴代松江藩のなかで最大規模を治めた。 |
松平氏 | 松平直政 | 結城秀康(家康の次男)の3男 1638年、信濃国松本藩より18万6千石で入封。以後、10代明治維新まで続く。 大阪冬の陣で初陣(14歳)。その武勇から、敵将・真田信繁から自らの軍扇を投げ与えられたエピソードあり。 |
松平綱隆 | 小野隆俊に無実の罪を着せて流罪にする。(彼の妻に横恋慕するあまり) 隆俊の死後、怨霊を恐れて推恵社に祀るが、1675年に急死。 |
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松平綱近 | 極度に財政悪化していたため、様々な改革を行なったが、効果はなかった。 | |
松平吉透 | 綱隆の五男。兄の綱近から養嗣子として迎えられた。江戸で死去 | |
松平宣維 | 天災から財政難。税制改革、蝋燭製造など藩政改革に取り組む。 藩札の発行で札騒動が起こった。 |
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松平宗衍 | 財政が悪化し、藩政も不安定化。イナゴ大群襲来で不作。 家老が発令した重税により享保大一揆。(家老による合議制を廃止) 財政改革失敗に終わる。責任を負って隠居したとも。 |
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松平治郷 | 号の不昧(ふまい)で知られる。不昧流で、茶人としても有名。 藩政改革、財政再建、農業政策などにより藩の財政改革は成功。家老・朝日茂保の功績が大きい。「御立派の改革」 ※財政が再建されたあと、茶器購入で散財し、再び財政悪化。潤沢な財政を幕府から警戒されるのを避けるため、あえて道楽に興じたという説もあり。 |
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松平斉恒 | 治郷の道楽などにより、松江藩の財政は再び悪化。 | |
松平斉斎 | 天保の大飢饉、水害、、火事など天災が相次ぐ。 幕府に12万両献金、鷹狩などで藩財政悪化 家臣団により強制的に隠居させられた |
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松平定安 | 松平・松江藩の第10代で最後。 1868年、戊辰戦争では新政府に従っている。1871、廃藩置県で免官。 |
松江城保存の経緯
1871年に松江城の廃城が決まり、1875年にリサイクル資源として金物(釘・鎹など)が目的の入札が始まった。(木材は風呂屋などの燃料として扱われる)。このとき松江城天守保存に動いたのが、元松江藩士・高城権八、出雲の豪農・勝部栄忠と息子の景浜である。陸軍広島鎮台が松江城を管理していたが、責任者の斎藤大尉に掛け合い、入札額の同額(180円)を収めることで天守閣だけは残された。全国では12天守が現存しているが、松江城は山陰地方では唯一の現存天守である。※国宝指定されている天守は、「松江城、犬山城、松本城、彦根城、姫路城」の5城。
松江城の縄張り
松江城の内堀とその曲輪の縄張りをチェック。
主郭あたりの城郭。
三の丸(藩主の居館跡)
南に位置する三の丸には藩主の居館があった。現在、島根県庁になっている。
千鳥橋
千鳥橋。江戸時代には御廊下橋と呼ばれ、三の丸御殿と結ぶ重要な橋だった。当時は屋根付きの橋であったが、現在の橋は平成6年に作られたもの。
千鳥橋から南口門までの石段。南口門から先が二の丸。
二の丸
二の丸マップ。二の丸は本丸南側に位置する一段低い平地。
興雲閣(御書院跡)
この興雲閣の位置に、2代目藩主の時まで藩主居宅だった御書院があった。興雲閣の前に植えられている松は、大正天皇と昭和天皇が皇太子時代にお手植えした松。この南側には御月見櫓がある。
興雲閣は1903年に松江市が工芸品陳列所として建てたもの。もともと明治天皇の巡幸に際して行在所として建てたので、華麗な仕上がりとなっている。(結局、明治天皇の巡幸はなかった)
松江神社(局長屋跡)
御書院の北には局長屋(御殿女中の住居)があり、現在では松江神社が建つ。松江城が国宝指定を受ける要因となった祈祷札を所蔵していた神社でもある。
松江神社は、1877年、現在の松江市西川津町に創建された楽山神社が始まりで、松江松平家初代藩主の松平直政を祭神とした。1898、朝酌村(西尾町)にあった東照宮(徳川家康)と合祀して翌年、この地に遷座して松江神社と改称した。1931年に堀尾吉晴(松江開府の祖)と松平治郷(7代藩主)を配祀した。現在の社殿は朝酌村にあった東照宮社殿。
南櫓と御広間跡
二の丸の南櫓。ここは御広間跡。井戸もある。
