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須賀川市の城巡り!松山城と長沼城へ行く

2014年の正月、嫁さまの実家である福島県須賀川市へ帰省。1月4日の本日はとくに予定がないので、2014年度第一弾の城巡りを実行した。目的地は以前から目をつけていた長沼城で、その道中に松山城へ寄っていく。長沼城および松山城はかつては長沼町にあった城址だったが、2005年に長沼町と岩瀬村が須賀川市に編入されたので、現在は須賀川市に存在する城址となる。

須賀川市市街地から長沼城まで片道約16kmぐらいで、いつもの徒歩では厳しい。今回は嫁さまの伯父からママチャリを借りたが、3年間も乗っていないらしく、錆びているのかキュルキュルと音がうるさい。


パソ兄さんにとって未開の地なので、ポータブルナビが命綱だ。今回初のチャリ・カーナビ・ツアーとなる。なお、DELLパソコンでのGPSナビは大きすぎるので見送った。福島の冬の風は非常冷たく、鼻水が止まらない・・。時折、粉雪が降ったり止んだりする天気だった。

二階堂・田村氏・蘆名氏の攻防!松山城(岩崎山史跡公園)

松山城
須賀川市市街地からスタートし、118号線沿いの田んぼ道をひたすら真っすぐ進み、12kmあたりの付近に史跡らしき場所を発見。ポータブルナビをみると住所は木之崎とあり、微かに岩肌の斜面が見える。ざっくりとしか下調べをしなかったが、ここが松山城と睨んだ。

岩崎山史跡公園の標柱
側まで行くと、松山城址である岩崎山史跡公園の標柱があり、まず第一目的地に到着。しかし、近くまで行かないと存在に気がつかないレベル。松山城 という城は全国に数多くあるが、ここは超マイナー松山城であることは言うまでもない。

岩崎山
庚申塔が建っているが、城址とは関係なさそう。定番のごとく、沿革の案内を見るが、「岩崎山:この山は鎌倉時代・弘安6年から明治時代まで当地方の霊地であり、沢山の供養塔があります」だけだった。城址については全く触れていない。

松山城土塁
麓をぐるっと回ったが、土塁の遺構が残っている。

第一展望台

岩崎山松山城
案内がなくさっぱり城の縄張りが分からないまま、釣られるように山頂を目指す。所々、松山城址の方向案内があるが、全体が松山城のはずなので方向案内の意図が分からない。とりあえず、3分もしないうちに松山城址という標柱がある山頂まで到達したが、展望台のベンチと小さな祠があるだけ。ろくな案内板がなく、史跡案内のやる気が感じられない。なお、ここが第一展望台とされていた。

後日調べたが、この山頂は南方の物見台であり、主郭は北方の山中らしい。松山城は二階堂氏の重要な支城だったようで、田村氏・蘆名氏の同盟軍から攻撃を受けたり、二階堂氏が奪還したりと近隣大名での攻防戦となっている。伊達政宗の須賀川城攻めの際、先にこの松山城を攻め落としているらしい。

第2展望台

松山城-岩崎山供養塔群
中腹まで降り、第2展望台に到達。この断崖上の平場が先ほどの第一展望台である。岩盤にえぐれた形跡があるが、石像でも彫られていたのだろうか?正方形の石窟には首なしの石像があり、放置ぶりがおどろしい。ここには岩崎山供養塔群がある。

松山城-眺望
第2展望台からの眺望。いつもの日常生活では見られない長閑な冬の田園風景だ。岩崎山史跡公園のすぐ西側には横田陣屋跡があるが、民家っぽいので訪問はスルーした。どうやらこの松山城は横田氏によって築かれた要害らしい。ここから西4km先に長沼城があるが、松山城となんらかのつながりがあったことは想像できる。

