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江戸城 見附を巡る外堀散策 その4

赤坂門~牛込門までの見附(国指定史跡の外堀跡)

前項では、呉服橋門~虎ノ門までの見附および溜池まで、埋め立てられた外堀跡を巡った。次は溜池の先、「赤坂門から牛込門に至る江戸城 西方の外堀跡」を巡る。

1911年(明治44年)、喰違から牛込までの土手遊歩道を、江戸城外堀として永久保存するため公園化が計画された。1927年(昭和2年)、新見附橋から牛込橋までの区域が「東京市立土手公園」として開設。関東大震災後、市谷堀の一部埋め立てなどもあり、これが後の四谷駅から飯田橋駅(牛込)に至る約2kmの外濠公園となっている。1956年に赤坂門~牛込門までの外堀が国指定史跡江戸城外堀跡となり、約4kmの規模がある。

この赤坂門から牛込門へ続く外堀は、1636年に徳川家光の命により東国大名52家が分担して普請した。この区間の外堀は起伏のある地形(山の手)を巧みに取り入れており、溜池から延びる谷筋(赤坂~喰違)、旧紅葉川の谷筋(市谷~牛込)を利用している。見附と結ぶ橋はすべて土橋となっている。

喰違から四谷にかけては、江戸城の外堀でもっとも高台であったため大規模な掘削工事となった。掘り出された大量の土は谷の埋め立てに利用され、武家地や町屋の拡張に利用されたと考えられる。また、堀工事の1/7を負担した仙台藩伊達家では、5700人の人足を動員したという。

赤坂門から牛込門までの堀。明治期以降、一部が埋め立てられ2つに分かれたことで発生した新見附堀や、明治期にかけられた橋名が由来の弁慶堀があるので、江戸時代に呼ばれた名称ではないことに留意しておこう。

現在では一部埋め立てられているが、起伏の激しいこの堀では湧き水や玉川上水の水を湛えていた。最も水位の高い真田堀と、最も低い牛込門東側(神田川側)との水面高低差は約20mもある。そのため、四谷門・市谷門・牛込門の土橋に堰を設けて水位を調整し、水深を一定に保っていた。

各区域の堀普請を担当した大名家。

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赤坂門

赤坂門は、弁慶堀と溜池に挟まれた位置にあり、江戸城下の西の防御であった。門へは土橋でつながっている。

弁慶堀の東側に現存する赤坂門の石垣。

遊歩道から間近で見られる。

明治初期の赤坂門。

赤坂門の北は武家町だが、「紀州 徳川家、尾張 徳川家、近江彦根藩 井伊家」の中屋敷が並んでおり、各家から1文字ずつとって「紀尾井町」と呼ばれる。※弁慶堀は、明治時代からの名称

赤坂門は、1636年に筑前福岡藩 黒田忠之により枡形石垣が造られ、1639年に御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が造られた。赤坂門は、大山(阿夫利神社)や大雄山最乗寺参拝の出発点であり、大山道につながっている。江戸名所図会によれば、江戸城の城門のなかでも優れた縄張りであったとされる。1871年(明治4年)に櫓などの建築部分は撤去され、明治30年代には石垣もほとんど撤去された。

※1872年(明治5年)に武家地が整理され「麹町紀尾井町」となり、1911年(明治44年)に紀尾井町となる。かつて、現在の千代田区のうち神田区以外が麹町区であった。1947年に、神田区と麹町区が合併して、千代田区となった。

江戸時代の赤坂門と現在の赤坂門跡。西に冠木門(高麗門)、南に櫓門の枡形門だったようだ。枡形石垣の内側に関する史跡は何も残っていない模様。

少し高い歩道橋から撮影。東京ガーデンテラス紀尾井町のひとつ、賃貸マンション「紀尾井レジデンス」が見えるこの北側は、紀州徳川家 紀州藩麹町邸(中屋敷)があった所である。昭和・平成にかけては赤プリこと、赤坂プリンスホテル(グランドプリンスホテル赤坂)があった場所でもあり、2011年にホテル営業が終了し、2013年に解体工事が完了した。

