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江戸城 見附を巡る外堀散策 その5

神田川に置かれた見附(小石川門・筋違門・浅草門)

江戸城外堀は、【江戸城 外堀の概要】で説明した通り、雉子橋門から渦巻きの形(のの字)で時計回りに諸門(見附)をめぐる。雉子橋門~呉服橋門~赤坂門~牛込門と各見附を経て神田川に合流する。神田川は三鷹市井の頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川へ注ぐ全長約25kmの都市河川である。

前頁では赤坂門~牛込門までの見附(国指定史跡の外堀跡)を紹介した。外堀編最後となるこの頁では、その先、神田川に置かれた見附の「小石川門筋違門浅草門」を紹介する。

小石川門の前に、まず神田川が東に曲がる船河原橋(ふなかわらばし)からスタートする。JR 飯田橋駅の隣である。

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船河原橋から小石川門まで

現在の船河原橋は神田川を跨ぐ橋になっているが、江戸時代では北から流れて合流する神田川(旧名称:江戸川)の東西に架けられていた。船河原橋のある地点は、江戸城築城の際、洪水を防ぐために堀留まで旧平川を埋め立てた起点。そして神田川の流路を隅田川のある東に曲げる大工事が行われた地点である。

現在の船河原橋は昭和45年(1970年)に架けられたコンクリ-ト橋。飯田濠跡に建つビル「飯田橋ラムラ」の東隣。

北から流れてきた神田川(旧称:江戸川。1970年に神田川で統一)は、直角に東へ流れる神田川となる。この先、神田川の下流に進むと小石川門(水道橋駅近く)につながる。

飯田橋という地名

1590年(天正18年)、徳川家康が江戸の入封したとき、農村地帯だったこの土地を家康に案内したのが、「飯田喜兵衛」という人物だった。家康はこの一帯を「飯田町」と命名した。1881年(明治14年)に外堀を跨ぎ飯田町と結ぶ橋の「飯田橋」が架けられた。1928年(昭和3年)に「飯田橋駅」が開業すると、飯田町ではなく「飯田橋」が地名として浸透していった。

現在ある橋は、飯田橋と船河原橋だが、江戸時代では船河原橋だけである。旧称:江戸川の東西に架かっており、当時、ここに外堀を跨ぐ橋は無かった。

飯田橋の歩道橋から観る、神田川直角地点

神田川が東に向かって直角に曲がる地点「飯田橋」は非常に複雑な交差点である。まず歩道橋が枡形石垣ならぬ「枡形歩道橋」で方形の構えになっている。そんな歩道橋から各方面を眺めてみる。

南西方面にJR飯田橋駅の東口、そして飯田橋ラムラ(RAMLA)のビル。本来なら飯田濠(牛込揚場)で、牛込堀から続いた水堀であったが、昭和47年の市街地再開発事業によって消滅した。

2020年までは現在の飯田橋駅 東口のところが駅ホームであったが、新宿駅方面の西200m(牛込門跡)に移設された。この従来の飯田橋駅ホームは外堀に沿った急カーブであったため、停車した電車とホームの隙間が広く、転落事故が起きていた。

北方面。北から流れてくる旧称:江戸川。ここから直角に曲がり神田川と合流する川だが、名称は1970年に神田川で統一された。現在、旧称:江戸川を跨いでいる橋は五叉路の「飯田橋」。

南方面。奥に外堀(神田川)を跨ぐ船河原橋が見える。手前、自動車が走行している所が飯田橋。江戸時代ではここに外堀を跨ぐような橋は架けられていない。飯田橋が架けられたのは1881年(明治14年)。1908年(明治41年)には鉄橋に架け替えられた。関東大震災後、1929年(昭和4年)にコンクリート製の橋に替えられ現在に至っている。飯田橋という橋の名が町名として採用されたのは、1966年(昭和41年)のこと。

