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江戸城 見附を巡る外堀散策 その3

呉服橋門~虎ノ門までの見附 & 溜池(埋立の外堀通り)


前項の「雉子橋門~常盤橋門」までは日本橋川に置かれた外郭門(見附)だが、呉服橋門から先は、一石橋から分岐した外濠川のほうへ続く。

この頁では、外濠川に置かれた「呉服橋門~幸橋門」、そして汐留川に置かれた虎ノ門、その先、見附ではないが上水ダム池の溜池へ至るルートで紹介する。この外堀ルートは埋め立てられており、概ね外堀通り(東京都道405号外濠環状線)になっている。つまり水堀ではなく陸路を巡る。

四ツ谷駅に展示されていた外堀埋め立てMAP。溜池の埋め立てが最も早く1889年(明治22年)。

江戸城の総構えでは東側に町屋が集中している(黄色系:武家町 / グレー:町屋)。神田橋門~幸橋門までの外堀が、武家町と町屋のはっきりした境界線となっている。よく武家町を門内、町屋を門外と表現される。

呉服橋交差点。ここから一石橋が見える。かつての一石橋は日本橋川と外濠川の合流点で、2つの川の東岸を結んでいた橋である。一石橋の以南、外堀の外濠川は埋め立てられ、外濠川の東岸が外堀通りとなっている。外濠川の埋め立てには、戦後の瓦礫処理のために埋め立てられた経緯がある。

外堀通りは外堀跡のルートを探る目安にはなるが、注意点として神田を通っているルートはまったく外堀跡ではないし、それに外堀の流れに沿ってはいるが外堀跡の真上ではない事が多い。

先述の通り、この呉服橋交差点は外濠川の真上ではなく東岸で、町人町の呉服町に位置している。そのため、この交差点名には呉服橋の名がついているが、実際、橋や門があった呉服橋見附は外堀通りから少し離れた西側に位置している。

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呉服橋門

呉服橋門跡は永代通り(国道20号線)で、TOKYO TORCH Parkの文字がみえるところ。目印に説明板があるが、跡地の名残りは一切ない。呉服橋門は常盤橋門の約200mで近接していた。呉服橋を挟んで外濠川の東岸が呉服町、西岸には大名屋敷が立ち並んでいた。つまり、ここが武家町と町人町との境目であった。

呉服橋門は1636年に築造された。名称は、門前(日本橋側・中央区八重洲1丁目)の町名が呉服町であったことに由来する。呉服町には幕府御用を勤めた呉服師の後藤家の屋敷があった。1871年(明治4年)、呉服橋門は撤去されたが枡形石垣と橋は残っていた。しかし戦後、外濠川が埋め立てられるとその姿も消した。

当時、呉服橋近く、今のTOKYO TORCH Parkにあたりに「道三堀」があり銭瓶橋が架かっていた。


道三堀は和田倉堀につながっていた船入り堀(運河 / 輸送路)で、徳川家康入封の際、居住区を整備した後、物資運搬路が優先事項であり、江戸で初めて造られた堀である。近くに幕府の侍医、曲直瀬道三の屋敷があったことがその名前の由来。呉服橋門の南100mほどの所に北町奉行所跡がある。

北町奉行所跡

呉服橋門の近くに北町奉行所跡。外堀(外濠川)の西岸で武家町、つまり呉服橋門内と呼ばれた地域にあった。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府三奉行のひとつ。1806年から幕末まで北町奉行所が置かれた。時代劇で有名な遠山景元は1840年~1843年まで当所で執務していた。平成12年からの発掘調査で、北町奉行所の上水道(玉川上水)や井戸・屋敷境の遺構が発見された。

現地に北町奉行所跡の説明板が建てられているが、実は跡地と少しずれている。実際の北町奉行所の範囲はその説明板から西30mほどの所にあった。丸の内トラストタワーの館内および、その奥のJR東京駅構内が屋敷跡だ。屋敷跡の北東の位置(丸の内トラストタワーN館)で「石組みの溝」が発見されている。当時の道路側に造られた下水溝の一部である。

