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江戸城 縄張り内の史跡 その1
江戸城 東端の概要、および天然要害の隅田川
見附を配した「日本橋川~外濠川~汐留川~連続する堀~神田川」で囲われた江戸城の外堀を紹介したが、次は江戸城 縄張りの東部、下町の堀やその史跡・寺社、天然の要害である隅田川(大川)を巡る。
- その1: 江戸城 東端の概要、および天然要害の隅田川
- その2: 隅田川に面した島~箱崎島・霊岸島・石川島・佃島
【江戸城 外堀の概要編 】
江戸城 東端の概要
江戸城の総構えと、配置された運河の水堀。江戸城の中心や西部では、武蔵野台地や谷戸を利用した「山の手」なので、堀は曲面や尖った構造が多く防御に徹している。それに対し、その東端である「下町」は埋め立て地であるため、運河となった堀や町並みは直線的に区画されている。
下町の堀は、見附の配置された外堀(日本橋川・外濠川・汐留川)から分岐して大川(隅田川)へ注いでおり、これは防御というよりも運河(水路)である。そして町屋(グレーの色分け)で占められている。下町に武家屋敷(黄色)が見られるが、これは明暦の大火(1657年)の影響で移転したためである。
大川(隅田川)
天然の要害であるが東端の隅田川から巡る。江戸時代では浅草寺近くの吾妻橋(大川橋)あたりから下流を「大川」と呼んでいた(以下、隅田川と呼称)。西岸には浅草や蔵前など大規模な河岸が整備され、舟運の重要地となった。※写真は両国橋から下流(南方)を臨んでいる
江戸城東側の隅田川には防衛のため橋は無く、かなり離れた場所に架橋された千住大橋だけであった。明暦の大火(1657年)後の市区改正により、両国橋、新大橋、永代橋が架橋され、それにより隅田川東岸では深川や本所などの市街地が発展した。
隅田川に架橋された5つの橋
徳川家康が江戸入封してから明暦の大火(1657年)まで、隅田川に架橋された橋は江戸城からかなり離れた千住大橋のみ。明暦の大火後にさらに4つの橋が架けられた。
江戸時代、隅田川に架橋された順は次の通り。千住大橋(1594年)、両国橋(1659年 or 1661年)、新大橋(1693年)、永代橋(1698年)、吾妻橋(1774年)神田川から隅田川に合流し、両国橋から以南へ進み、石川島および佃島まで向かう。江戸時代、明暦の大火(1657年)以降、江戸城東端に架けられた橋は、両国橋、新大橋、永代橋の3つ。しかも現在の位置とは微妙に変わっている(現在の位置は白線で記した)。
中洲跡に架けられた清洲橋(1928年)、田安徳川家下屋敷跡から架けられている隅田川大橋(1979年)は、江戸時代にはない橋である。隅田川(両国橋以南)から更に東へ分岐する堀には、堅川、小名木川、仙台堀、油堀がある。
神田川と隅田川の合流点に架かる、柳橋
神田川と隅田川の合流点。神田川最下流に架かる柳橋から隅田川を眺める。目の前には現在の両国橋。
1698年に柳橋は架けられた。江戸から明治期に何度か架け替えがあり、1887年(明治20年)には鉄鋼製のトラス橋に架け替えられた。
関東大震災後の復興事業で、1929年(昭和4年)、鋼製ソリッドリブタイドアーチ橋(ローゼ式)に架け替えられたのが現在の柳橋。永代橋(大正15年竣工)のデザインが採用されている。昭和9年に定められたここの旧町名は浅草柳橋。
東京名勝図会-柳橋の夜景。
初めて柳橋が架けられたのは、永代橋と同じく1698年。この前年、下柳原同朋と対岸の下平右衛門町を結ぶ架橋を南町奉行に願い出て許可されたのが起源。
神田川が隅田川(大川)に注ぐところにあったことから、当時、川口出口之橋(かわぐちでぐちのはし)と呼ばれていた。橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれるようになったとされる。他には、矢の倉橋が転訛したとか、柳原堤の末端に架かるからなど名称の由来には諸説ある。
江戸時代、柳橋あたりは隅田川の舟遊び客の船宿が多かったという。現在では多くの屋形船が係留しているが、この付近は池波正太郎作品の舞台でよく描かれているのだとか。明治維新後は、新橋とともに東京で有名な花街となった。藩出身の政府役人は新橋の花街へ、江戸の商人や旗本は柳橋の花街に集ったという。
両国橋
隅田川に架かる現在の両国橋。
