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江戸城 縄張り内の史跡 その2
隅田川に面した島~箱崎島・霊岸島・石川島・佃島
江戸城 縄張り内に配置された、隅田川(大川)河口付近の島を巡る。隅田川の西岸、茅場町側の八丁堀と新堀(後の日本橋川)の河口であった江戸中島は、徳川家康によって埋め立て地となった。新堀を隔てて北側を箱崎島、南側を霊岸島といった。
田安徳川家の下屋敷があった箱崎島には現在、首都高速9号深川線と2層の隅田川大橋が架かるが江戸時代には無い橋である。また江戸時代の永代橋は箱崎島地域から架かっていたが、現在は霊岸島から架かっている(赤線:江戸時代の架橋位置、白線:現在の位置)。箱崎島と霊岸島は豊海橋(とよみばし)によって結ばれていた。現在架かっている位置は、江戸時代の時よりも河口側に寄っている。
霊岸島は亀島川と新堀(日本橋川)に囲われた島で、北側の掘割は新堀と呼ばれた。福井藩・松平越前守の中屋敷があり、屋敷を囲む「コの字型」の小規模な堀は越前堀と呼ばれた。なお、三代藩主の松平忠昌が霊岸島に屋敷を拝領した当初は下屋敷であった可能性があるという。1660年に豪商・河村瑞賢が開削したとされる新川は、亀島川と隅田川を結んでおりこの一帯では酒問屋が軒を連ねていた。
隅田川河口には石川島と佃島がある。この2つの島は江戸初期に埋め立てられ、橋は架かっていなかった。石川島は軽度犯罪者の教育や自立支援を行った施設が置かれた島で、後にIHIとなる石川島造船所が創業した。自動車部門は独立して後のいすゞ自動車になった。
佃島は腕の立つ漁師が呼び寄せられて築造された島である。明治になると石川島と佃島が合併して、現在の町名「佃」になっている。「佃」は当用漢字ではなかったので、昭和42年に町名を「津久田・津久多」に変えようとしたが反対運動が起き、「佃」が継続された。
箱崎島
江戸時代の箱崎島では「隅田川、箱崎川、新堀」に囲まれており、北部には、御三卿のひとつ、田安徳川家の箱崎下屋敷があった。箱崎島における現在の町名は「日本橋箱崎町」であるが、この地域は富岡八幡宮の氏子が多い。地名の由来は定かではないが、筥崎宮(福岡県福岡市東区箱崎)との関連性や、田安徳川家の下屋敷にあった箱崎池(箱池)が指摘されている。
箱崎島には5つの橋が架けられていた。現在では永代橋が霊岸島のほうへ移設。霊岸島を結ぶ橋として、現在では少し位置が変わっているが湊橋と豊海橋が架かっている。
もちろん江戸時代に、隅田川大橋や首都高速9号線は架かっていない。昭和46年、首都高速6号線の下にあった箱崎川が埋め立てられ、永久橋、崩橋(後に箱崎橋)が消滅している。
ちなみに開削によって、新堀・八丁堀の上流にあたる堀留(飯田川)が神田川とつながってからは、新堀・八丁堀は「日本橋川」と呼ばれる。この八丁堀は後に桜川と呼ばれる堀とは別なので留意されたし。
箱崎川と、田安徳川家の箱崎下屋敷
箱崎JCTの下あたり。この左右は首都高速6号線の下で、昭和46年までは箱崎川があった場所。ここから真っすぐ伸びているのが首都高速9号線でこの先、隅田川大橋と二層となる。
陸上で首都高速9号線と隅田川大橋が重なっている場所で、ここが「田安徳川家の箱崎下屋敷跡」があったところ。
首都高速9号線沿いの道。かつて箱崎川が流れていた場所、またはその河岸。
永久橋
地形としては名残があるが直角に曲がる道の所に、元禄年間(1688年から1704年)に架橋された「永久橋」があった。今は首都高速6号線のガード下(箱崎川の位置)で駐車場になっている。右側にはやたらと入口の小さい永久稲荷神社が鎮座している。