現在の歩道がちょうど高麗門を抜ける方向になっている。当時であれば、高麗門をくぐったら右側(車道)へ直角に曲がって櫓門をくぐることになる。

赤坂門の北 紀州藩邸(中屋敷)

紀尾井町は「紀州 徳川家、尾張 徳川家、近江彦根藩 井伊家」の中屋敷が並んだエリアで、赤坂門のすぐ北には紀州藩邸(中屋敷)がある。清水坂(紀尾井町通り)、諏訪坂(プリンス通り)、清水谷坂に囲まれた敷地で、現在は東京ガーデンテラス紀尾井町(赤坂プリンスホテル跡)、清水谷公園、駐日バングラデシュ大使館、文藝春秋ビル本館などがある。

ちなみに、紀州徳川家の上屋敷跡は迎賓館、下屋敷跡は旧芝離宮恩賜庭園。

赤坂門のすぐ北は紀州藩麹町邸だが、枡形石垣の一部が「空の広場」というスペースになっている。ここでは紀州藩邸にあった下水溝の一部を再現している。

空の広場。

紀州藩邸 下水溝の一部を再現。

空の広場(西側)から見る弁慶堀。江戸時代には無かった弁慶橋が見える。

弁慶堀と、紀州藩邸側の石垣。

弁慶堀

赤坂門の西に位置する弁慶堀は、北西の喰違土橋につながっている。北向かいの崖は彦根藩井伊家の中屋敷があった場所で、今はホテルニューオータニの敷地。弁慶堀など牛込橋に至る堀や土手の遺構は、1956年に江戸城外堀跡として国指定史跡に指定されている。

弁慶堀の東端に赤坂門の石垣が見える。


弁慶堀に架かる弁慶橋は江戸時代にはなく、1889年(明治22年)に架橋され、紀尾井町と元赤坂がつながった。現在では「紀尾井町通りの玄関口」と言われる。紀尾井町通りは、大久保利通が襲撃された「終焉の地」で知られる(事件を「紀尾井坂の変」というが、実際は紀尾井坂ではない)。

この弁慶橋は、もともと藍染川に架かっていた神田弁慶橋(岩本町1丁目)の廃材を利用して架橋された。橋名の由来は、江戸城普請に携わった大工棟梁の「弁慶小左衛門」とされる。安易に想像していた武蔵坊弁慶の事ではない。現在の弁慶橋は鉄筋コンクリート橋で1985年に改築されたもの。

弁慶橋が架かる以前、後の橋南詰となる場所に玉川稲荷社(別当:観善院)が鎮座していたが、赤坂氷川神社の境内へ遷座された。明治31年(1898年)に古呂故稲荷・地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷の4社が合祀され、現在は四合稲荷(しあわせいなり)になっている。

弁慶橋から喰違土橋方面を見た時の弁慶堀。首都高が弁慶堀および、紀伊国坂(きのくにざか)に沿って架けられている。

紀伊国坂を上りながら眺めた弁慶堀。


喰違土橋から見下ろした弁慶堀。

紀伊国坂

紀伊国坂は、赤坂迎賓館(紀州藩上屋敷跡)の東にあり喰違見附まで上る坂である。名称の紀伊国は紀州藩上屋敷にちなむ。小泉八雲の怪談「むじな」に登場するのっぺらぼうの話は、この紀伊国坂が舞台。

迎賓館付近の高台は赤根山と呼ばれており、茜草(アカネ)が生える山だった。そのため紀伊国坂は、茜坂(あかねざか)、赤坂とも呼ばれた。これが赤坂という地名の由来になっている。

喰違見附


喰違見附は、土塁を前後に延ばして敵の進行を阻む虎口構造となっている。土橋の先には木戸を設けていた。これは戦国期以来の古い形態であり、江戸城外堀で多く見られる「石垣を巡らせた枡形門」の見附とは大きく異なる。喰違は弁慶堀(南)と真田堀(北)の深い谷に挟まれた高台であり、江戸城外堀では最も標高が高い。ゆえに江戸城西側の最大防衛地点と思われる。

なお、この木戸跡を通る道が「紀尾井坂」であり、「紀州・徳川家、尾張・徳川家、彦根藩・井伊家」の中屋敷跡に接する道となる。この写真でいうと、左が尾張・徳川家(上智大学)、右が彦根藩・井伊家(ホテルニューオータニ)。