隅田川の河川敷、中央区立両国橋際児童遊園を南下しながら隅田川を巡る。首都高速7号小松川線が見えるがこれは1971年に開通したものだ。江戸時代であればちょうど目の前に両国橋があったはずだが、現在の両国橋は100mほど北に移っている。
江戸時代の両国橋は1659年または1661年に架けられた。当初は「大橋」という名称であったが、武蔵国と下総国の国境にあったことから、俗称で両国橋と呼ばれていた。後に正式名称となった。
隅田川に架けられた橋としては千住大橋に次いで2番目。明暦の大火の後(1657年)、防災目的のためすぐに架けられた。1693年に新大橋が架けられるまでは、江戸城東端の隅田川では両国橋のみの状況がしばらく続いた。
歌川広重の江都名所 両国橋納涼、名所江戸百景 両国橋大川ばた。
両国川開きは1733年に始められた。5/28~8/28まで行われ、時々花火が打ち上げられた。花火は横山町の鍵屋と吉川町(東日本橋2丁目)の玉屋が請け負って技を競った。両国橋の上流で玉屋が、下流で鍵屋が打ち上げた。昭和37年に川開きは中止されたが、現在はさらに上流で「隅田川花火大会」が行われるようになった。
両国広小路
西詰めには火除け地として両国広小路(中央区東日本橋二丁目)が設けられ、江戸三大広小路のひとつに数えられる。他には下谷広小路(上野広小路)、雷門通りの浅草広小路がある。火除け地とはいえ、空き地になれば目的外で人が集まり、見世物小屋や飲食店が立ち並び繁華街となった。明治座の前身である富田三兄弟の菰張芝居は、両国西広小路で始まっている。明治時代になると、両国橋の東に両国駅や両国国技館が造られ、繁華街は主に東両国へ移った。
両国橋西交差点に「旧跡 両国広小路」の碑が建つ。ただし架かる場所が江戸時代とは異なる現在の両国橋に合わせているため、当時の両国広小路は100mほど南にあった。
碑には両国広小路が記載された地図がある。
両国広小路跡の一画にはビルが建ち並び、すでに広小路の面影はない。また、当時の両国橋の西詰はこの辺となる。明治後期まで架橋はこの位置であった。
薬研堀 跡
中央区立千代田公園を結ぶ歩道橋から両国橋を眺める。
千代田公園ならびに隣接する日本橋中学校はかつての薬研堀跡。さらに直角に曲がり不動院通りまで堀が続いていたようだが、幕末期の古地図では直角に曲がった先の堀は「埋め立て地」と描かれている。その埋め立て地に建つ「薬研堀不動院」に名残がある。
薬研堀不動院の隣は矢ノ庫稲荷神社があり、江戸幕府の米倉が建っていたことに由来している。矢之倉、谷野蔵と称されていた。倉の鎮神として三社稲荷が祀られていたが蔵の移転に伴い三社稲荷も遷座したあため、改めて矢ノ庫稲荷神社を鎮座したという。
千代田公園に建つ臨幸記念碑と、隣接する御幸通り。千代田公園ならびに日本橋中学校は薬研堀跡である。1923年の関東大震災後、1930年に復興した帝都を天皇が巡幸した際、千代田尋常小学校(跡地に現在の日本橋中学校)で休憩したという記念碑で御幸通りもそれが由来。
堅川の分岐点
両国橋と新大橋の間に堅川(たてかわ)の分岐点がある。これは江戸時代も同じ。旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河で、江戸城の方角(西)を上とすると、東西に流れる川を「縦」として堅川(たてかわ)と呼ばれた。途中から暗渠になるが、竪川親水公園や竪川河川敷公園といった名称に名残がある。
堅川の上には首都高速7号小松川線が通っている。
新大橋
江戸時代、最初に新大橋が隅田川に架けられたのは1693年。5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が架橋することを綱吉に勧めたとされる。両国橋(当時の正式名称は大橋)に次ぐ架橋だったので「新大橋」と呼ばれた。ピントラス式鉄橋に変わったのは1912年(愛知県犬山市の博物館明治村で保存)。橋台の沈下により、現在の橋は1977年に架けかえられたもの。
関東大震災(1923年)では、隅田川の橋はことごとく焼け落ちていったが、新大橋だけは被災せずに多くの人命を救った。これにより、「人助け橋」と呼ばれた。水天宮の御神体も新大橋に救われたという。橋の西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に、「人助け橋の由来碑」が建つ。