永久稲荷神社・・・・。一本の石柱は鳥居だろうか、参道に家が建ってしまったようだ。創建年代は不詳だが、箱崎町河岸の産土神で崇敬を受けてきたという。
湊橋
江戸時代と大体近い位置に架かる湊橋。新堀の西側で、箱崎島と霊岸島を結ぶ橋である。名称は江戸湊に因んでいる。
湊橋から八丁堀(日本橋川)を見渡す。箱崎川跡に沿っている首都高速6号線がここで日本橋川に沿って通るようになる。この先、江戸橋で首都高速1号と首都高速都心環状線と交差する。
今度は隅田川方面を臨むと、新堀(日本橋川)とその河口の豊海橋が見える。
崩橋(箱崎橋)跡
この撮影ポイントの箱崎川第一公園あたりに、箱崎川に架かる「崩橋」があったようだ。後に箱崎橋と呼ばれるが、昭和46年の埋め立てで箱崎川が消えると橋も消えた。そしてここは箱崎川、亀島川、新堀、八丁堀の合流点。目の前、亀島川の上流には日本橋水門が設置されている。
同ポイントから、新堀と湊橋を眺める。
同ポイントから、八丁堀(日本橋川)を眺める。頭上では首都高速6号線がここで日本橋川に沿ってカーブする。
永代橋
江戸時代に架かっていた場所は、現在架かっている位置から北100mほどのところであった(この説明板があるところ)。元来、大渡し(深川の渡し)があった位置だが架橋により渡しは廃止された。永代橋は隅田川に架橋された5つの橋のうち4番目となる。※千住大橋(1594年)、両国橋(1659年 or 1661年)、新大橋(1693年)、永代橋(1698年)、吾妻橋(1774年)
諸説あるが、5代将軍 徳川綱吉の50歳を祝う記念事業として架けられた。上野寛永寺の根本中堂造営で余った木材を使ったとされ、普請は関東郡代(浅草橋門となりに役宅あり)の伊奈忠順。名称は永代島(現在の江東区富岡)にちなむ。「永代寺につながる橋、江戸幕府が末永く代々続くように願掛けした」などという話もあるが、「永代島につながる橋」が正しいと思われる。
歌川広重が描いた東都名所永代橋全図。1702年、赤穂浪士が吉良上野介屋敷へ討ち入りしたが、吉良上野介の首を掲げて泉岳寺へ向かった際に永代橋を渡っている。1807年、深川富岡八幡宮で祭礼が行われた際、押し寄せる群衆の重みに橋が耐え切れず、落橋事故が起きている。
西詰めに旗が立つ高尾稲荷社江戸時代に架かっていた永代橋の近くに高尾稲荷神社(遊女高尾太夫を祀る神社)がある。
現在の永代橋は1926年(大正15年)に震災復興事業により架けられた。「帝都東京の門」と言われた。永代橋のデザインは柳橋のデザインでも採用されている。
豊海橋
対岸の霊岸島を結ぶ豊海橋。江戸時代ではもう少し河口側に架橋されていたようだ。また、永代橋は現在、この向かいの霊岸島から架かっているが、江戸時代はこの撮影ポイントあたりの箱崎島から架かっていた。高尾稲荷神社で祀られている遊女・二代目高尾太夫の遺体はこの辺で引き上げられたようだ。
豊海橋から20mほど離れたところに「日本銀行創業の地」の碑が建っている。江戸時代であれば永代橋の西詰の位置であるが、この碑には「明治15年10月、この地で日本銀行は開業した。明治29年に日本橋本石町に移転した」と記載されている。ちなみに、江戸時代の高尾稲荷神社は日本銀行創業の地にあった。
高尾稲荷神社
新堀の北岸に高尾稲荷神社が鎮座している。前述の通り、元は江戸時代に架かっていた永代橋の西詰にあったが、80mほど西にずれた現在の位置に移転している。この神社では江戸時代、花街吉原の三浦屋で受け継がれた最高位「太夫」の遊女、二代目高尾太夫を祀っている。全国でも珍しく実物の頭蓋骨を御神体として安置している。社殿は昭和20年3月の空襲で焼失したが再建され、昭和51年、令和4年の二度にわたる建て直しが行われた。