同じく南方。目白通り(東京都道8号千代田練馬田無線)と、2020年まで飯田橋駅ホームだった場所のガード下。神田川が直角に曲がる位置でもあり、外堀も東へ急カーブする位置である。この急カーブが電車降車時の落下事故を招いていた。

飯田橋駅ホーム北端。外堀・神田川に沿っているため、このようなカーブ。現在は牛込見附の方に延長、移設したので、北端は使用されていない。またホーム北側では柵があり乗車・降車はできない。

小石川門へ向かう ~ 道中の市兵衛河岸

小石川門のある東方面。手前に見えるのが船河原橋。現在では外堀(神田川)を跨いぐ橋だが江戸時代は違う。

同じく小石川門のある東方面。古地図をみると、神田川の流路は、この平べったいビル群と車道の方にあったようだ。右側、JR線の土手は江戸城の土塁を利用していると思われる。

外堀・神田川の南岸、その土塁下を歩く。「ここが江戸城の水堀だった」と思いを馳せながら歩く人間は稀なんだろうな。

一方、外堀・神田川の北岸では、船河原橋から小石川橋~水道橋までが「市兵衛河岸」であった。河岸には、昌平橋との間を往復する船着き場(客船用)や物揚場があった。1732年の『江戸砂子』によれば、岩瀬市兵衛の屋敷があったことに由来する。※写真は船河原橋から小石川橋の間で、首都高速と外堀・神田川が重なっている地域。

※現地の説明板では船河原橋~水道橋の範囲を市兵衛河岸と言っているが、幕末の古地図(大江戸今昔めぐり)では小石川橋~水道橋までになっている。

岩瀬市兵衛の屋敷は船河原橋に近く、現在の住友不動産飯田橋ビル5号館あたり。幕末の古地図には、その場所は稲生出羽守の屋敷と記載されている。

小石川門

小石川門跡1636年の天下普請で、岡山藩 藩主・池田光政によって築造された。1872年(明治5年)に枡形石垣が取り壊され、1877年、その石材は常盤橋(石橋)に利用された。

城門を撤去した際には小石川橋(木橋)を架け直している。関東大震災で被災した後は、1927年(昭和2年)に鋼橋に架け替えられた。老朽化のため2012年に改修されている。

水道橋分水路側から見た小石川橋。

1871年(明治4年)の小石川門。

小石川橋の下を流れる神田川。

小石川橋の北には徳川御三家・水戸藩の上屋敷跡。現在のTokyo Dome Cityおよび、庭園だった部分は都立小石川後楽園になっている。外堀の外側、見附の門外、つまり城外に位置している。明暦の大火(1657年)では、外堀の内側(門内)の大半が焼失した経緯があり、御三家の上屋敷は江戸城外(門外)に移転している。

小石川橋の側には、神田川と日本橋川の河川分流点。江戸時代では江戸城の洪水を防ぐため、ここから「堀留」までの日本橋川は埋め立てられている。1903年に再び開削され現在に至っている。

日本橋川の南(下流)、つまり小石川門の南に進むと、讃岐高松藩の上屋敷および中屋敷があり、さらにその先が事実上の江戸城外堀の起点「堀留」となっている。そのエリアは、日本橋川の見附 編で紹介している。

日本橋川を跨ぐ三崎橋。および、そこから見える小石川橋の様子。三崎橋は明治期の日本橋川再掘削にともない架橋されたが、現在の鋼橋は1954年に改架された。

東へ、さらに神田川の下流へ進む。

小石川橋と水道橋の間の北岸に、市兵衛河岸の案内板あり。砲兵工廠の荷揚げ場として賑わった。明治時代では、市兵衛河岸から神田の昌平橋まで往復した客船があり、「早船」といわれた。市兵衛河岸という地名は昭和39年に消滅した。