内堀側からみた南櫓(物見櫓)と中櫓(武具庫)。
太鼓櫓と定番所跡。二の丸下の段から二の丸へ入るのに厳重なチェックがあったのだろう。
二の門跡
本丸方向で、この石段の手前は二の門跡。
二の門跡を通り枡形虎口を経由して一の門がある。そこから先は本丸となる。
松江城 本丸
本丸跡。
四重五階天守。地下一階付きの松江城天守。高さは約30m。そのうち石垣は7.6mほど。先端に附櫓があり、天守入り口の防衛機能を高めている。
多門跡。南側の武具櫓に続く長屋造りの多門があった。
祈祷櫓跡
祈祷櫓跡。築城前にはここに塚があり、榎木を神木とする荒神が祀ってあったという。築城時にはしばしば石垣が崩壊する事故が起こり、祈祷櫓ではそれを祀り直して、毎月、この櫓で松江城の安全祈祷を続けた。ただし、東之出し矢倉とも記されている。また、幕末の頃には幽霊話のコノシロ伝説に基づき、コノシロ櫓とも呼ばれた。
松江城にまつわる話~小泉八雲/人柱にされた娘
天守台の石垣工事では何度も崩壊し、人柱をたてることになった。盆踊りを開催し、最も美しく踊りの上手な娘が人柱に選ばれた。松江城は無事落成したが、城主の堀尾氏が相次いで急死。事情もわからず人柱にされた娘の怨念がたたったと人々は恐れた。松平氏の入城まで、天守ではすすり泣く声が聞こえたとの伝説がある。
コノシロ伝説では松平直政が成仏させたとのことだが、松江を治める正当性を広めるためのプロパガンダという見方もある。なお、城下で盆踊りを開催すると、たたりで城が揺れるとのことで、現在でも松江城下では盆踊りをしないとのこと。地元出身のガイドさんによると、法令で禁止されていないが開催されているのは見たことがないとのこと。
コノシロ伝説
1638年、松平直政が松江藩に入封され、初めて天守に登ってみた。最上階の「天狗の間」に一人の美女が現れ、「この城は、わらわが城なり」と言った。直政が瞬時に「このしろがほしければ、明日にでも与えよう」と答えると、女は消えていった。
直政はコノシロ(魚)を取り寄せ「天狗の間」に置くと、翌朝、コノシロを乗せていた三宝(鏡餅とか載せる台座)が荒神櫓で発見され、コノシロがなくなっていた。その後、二度と女が姿を見せることはなかったという。この女は築城の際に人柱にされた娘だと噂された。オヤジギャクで成仏させたという、直政の機転力を示す伝説である。
太鼓櫓
二の丸にある太鼓櫓が見える。太鼓櫓とは、太鼓を打って時を知らせる櫓。
坤櫓跡と多門跡
本丸南西にある坤櫓跡と多門跡。
乾櫓跡
乾櫓跡。
本丸立体模型
天守閣にあった本丸立体模型。イメージの参考に。南側の一ノ門からの配置。
北の門と乾櫓の立体模型。
馬洗池から北惣門橋まで
北の門から出ると、本丸から中曲輪へと続く。本丸から見て鬼門の方角となる。
馬洗池
馬洗池。
ギリギリ井戸
ギリギリ井戸。ギリギリとは、この地方の方言で「頭のつむじ」。城郭の中央という意味のようだ。
「築城時、このあたりの石垣が何度も崩れるので、掘り返して調査したところ、さびた槍が刺さった頭蓋骨が発見された。堀尾吉晴が神主を招いて丁重に供養したところ、工事は無事に進むようになった。掘った穴からは水が湧き出し、ギリギリ井戸になった。」という伝説がある。
北惣門橋
馬洗池から東に進むと脇虎口ノ門跡があり、その先に北惣門橋。北といっても、内堀の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ橋であった。明治時代では眼鏡橋と呼ばれた石造りのアーチ橋がかけられたが、平成6年に史跡にふさわしい江戸時代の木橋として復元させた。
鎮守の森(二の丸下の段・北側内堀沿い)
鎮守の森散策路は、二の丸下の段で北側。内堀沿いを歩くコース。この内堀より外側の内堀沿いでは、かつては武家屋敷が建ち並んでいたという。
散策路は、土塁の上や森の道となっており、城山稲荷神社や搦手之虎口広場につながっている。梅林や桃の木、タブ、シイの木が群生している。
城山稲荷神社
搦手之虎口広場。江戸時代には鉄砲鍛冶、砲術師、侍屋敷があった。
裏の出口である搦手虎口跡。目の前に稲荷橋。これより南が外曲輪。
後曲輪の椿谷
外曲輪から南、後曲輪の椿谷。江戸時代には後曲輪と呼ばれ、刀の手入れ油を採るために椿が植えられた場所と伝わっている。現在では230本ほどの椿が生えており、やぶ椿が多い。
中曲輪(本丸の東側下段)
三ノ門へとつながる中曲輪。
三ノ門手前の通路から見上げた天守閣が、人気の撮影ポイントなんだとか。
もうワンショット。
三ノ門跡。
大手門跡から三ノ門跡までの石段。
松江城の石垣