創建の言い伝えはこうある。仙台藩主・伊達綱宗が大金三千両を積んで高尾太夫を身請けしたが、綱宗の意には従わなかった。1659年12月、綱宗の怒りを買い、隅田川の三又の船中にて吊るし切りにされ川に捨てられた。遺体が北新堀河岸(現在の豊海橋付近)に流れ着き、当地に庵を構えていた僧侶がその遺体を手厚く葬ったという。ただし、この話の真偽には諸説ある。
※隅田川、小名木川、箱崎川を三叉(みつまた)と言った。現在の日本橋中洲付近である。
箱崎島~三河吉田藩・下総古河藩の屋敷跡
高尾稲荷神社から北120mあたりにある中央区立箱崎公園。古地図を見ると、三河吉田藩・下総古河藩の屋敷跡の位置にある。公園内には昭和12年、吉田松陰をリスペクトする小学生の遺言を実現し建てられた「吉田松陰の銅像」が置かれている。平成22年にここへ移設したとある。
霊岸島
霊岸島は新堀(日本橋川)・亀島川に囲まれた島で、かつて鎮座していた霊巌寺に因むので「霊巌島」でも良いのだが、もっぱら霊岸島(れいがんじま)の表記が多いのでそうする。
北側の掘割は新堀と呼ばれた。福井藩・松平越前守の中屋敷があり、屋敷を囲む「コの字型」の小規模な堀は越前堀と呼ばれた。なお、三代藩主の松平忠昌が霊岸島に屋敷を拝領した当初は下屋敷であった可能性があるという。
箱崎島を結ぶ橋として湊橋と豊海橋が架かっている。霊岸島を囲む1kmの亀島川に架けられた橋は、霊岸橋、亀島橋、高橋の3つで、亀島橋以外、現在では架橋の位置が少し変わっている。ほか亀島川に架けられた橋には、南高橋、新亀島橋があるが江戸時代には無い。また現在では永代橋が霊岸島に架けられているが、江戸時代は箱崎島に架けられていた。
霊岸島の名称はかつて霊巌寺があったことに由来する。1632年「武州豊嶋郡江戸庄図」に描かれている霊巌寺。福井藩・松平越前守屋敷の北側に隣接していたようだ。この頃はまだ新川が開削されていない。
後に霊岸島(霊巌島)と呼ばれるこの埋め立て地の小島に、1624年、霊巌和尚が霊巌寺を開山した。霊巌和尚は駿河国沼津に生まれ下総国生実の大巌寺で修行を積んだ人物で、後に浄土宗総本山知恩院の住職となっている。霊巌寺は30年余りこの地に鎮座していたが、明暦の大火(1657年)で焼失し深川へ移転し、跡地は町人地になった。昭和46年には町名の変更で霊巌寺の地名も消えた。
福井藩・松平越前守屋敷跡(中屋敷)
越前堀児童公園の一部が福井藩・松平越前守屋敷跡。史跡としては何も残っていない。往時を偲ぶ「越前堀」の名はこの公園のみに引き継がれている。しかし、この公園が松平越前守屋敷跡に掛っている部分は1/3ほどしかなくて中途半端である。
越前堀児童公園の様子
屋敷地は三方が「越前堀」と呼ばれる入堀に囲まれていた。入堀は護岸の石積みで、20~30mほどの規模があり運河として利用されていたという。明治以降になると堀は徐々に埋められていき、関東大震災(1923年)後は大部分が埋められ戦後には完全消滅した。越前堀という町名も改められ「新川」となった。
新川2丁目で出土した、越前堀の護岸に用いられていた石垣石が越前堀児童公園で展示されている。出土した場所の地図は上記のとおりで、越前堀の南西部(八重洲通り-463号線)にあった石垣石のようだ。出土場所のピンポイントをGoogleMAPで確認したところ、住宅マンションの「グレースレジデンス東京」が建っている場所で、古地図と照らし合わせると、松平越前守屋敷の玄関口であった。そこには越前堀に橋が架けられていた。