水道橋と神田上水 懸樋(かけひ)跡

外堀・神田川に架かる現在の水道橋。JR線は土塁の上であり、現在の高架下の位置に「三崎稲荷」があったようだ。現在の橋は、1928年(昭和3年)、関東大震災の復興事業で架けられた鋼製アーチ橋。

古地図を見ると、江戸時代では現在の位置よりやや東側に架かっていた。都立工芸高校(吉祥寺跡)の正面。神田川の開削に合わせて架けられたであろうから、架橋時期は江戸時代初期だろう。水道橋のすぐ北側(都立工芸高校)に吉祥寺があったので「吉祥寺橋」と呼ばれた時期もある。しかし、吉祥寺が明暦の大火(1657年)で焼失し文京区本駒込三丁目に移ったので、そう呼ばれなくなった。

吉祥寺跡に建つ都立工芸高校

吉祥寺について補足 : 吉祥寺は太田道灌によって江戸城 西の丸(現・皇居宮殿)に創建された。徳川家康が江戸に入封すると、江戸城改修のため水道橋のところへ移転させた。明暦の大火(1657年)で焼失したあとは文京区本駒込の地に移転して現在に至る。

この明暦の大火で吉祥寺と供に「門前町」も焼失したが、水道橋は大名屋敷として再建することになった。焼け出された門前町の住人を移住させた開墾先が、現在の「武蔵野市吉祥寺」である。吉祥寺を偲んだ住人たちが「吉祥寺村」と名付けたことに由来する。そのため、吉祥寺という寺院は武蔵野市吉祥寺には初めから無い。

水道橋あたりの神田川。

神田上水懸樋(掛樋・かけひ)跡。文京区側にはこのような碑があるが、対岸の千代田区ではJR線の敷地のため跡地の碑はない。

ここ、神田川に木製の樋(とい)を架けて、神田や日本橋方面に神田上水の水を通していた。水道橋と水道橋駅の由来になった場所である。1590年、徳川家康が入封するとまず溜池を上水として利用したが、さらなる飲料水を確保すべく最初に「小石川上水」が開削された。これが後の神田上水となったとされる。

神田山の一部、駿河台

神田上水懸樋から更に神田川の下流へ進み、駿河台の西部に到着。かつては神田山の一部であった丘陵地だが、どうやら御茶ノ水駅の駅舎が神田山の頂上とみてよさそうだ。

安政年(1856年)の様子。旗本の屋敷でひしめき合っている。駿河台は神田山の南端に位置していた。

徳川家康が関東に入封して江戸城の改修と町づくりを始めると、神田山を切り崩して日比谷入江(日比谷公園や新橋周辺)を埋め立てた。今度は埋め立てにより日比谷入江に流れ込んでいた平川が下流で氾濫するようになった。江戸城での洪水を避けるため、飯田橋から隅田川までの流路が開削され、江戸城の外堀でもある神田川が形成された。この工事により神田山は駿河台・本郷台・湯島台に分裂した。

家康が駿河国で没すると、家康付の任を解かれた駿河衆(旗本)が江戸にやって来てこの地に多くの屋敷を構えた。ここから住んでいた駿河国の富士山が見えたことから「駿河台」と呼ぶようになった。

駿河台(西部)~お茶の水橋

駿河台の西部(御茶ノ水駅の西側)、明大通りの「お茶の水橋」から上流方面の外堀を撮影(西の小石川門方面)。都心では珍しい渓谷の面影を残している。

もちろん、江戸時代に「お茶の水橋」なんてものは架かっていない。1891年(明治24年)に架けられ、鉄橋としては初の日本人による設計であった。1901年(明治34年)に修復工事、関東大震災で被災したので1931年(昭和6年)に現在の「お茶の水橋」が架けられた。お茶の水という地名は、徳川将軍家が用いる「茶の湯」の清水が、この渓谷付近から湧き出ていたことに由来する。

