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精錬された銀などを輸送港へ運ぶために利用された旧街道

石見銀山街道(温泉津沖泊道)を行く!

DELLパソコンを持っての旅行記。今回の石見銀山観光では、町並み地区 銀山地区を通り、銀山地区の山吹城を登城し、龍源寺間歩を見学した。最後に石見銀山街道(温泉津沖泊道)を通って、温泉津の旅館に帰ることにした。温泉津沖泊道は、石見銀山で採掘し精錬された銀などを輸送港へ運ぶために利用された旧街道である。温泉津沖泊道は毛利元就によって整備されたと伝わる。

温泉津沖泊道今回歩く温泉津沖泊道のルート(2017年9月訪問)。降路坂を越え、西田の集落に出て、清水、松山を通り、温泉津または沖泊の港に出る。沖泊では、石見銀が発見されてからは初期の銀積出港として栄えたが、それ以前でも風待ち港として栄えていた。

櫛山城と鵜丸城

当然、沖泊港も石見銀山を支配する上で重要な拠点である。最初に支配した大内氏は櫛山城を築いた。また一時、尼子家臣の温泉(ゆ)氏が居城としていた時代もあった。毛利が銀山支配すると、温泉氏は尼子氏の拠点近くに逃亡して、領地回復を図ったが実現できなかった。

後に支配した毛利元就によって鵜丸城(うのまる-じょう)が築かれている。鵜丸城は標高59mの海城で、毛利水軍の拠点として1571年に築城された。文献によれば1ヶ月で築城されたという。1570年に山中幸盛に奉じられた尼子勝久が尼子氏再興の軍を起こしたが、鵜丸城はそれを討つために築城された。築城にあたり、16ヶ所の村に堀や柵の普請が課され、各領主を通じて農民が労働力に駆り出された。

沖泊港銀山街道の終着地、沖泊港に櫛山城と鵜丸城がある。

銀山街道について

石見銀山の柵内これは江戸時代、石見銀山の周囲に柵を廻らせ柵内(さくうち)と呼ばれたエリア。街道に通じる10箇所の出入り口に柵内番所を置いていた。(銀の窃盗防止や物資流通や人物の監視のため)

戦国時代~江戸時代初期まで、山吹城が銀山の要衝だったときに整備された街道が、「鞆ヶ浦道」と「温泉津沖泊道」。山吹城を中心に吉迫口からの鞆ヶ浦道、坂根口から温泉津沖泊道へとつながる。どちらも日本海側への街道であり、日本海は冬になると荒れるため、江戸幕府の天領時代には穏やかな瀬戸内海側の街道が整備された。(尾道道、笠岡道)。

鞆ヶ浦道

初期の銀山街道鞆ヶ浦道山吹城の大手に近い吉迫口からの鞆ヶ浦道が、最も初期の銀山街道とされる。積出港に使われた仁摩町馬路にある鞆の浦は、水に恵まれておらず、毛利氏の支配期では、温泉津の沖泊に移された。今回は通らなかったが、マップを見ると、「笹茂り夏場の通行困難」とか、「分岐点が多くガイド付きでないと歩行困難」とか、随分萎えそうなコースだ。

温泉津沖泊道

坂根口は銀山の西側温泉津沖泊道今回通る温泉津沖泊道のコース。坂根口は銀山の西側にあり、港のある温泉津(ゆのつ)と結ぶ温泉津沖泊道への出入り口。温泉津沖泊道は毛利元就によって整備されたと伝わる。江戸時代では銀積出港に使われなくなったが、温泉津からの物資供給のルートとして銀山運営のために使われている。

坂根口番所跡からスタート

坂根口(さかねぐち)番所跡龍源寺間歩の入り口より少し先、舗装道が終わると、坂根口(さかねぐち)番所跡がある。蔵泉寺口番所跡と同じく、中心的な番所であったようだ。かつては建物があったが、現存していない。ここから温泉津沖泊道だが、峠(標高430mの降路坂)を越えなければならない。

龍源寺間歩を通過した時に、入場券を売っているオジさんに一度呼び止められた。「そっちは銀山街道だから、行ったら大変だよ」と。確かに、交通機関を使ってぶらりと観光する人が知らずに入ったら大変なことになる。「下調べしてあり温泉津まで歩いて帰る」と伝えたら、了解してもらえた。とにかく最低限、ハイキングの用意は必要なコースである。

オラわくわくすっぞ早速、山奥に入っていくような雰囲気。オラわくわくすっぞ。

降路坂(ごうろざか)