中央大橋から北西に通る八重洲通り(463号線)が南西部の越前堀とされる。
石垣石が出土したグレースレジデンス東京の向かいの八重洲通り(463号線)。説明板などないが、ここに松平越前守屋敷の玄関口を結ぶ橋があったようだ。
松平越前守屋敷に関して見るべき遺構は何も無い。ついで程度に屋敷地跡に位置する「於岩稲荷田宮神社」と、小田原の武家屋敷から移植されたカヤを後ほど見て回る。もちろん、跡地にあるという以外は松平越前守屋敷と関係はない。
松平越前守屋敷跡地に鎮座する、新川 於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ)は四谷怪談のお岩を祀っている神社。元は新宿区左門町の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)であるが、1879年(明治12年)に火災に遭い、この地(東京都中央区)に移転した。この近くに芝居小屋があり、四谷怪談を上演する歌舞伎役者らが当地に移転させたといわれる。1952年(昭和27年)に旧地新宿の於岩稲荷田宮神社が再興されたため、現在は新宿区と中央区に2つ存在している。新川 於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したがこれも再建されている。
於岩稲荷田宮神社の創建年代は不明であるが、四谷左門町に屋敷を構えていた田宮家の屋敷神(稲荷神の祠)を起源としている。左門町は、『四谷怪談』に登場する田宮伊右衛門(婿養子)とその妻「お岩」が居住していた地であるが、史実のお岩は物語と違って夫婦仲睦まじく健気な女性であったといわれている。左門町という地名は、お岩の父・田宮又左衛門がその由来だろう。
『東海道四谷怪談』の原典とされた『四谷雑談集』では、失踪したお岩の祟りによって伊右衛門の関係者が葬られ、田宮家滅亡後、跡地に奇怪な事件が起きるが於岩稲荷を創建して追善仏事を行ったところ収まったというストーリー。実際の田宮家は続いており、関係者の女性が失踪した事件をモデルにしたという考察もある。さらにアレンジが加わった『東海道四谷怪談』では舞台が豊島区雑司が谷となっており、なぜ東海道が付くのか全く持って不明である。
新川1丁目のオフィスビル・東京ダイヤビル1号館。敷地にあるカヤが何か関係ありそうと近づいてみたが、松平越前守屋敷跡地にあるというだけで関係ないものだった。説明板によると、西海子小路(小田原市南町)の武家屋敷より移植したもので、江戸時代後期・小田原城主・大久保氏の時代のカヤとのこと。
霊岸橋(永代通り)
日本橋茅場町と新川地区(霊岸島)を結ぶ、亀島川に架かる霊岸橋。現在では江戸時代と架橋の位置が少し変わっており、北30mほどのところにあった。現在の霊岸橋では「永代通り」として江戸城大手門に直通しているが、江戸時代にはそのような道は無い。
亀島川の上流。日本橋川(新堀と八丁堀)との合流点手前に日本橋水門がある。江戸時代に架けられていた霊岸橋の位置に近い。一方、亀島川の河口には亀島川水門があり、高潮発生時には洪水を防ぐためこの2つの門で亀島川を完全に閉め切ることができる。
亀島橋(八重洲通り)
江戸時代とほぼ同じ位置にある亀島橋。新川地区(霊岸島)を結ぶ橋で、亀島川が直角に折れ曲がる位置に架けられている。町触に橋普請の記載があり、1699年頃に亀島橋は架けられたとされる。関東大震災(1923年)に倒壊、1929年(昭和4年)に鋼上路アーチ橋が架けられるが戦時中に物資として高欄が供出された。現在の亀島橋は八重洲通りにあり東京駅八重洲口に直通するが、江戸時代にはそのような道は無い。