同じく上流方面の外堀。カクンと曲がった外堀・神田川の流路など古地図とほぼ一致している。

JR線は土塁のあった場所を利用しているようだ。

北岸の土塁。職員用の歩道があるが一般開放されていない。

御茶ノ水駅の北を流れる外堀・神田川。何やら外堀の景観を壊す余計な建造物を造っているな。

駿河台(東部)~聖橋

駿河台の東部(御茶ノ水駅の西側)、聖橋(ひじりばし)に到着。江戸時代には無かった橋である。1927年(昭和2年)に関東大震災後の復興橋として架けられた。立体的な橋脚美のデザインは、昭和6年に開通した音無橋(北区滝野川)でも採用された。名称は一般公募によって決められ、北側の湯島聖堂、南側のニコライ堂を結ぶ橋であることから「聖橋」と考案された。

御茶ノ水駅ホームから観た聖橋と神田川。

北の城外に湯島聖堂。

聖橋から筋違門橋跡の東方面(神田川下流)を臨む。

聖橋は鉄道マニアや観光客の撮影スポットになっている。江戸城の外堀ファンは比較的少なそうだ。

外堀の神田川を撮りたいので電車抜きで撮影。

筋違門に向かってややカーブを描いた外堀・神田川。

駿河台(元・神田山)の頂上から筋違門跡まで東に400mほどだが、「淡路坂」を下っていく。坂の上に鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられた坂である。

淡路坂の脇には「太田姫神社元宮」がある。または太田姫稲荷とも。旧名では一口(いもあらい)神社、または一口稲荷といった。そのため、淡路坂は一口坂という別名もある。

この場所は江戸城にとって鬼門の方角である。江戸城を築城した太田道灌が、ここに太田姫稲荷を創建したのは鬼門封じを兼ねていると考えられる。ただし、現在は400mほど南に移転。そのためここは元宮になっている。

淡路坂の様子。

淡路坂を下った先に神田郵便局前の交差点。この高架下をくぐると昌平橋。

江戸時代の地図にも、淡路坂、太田姫稲荷、昌平橋が描かれている。昌平橋のすぐ東側に、外堀の見附「筋違門」があった。

昌平橋

昌平橋は1624~1644年の寛永年間に架けられたと伝わっている。橋際から駿河台に登る坂道(一口坂・淡路坂)に因んで、一口橋(いもあらいばし)と呼ばれた。1691年に湯島に孔子廟が設けられると、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになった。

下流側の万世橋から見た昌平橋。

「絵本江戸土産」1850年の昌平橋。

筋違門

筋違門(すじかいもん)跡。現在はその位置に橋は無く、筋違橋という名の橋も架けられていない。

1871年(明治4年)の筋違門。筋違橋は1676年(延宝4年)に架けられ、徳川将軍が将軍家墓所である上野寛永寺に詣でる時に渡る橋であった。日光東照宮への社参でも通行している。将軍は江戸城の大手門から出て神田橋門を通り、筋違門を抜けて上野に向かっていた。このように徳川将軍が参詣などで通る道筋のことを御成道(おなりみち)と言った。

この中央線に沿った道は旧中山道であり、本郷や板橋に向かう中山道と御成道が筋違いに交差していた地点のため、筋違門と呼ばれた。門内(城内側)には火除のための広小路があり、8つの口に通じており、「八つ小路」と俗に呼ばれていた。

1872年に筋違門が取り壊され、翌年にはその石材を再利用し、筋違橋の場所に「萬世橋」を築造した。これは当時の東京府知事・大久保忠寛が「よろずよばし」と命名したのだが、大衆は「まんせいばし」と読むようになった。眼鏡橋とも呼ばれた。

1903年(明治36年)に、現在の位置の万世橋が架け直された。筋違橋の場所に架けられた万世橋は「元万世橋」と改名したが、後に撤去され、そこには橋が架けられなくなった。1923年(大正12年)の関東大震災で万世橋が被災すると、1930年(昭和5年)に石とコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。