その「石組みの溝」が、実際の位置から東30mずれた場所で移築復元されている。本来の石組みは3~4段の石積みとされるが、発見されたときは最下段のみの状態だったという。

溝の角石が斜めに切り取られた形状なのは、「鬼門封じ」とされる。

発掘調査時の様子(下水遺構)。現地説明板より

呉服橋門~鍛冶橋門までの外堀(東京駅八重洲口)

呉服橋門から鍛冶橋門までの外堀跡を巡る。東京駅八重洲口に面した外堀通りは、外濠川の東岸であり町屋側、駅前のロータリーあたりが外濠川の真上に位置する。

八重洲口 タクシー降車場前の外壁モニュメントが、外濠川東岸の境界目安。この外壁モニュメントには、鍛冶橋門の北方で出土した石垣の石が使われている。そして小さく説明板がはめ込まれている。ただし、この外濠川東岸は町屋側であり石垣があった位置ではないので、石垣を用いるのは紛らわしい。

鍛冶橋門の北方で出土した外堀石垣(黄色い枠)。津山藩 松平三河守 上屋敷の東にあった外堀石垣であり、外濠川の西岸の石垣。現在の超高層ビル「パシフィックセンチュリープレイス丸の内」に位置する。石は先述の通り、外壁モニュメントとして八重洲口に移築再現された(赤枠)。

この外堀石垣は1636年の天下普請にて、丹波園部藩の小出吉親によって築かれた。石材は真鶴(神奈川県)産の安山岩で、角の部分は瀬戸内海沿岸から運ばれた花崗岩が使われている。

鍛冶橋門

鍛冶橋門は鍛冶橋交差点付近に位置していた。1629年に築造。名は門外の町名が南鍛冶町であったことに由来する。御用絵師の狩野探幽の屋敷も付近にあった。また、門内では大名屋敷が立ち並び、幕末の頃は津山藩 松平家や土佐藩 山内家の上屋敷があった。武家町と町人町の外堀を挟んだ境目。

1873年(明治6年)に枡形石垣以外が撤去され、1876年にアーチ橋が架橋された。しかし終戦後の瓦礫処理で外堀が埋められたときに橋も姿を消した。現在は交差点に鍛冶橋の名前が残っている。

当時の鍛冶橋門。

明治30年代の鍛冶橋門が描かれている。現在と同様、西にまっすぐ進むと内堀の馬場先門に突き当たる。

鍛冶橋門(北)から数寄屋橋門(南)の間に南町奉行所がある。

南町奉行所跡

鍛冶橋門から外堀跡に沿って南下すると有楽町駅前広場に着くが、ここは大岡越前にお馴染み、南町奉行所があった所である。数寄屋橋門の北で隣接している。旧跡として「下水溝の石組み」を出土した石材で再現している。

1707年に、常盤橋門内(武家町側)から数寄屋橋門内に移転し、幕末まで続いた。名奉行の大岡越前忠相は、1717年から1736年まで南町奉行としてここで執務をしていた。平成17年の発掘調査で「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土している。

有楽町の名前は、織田信長の弟、織田有楽斎に由来する。茶人として知られる。有楽斎は関ケ原の戦いのあと徳川家康に従い、数寄屋橋門付近の屋敷を拝領した。その屋敷跡は有楽原(うらくがはら)と呼ばれ、明治時代に「有楽町」と名付けられた。千代田区はこの説を推しているが、俗説の指摘もある。有楽斎が江戸に屋敷を拝領した証拠がなく、家康とは距離を置いており、隠居後は京都に住んでいるため、江戸に住んでいたことが疑わしいとされる。

南町奉行所の南隣に数寄屋橋門がある。

数寄屋橋門

数寄屋橋があったのは数寄屋橋公園(ルミネ有楽町の前方側)のあたり。

当時の様子

数寄屋橋の名称は、数寄屋橋にて外堀を渡ると数寄屋町に通じることに因む。地図に有楽原の記載も確認できる。ここらの外堀は1957年(昭和32年)に埋め立てられた。

数寄屋橋跡の西側を通る、東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線。日比谷地下道が露出している横断歩道脇から、後ろの首都高八重洲線あたりまでが外堀の幅だったようだ。ここから山下門までは、この高速道路が外堀の水路跡に沿っている。