喰違土橋。

喰違見附は、1612年に旧甲斐武田家臣・小幡景憲によって築造されたと伝わっている。甲州流軍学の創始者としても知られる武将である。1636年の天下普請では、大規模な外堀工事が行われた。江戸時代、現在の紀尾井町と元赤坂を結んだ喰違土橋であるが、1889年(明治22年)には赤坂門近くの弁慶堀に弁慶橋が架けられた。


1861年の、喰違土橋および木戸の様子。左側に真田堀が描かれている。


現在は喰違土橋から、北方面に真田堀こと「上智大学真田堀運動場」に下る道がある。


喰違の木戸跡を通って右側(南側)には彦根藩・井伊家中屋敷跡があり、現在はホテルニューオータニ。1964年(昭和39年)開業 のホテルで、東京オリンピックの外国人来訪受入れ施設として着手。最上階の回転ラウンジ(ブルースカイラウンジ)は、外国人観光客に富士山を堪能してもらうために設計された。2018年以降は安全面の理由より停止されている。ラウンジの回転機構には、戦艦大和 主砲台の回転技術が用いられている。

喰違の土塁は土手遊歩道になっており、真田堀に沿って歩くと四谷門に至る。そういうこともあり、真田堀の土塁とも言える。

1911年(明治44年)、喰違から牛込までの土手遊歩道を、江戸城外堀として永久保存するため公園化が計画された。1927年(昭和2年)、新見附橋から牛込橋までの区域が「東京市立土手公園」として開設された。関東大震災後、市谷堀の一部埋め立てなどもあり、これが後の四谷駅から飯田橋駅(牛込)に至る約2kmの外濠公園となっている。


喰違土橋から市谷土橋までの堀、真田堀~市谷堀を担当した大名家。

真田堀


喰違土橋の北側、四谷門の南側に広がる真田堀。真田信之が関わったことに由来するのだとか。真田堀は、1636年の天下普請で台地を深く掘削して造られ、最大13mも地面を掘り下げている。その土で四谷門外の東西の谷を埋め立て、四谷伝馬町や四谷塩町・伊賀町などの町を造ったという。


真田堀跡の谷間は上智大学運動場のほか、四ツ谷駅にも利用されている。


真田堀の北端はJR四ツ谷駅の駅ホーム。


JR総武線または中央線に乗車すれば、それは、in 真田堀。


四ツ谷駅改札口近くに設けられた空洞は、国史跡江戸城外堀跡(真田濠地区)となっている。


史跡保護されている真田堀の地点は、四谷門跡近く。


埋め立てられる前の真田堀。明治末から大正初年ごろの四谷見附情景。

1950年(昭和25年)、戦災の瓦礫を処理するため真田堀は埋め立てられた。その後、上智大学のグラウンドになっている。埋め立てても当時の水面と同じ高さにしてあるため、当時の規模を体感することはできる。土塁部分は江戸時代のまま残されている。

飯田橋駅で展示されていた真田堀の写真(たぶん明治期)

真田堀の土塁


尾張・徳川家中屋敷(上智大学)側の、真田堀土塁。喰違見附の土塁と一体化している土手である。

真田堀の掘削による大量の土砂で高さ5mの土塁も築いている。真田堀の土塁としているが、喰違見附から延びているこの土塁は整備され土手道になっており、四谷門跡(JR 四ツ谷駅)につながっている。西に真田堀の見晴らし、東は尾張徳川家の中屋敷跡である上智大学四谷キャンパス。

ちなみに、尾張徳川家の上屋敷跡(市ヶ谷上屋敷)は現在の防衛省。下屋敷は早稲田大学 西早稲田キャンパス近くの戸山公園・戸山ハイツ。


土手の下で上智大学側は「ソフィア通り」と呼ばれている。土手の上は「ソフィア散歩みち」という。

真田堀の西隣りには紀伊国坂から続いている迎賓館があるが、かつての紀州和歌山藩徳川家の上屋敷である。外堀の外側、見附の門外、つまり城外に位置している。明暦の大火(1657年)では、外堀の内側(門内)の大半が焼失した経緯があり、御三家の上屋敷は江戸城外(門外)に移転している。