現在の万世橋。南詰には2006年まで交通博物館があった。

ほとんどの人々が命名者が意図した「よろずよばし」とは読めなかったようだ。それか、言い難くてあえて呼ばなかったのかもしれない。

昌平橋からみた現在の万世橋。筋違橋があったのは、この両橋の中間あたり。

筋違門跡は旧万世橋駅でもある。2013年にmAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋が開業した。

mAAch ecuteと万世橋。

神田川と旧万世橋駅。この高架に中央線のレールが敷かれている。

ちょうど中央線の列車が走行してきたので撮影。

関東大震災で焼失した万世橋駅。

1930年(昭和5年)に完成した万世橋。

万世橋で神田川を渡り、北へ進むと江戸城の城外となる(中央通り-国道17号)。JR総武線が見え、秋葉原電気街につながっている。この日は歩行者天国になっていた。次に目指す外堀の見附は、ツアー最後となる浅草門。万世橋からさらに神田川を下る。

柳原土手(やなぎはらどて)

筋違門から浅草門までの約1.1kmに渡り、外堀・神田川の南岸に「柳原土手」が築かれていた。柳並木があったことが名称の由来。最初に、土手に沿って住み始めたのは大名や旗本などの武士であったが、江戸後期になると商人や職人で栄え始める。

土手の以南では町屋が建ち並び、人々は土手の上を通行していた。土手の下では古着や古道具を売る葦簀張りの店が並んでいたという。扱われた柳原物は「安かろう悪かろう」と言われた。岩本町周辺では古着屋多く、現在に至るまで、岩本町・神田須田町・東神田の一帯は衣料の町として発展している。1873年(明治6年)に柳原土手は崩された。

柳原土手と柳森神社。神田川に跨り南北を結ぶ和泉橋。

浅草門までの柳原土手。

柳森神社(柳森稲荷神社)

河岸の柳森神社で参拝。1458年、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして、京都の伏見稲荷を勧請して創建したという。この際、多くの柳をこの地に植えたとされる。5代将軍の徳川綱吉の母、桂昌院(けいしょういん)が信仰した福壽神が祀られている。

柳森神社境内にある富士塚の痕跡。1960年(昭和35年)に富士塚は取り壊され現存していない。富士講の名残りである石碑群が残されているのみ。

和泉橋

和泉橋に到着。津藩 藤堂和泉守の上屋敷前に向かう通りに架かっていたので、和泉橋と呼ばれる。1892年(明治25年)に鉄橋となり、関東大震災後の復興事業で1927年(昭和2年)に架橋されたのが現在の和泉橋である。

柳原通り

和泉橋から美倉橋までの柳原通りで開催されていた、岩本町・東神田ファミリーバザール。年二回開催される。関東大震災後、この通りでは東北より出稼ぎに来た大工たちによって看板建築が多く造られた。和泉橋の西側の柳原通りでは、「岡昌裏地ボタン店、海老原商店」に看板建築が今も残っている。

岡昌裏地ボタン店

海老原商店

江戸時代後期の、柳原土手に沿って古着を扱う床店(露店)。日本橋富沢町とともに、江戸市中の古着を扱う市場の一つとして知られ、「既製服問屋街発祥の地」となっている。

1881年(明治14年)に「岩本町古着市場」が開設され、多い時には400軒も古着屋が軒を連ねたという。そして東京の衣類産業の中心地となった。洋服が日常衣類となり既製服の需要が中心になると、洋服の町へと変貌した。太平洋戦争では空襲によって焼き尽くされたが、戦後に復興が始まり繊維メーカーが集まるようになった。

美倉橋は、新シ橋なのか?