その横断歩道脇に、数寄屋橋見附のパネル写真(明治元年)が展示されているが説明文は一切ない。

山下門

数寄屋橋の南西200mほどの所に山下門。ガード下に説明板 「山下橋架道橋」のプレートがあり、その名残がある。山下門は1636年に高松藩 生駒高俊によって築造。京橋側の町名が山下町であったことに由来する。門内には佐賀藩 鍋島家の屋敷があった。1873年(明治6年)に撤去されても枡形石垣と橋は残されたが、1900年(明治33年)に外堀が埋められるとその姿は消えた。

当時の山下門。

明治30年代の山下橋付近。

山下門から幸橋門へ向かうJR線沿いは外堀跡。

大正年間、山下門から幸橋付近の様子。外堀(外濠川)の様子が判る。

幸橋門

第一ホテル前にある横断歩道のあたりに「幸橋門」があった。一石橋が架かる日本橋川から分岐し呉服橋から流れてきた外濠川は、ここ(幸橋)で汐留川と合流する。そして汐留川の上流に「虎ノ門」が配置されている。

当時の幸橋門。現地に幸橋門についての説明板はない。

幸橋門があった場所から30mほど南にずれているが、ガード下に名残のプレート「幸橋架道橋」がある。

幸橋門から虎ノ門までの外堀跡(汐留川)

次は幸橋門から虎ノ門まで外堀跡を歩いていく。つまり汐留川の上流へ向かって進んでいく。江戸城改修で埋め立てられるまでは、ここら一帯は日比谷入江が広がっていた。

幸橋門から汐留川の下流は浜御殿(浜離宮恩賜庭園)方へ流れている。途中に「芝口橋」を通るが、これは「新橋」の名の由来になった橋である。1710年に芝口門が築造され新たな見附となったが、1724年に焼失し再建されることもなかった。そのため、当方では外堀の見附としては除外した。

なお、溜池までは外堀通り(東京都道405号外濠環状線)が外堀跡地としてはデタラメなので要注意。このように外堀通りは70mほど離れた所で並行して通っており、実際の外堀跡とは少しずれている。

第一ホテル前にある横断歩道のあたりが幸橋門跡。この第一ホテルから虎ノ門方面に続くビル区画が外堀跡で、幾多のビルを越えた突き当りの央合同庁舎7号館まで行くと、そこが虎ノ門跡である。ここの外堀(汐留川)は1903年(明治36年)に埋め立てられた。現在では浜離宮に注ぐ最下流部の汐留川しか残っていない。

虎ノ門に向かってさらに上流へ。第一ホテルから続くビル郡。つまり汐留川の埋め立て地に建つビルである。

途中、道路が横切っているが、もちろん江戸時代には道はない。

これも外堀跡に建つビル。

外堀跡に建つ「大同生命霞が関ビル」。ここでは外堀に「新シ橋」が架けられていた。

そして、虎ノ門跡地の目安となる中央合同庁舎7号館に突き当たる。

振り返って、歩いてきた外堀跡を確認する(虎ノ門から幸橋門方面を見たところ)。このビルも外堀跡に建っており、堀の幅も大体このビルと同じくらいのようだ。

虎ノ門

中央合同庁舎7号館の北側に三年坂が見えるので、ちょうど桜田通りの虎ノ門交差点付近が「虎ノ門」があった場所だ。かつては外桜田門から続く小田原道が通っていたそうだ。江戸時代初期は日比谷入江に面していたが、家康の改修により日比谷入江は埋め立てられた。

ちなみに、外桜田門から虎ノ門に至る桜田通り一帯は「霞が関」と呼ばれる。江戸時代の地図にはすでに「霞ヶ関」の記述があり、古代、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて関所を置いたことに由来している。