四谷門


四谷門は麹町と新宿区四谷方面を結んでおり、江戸城半蔵門を起点とする甲州街道の通過点で、物資や町人が行き交う門として交通の要所であった。門の警備は3年ごとに旗本が担当していた。

1639年に萩藩 藩主・毛利秀就によって枡形石垣が築造された。1639年に旗本・室賀正俊と大岡正清によって門が構築される。当初は外麹町口、四谷口、山の手口などと呼ばれていたが、1673年~1681年(延宝年間)頃には四谷門と呼ばれた。ちなみに、四谷という地名は、武州豊島郡霞村関戸という原野に百姓家が四軒あったことに由来しているという。


1872年(明治5年)に門が撤去されたが枡形石垣は残された。市電の敷設に伴い、1899年(明治32年)にはそれもほとんど撤去され現在は少しだけ現存している。


四谷門外の図。位置からして手前が真田堀。土塁の規模が想像以上に大きい。

四谷見附の配置。

四谷見附の土橋。現在では半分が土橋だが、残りはJR線の架橋になっている。現在は南隣の四谷見附橋(1913年開通)が主な街道となっている。

市電が通っていた頃の四谷門土橋。

1988年、JR四ツ谷駅改修工事で発掘された四谷門石垣の石(角の部分)が展示されている。

四谷門 南側の石垣

四谷門 南側に少しだけ隅石部が残っている。1988年、JR四ツ谷駅改修工事に伴う発掘調査が行われ、渡櫓門石垣下段の内、5段が発見された。石には「雁金紋」の刻印が確認され、毛利家の普請であることが裏付けされた。

一部が露出した状態で保存されている。

四谷門周辺から玉川上水の木樋(もくひ)や石垣樋が発掘されている。※給水のために地下に埋設された樋管

四谷門 北側の石垣

冠木門北面にあたる枡形石垣の一部。

石垣の上に生い茂るムクノキは江戸時代からあるとのこと。稲荷が祀られていたそうだ。

一部、石垣が土手に埋もれている。

南側の喰違土橋から四谷門まで土手道が続いてきたが、四谷門から北も土手道が続いている。枡形石垣と一体となっているこの土手道は、古地図にも描かれていた。

市谷堀

四谷門から市谷門へ向かって進むが、その間にある市谷堀は現在、「南は埋め立て地、北は水堀」となっている。その土手側にJR線が通過している。国指定史跡にもなっている外濠公園としては飯田橋駅付近から四ツ谷駅南側までの約2kmの範囲である。

1926年(大正15年)、関東大震災からの復興にて砂利置き場に活用するため、現在の外濠公園グラウンド一帯(市谷堀の南側)が埋め立てられた。1936年(昭和11年)に土手の部分と埋め立て地が外濠公園として開設された。

市谷堀の堀さらい作業分担

赤坂門から神田川に入るまでの区域の堀は川ではないので水循環が悪い。1636年(寛永13年)の天下普請で江戸城外堀が築かれた後、大名の手伝普請によって頻繁に堀さらいが行われている。赤坂門から水道橋(当時は吉祥寺橋)まで、8つの丁場(工事区域)に分けられていた。各丁場ごとに6家が担当した。

1645年、江戸幕府の命により行われた市谷堀の堀さらい作業分担図(堀浚丁場図)。8つの丁場のうち、市谷堀は二番丁場と三番丁場に当たる。この市谷堀の堀さらいでは、東国の大名6家(真田・佐竹・南部・水野・松平・鳥居)によって行われている。