降路坂すぐに降路坂の説明板。

矢滝城と矢筈城ちなみに、これが山吹城の山頂から見た降路坂。降路坂のある温泉津沖泊道を挟んで、矢筈城と矢滝城がある。これらは戦国時代、銀山防衛のために築城された。

銀山防衛のために築城お尻の割れ目を突き出したような降路坂。昔の人は銀を降路坂を通って沖泊の港まで運んだが、こう見ると極力低い峠として選んだのだろうな。

約70年に渡る石見銀山争奪戦

1530年~1533年 石見・邑智郡川本の温湯城主・小笠原長隆が銀山を占領するが、大内氏が奪回し山吹城を強化。大内氏は吉田若狭守・飯田石見守の2人に奉行として支配させる。
1537年 出雲の尼子経久が銀山を占領。
1539~1541年 尼子・小笠原連合軍と大内氏の争奪戦が繰り返される。
1556年 大内義長を傀儡とする陶晴賢を厳島の戦い(1555年)で破り、大内氏を滅ぼした毛利元就が参戦。毛利氏が銀山を占領する。山吹城代に刺賀(さつが)長信を置くが、尼子氏が降伏させた。城兵を救うという約束で、刺賀氏は降路坂を通り温泉津の海蔵寺にて切腹。
1558年 尼子晴久の山吹城攻めで占領(忍原崩れ)。尼子家臣の本城常光を城主とする。
1559年 毛利氏の侵攻に対し、本城常光が撃退(降路坂の戦い
1562年 諜略を用いて毛利氏が再び侵攻。本城氏に領地を与えるという約束で降伏した本城常光を暗殺。30年近く銀山を巡る争奪戦の末、1562年には毛利氏の支配となる。
1600年 関が原の戦いの後、徳川幕府の天領となる。(毛利輝元が敗軍の将となったため差し出す)。大久保長安が山吹城に入城し改修したが、1601年には大森の代官所へ拠点を移したため、まもなく山吹城は廃城されたとされる。元和年間石見国絵図(1617~1619年)では城らしき絵があるので、少なくとも1600年代前半に廃城となった考えられる。
このような戦乱期であっても、銀の鉱床や製錬所などの生産現場が戦場になることはなかったという。

降路坂(降露坂)の戦い

1559年、石見銀山の覇権をかけて毛利氏と尼子氏が対峙するが、尼子家臣・本城常光が守備する山吹城は落ちなかった。毛利氏の拠点(豊前国)を大友宗麟が攻め始めたこともあり、毛利元就は降路坂を通り温泉津への撤退を始める。降路坂を下っている最中に、本城常光ら尼子軍の追撃が襲いかかり、毛利元就は敗走する形になった。
毛利元就が敗退し撤退する際、家臣の渡辺通ら7騎が殿を務めた「七騎坂」のエピソードがあるが、降路坂はその比定地のひとつ。

七騎坂の場所ちなみに通説とされている七騎坂の場所は、温泉津駅の南西、七騎坂トンネルの付近。

降路坂の茶屋跡から五老橋まで

降路坂(降露坂)の戦いずっと降路坂を上り、頂上付近に茶屋跡がある。茶屋と言っても、もちろん見る影もない。後は下り道であり、ほぼピークは終わり。ただ山吹城を登った直後なので、疲労感は隠せない。マップを見ると矢筈城と矢滝城に睨まれた街道であることが分かる。

中国自然歩道坂根口から五老橋までは中国自然歩道として整備されている。ここからずっと下りだが、矢筈城と矢滝城の間を通る道である。

1528年に矢滝城(634m)を築城しばらく歩くと、この先に矢滝城があるという案内板。茂みで眺望がよく分からん。「周防国守の大内義興が銀山開発を始めたとき、銀山防衛のため、1528年に矢滝城(634m)を築城した」とある。毛利氏の支配となると、その家臣で大田市祖式町あたりを本拠としていた国人・祖式元勝の居城となった。

降路坂の題目塔中国自然歩道の終盤あたりに「降路坂の題目塔」がある。読み方は「ごろざか」とあるが「ごうろざか」とどっちが正しいのだろう?題目塔とは、南無妙法蓮華経と刻まれた供養塔である。道中、亡くなった方の鎮魂なのだろうか。

五老橋のすぐ手前。だいぶ開けてきた。

五老橋五老橋に到着。矢滝城へは五老橋を渡って、この青いルートで行く。今回は時間がないので矢滝城を断念。
ちなみに五老橋は「ごうろばし」と読むようだ。ということは、降路坂とは五老坂だったのではないだろうか?