当時の虎ノ門。奥にある高台は延岡藩内藤家の屋敷。虎ノ門の名称は、四神相応の大道を表す「白虎」に由来すると言われている。

紛らわしい位置の虎ノ門跡石碑。外堀通りの虎ノ門駅出入口に「虎ノ門遺址」の碑が建っているが、実際の虎ノ門跡から100mほど離れている。外堀通りに合わせた形で設置したのだろうが、そもそも外堀通りが外堀跡からずれているので仕方がないのか。

虎ノ門を越えると、延岡藩内藤家の屋敷に沿って直角カーブの堀となる。丸亀藩京極家の金刀比羅宮(ことひらぐう)のところでまた直角カーブとなり溜池に至る。左岸には歌川広重の名所江戸百景「虎の門外あふひ坂」で描かれている葵坂がある。

実際、外堀通りも虎ノ門を越えると急カーブになっているが、外堀通りが外堀跡に沿っていないのでまだカーブは緩い。実際の堀跡は金刀比羅宮のある道へ曲がっていく。

虎ノ門交差点を南西に回り込んだ金刀比羅宮に差し掛かる道で、こちらが外堀跡に沿っている。「新聞創刊の地」の碑石が建っており、読売新聞発祥の地でもある。明治7年(1874) 、日本初となる新聞(大衆啓発紙)が読売新聞の前身「日就社」によって創刊された。

虎ノ門外の外堀に面した金刀比羅宮。讃岐丸亀藩京極家の江戸屋敷に勧請された神社である。この通りは外堀(汐留川)の河岸ということになる。

ちなみにここらは新聞創刊地であり、明治7年(1874)、子安峻(こやすたかし)らが、虎ノ門外琴平町1番地(千代田区霞が関3丁目)の旧武家長屋で、日本初の大衆紙「読売新聞」を創刊した。

金刀比羅宮


虎ノ門琴平タワーの複合施設として鎮座する金刀比羅宮。1660年、讃岐丸亀藩の藩主 京極高和が芝の三田にあった江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請したのが始まり。1679年、屋敷の移転とともに現在の虎ノ門に遷座された。現在の虎ノ門琴平タワーが竣工したのは2004年の事。

金毘羅大権現は神仏分離後に金刀比羅宮(ことひらぐう)と称した。「讃岐の金毘羅さん」で知られ、江戸に居ても讃岐国の信仰を側に置いていたかった事が窺える。因みに江戸では諸藩邸内の神仏を一般公開している事が多く、その賽銭収入が期待されていた。

銅鳥居は1821年に奉納された。その円柱には四神が飾られている。

四神を飾ったのは虎ノ門と無関係ではないだろうな。

葵坂(あおいざか)

金刀比羅宮向かいの「虎の門三井ビル」が直角に曲がっていた外堀跡。脇の階段から外堀跡に沿って通ることができ、後述する櫓台跡にたどり着く。この外堀の左岸だったところは葵坂(あおいざか)といい、歌川広重の名所江戸百景「虎の門外あふひ坂」で描かれている。冬の夜景で、葵坂下にある金毘羅大権現(現・金刀比羅宮)へ寒詣した2人連れが登場している。

江戸時代では溜池落口に向かって登り坂になっていたが、現在では平坦な通り道であり一部はこのような建造物の上を歩く状態。この先、商船三井ビルディングが建つ位置が葵坂となっている。

商船三井ビルディングの1階、オープンテラスのレストランがある開けた敷地は、外堀だったようだ。

虎ノ門付近の外堀石垣(国指定史跡)

中央合同庁舎の一帯で、虎ノ門付近では、外堀の石垣が再現修復したものを含め4箇所公開されている。各地点の名称は便宜上のもので、現地案内でこう呼ばれていたのでそのまま採用している。そして、普請分担した西国外様大名家とその範囲までが記録に残っている。