江戸時代の八丁堀(現・日本橋川)では町奉行配下の与力同心の組屋敷があり、新川では酒屋問屋を中心とした問屋が多かった。そのため、新川と交わる亀島川は物資を運ぶ船の往来が多く栄えていた。
亀島橋から観た亀島川下流方面。高橋および石川島(現・中央区佃)のタワー群が見える。亀島川の名称由来だが、瓶(カメ)を売るものが多くいたため「亀島」と呼ばれた説と、亀に似た小島があったからという説もある。
亀島橋から観た日本橋川に合流する亀島川上流方面。手前に新亀島橋が見えるが江戸時代には架けられていない橋である。
今度は(江戸時代にはない)新亀島橋から観た日本橋川に合流する亀島川上流方面。霊岸橋と日本橋水門が見える。新亀島橋が初めて架けられたのは明治15年で木橋だったと記録されている。関東大震災後、鋼桁の近代橋に架けかえられた。
高橋(鍛冶橋通り)
新川地区(霊岸島)を結ぶ、現在の高橋。江戸時代では南30mほどのところに架橋されていた。
高橋から観た亀島川の上流方面。奥でかろうじて亀島橋が見えるが、そこから直角に水路が曲がっている。
高橋から観た、亀島川河口側。江戸時代にはなかった南高橋が架けられており、河口には亀島川水門が見える。さらに奥には石川島(現・中央区佃)のビル群。
高橋から亀島川の河口へやや進むと少し窪んだ護岸が目に留まるが、これは亀島川から分流する八丁堀(桜川)の名残り。後に日本橋川の一部となる八丁堀とは別の運河である。八丁堀(桜川)は、楓川と亀島川を連絡する運河として1612年に開削されたといわれる。 1960年代、段階的に埋立が始まり完全に姿を消した。
新川
新川の河口付近跡地に新川公園があり「新川の碑」が建立されている。1660年に豪商・河村瑞賢が開削したとされる新川は、新川1丁目の3番から4番の間に存在していた運河で亀島川と隅田川を結んでいた。上流の西から、一の橋、二の橋、三の橋、と3つの橋が架けられた。この一帯では酒問屋が軒を連ねていた。昭和23年に埋め立てられ消滅した。
※河村瑞賢(1618-1699年)は伊勢出身の土木作業を営む商人で、江戸の治水や海運の功労者。船で江戸へ運ばれる物資を荷揚げするために新川を開削したという。一の橋の北詰に河村瑞賢の屋敷があったという。
新川公園の北隣、新川一丁目東町会事務所の所にかつて渡海稲荷神社(わたみいなりじんじゃ)が鎮座しており、1704年に創建されたという。
新川公園から西へ向かい、その跡地を歩く。船着き場であった新川公園のすぐ西には三ノ橋があった。
鍛冶橋通りに交差するが、この細い路地が新川の流路。この路地は途中でビルに阻まれ中断されるがそのあたりが二の橋があった場所である。
新川のど真ん中であった路地は中断されたので、右岸あたりから再び西へ進む。
新川大神宮に遭遇。
1625年、慶光院周清上人が二代将軍 / 徳川秀忠から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に創建したのが新川大神宮の起源。明暦の大火(1657年)で類焼し、この霊岸島で再建された。産土神としてとくに酒問屋の信仰が篤かった。昭和20年の戦災で焼失するが、酒問屋らにより昭和27年に社殿が再建された。新川大神宮からさらに西、大通りに交差するあたりが「一ノ橋」の位置。
石川島
霊岸島の南東、現在の永代橋以南に広がる石川島(現在の東京都中央区佃二丁目)。江戸時代では隅田川の河口にあたる。IHI(石川島播磨重工業)東京工場跡地に建つ超高層住宅地の、大川端リバーシティ21がなんとも異様な光景だ。明治時代、南側の佃島と合併して町名が「佃」となった