市谷堀の埋め立てエリア

JR四ツ谷駅の北、市谷堀を走るJR線。

明治30年代の市谷堀(四谷~市谷間)。明治27年に開業した甲武鉄道(後のJR中央線)は外堀の土手を削って線路が敷かれた。

飯田橋駅で展示されていた明治期の市谷堀。

外濠公園グラウンド一帯、埋め立ての様子。

市谷堀の外濠公園

1926年(大正15年)、関東大震災からの復興にて砂利置き場に活用するため市谷堀の一部を埋めててしまったが、現在は千代田区立外濠公園となっている。

外濠公園総合グラウンド テニスコート。

外濠公園野球場。

市谷堀 東側の土手

市谷堀の東側では、江戸城外堀の土塁が土手道として整備されている。

市谷門に向かって進むが、しばらくは埋め立てられてたJR総武線・中央線の風景が続く。

市谷門の手前200mほどのところで、市谷堀の水堀に遭遇。

JR市ヶ谷駅に到着。市ヶ谷橋から臨む市谷堀。水堀として残った範囲が一望できる。

市谷門

麹町警察署市ヶ谷見付交番の東隣、駐輪場の奥に、市谷門橋台の石垣がごく僅かに残されている。

1636年、市谷門は津山藩 森長継によって築造された。

1871年(明治4年)に枡形石垣と土橋を残して撤去され、のちに枡形石垣も撤去された。

1871年(明治4年)の市谷門。


こちらは写真で、明治初期の市谷門。

市谷門土橋の石垣。市谷門土橋は、現在の五番町・九段北四丁目と市谷田町・市谷八幡町を結んでいる。

橋の上からだと想像できない江戸城の遺構である。

土橋なので堰が設けてある。

北東の牛込門方面(飯田橋駅方面)で、市谷門と牛込門の間の外堀。ここは本来であれば牛込堀であるが、明治期、堀の間に新見附橋が新たに架橋されたため、この南半分を「新見附堀」と呼ぶ場合がある。しかし江戸時代にあった堀の区画ではないので、あまり呼びたくはない名称である。牛込堀内 新見附堀とでもしておくか。

新見附堀とJR総武線。奥に市ヶ谷橋が見える。新見附堀の底には東京メトロ有楽町線 市ヶ谷駅があって、景色を観るだけでは想像もつかない。

JR総武線に乗っていて「かねふく」の看板が見えたら、「新見附堀を走っているのか・・すぐに市ヶ谷駅だ」と認識できる。

市谷門の北西、市ヶ谷台に「防衛省市ヶ谷庁舎」があるが、かつて御三家・尾張徳川家の上屋敷があったところである。外堀の外側、見附の門外、つまり城外に位置している。明暦の大火(1657年)では、外堀の内側(門内)の大半が焼失した経緯があり、御三家の上屋敷は江戸城外(門外)に移転している。

陸軍士官学校跡を経て参謀本部(大本営陸軍部)だった頃は、1946年(昭和20年)に極東国際軍事裁判法廷で利用された。戦後、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地になるが、1970年に三島事件が起きている。

牛込堀

先述の通り、牛込堀は新たに中間に新見附橋が架けられたため、明治期以降は南側を新見附堀、北側を牛込堀と呼ぶことがある。江戸城の遺構としては「新見附堀」と呼びたくはないものだが、ここでの説明は便宜上分けて呼ぶことにする。新見附というものの、江戸時代に見附が存在したわけでもなく、紛らわしいだけの受け入れ難い名称だ。

牛込門へ向かって土手を歩くが、突き当りに新見附橋が見える。先述の通り、ここは牛込堀内の新見附堀。

新見附堀の北端。そして新見附橋の土橋の様子。

新見附堀の土橋で北側。仕切られた以上、この先から牛込堀と呼ばれる。

明治中頃、牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて新見附橋が架けられた。旧麹町区と旧牛込区の住民が行き来する橋であった。鋼橋である現在の新見附橋は昭和4年(1929)に架橋された。

新見附橋近辺の土手。

新見附橋の北に続く牛込堀。400m先の飯田橋駅が見えるが、そこが牛込門。

牛込堀を眺めながら北方の牛込門を目指す。東側には法政大学のキャンパスがある。

牛込橋(JR線の真上)から眺めた牛込堀。

同じく、牛込橋から牛込堀を臨む。

高い位置から。

昭和初期の牛込堀と土塁(土手)。

牛込門


牛込門跡はJR飯田橋(西口)のあたり。土手道を歩いてきたのなら、枡形石垣のところに到着する。国指定史跡の外堀跡はここまで。

現在のJR飯田橋駅ホームは、2020年に従来の位置から200mほど西に移設している。江戸時代であれば、牛込堀と飯田濠の中間。1894~1928年までは甲武鉄道(JR 中央線の前身)の「牛込駅」があった場所である。