これらの石垣は、国指定史跡の江戸城外堀跡になっている。

中央合同庁舎一帯は、かつて日向延岡藩 内藤家の上屋敷があった跡地で、公開されている石垣のポイントと重ね合わせてみた。屋敷の南端に位置している。

因みに明治時代には、延岡藩 内藤家上屋敷跡地に建てられた「工部大学校」があった。日本初の工学教育機関で1873年(明治6年)開校、東京大学工学部の前身の一つ。1886年に帝国大学と合併、本郷(文京区)に移転したので、跡地は帝室博物館などに使用されたが、1923年(大正12年)の関東大震災で建物は倒壊した。1939年、倒壊した建物の煉瓦などを利用して「工部大学校阯碑」を建てた。

工部大学校建設時の明治10年、まだ堀が現存していた。この地点の堀は文部省庁舎の完成とともに埋められた。では、公開されている石垣を東側から順に紹介していく。

史跡その1: 中庭部の石垣

旧庁舎中庭の石垣。延長35m、高さ4.5mで7段積まれた石垣で、再現修復されている。この地点は九鬼久隆らが築いた。

史跡その2: 地下鉄部の石垣

虎ノ門駅地下出入り口の石垣。延長25m、高さ7.4mで15段積まれた石垣で、再現修復されている。これはほぼ築城当時の高さだそうだ。修復に至っては鍛冶橋の北側から出土した石垣の石材を利用している。東京駅八重洲口に造られた再現移築でも同じ石材が使われてたようだ。この地点の石垣は毛利高直らによって築かれた。

下の階層は地下展示室になっている。

史跡その3: 旧教育会館の石垣

国立教育会館があった場所で、延長9.5m、2段積まれた石垣が公開されている。ここは池田長常が築いた地点である。残念ながら露出している部分は江戸時代に積まれたものではないが、石垣下には旧来の石垣が残っているため史跡指定されている。

国立教育会館時代の石垣。

国立教育会館は、1964年(昭和39年)に教育研修施設として建てられた。この時に外堀石垣の石材を積み替えて使用したのだろうか。法人が2001年に解散した後、国立教育会館は文部科学省の分館として使用されたが、2004年に解体されたとのこと。

この石垣の対角線上に櫓台跡がある。かつて一列に石垣が連なっていた名残り。

史跡その4: 櫓台跡

国指定史跡、外堀の櫓台跡。1636年、因幡鳥取藩 池田光仲によって築造された。現地案内板では「江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓のうちの一つ」と説明している。外堀の隅櫓では他に筋違門と浅草門に所在していたがどちらも取り壊されており、ここが唯一、石垣が現存している。かつて西側の溜池落口に櫓が存在しており、これと一対だったという。

櫓とは要所を見張るための建物。外桜田門を起点とする小田原道が通っていたり、溜池上水の起点であることから、外郭の守備においてかなり重要な地点であったようだ。

櫓台跡の場所は歩道橋の左下。中庭部、地下鉄部、旧教育会館部の3つと一直線のはずだが・・・と困惑しがちだが、これは外堀通りが外堀跡に沿ってないのが原因。

櫓台跡が切り離されて見えるのは、現在の外堀通りが延岡藩内藤家の屋敷跡をぶち抜いているせい。外堀通りが、そのまま外堀跡と思い込まないほうが良い例である。因みに千代田区の境界は水堀の流れに沿っている。

延岡藩 内藤家 上屋敷跡

外堀に面していた延岡藩 内藤家 上屋敷跡を散策する。霞が関ビルディング、中央合同庁舎第7号館、霞が関コモンゲート西館の高層ビルが立ち並び、都心で働くオフィスワーカーの食事処の霞ダイニングがその跡地。

溜池落口

櫓台があった所の霞ヶ関歩道橋。「見晴らしの良い櫓台」とかけて、ここに歩道橋を設置したのだろうか・・・。

櫓台跡側の歩道橋から、赤坂一丁目交差点を臨む。その付近に、潮の干満で海水を含んだ汐留川の水が溜池に逆流しないように設けた堰「溜池落口」があったという。

溜池は江戸初期の上水源であり、この堰(溜池落口)から滝のように水が流れていた。落口とは小さな滝のようなもの。

とりあえず溜池落口があったとされる位置へ。溜池と汐留川の間に位置する溜池落口は少し高まりの場所にあるため、その両脇(東西)はそれぞれ下り坂になっているそうだが、現在では、判るような判らないようなという規模である。かつて溜池落口までの左岸は登り坂だったので、現在ではかなり平坦にした印象がある。