歌川広重が描いた東都名所永代橋全図。永代橋以南に広がる石川島と佃島が描かれている。
佃公園(石川島の立地)に置かれている江戸時代末期の石川島と佃島の地図。
石川島は、古くは森島や鎧島と呼ばれていた。旗本の石川八左衛門(石川重次)が徳川家光から拝領し、代々屋敷を構えた島なので「石川島」と呼ばれた。宇都宮釣天井事件(1622年)では、石川重次はその剛力で家光を危機から救った人物とされるが、釣天井が事実ではないし、第2代将軍徳川秀忠を襲った事件とされているし、あくまで伝説の話である。
1790年には長谷川宣以(鬼平こと長谷川平蔵)の提案により加役方 人足寄場(にんそくよせば)が置かれた。これは軽度犯罪者の教育や自立支援を行った施設であったが、強制収容所に近い問題もあった。他者に苦労させて利益を得ることを「油を絞る」というが、ここの「油しぼり」という職種が重労働だった事から生まれた言葉だという。1866年、油しぼりの利益で石川島に灯台が造られた。明治時代以降、東京の都市化に伴い施設は巣鴨に移転し「巣鴨プリズン」となった
※加役方(かやくかた)とは「火付盗賊改方」の略称、江戸市中を巡回して、放火・盗賊・ばくち打ちなどの検挙にあたった職名。
1853年、江戸幕府は水戸藩に命じて石川島に造船所を創業した。西洋式軍艦「旭日丸」「千代田形」などが建造されている。後に官営の石川島修船所となり閉鎖。1876年(明治9年)、石川島造船所(現・IHI)創立者の平野富二に払い下げられ、翌年、日本初の蒸気船「通運丸」を建造している。
1929年、自動車部門は石川島自動車製作所(いすゞ自動車)として独立している。1924年には石川島飛行機製作所を設立(現・立飛企業)し、立飛企業の前身、立川飛行機株式会社は戦時中、一式戦「隼」二型(キ43-II)や三型(キ43-III)を量産している。たま自動車(プリンス自動車)の創業者のひとり、田中次郎は立川飛行機の出身技師。
現在では霊岸島(中央区新川二丁目)と中央大橋でつかながっている。中央大橋は1994年に架橋され、隅田川に架かる橋では平成時代の第一号となった。隅田川はフランス・セーヌ川と友好河川で結ばれており、中央大橋の設計ををフランスのデザイン会社に依頼している。橋桁製作はもちろん石川島播磨重工業。
中央大橋から永代橋を眺める。橋脚部にあるこの彫像はオシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」。当時のパリ市長であったジャック・シラク(後に第22代フランス大統領)から贈られたもの。
島北端の隅田川テラスは、セーヌ川にちなんでパリ広場と命名されている。
パリ広場の階段護岸や自然石護岸では、直接、水に接することができる。江戸時代の石川島よりやや周囲を拡張していると思われる。
佃島と堀を挟んで北側にある公園は「人足寄場」の役所が置かれた場所。
人足寄場の南端、佃公園にある灯台型のモニュメント。今ではトイレに成っているが、かつて石川島の灯台があった場所である。1866年に清水純時(人足寄場奉行)によって六角二層の灯台が建てられた。石川島の渡し船はここから出ていた。灯台の建設では、重労働であった人足らの「油絞り」から益金が割られており、ひどい苦労をするという意味の「油を絞る」という言葉が生まれた。
佃島
江戸幕府より隅田川河口部の干潟を拝領した漁民らが、1644年、石垣で周囲を固め100間(180m)四方の島を築造したのが佃島という。1766年の「佃島由緒書」にも記されている。
