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第一次国府台合戦(相模台合戦)の激戦地

相模台城

1538年の第一次国府台合戦(相模台合戦)は、北条氏綱 と対峙した 小弓公方・足利義明 / 里見氏連合軍との戦いである。その激戦地となったのが、相模台城である。

遡ること1518年、足利義明・上総武田氏連合軍に敗れた原氏が、同族の高城氏、千葉氏とともに北条氏へ接近する。当時、北条氏は武蔵国の攻略を進めており、1537年には扇ヶ谷上杉氏の河越城を陥落、翌年(相模台合戦の8ヶ月前)には葛西城を攻略している。次に狙うは下総、上総、安房となった。

一方、足利義明は北条氏に備えて里見氏との連携を取った。第一次国府台合戦は、1538年にこの勢力の対立が頂点を迎えて起きた合戦である。

相模台合戦
足利義明は里見義堯ら軍1万を従えて国府台城入り。北条氏綱は嫡男の氏康ら軍2万を従えて江戸城入りする。里見義堯らは「北条軍の江戸川渡河中に討つべし」と進言するが、義明が却下した。このように戦略で意見が食い違ったため、里見義堯は義明を見殺しにして戦線離脱した。

渡河した北条軍は松戸城(現・戸定が丘歴史公園)に上陸して陣取ったとされる。相模台城(現・松戸中央公園付近)周辺で激戦となり、足利義明は討ち死。小弓公方は滅亡した。相模城の一部とされる聖徳大学校内には「相模台戦跡碑」が建つ。第一次国府台合戦と呼ばれるが、相模台城での戦いのため、相模台合戦と呼ばれている。

文献で合戦地が記されているのは、快元僧都記にある「国府台」、本土寺過去帳にある「下総相模台合戦」のみである。具体的な合戦地は明らかでないものの、江戸川沿いの要所台地ということで、相模台公園あたりと比定される。国府台城に進駐していた足利義明が、相模台へと移動したいう説もあるが、かつては国府台合戦が第1次と2次で混同されていた時期もあり、義明の戦いは国府台合戦というよりも、相模台合戦と言ったほうが正確なのかもしれない。

足利義明とは

足利氏足利義明は第2代古河公方・足利政氏の子で、第3代である高基の弟。自ら独立して小弓公方を名乗った。甥である晴氏とも対立した。

市川-市民読本による、相模台合戦

市川-市民読本によると、義明は現在の「和洋女子大~總寧寺」あたりに陣を敷いて、北条勢の主力が国府台に打って出ると判断した。そして北条勢の一部が松戸方面から背後に回ることを阻止するため、椎津隼人佑らの監視部隊を相模台に置いた。北条氏は江戸城で軍評定を開き、出陣。松戸の対岸に達し、江戸川の渡河を実施した。

知らせを聞いた義明は里見義堯の部隊を国府台に残し、相模台へ兵を進める。すでに北条勢の一線部隊は渡河を終えていたが、自信からか義明は残りの渡河を見届けることを指示した。国府台合戦記など多くの書物で、無謀無策だと批判的に記述されている。

椎津ら200人が死力を尽くすが、北条勢は五倍であり、次第に後退を始める。そこへ義明の軍が加わり一大合戦となる。義明の御曹司・義純と義明の弟・基頼が氏綱の本陣に突入し戦死した。義明は単身敵中に討ち入り、続いてくる味方を待っていたが、北条勢の横井申助により三人張りの剛弓で射抜かれた。そして松田弥三郎に首級を挙げられた。義純の弟・頼純は戦場からの離脱に成功し、その子である国朝、頼氏は喜連川足利氏の祖になっている。

北条勢も苦戦を強いられたためか、敗走する小弓勢を追撃することなく小田原に撤収している。ここで里見義堯の軍が力を残したままの撤退だったので、北条としては第2次国府台合戦の機会を与えてしまったことになる。

相模台城の城址

足利義明が討たれ相模台城は、「相模台公園、千葉地方検察庁、松戸中央公園」のある丘陵地がその一部だという。相模台城は海抜25mの下総台地上にあり、1辺が600mの方形で西の崖下は海抜4mの江戸川デルタ地帯。東の岩瀬胡録神社が大手と考えられている。

相模台城の基礎を築いた人物は、鎌倉幕府第14代執権の北条高時で、崇鑑として出家したあとに居住としたという。そして高時の官位が相模守だったから「相模台」と呼ばれたという。しかし、別邸だとしても、高時が鎌倉を離れて松戸まで来る必要性が考えられないため、おそらく相模守だった別の人物が築城したものだろう。

日本城郭大系によると、1249年に房総三国の守護、北条長時が上総国山辺郡松之郷村とこの地の2箇所に築城したとある。久時、守時の3代まで続き、1326年に北条高時が入道となり居住したとする。高時の入城をもって相模台と称した(これもまた一説)。太平記によると足利尊氏の命により、1359年、芳賀兵衛入道禅可が岩瀬城(相模台城)に入り支配するが、翌年、新田義徳が奪った。しかし和睦にいたり一度は廃城となっている。

相模台公園相模台城の一部である、相模台公園。

階段公園に行くには急斜面の階段を上る。

城郭の雰囲気周囲を土塁が囲っており、窪地に遊具がある。比較的城郭の雰囲気が残っている。

土塁跡同じ台地上に、千葉地方検察庁、松戸中央公園と続くのだが、フェンスで遮られているので一旦、登ってきた階段を下りる。ここの東側の相模台小学校や松戸拘置所には土塁跡が確認されているという。

大堀切

大堀切の坂道同じ台地上であるが、千葉地方検察庁と松戸中央公園の間には、大堀切の坂道がある。見方によっては竪堀というべきなのだろうが、かなり蛇行した坂道だ。この上にある松戸中央公園には、かつて旧陸軍の工兵学校があったが、その当時、ここは「地獄坂」と呼ばれた。訓練を終えて戻る兵隊にとって追い打ちをかける地獄だったのだろう。

松戸中央公園

旧陸軍の工兵学校正門門柱松戸中央公園の正門。旧陸軍の工兵学校正門門柱が、市指定有形文化財として残っている。この門柱は大正9年に造られた煉瓦造り。工兵学校の前にはここに松戸競馬場があったが、船橋市に移転して中山競馬場になった。その跡地に工兵学校を開校し(1919年)、終戦の8月(1945年)まで存続した。

足利義明の討死肝心の相模台城の遺構だが、競馬場、工兵学校と続けば残るはずがない。土塁を薄く削平したような箇所が多々見られるが、はたして相模台城時代のものなのか不明。小さな説明板「相模台の変遷」に、国府台合戦のことが書かれている。内容は、「天文7年に、北条氏と里見氏が合戦した激戦地といわれる」のみ。

足利義明の討死を知ると、里見軍は兵を減らすことなく撤退した・・・・・。戦後、小金城に退避していた原氏は小弓城へ戻り、臼井領も統治した。高城氏は小金城に入り小金領を統治する。

この辺りの地名に、塚の越、塚田、かじ塚などがあり、もともとの墳丘もあるが戦死者の塚が混じっているとされる。中でも「経世塚」は足利義明親子の墳丘と伝わっており、聖徳大学構内に移転して置かれている。

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出典-日経コンピュータ 2019年8月22日号 顧客満足度調査より

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