古地図で溜池落口のどんぴしゃポイントを探ったら、特許庁の東の小道だそうで、延岡藩 内藤家 上屋敷跡に向かって登り坂になっている。江戸時代にこの道はない。

溜池

溜池落口から赤坂門までが溜池の規模。溜池は、堤を作って周囲から集めた湧水を堰き留めた人工の池である。江戸城の外堀でもあるが、溜めた水を上水として利用した。溜池の築造は、紀伊和歌山藩主 浅野幸長(よしなが)とされるが詳細不明。港区のHPによれば1606年頃という。

※上水として利用されたのは、小石川上水(1617年~後に拡張して神田上水)、玉川上水(1653年頃)が開かれるまで。

「首相官邸、山王日枝神社、衆議院議長公邸」の台地高まりが理解できる。古地図によって溜池の形状が異なっており、この古地図ではまだ「大溜」は描かれていない。

どうやら、明暦の大火(1657年)以降、徐々に溜池の埋め立てが進んで周囲は変化を遂げている。土砂の流入や塵芥の沈殿も進んでいた。山王日枝神社の東隣にあった二本松藩丹羽家の上屋敷は、もともと谷が入り込んだ地形であったが、溜池の埋め立てにより屋敷地が拡大した。江戸中期には蓮が植えられ、琵琶湖や淀川から鯉や鮒を取り寄せて放したという話もあり、江戸名所として親しまれている。

溜池の大溜

この古地図ではこう描かれている。溜池落口近くに、少し欠けて分岐した池(大溜)があり側に「馬場」が設けられている。馬用に確保した水源なのかもしれない。周囲がだんだん埋め立てられて、町屋や馬場・紺屋物干場などができたらしいので、これは後期の地図だと思われる。

大溜への分岐点は特許庁前交差点のあたり。このように溜池の名残を探すと言っても無いに等しい。首相官邸や山王日枝神社で高低差を感じることくらいか。

1875年(明治8年)頃から干潟となり、周囲は湿地帯の荒れ地となった。明治時代以降、埋め立てられた外堀のうち、溜池が最も早く1889年(明治22年)に埋め立てられた。溜池の名残りは、右岸の「首相官邸、山王日枝神社、衆議院議長公邸」の台地高まりくらいか。

これは数寄屋橋にあったパネル写真で時代の明記がなかったが、明治時代で工部大学校があった頃の地図のようだ。わかりやすいように着色してみたが、溜池がだいぶ細くなっているようだ。

首都高の高架下あたりの溜池交差点。茂みに囲われている北側の高台には内閣総理大臣公邸が建ち、幕末では越後村上藩 内藤家の屋敷だったようだ。

溜池山王駅の地上あたり。首相官邸の高台も確認できる。

首相官邸は、峰山藩京極家および村上藩内藤家の屋敷跡にまたがっている。

溜池山王駅は港区と千代田区の境界に建設されている。駅名では港区が「溜池駅」、千代田区が「山王下駅」を希望したため対立し、「溜池山王駅」で決着した経緯がある。

山王日枝神社。江戸城の裏鬼門に位置している。当時は当然のことながら溜池側からの参道は無く、反対側に表参道がある。

山王日枝神社が鎮座するこの小高い丘は、夜に星がよく見えることに由来して古くから「星が丘」と呼ばれていた。そして、太田道灌が築いた「星ヶ岡城」だったと伝わっている。江戸城の支城または砦として築造されても不思議ではない。※江戸城を築城した太田道灌は1457年に江戸城を居館としたとされる。鎌倉時代の江戸氏がすでに日枝神社を創建していたが、1478年、太田道灌が改めて江戸城内に「川越日枝神社」を勧請したことが山王日枝神社の起源である。