神田川に架かり、清洲橋通り上にある美倉橋。寛文年間(1670年)以降の江戸古地図には、「新シ橋」という橋が近い位置に架けられている。正保年間(1644年~1650年)には記載はなく、承応年間(1653年~1655年)になって「くわんはし」なるものが記載されるようになる。

柳原土手にも外濠石垣が敷かれていた

浅草見附側から始まる柳原通り(開智日本橋学園中学・高等学校の南東角)。かつてはここから柳原土手が続いていたばずだが、起点の位置にモニュメント的な江戸城の石垣石が置いてある。説明板によると、平成19年・20年の発掘調査にて、ここから50m~60mほど行ったところから出土した石とのこと。たぶん、開智日本橋学園中学の敷地内。柳原土手にも外濠石垣が敷かれていたという新発見となった。

浅草門

江戸城外堀に設置された見附のラスト、浅草門跡に到着。外堀の見附では神田川の最下流に位置する。「浅草見附跡」の碑があるが、ここは門外の位置。枡形石垣や門があったのはここの対岸。

奥州街道が通り、浅草観音への道筋であることから、1636年の天下普請で浅草見附が置かれた。この時に初めて橋が架けられ、浅草御門橋(浅草門橋)と呼ばれていたが、いつしか「浅草橋」になったという。

浅草門から南西約900mに伝馬町牢屋敷(小伝馬町)がある。1657年の明暦の大火では、石出帯刀(牢屋奉行の世襲名)吉深が、必ず戻ることを約束させ囚人たちを一時的に逃がした。緊急時に囚人たちを一時的に釈放することを「切り放ち」といい、後に制度化された。これが囚人脱獄という誤報になってしまい、誤解した役人が浅草門を閉ざしたため2万人以上が犠牲になった。ちなみに後日、囚人全員が牢に戻ってきたという。

江戸時代に架けられたのは木橋であるが、1873年(明治6年)、熊本藩の石工・橋本勘五郎の施工で石橋に架け替えられた。関東大震災後の復興計画で、1930年(昭和5年)に現在の浅草橋が架けられた。

浅草橋の南西に郡代屋敷跡。交番の横にその説明板が置かれているが、実際の跡地はここより30mほど南西の位置にある。説明板の位置は、浅草門の枡形石垣の跡地に近い。

1856年(安政3年)における、郡代屋敷と浅草見附の配置。

江戸時代には、幕府直轄領の管理をした「関東郡代」の役宅があった場所である。主な管理としては、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを行っていた。初めの役宅は常盤橋門内(城内)にあったが、明暦の大火(1657年)で焼失し、この地に移ってからは「馬喰町郡代屋敷」と呼ばれた。

1642年、伊奈忠治(代官頭であった伊奈忠次の次男)が関東諸代官の統括を命じられ、これが「関東郡代」と起源とされる。関東郡代という名称は元禄年間(1688-1704)に成立し、伊奈氏が代々世襲した。

1792年に伊奈忠尊が失脚すると、勘定奉行が関東郡代を兼ねることになって、ここに居住した。1806年に関東郡代は廃止され、屋敷も焼失。代官の拝領地になって馬喰町御用屋敷となっても、江戸の人々は郡代屋敷と呼び続けていたという。

浅草橋から見た神田川上流(西側・筋違門方面)

浅草橋の東、隅田川(江戸時代では大川)に向かって神田川沿いを歩く。神田川と隅田川の合流点であるため、多くの屋形船が係留している。この付近は池波正太郎作品の舞台でよく描かれているのだとか。

柳橋

神田川最下流に架かる柳橋。江戸から明治期に何度か架け替えがあり、1887年(明治20年)には鉄鋼製のトラス橋に架け替えられた。関東大震災後の復興事業で、1929年(昭和4年)、鋼製ソリッドリブタイドアーチ橋に架け替えられたのが現在の柳橋。永代橋(大正15年竣工)のデザインが採用されている。

柳橋から見た神田川の上流方面(浅草門方面)

柳橋から東を眺めると、神田川と隅田川が合流している。以上で、江戸城 見附を巡る外堀散策で、すべての見附跡を巡った。

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