1582年、信長の同盟者であった徳川家康は堺に投宿していたが本能寺の変が伝えられ、三河国への帰還をめざした(伊賀越え)。大阪へ向かうが川が増水し途方にくれた。その時に摂津国西成郡佃村(大阪市西淀川区)の庄屋(漁師とも)である孫右衛門が多数の舟を出して一行を助けた。孫右衛門には後に森の姓を与えている。
1590年に家康が江戸入封。老中の安藤対馬守を通じて森孫右衛門に出府を促した。家康のお供をすることになり、佃村の隣の大和田村から腕の立つ漁師33名を連れてきたとされる。1613年、「網引御免証文」が与えられたので漁民たちは自由に漁業を営み、 年貢が免除されていた。佃島の漁民が保存食として佃煮を作り、小魚がたくさん獲れた時や余った時に佃煮を売りに出して広まったとされる。いずれにしても佃島や佃煮の起源には諸説ある。
佃島は2つの小島から成り、佃小橋で結ばれている。人足寄場であった北の石川島とは橋で結ばれてはいない(現在のような住吉小橋は無い)。また石川島と佃島はそれぞれ別の場所から渡し(佃之渡し / 寄場之渡し)が出ており、隅田川の左岸(汐見地蔵尊・湊第一児童遊園)に船で渡っていた。
古地図にも載っていたが、佃煮屋の天安本店(天保8年(1837)創業)と、佃源田中屋は江戸時代から同所で製造販売を続けている。そのほか近くには安政6年(1859年)創業の「つくだに丸久」がある。
佃公園にあった佃島MAP(江戸末期)では、3つの小島から成っているが、だいたいの古地図では2つの小島になっている。詳細不明。ちなみに、佃島の渡し船場はもう少し南側であった。
石川島と佃島を隔てている、佃島の北の堀(佃堀)。
隅田川と佃堀の境界線、住吉水門。
佃島の東の堀(佃小橋の北側)
佃小橋の北側に佃住吉講(住吉神社の祭礼を運営する団体)による注意書き。1798年、江戸幕府により建立を許された大幟が埋設されている場所とのこと。神輿の海中渡御と船渡御が行われる際、高さ20mに及ぶ6本の大幟が佃島に立ったといい、歌川広重『名所江戸百景』の「佃しま住吉乃祭」でも描かれている。江戸城からも大幟が見えたといわれる。
東の小島と結んでいた佃小橋。ただし、現在は埋め立てにより小島になっていない。
佃島の東の堀(佃小橋の南側)
佃公園(佃堀広場)が佃島の最南端。新月陸橋(佃大橋通り)以南は明治時代以降の埋め立て地である。
かつての佃島の最南端から石川島方面を見る。
住吉神社。1590年に家康が江戸入封すると、「伊賀越え」で脱出の手助けをした摂津国西成郡佃村(大阪市西淀川区)の森孫右衛門および、佃村の隣の大和田村から腕の立つ漁師33名を連れてきたとされるが、この折、摂津国西成郡佃村の住吉神社(現・田蓑神社)を勧請している。この時、神主の平岡好次が江戸に移った。
森稲荷神社。摂津国佃村から移り住んだ森一族が、邸宅内で祀っていた稲荷神を起源とする神社。
於咲稲荷神社(おさき)と、波除稲荷神社(なみよけ)。鳥居が共用のため1つの神社に見えるが、境内では社殿が2棟並んて鎮座している。向かい側には佃天台地蔵尊があり、そこの大銀杏あたりが佃島の最東端であった。
佃島の以南、拡張および東京湾の澪浚(みおさらい)目的で、海底の土砂(浚渫土)を利用し埋め立てが行われた。船舶の航路を確保するため、底面をさらう浚渫(しゅんせつ)工事であった。明治中期から昭和初期にかけて行われ、「月島、勝どき、晴海」が築造されている。1963年(昭和38年)には「豊海町」の埋め立て地が完成。
江戸城 縄張り内の史跡 その1 【江戸城 東端の概要、および天然要害の隅田川】へ戻る
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