上杉討伐では関東口の押さえである、長沼城

須賀川長沼城
松山城からチャリで4km。長沼城が見えてきた。

市指定史跡・長沼城
長沼小学校の裏手(南)にある日高見山一帯が、市指定史跡・長沼城である。山城の部分や三重の堀、土塁の一部が残されているらしい。1590年、小田原北条氏を滅ぼして天下統一した豊臣秀吉が奥州仕置を行うが、会津に向かう途中で長沼城に宿営したという。この岩瀬地方は、奥州仕置以後は会津領であり、江戸時代には白河領という遍歴を経ている。

千代牛臥城
別名である千代牛臥城の石碑が建つ。ほかに千世城、牛臥城とも言う。白河城(小峰城 )より北18kmに位置している。会津に移封した上杉氏が関東口の押さえを目的に戦略の拠点として整備した。

長沼城より西に道谷坂(どうやざか)陣跡があり、土塁や空堀が遺る。(見てないけど)。1600年、徳川家康の上杉討伐に迎え撃つため、上杉氏が陣所としたと想定される。

2009年大河ドラマ「天地人」の主人公は、直江兼続であり、その主君「上杉景勝」が1598~1601年まで、会津領を支配していた。そのゆかりがあり、「ようこそ、景勝公ゆかりの須賀川へ 大河ドラマ天地人」の旗がはためく。2014年時点でもそのままで、おそらく白地だったであろうが完全なグレー色にまで汚れていた。

上杉景勝・直江兼続ゆかりの須賀川
案内板の側にあるポストに「上杉景勝・直江兼続ゆかりの須賀川を巡る」というパンフが残されていた。まったく無関係ではないにせよ、ずいぶん飛躍したタイトルのような気がしてならない。

長沼城沿革
長沼城は伸びた丘陵地を利用した構造となっている。公園化して整備されているのは一部で、あとは山中となる。

長沼城沿革

案内板に書かれていた長沼城沿革によると、文永元年(1260年)に長沼氏(長沼隆時)が築城したとされるが、一説には南北朝時代とも言われ、定かではない。※長沼氏は下野国小山氏の一族

1560年ごろ、伊達氏、二階堂氏、蘆名氏により長沼を巡って激突が続く。

1566年には二階堂盛義が蘆名盛氏に敗れたことにより蘆名領となり、会津の防衛、仙道攻略の拠点となる。
蘆名盛氏の家臣・新国貞道が入城。

1589年、摺上原の戦いで蘆名を滅ぼした伊達氏に、新国氏が屈服。

1590年、天下統一した豊臣秀吉が白河口から入り、奥州仕置に入る。8月7日に秀吉は長沼城に宿営している。このときに蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となっている。

1598年、上杉領となると、信州長沼城から島津忠直が移城している。

1600年、関が原の戦いが始まると、長沼城が上杉氏の最前線基地となり、蒲生郷治や玉井数馬介が城主を務める。※関が原の戦いのあと、上杉景勝は米沢に転封。

1615年、大阪夏の陣のあと、一国一城令により、長沼城は廃城となる。


桜の名所にもなっており、300本ほど植林されている。


登城の様子。


三の丸の平場。小学校のレクリエーションとかで利用してそうな感じだ。東の二の丸は現在貯水場となっており柵で入場できなかった。

日高見稲荷
本丸跡は日高見稲荷になっており、朽ち果てそうな木造鳥居と新設感のある石鳥居が建つ。銀杏の実が地面一帯に広がり、足を滑らせてしまいそうだ。そして、社殿がプレハブになっているところには拍子抜けした。

長沼城本丸
社殿の裏手には石垣が並ぶが、3・11の震災で崩れてしまったのだろうか?


本丸にある東屋。切岸の地形が確認できる。


社殿背面は急斜面の崖となっており、戦国の城の名残を感じる。いつも写真ではなかなか迫力が伝わらないのが残念だが、転げ落ちれば大怪我するだろう。下には二の丸や三の丸が広がる。

須賀川城にまつわる城館

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