1928年に牛込駅と近くの飯田町駅が統合され、両駅ホームの中間に「飯田橋駅」が開業した。この従来の飯田橋駅ホームは外堀に沿った急カーブであったため、停車した電車とホームの隙間が広く、転落事故が起きていた。

さて、外堀の見附に話を戻す。牛込門は1636年、徳島藩 蜂須賀忠英により築造された。門の北西(牛込方面)には、かつて小田原北条氏家臣で牛込氏が居城していた牛込城があり、牛込門という名称の由来と考えられる。四谷から牛込にかけては神田川支谷の広い谷が広がっており、その地形を外堀に利用している。堀幅が広く、急峻な土手を築いており防御性が高い。江戸城北の丸 田安門を起点とする上州道の出口といった交通の要衝地で、周辺には楓が植えられ紅葉時は見ごたえがあったという。

富士見教会の建て替えで発見された、牛込門の基礎として地中に設置された石垣石。「~阿波守内」という銘文があり蜂須賀家が普請した裏付けになっている。

1871年(明治4年)に門は撤去された。明治35年には石垣の大部分が撤去されたが、一部は残っており、江戸城外堀の見附のなかでも比較的当時の面影を残している。

神楽坂側から観た牛込見附(1871年・旧江戸城写真帖牛込見附図)。堀に面している土塁や、土橋の堰、荷揚げと思われる船が確認できる。手前の堀は、昭和47年の市街地再開発事業で埋め立てられてしまった飯田濠のようだ。

牛込見附の構造図。石垣を方形にめぐらし(枡形石垣)、土橋から入る冠木門(高麗門)、渡櫓と一体化した大御門の二重の門を配置している。これを枡形門という。土橋を渡り冠木門を通り枡形石垣に侵入した敵を渡櫓や石垣の上から一斉攻撃する仕組みである。

橋を渡ると冠木門があったわけだ。この奥が江戸城内。

もうワンショット。

櫓台 南西側の枡形石垣

櫓台南西側の枡形石垣。

南西側の土塁と櫓台

飯田橋駅ホーム(外堀の中)から見た様子。

当時だったら、大御門の目の前である。

櫓台 南東側(跡地のみ)

南東(江戸城 北の丸・田安門の方面)の枡形石垣跡。タイルのデザインを変えて跡地が判るようになっている。

手前の石垣は無くなったが、この頂きに渡櫓が載っていたわけだ。横断歩道を越えた先にも飛び地のようにタイル・デザインが続いている(石垣跡の規模は横断歩道を越えているが、横断歩道までデザインを変えられない)。

北東の枡形石垣

北東の枡形石垣、飯田橋駅のほうから観た様子。

北東の枡形石垣、道路側(東側)からみた様子。

牛込橋と堰

当時の牛込橋は土橋であった。真田堀から牛込までの堀は、牛込に向かって段々と水位が低くなっていくため、牛込見附の土橋には堰を設けて水堀の水位を調整していた。

上から牛込橋。

牛込橋からセントラルパークを結んでいる橋のあたりに堰(落口)の名残りを感じる。

堰から水が流れている様子。

上から堰を見る。

牛込堀と牛込橋と堰。

堰の水路面で使用されていた石材が、駅舎工事にあたり発掘された。

神楽坂 花街

牛込門に通じる交通の要衝、神楽坂。江戸城外であるこの坂の周辺には、善國寺(毘沙門天)・若宮八幡・赤城神社など多くの寺社が散在する。明治時代には、城外(新宿区側)の武家屋敷が空き家となるが芸姑置屋や料亭になり、大正時代には隆盛を誇った「神楽坂花街」が形成された。関東大震災後は日本橋や銀座から商人が流入し夜店が多くなり、一時は「山の手銀座」とも呼ばれた。

一方、城内(千代田区側)の武家屋敷跡は学校などが建てられた。

名称の由来に諸説ある。高田穴八幡の祭礼で神輿が通るときに神楽を奏した、「若宮八幡の社」の神楽の音がこの坂まで聞こえた、津久戸明神(築土神社)が移転した時に神楽を奏すると容易に御輿を担いで上ることが出来たなど。