三ノ門跡近くの石垣。松江城の石材は松江市の東部、大海崎、福富地区山麓から産出する安山岩が主に使用されている。松江城の石垣は慶長年間に築城された城に多い「打込はぎ」で積まれている。石の面を割って平たくした石を積んでいる。なお、松江城には一部、「野面積み」や「切込はぎ」も見られる。
ここの石垣台では堀尾氏の家紋「分銅紋」が刻まれている。ほかの石垣にも三角印などの刻印が見られ、築城工事に置ける分担や区別、円滑な作業工程のために付けられたものと考えられている。
二の丸下の段(外曲輪・米蔵跡)
二の丸下の段は東西100m、南北210mの広大な外曲輪である。米蔵があり、北に屋敷地、南に寺社修理方(建物修理事務所)があった。寺社修理方跡地には同じ大きさの上屋を建て、現在では売店(二の丸茶屋)になっている。米蔵の備蓄米は主に藩士の扶持米(ふちまい/主から給与される米)であるが、飢饉対策に米蔵を増築するようになった。
17世紀の築城時ではL字型に建つ米蔵と門と塀だけの曲輪であったが、1679年に、越後騒動で配流された高田藩・荻田本繁とその子の荻田長屋が建てられた。18世紀以降では荻田稲荷や米蔵が5棟建つなどしたが、明治時代の廃城令で取り壊された。その後、運動場となり、島根県および鳥取県で初めてとなる野球試合が行われた場所でもある。
米蔵跡の配置マップ。昭和47年からの3次に渡る発掘調査の結果、ほぼ城郭図通りの規模だったことが確認されたという。
荻田長屋が建てらたころの見取り図(現地案内板)
大手門跡から大手木戸門跡まで
大手門跡。市は松江城大手門の復元資料を探しており、古写真や設計図が対象。懸賞金は500万円。
馬溜(うまだまり)
大手門を通るとすぐに馬溜に差し掛かる。枡形虎口の外曲輪である。一辺46mほどの正方形平地で、四方には石垣や堀で守られている。敵兵の進撃を弱める機能の他に、出撃の際には兵を馬溜に待機させ陣形を整えさせる曲輪でもあった。発掘調査により、江戸時代のものとされる井戸2箇所と、内堀に通じる石組水路が発見された。
1-馬溜まり堀、2-石組水路、3-石垣内部から発見された石組階段、4-5-井戸跡、6-大手門の門礎石
馬留へ通過点、大手木戸門跡。
大手前駐車場と堀尾吉晴の像。
城下町
古地図による城下町の様子。
松江藩時代の城下町、立体模型。
今、城下町の風情はさほどないけど。
大橋と人柱伝説
宍道湖と中海を結ぶ大橋川にかかる松江大橋。(所在地:島根県道261号母衣町雑賀町線上)。現在の橋は17代目で、1937年(昭和12年)に完成した。
1600年ごろは「カラカラ橋」という、竹でできた簡素な橋がかけられていたという。堀尾吉晴が築城に合わせて松江大橋をかけようとしたとき、難工事だったため人柱を出すことを決めた。そこで「朝一番に橋を渡った者を人柱にする」と決め、運悪く、源助という足軽の男が選ばれた。南から3本目の橋脚(おそらく中央)の下に埋められたという。
その名を取って大橋の中央の柱を「源助柱」と呼んだ。小泉八雲は著書の「神国の首都」で記している。なお、小泉八雲が汽船で松江入りしたのは、この付近だと言われている。近代では、現在の17代目・大橋を現場監督した技師の深田清が、1936年にこの工事で事故死している。追悼のため彼の胸像が第2橋脚に埋められているという。
この場所、橋の南詰(源助公園)には2人の記念碑がある。
大庭の石
大庭の石は打てば鐘のような音が響き、一定の距離以上は運び去ることができないという伝承がある。松平がそのひとつを松江城に運ばそうとしたが、非常に重く千人がかりでも大橋から先には動かせなかったとのこと。
松江城天守内部
祈祷札の打ち付けてあった地階の通し柱。(現地では模擬札を使ってある)。平成24年に発見された2枚の祈祷札には慶長16年(1611年)の文字があり、築城時期がこれ以前であることが確認された。祈祷札が打ち付けてあった通し柱が発見されたことにより、改めて国宝指定を受けた。
鯱
昭和の解体修理工事で取り外され、地階で保存されている鯱。
また、同じく昭和の解体修理工事で取り外され、地階で保存されていた木材には、堀尾氏の家紋に「冨」の文字が刻印がされていた。松江城には月山富田城の部材を一部転用したという伝承があり、その裏付け資料となっている。
井戸
地階は籠城用の生活物資の貯蔵庫であり、「穴蔵の間」と呼ばれ、塩なども備蓄していた。深さ24mの井戸もある。
石落とし
石を落として攻撃するための空間、石落とし。外からは石落としの存在が分かりにくいデザインになっている。
包板(つつみいた)
包板と呼ばれる工法。天守を支える柱に何面か板を張り、鎹で留められている。これは不良材の体裁を整えるためと考えられている。
国宝指定書
最上階に展示されている国宝指定書。
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