石仏西田の石仏。ここから西田の集落へ入る。

西田(にした)地区

西田千軒銀山と隣り合わせの西田は、銀山を往来する人々の宿場町として栄えた。当時は宿屋、芝居小屋、茶屋等があり「西田千軒」とも言われたが、今では静かな里だ。昭和30年代までは炭焼きと葛の生産が盛んだったという。急峻な地形のため、棚田が多い。

430mの降路山振り返ると、通ってきた降路坂の峠が確認できる。説明板によると430mの降路山なんだとか。

中村の題目塔まで西田集落のマップ。中村の題目塔までは舗装された道を歩く。

ヨズクの里集落の様子。

ヨズクハデ

通常のハデよりも3分の1ですみ、棚田に適しているヨズクハデ刈り取った稲束が天日干しされている。これは使用する木材が少なくてすみ、風に強い干し方なんだとか。さらに設置スペースも通常のハデよりも3分の1ですみ、棚田に適しているとのこと。伝説によると、神代の昔、2柱の海神が漁網の干し方を農民に伝えたことを起源としている。

ヨズクハデこの姿が羽根を休めるフクロウ(ヨズク)に似ていることから、ヨズクハデという。全国でも行われているのはここだけであり、日本の米作り百選や、国の無形民族文化財に指定されている。タイミングよく秋の風物詩を見ることができた。ただ、後継者不足で現在は4戸の農家が行っているだけなんだとか。

中村の題目塔

題目塔中村の題目塔から、また山道に入る。

清水の集落から温泉津(ゆのつ)まで

「温泉津沖泊道中村の題目塔から「温泉津沖泊道」の後半戦。山道と舗装道路の繰り返しを歩くコース。

将棋岩

将棋岩西田集落から再び山道。説明板をみると堂床山というらしい。1589年(須賀川二階堂氏が滅んだ年ですな)8月、豪雨による山津波で麓の寺院や人家が土砂に飲まれた。この岩はそのときに堂床山から転がり落ちた巨石群のひとつ(転石)。江戸時代になると、馬子たちが転石を将棋盤にし、将棋をさしながら休憩したという。それで将棋岩という。
※馬子(まご)とは、馬の口をとり荷物や人を運ぶ職業の人。「馬子にも衣装」のまご。身分の低い人の職業。

清水の金柄杓

清水の金柄杓清水集落に到着。ここには「清水の金柄杓」または「金びしゃくの井戸」とよばれる泉がある。この水の美味さに感激した大森代官が金属製の柄杓を奉納したので、そう呼ばれたらしい。(てっきり黄金の柄杓かと思ったぞ。)「島根の名水百選・くらしの清水」に選定されている。

松山の道標

道標松山の道標。福光石に”右銀山大森・いづも大社”と彫られている。福光石は室町時代の石仏や墓石でも見られ、石見銀山の五百羅漢でも用いられている。そしてここから先、「温泉津沖泊道」の後半戦は舗装道路が多く、ちょっとつまらなかったかな。

温泉津温泉の町並み

宿泊先のある温泉津温泉に無事到着。温泉津町は、かつての銀積出港として石見銀山遺跡に登録されている「沖泊」のある町。温泉街として「1300年前から続いている」と言われ、日本初の重要伝統的建造物群保存区域「町並み保存」に選定されている。800mほどの町並みが続き、老舗温泉旅館が建ち並ぶ。

伝説では、旅の僧が湯治するタヌキを発見したとか、出雲大社で知られる大国主が病気の兎を湯治させたとか・・まあ、いろいろある。

薬師湯

最高評価の「オール5」の認定薬師湯世界遺産の温泉、薬師湯。社団法人日本温泉協会から最高評価の「オール5」の認定を受けている。自然湧出の源泉100%のかけ流し天然温泉で、泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉。原爆治療にも活用された湯なんだとか。昔から湧出していたが、1872年の浜田地震で湯柱が上がり、それ以降、「震湯(しんゆ)」と言う別名がある。

入湯した感想としては、「オール5」という素晴らしさを感じるにはまだ修行が足りずよくわからない・・。万人が分かるものではなさそうだ。一応、濃厚な温泉成分という雰囲気は何となく伝わった。

温泉津駅

温泉津駅翌朝に乗車した温泉津駅とその周辺。以上、温泉津沖泊道レポート。

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