牛込見附とそれに連なる土塁

櫓台と連なっている牛込見附の土塁(南側)。かつて牛込駅の駅舎があった場所でもある。駅舎跡は土塁に食い込むようにして薬局が建っており、駅舎の石垣が残されている。飯田橋駅ホームもここまで延びており、移設工事中では「牛込駅の復活か」などと噂されたとか。

牛込駅の駅舎跡。土塁に食い込んでいる薬局と飲食店。

土塁を固めている石垣は、牛込駅の駅舎の名残りのようだ。

今度は牛込見附の北側の土塁。1915年、4代目広重(菊池貴一郎)が書き留めた幕末から明治期の様子。

その北東に延びている土塁のイメージが復元されている。かつて芝で覆った土手に松杉の苗を二列植えて、土留と遮蔽の役割を担わせたという。明治期の道路拡張や鉄道敷設により土手は数度に渡り削り取られてきたが、地中には江戸時代の土塁の一部が残っているそうだ。

飯田橋駅二階テラス「史跡眺望デッキ」から観た復元土塁

復元だが無いよりはマシか・・・

以上、赤坂門から牛込門まで江戸城西方の外堀跡、国指定史跡の江戸城外堀跡(約4km)を巡った。次の頁から「神田川に置かれた見附」のコンテンツとなり「小石川門」から巡るが、小石川門までの道中に飯田濠、船河原橋を通過するので、そこまでをこの頁で紹介する。

飯田濠(消滅)

牛込土橋の堰の先に続く江戸城の外堀では、神田川に合流する船河原橋までの間に「飯田濠」があった。江戸時代には海からここまで船が上がってきて、米、味噌、醤油、酒、材木などが荷揚げされた(牛込揚場)。

戦後直後の飯田橋駅航空写真。牛込堀と神田川の間に飯田濠があった。

牛込揚場(飯田濠)の絵図。

1660年、牛込~和泉橋の堀さらいが行われ神田川(外堀)を逆上って牛込橋までの通船が可能となった。そのため神田川沿いには河岸ができた。牛込橋東側の堀端には町方揚場と尾張様物揚場があり、武家地や町人地へまきや炭などの荷物を運ぶ軽子が「軽子坂」を往来したという。

昭和47年に市街地再開発事業としてビル建設が決定され、地元民の反対運動もあったが飯田濠は埋め立てられた。濠を保存してほしかったという地元民を慰撫するためか、水堀イメージ空間の「人工せせらぎ」を造った。しかし現状は干上がっているか、水たまりのような有り様になっている。1984年に暗渠となり、江戸城外堀の水は、この「人工せせらぎ」の地下水路を通って従来通り神田川に注いでいる。

1956年に赤坂門~牛込門までの外堀が国指定史跡になったが、飯田濠まで指定されていなかった事が悔やまれる。牛込揚場として江戸文化の歴史的価値は十分あったはずなのだが。

飯田濠跡に建つ、飯田橋ラムラ(RAMLA)

悲しいかな、飯田濠跡を歩く。江戸城の外堀は、戦後の瓦礫処理や関東大震災でやむ無しの埋め立てはあったが、高度経済成長期の欲を優先した埋め立ては「飯田濠」だけである。二度とない事を祈る。

船河原橋。江戸時代では外堀に沿って旧江戸川に架けられていた。

江戸城外堀は「溜池、弁慶池、真田堀、市谷堀、牛込堀~」と独立した外堀が続いてきたが、ここから神田川に合流する。

現在の船河原橋は神田川の南北対岸を結ぶ橋になっているが、江戸時代では北から流れて合流する神田川(旧名称:江戸川)の東西に架けられていた。つまり、外堀通りに沿った位置に架橋されていた。

ここは旧平川を埋め立てた起点であり、神田川の流路を船河原橋あたりで東に曲げる大工事が行われた地点である。

この先、小石川門(水道橋駅近く)へつながる神田川の下流方面。

その5 : 神田川に置かれた見附(小石川門・筋違門・浅草橋門)
【TOP: 江戸城 外堀の概要

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※DELLは、「顧客満足度調査 2019-2021年 デスクトップPC部門3年連続1位」 ※出典-日経コンピュータ 2020年9月3日号より

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