徳川家康が江戸入封すると、紅葉山(江戸城西の丸・宮内庁の近く)に遷座し江戸城の鎮守とした。1604年の江戸城改築で隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。1657年の明暦の大火により社殿が焼失したため、1659年に溜池の現在地に遷座された。

山王日枝神社と同じく星が丘に建つ東急キャピトルタワー。太田道灌が築いた「星ヶ岡城」の本丸跡という説がある。1884年(明治17年)から1945年(昭和20年)の空襲で焼失するまでは「星ヶ岡茶寮」があった所でもある。星ヶ岡茶寮は北大路魯山人ゆかりの料亭で、上級階級の社交場であった。

1963年、星ヶ岡茶寮跡地に東京ヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル)が開業される。2006年に老朽化で取り壊され、2010年に現在の東急キャピトルタワーに建て替えられた。東京ヒルトンホテル時代には、来日したビートルズが最上階(10階)で宿泊したことで知られる。

山王日枝神社から見下ろした溜池跡地。

山王日枝神社から北に少し進んだ所、山王グランドビルとプルデンシャルタワーの間にある「新坂」。この坂は江戸時代にはないが、溜池東側の高台を感じることのできる坂である。登った先、メキシコ大使館で直角に曲がる坂道だが、そのあたりは三河刈谷藩邸があった場所である。

新坂は、明治9年(1876年)の地図にもない。1884年の参謀本部の図では現在に近い道路が確認できるので、その頃にできた新しい坂なのだろう。官庁街に向かう役人、登校を急ぐ学生の様子から「遅刻坂」とも呼ばれている。

新坂の南隣に建つ超高層ビル、プルデンシャルタワーは2002年の開業。杜撰な防火体制による火災事故で知られるホテルニュージャパン(1960~1982年)の跡地である。事故後は、都心の好立地でありながら長らく廃墟や駐車場だった。ちなみに溜池は軟弱な地盤なため、ビル建設に膨大な対策費用がかかるらしい。ホテルニュージャパンの経営ではないが、かつて敷地の地下には高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」があり、1963年に力道山が刺されて後に亡くなる事件が起きている。

ホテルニュージャパン以前では、1936年の二・二六事件では反乱部隊が宿所としていた料亭の「幸楽」跡、江戸末期は岸和田藩邸であった。

溜池の北端~松江藩松平家 上屋敷

溜池を越えた先に赤坂門がある。溜池の北端の東側高台には、松江藩 松平出羽守の上屋敷があった。

溜池の北端、赤坂見附交差点。赤坂門に向かって登道になっているのが地勢の名残。

赤坂門跡に近い歩道橋から溜池の北端を撮影。窪地である事が確認でき、溜池の北東端に位置する松江藩 松平出羽守 上屋敷(衆議院議長ならびに参議院議長の公邸)の高台も確認できる。

ちなみに、反対の西側(この撮影している方角)に500mほど進むと、「豊川稲荷 東京別院」がある。愛知県の豊川稲荷 妙厳寺の直轄別院。大岡越前守こと大岡忠相(1677年-1752年)が自邸の下屋敷で祀っていた屋敷稲荷を起源としている。文京区目白台1丁目5の豊川稲荷神社が大岡越前守の下屋敷と伝わっており、寺院は明治20年(1887年)に現在地に移転している。

松江藩松平家 上屋敷の石垣(衆議院議長公邸 正門側の一部だけ)。

上屋敷の石垣ならびに、江戸城の石垣。埋め込まれているプレートには、「閑院宮邸になったあと、明治20年に皇室より東京女学館に貸与され開校した」と書かれている。その後は麹町に移り、関東大震災後は渋谷御料地に移ったとある。

以上が、呉服橋門~虎ノ門までの見附および、溜池の紹介。埋め立てられて消失した外堀エリアで、だいたい外堀通りに沿ったルートであった。

次は溜池の先、「赤坂門から牛込門に至る江戸城 西方の外堀跡」を巡る。そこは1956年に国指定史跡となった江戸城外堀跡で約4kmの規模である。

その4: 赤坂門~牛込門までの見附(国指定史跡の外堀跡)
【TOP: 江戸城 外堀の概要

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