江戸時代に架かっていた新大橋の場所は、現在の橋の位置から200mほど南で中央区立中洲公園あたり。歌川広重の名所江戸百景 「大はしあたけの夕立」で描かれている。
小名木川(分岐)
新大橋と清洲橋(江戸時代には無い)の中間にある、小名木川の分岐点と萬年橋。1680年の江戸図には橋が描かれており「元番所のはし」と記されている。小名木川を航行する船を取り締まる番所が置かれていた。
小名木川は隅田川と旧中川を結ぶ運河で全長約5km。1590年に徳川家康が江戸入封すると、安全に運べる塩の運搬路が必要となり、「行徳塩田」と結ぶ小名木川を開削した。開削には小名木四郎兵衛が命じられている。後に塩以外の品物や成田参詣の客を運ぶようになった。小名木川を手始めとして堅川や仙台堀川の整備も進んだ。
夕暮れの萬年橋。
清洲橋(中洲の渡し跡)
清洲橋は江戸時代にはない。当時は無人の中洲で、中洲(なかず)の渡しがあった。関東大震災の震災復興事業の1928年(昭和3年)、清洲橋の架橋で渡しは廃止された。
深川区清住町と日本橋区中洲町の両岸を結ぶ橋であるため、各一字の「清」と「洲」をとって清洲橋という名称が公募により決まった。筋骨隆々とした男性的イメージでデザインされた永代橋に対して、清洲橋は下垂曲線を描く女性的なイメージでデザインされている。このように対比的な組み合わせにより、永代橋と清洲橋をセットにして第一回選奨土木遺産に指定されている。
仙台堀
清洲橋(江戸時代には無い)のやや南に仙台堀(仙台堀川)がある。隅田川東岸の分岐点で、読売新聞江東ビルからテニスコートのところまで仙台藩の蔵屋敷があり、米を運び入れていたことが名称の由来である。さらに東では仙台堀川公園など名残りがある。仙台藩の蔵屋敷跡には「平賀源内電気実験の地」の碑が建っている。
隅田川大橋(近くに田安徳川家の下屋敷跡あり)
江戸時代に隅田川大橋はない。1979年、首都高速9号深川線建設にあわせて隅田川大橋が架橋された。
古地図を見ると、東岸では首都高速9号深川線の高架下に沿って油堀(油堀川)への分岐点があり、油堀は永代寺や富岡八幡宮の北を流れる十五間川となる。しかし、油堀は首都高速が建造される以前の1975年に埋め立てられて消滅している。油堀の名称は、油堀河岸があり、江東区の佐賀や福住に油問屋が多くあったことに由来する。
隅田川大橋ならびに首都高速9号線は西岸の箱崎島で、「田安徳川家の箱崎下屋敷跡」を通過している。さらに分岐する首都高速6号線の下には、箱崎島の堀であった箱崎川があったが昭和46年に埋め立てられている。箱崎島については後述する。
永代橋
現在の永代橋は1926年(大正15年)に震災復興事業により架けられた。「帝都東京の門」と言われた。永代橋は筋骨隆々とした男性的イメージでデザインされ、その対比として清洲橋は下垂曲線を描く女性的なイメージでデザインされている。
永代橋のデザイン。これは柳橋のデザインでも採用されている。
江戸時代に架かっていた場所は、現在架かっている位置から北100mほどのところ。元来、大渡し(深川の渡し)があった位置だが架橋により渡しは廃止された。永代橋は隅田川に架橋された5つの橋のうち4番目となる。※千住大橋(1594年)、両国橋(1659年 or 1661年)、新大橋(1693年)、永代橋(1698年)、吾妻橋(1774年)
諸説あるが、5代将軍 徳川綱吉の50歳を祝う記念事業として架けられた。上野寛永寺の根本中堂造営で余った木材を使ったとされ、普請は関東郡代(浅草橋門となりに役宅あり)の伊奈忠順。名称は永代島(現在の江東区富岡)にちなむ。「永代寺につながる橋、江戸幕府が末永く代々続くように願掛けした」などという話もあるが、「永代島につながる橋」が正しいと思われる。
歌川広重が描いた東都名所永代橋全図。1702年、赤穂浪士が吉良上野介屋敷へ討ち入りしたが、吉良上野介の首を掲げて泉岳寺へ向かった際に永代橋を渡っている。1807年、深川富岡八幡宮で祭礼が行われた際、押し寄せる群衆の重みに橋が耐え切れず、落橋事故が起きている。
西詰めに旗が立つ高尾稲荷社江戸時代に架かっていた永代橋の近くに高尾稲荷神社(遊女高尾太夫を祀る神社)がある。
その2 : 隅田川に面した島~箱崎島・霊岸島・石川島・佃島 へ
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